城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年一月一二日              関根弘興牧師
                  ヨハネ一七章一節ー八節

ヨハネの福音書連続説教53
   「栄光を現してください」

1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。4 あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。6 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。7 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。8 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(新改訳聖書)

先週は、イエス様のことばに戸惑っている弟子たちに、イエス様が約束と励ましをお与えになったことを学びました。
イエス様は、これから味わうことになる十字架の苦しみを、出産にたとえてお話しになりましたね。出産には激しい痛みが伴います。しかし、その苦痛は、生まれてくる赤ちゃんを見るとき、喜びに変わるわけですね。
 それと同じように、イエス様はこれから逮捕され、激しい苦しみに遭い、遂には十字架につけられ、弟子たちは大いに嘆き悲しむことになりますが、その後、復活したイエス様にお会いすると、弟子たちの悲しみは大きな喜びに変えられていくのです。イエス様は、十字架にかかる前に、これから起こる嘆き悲しみは、喜びに変わるのだと予告なさったわけです。
 また、イエス様は、弟子たちに、「あなたがたは、わたしが代わりに祈ってあげる必要がなくなる。あなたがたは、自分で父なる神に祈り求めることができるようになる」とも言われました。イエス様が天に昇り、一人一人に聖霊が宿ってくだされば、弟子たちは、もはや赤ちゃんのように何も出来ないのではなく、一人前の神の子として、自分でイエス様の名前によって父なる神様に大胆に祈り求めることができるようになるというのです。
 そして、イエス様は、「世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と弟子たちに力強くお語りになりました。イエス様は、私たち一人一人に、「安心しなさい。大丈夫」と呼びかけてくださっているのです。「あなたに平安を与えるために、わたしは来たのだ。さあ安心しなさい。勇敢でありなさい!」と。
 
 前回までの14章から16章までは、最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちにお語りになった内容が記されていました。
 そして、今日から始まる17章には、イエス様の祈りが記されています。この17章の祈りは、大きく三つの部分に分かれています。第一の部分は、今日の箇所1節から8節で、イエス様がご自身について祈っておられる祈りです。第二は、9節から19節までで、イエス様が弟子たちについて願っておられる祈りです。そして、第三の20節から26節までは、あらゆる時代のあらゆる国の教会のために祈っておられる祈りです。
 ですから、17章のイエス様の祈りは、これから三回に分けて学んでいきましょう。今日は、その最初の箇所です。

1 イエス様の栄光とは

 イエス様はまず、「父よ。時が来ました。あなたの子であるわたしの栄光を現してください」と祈られていますね。では、「イエス様の栄光」とは、どういうものでしょうか。
 イエス様は、ここで「時が来ました」と言われていますが、今までは、イエス様は、「わたしの時はまだ来ていない」とたびたび語っておられましたね。しかし、そう語りながらも、イエス様は、何もしておられなかったかといいますと、そうではありませんでした。人々を癒やし、励まし、語り続けておられました。ご自分が神のひとり子であることをはっきりと示してこられましたし、「わたしは見た者は父を見たのです」とも言われましたね。そのように素晴らしい奇跡を行ったり大胆な説教を語りながらも、イエス様は「わたしの時はまだ来ていない」と言っておられたのです。
 それではいったい「イエス様の時」とは何を指すのでしょう。それは、イエス様が来られた目的を達成する時、つまり、一人一人に罪からの救いと、誰も奪い去ることの出来ない平安と、永遠のいのちを与えること、その働きを全うするクライマックスこそ、イエス様の時であり、イエス様の栄光が現れる時であるのです。
 それは、イエス様が十字架につけられる時です。イエス様は、これから逮捕され、十字架に磔にされることになります。十字架は、極悪人の処刑の道具です。人々が忌み嫌う、呪いの象徴のような場所です。栄光からは最も遠い場所だと思いませんか。しかし、イエス様の栄光は、そこに現されるというのです。
ヘブル12章2節には、こう書かれています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」イエス様は、「ご自分の前にある喜びのゆえに」、つまり、栄光が現される時が来たという喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架につかれたのです。
今年の元日礼拝では、「イエス様のまなざし」という説教をしました。ご自分を三度否定したペテロに対してイエス様が向けられたまなざしについてお話しました。イエス様は、裏切ったペテロを責めるのではなく、彼の将来を期待し、「立ち直ったら兄弟を励ましてあげなさい」と言われたのです。。
 そして、今日の箇所では、イエス様は、これからつこうとしておられる十字架を、呪いの場所ではなく、神の栄光が現される場所として見つめておられるのです。十字架は、イエス様が私たちの罪を身代わりに背負ってくださる場所であり、赦しの恵みがあふれる場所となっていくからです。

2 イエス様が成し遂げられたみわざとは

次に、4節でイエス様は、こう言われています。「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と。そして、ご自分が成し遂げられたわざとはどのようなものであったのかを、6-8節で語っておられます。大きく分けて二つのことが語られています。

@神様の御名を明らかにした。

 まず、イエス様は、6ー7節で「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています」と言われました。
 イエス様が成し遂げられた大切なわざとは、まず第一に、「神の御名を明らかにする」ということでした。名前というのは、単なる呼び方のことではなく、その人がどんな存在であるか、その人がどんな性質をもっているのかを意味していました。つまり、イエス様が「神の御名を明らかにする」わざをなさったというのは、神様がどのような方で、どのようなみこころを持っておられる方か、また、何をしてくださる方か、ということをイエス様が私たちに明らかに示してくださったということなのです。イエス様は、神そのものなるお方です。そのかたが、私たちのもとに来てくださり、実際に共に生活し、神のことばを伝え、神のわざを示し、神がどのような方であるかを身をもって示してくださったのです。
 ヨハネ1章18節には、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と書かれています。そして、ヨハネ14章9節では、イエスご自身が、「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われています。
神様が、目に見える姿で私たちのもとに来てくださった、それが、イエス様です。ですから、私たちは、イエス様を見ることによって、また、イエス様のことばを聞くことによって、神様がどのような方で、どのようなみこころを持っておられるのかをはっきり知ることができるのです。

A弟子たちを信じるに至らせた

それから、8節で、イエス様はこう言われました。「それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」
 ここで、弟子たちがイエス様のことばを受け入れ、信じたとありますね。それは、イエス様の働きによって、弟子たちが信じることができたということです。イエス様は、神様がどんな方であるかを示してくださるだけでなく、イエス様のことばを受け入れ信じることができるように私たちを導いてくださるのです。
 そして、信じるときにことによって、弟子たちは、どういう状態になるのでしょうか。2ー3節でイエス様は、こう言っておられますね。「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
 イエス様を受け入れ、信じる人々に、イエス様は永遠のいのちを与えてくだる、そして、その永遠のいのちとは、「唯一のまことの神様と神様が使わされたイエス・キリストを知ることだ」というのです。
 ここで言われている「知る」という言葉は、ただ知識として知るという意味ではなく、人格的な交流を持つということです。信じる人々は、唯一の神様、そして、救い主イエス様との親しい関係を持つようになるということなのです。
 弟子たちは、けして立派な人々ではありませんでした。勘違いしていることも多かったし、自分が偉くなりたいという野心を持っていたり、そのくせイエス様が十字架にかかると逃げ出して散り散りばらばらになってしまうような弱い弟子たちでした。しかし、イエス様は、そういう弟子たちについて、「彼らはわたしを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」とはっきり言い切っておられるのです。
 皆さんにぜひ知っていただきたいのは、ここでイエス様は、弟子たちが立派だから自分の力で信じることができたというふうに言っておられるのではありません。また、弟子たちの信仰が深いとか浅いとか強いとか弱いとかいうことを問題になさっているのでもありません。
 ここでイエス様が言われているのは、弟子たちがイエス様との人格的な結びつきを持つことができるようになったということです。この祈りの後、イエス様が十字架につかれることになりますが、ペテロはイエス様を知らないと三度も否定し、他の弟子たちも逃げ去ってしまうことになります。しかし、イエス様は、ここで、「わたしとあなたとの人格的な結びつきは決して失われない、ひとたび、あなたが唯一のまことの父なる神とわたしとを人格的な結びつきがあるなら、永遠のいのちの中にあるのだ」と約束されているわけです。
 イエス様は、自分を裏切るような弱々しい弟子たちに大きな信頼を寄せているだけでなく、彼らに対して何一つ不安を持っておられないのです。驚くべきことだと思いませんか。
 8節にあるように、イエス様は、「神様のみことばを、わたしが彼らに与え、彼らがそれを受け入れたから」、彼らは大丈夫だと確信しておられるのです。
 今日、私たちは、信仰についての視点を変えていきましょう。この弟子たちに対するイエス様の確信は、今日集まっている私たち一人一人に対するイエス様の確信でもあることを知っていただきたいのです。私たちは、聖書の約束を知り、イエス様を信じることが出来ました。しかし、「自分の信仰は弱くて、まるでジェットコースターのように不安定だ」と思っておられるかも知れません。でも、イエス様は、「大丈夫、あなたは、わたしと結びついているのだから、わたしがあなたを支え、成長させる」と言ってくださるのです。
 私たちがただイエス様に信頼しているなら、イエス様の方で確信をもって導いてくださるのです。

3 私たちが現す神の栄光とは

 さて、今日の箇所で、イエス様は、「栄光を現してください」と祈っておられますね。これは、私たちが祈るべき祈りでもあるのです。第一コリント6章20節には、こう書かれています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」
私たちは、自分のからだをもって、神の栄光を現すものとされているというのです。それは、どういうことでしょうか。今日は、最後にそのことを考えて閉じたいと思います。
 イエス様の「栄光を現してください」という祈りは、イエス様の十字架によって罪と死の力が打ち破られて、すべての人々に罪の赦しと救いと永遠のいのちが与えられるようになるということでした。
 では、私たちにとって、「栄光を現してください」という祈りは、具体的にどういう意味なのでしょうか。
そのキーワードとなるのが4節のことばです。「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」
 つまり、神様が私たちにお与えになったわざを成し遂げること、それが神様の栄光を現すことだというわけです。
 イエス様は、マタイ21章28節から、こんなたとえを話されました。「ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。」イエス様は、「このふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう」とお尋ねになりました。答えは、もちろん弟の方ですね。
 このたとえは、私たちに大切なことを教えていますね。それは、出だしが良くても、返事が良くても、実際に行わなければだめなんですね。出だしがぐずぐずしていても、任された仕事を成し遂げることこそ、神の栄光を現す生き方と言うことなんです。
 それでは、神様が私たち一人一人にお授けになった仕事は何でしょうか。パウロは、第一コリント10章31節で「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」と記しています。つまり、日常のすべての営みが、神の栄光を現すためにある、ということですね。それは、品行方正な立派な生き方をしなさいということではありません。神の栄光を現すということを、何か特別なことのように考えていませんか。そうではありません。私たちの日常生活のすべての中に現されていくのです。感謝しておいしく食事をいただく時も、楽しい語らいの時も、共に涙を流す時も、日常のあらゆることの中で、神様に生かされていることを覚え、神様に愛されている者として歩んでいく中に、神の栄光が現されていくのです。
 自分が神様に愛され、赦され、生かされていることを知り、神様が与えてくださった自分という存在を感謝し、自分らしく人生を生きていくこと、これが私たちの使命です。何かが出来る出来ないにかかわらずです。サラリーマンはサラリーマンとして、主婦は主婦として、学生は学生として、一人一人が神様に愛されている存在として与えられたいのちを誠実に生きていくこと、それが神様から与えられた任務なのです。そして、そこに神の栄光が現されていくのです。

 イエス様は、私たち一人一人を信頼し、聖書のことばによって養い育ててくださいます。イエス様は、わたしたちの信仰が深いとか浅いとかいうことを問題にしておられるのではありません。イエス様は、「わたしと人格的な関わりの中にあるなら、あなたがつまずき倒れそうになっても大丈夫」と言ってくださるのです。ですから、私たちは、イエス様に信頼されている者として自信を持って生きていきましょう。与えられた毎日を楽しみ、喜び、時には涙しながら。