城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年一月一九日              関根弘興牧師
                 ヨハネ一七章九節ー一九節

ハネの福音書連続説教54
   「私たちの使命」

9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。10 わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。12 わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。13 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。19 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。(新改訳聖書)

先週から17章のイエス様の祈りを学び始めました。イエス様は、最後の晩餐の時に、弟子たちに14章から16章までの大切な教えをお語りになり、それから、この17章の祈りを祈られたのです。
 この祈りは、大きく三つの部分に分かれています。先週学んだ1節から8節までは、イエス様がご自身について祈っておられる祈りです。第二の部分は、今日の9節から19節までで、イエス様が弟子たちについて願っておられる祈りです。そして、第三の部分が20節から26節までで、あらゆる時代のあらゆる国の教会のために祈っておられる祈りです。
 今日は、弟子たちのために祈られたイエス様の祈りを通して、イエス様が私たち一人一人をどのように見ていてくださるのかを学んでいきましょう。

1 イエス様は、弟子たちによって栄光を受けられた

 まず、9節と10節で、「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました」とイエス様は祈っておられます。
 ここで、イエス様は、弟子たちについて、驚くようなことを言っておられますね。「わたしは彼ら(つまり、弟子たち)によって栄光を受けました」と言われたのです。
 先週は、イエス様の栄光は、十字架と復活の出来事を通して現されるとお話ししました。しかし、それだけでなく、イエス様は、弟子たちによっても栄光を受けたと言われているのです。
しかし、弟子たちは、そんなに素晴らしい人々だったでしょうか? いいえ、イエス様の説教がほとんど理解できずに困惑したり、自分が人より偉くなることばかり考えていたり、すぐに恐れて逃げていってしまうような弟子たちです。しかし、その弟子たちによって栄光を受けた、とイエス様は言われているのです。
では、イエス様が「弟子たちによって栄光を受ける」とは、いったいどういうことでしょうか。
 先日、テレビを見ていましたら「神の手を持つ外科医」と呼ばれる人物が紹介されていました。非常に難しい手術を成功させてきた外科医というわけです。そして、その外科医の手術を受けて健康を取り戻した人のインタビューが流されていました。このドクターの栄光はどこから来るかといえば、難しい手術によって健康が回復した患者さんから来るわけですね。いくら「この人は優れたお医者さんです」と紹介されても、だれ一人治療をしたことのないお医者さんでは、決して栄光を受けることはないですね。
 イエス様は、「わたしは弟子たちによって栄光を受けた」と言われました。「弟子たちの姿を通して、わたしの栄光が現された」と、何の躊躇もなく語っておられるのです。弟子たちは、イエス様の誇りなのです。
 先週もお話ししましたが、イエス様が弟子たちに対して持っておられた信頼は、尋常ではありません。「わたしは彼らにみことばを与え、彼らはそれを受け入れ、信じたのだ。だから大丈夫」と言っておられましたね。そして、今日の箇所では、「わたしは彼らによって栄光を受けた」と言われるのです。ここでは、「受けた」と過去形で書かれていますが、これは、弟子たちの生涯を通じて栄光を受ける、という意味でもあるのですね。弱くて欠点だらけの弟子たちだけれど、その弟子たちがイエス様の栄光を現しているというのです。
 パウロは、第二コリント12章9節で、こう書いています。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
弟子たちは決して立派な人間たちではありませんでした。弟子たちは弱くもろい人間ですが、イエス様の恵み、力、栄光が現されるというのです。
 この弟子たちに注がれるイエス様のまなざしは、今日、ここに集っている私たち一人一人にも向けられていることをご存じですか。
 イエス様は、この後、十字架につけられ、復活されます。罪の赦しと永遠のいのちを与える救いの道を開いてくださったわけですね。そのイエス様を信じ、イエス様の与える救いを受け入れる一人一人に対しても、イエス様は、「あなたこそ、わたしの誉れ、喜びであり、あなたを通してわたしは栄光を受ける」と語ってくださっているのです。
 イエス様の救いは完全です。世界中どこを探しても、このような救いをが与えることの出来る者は他にいません。その完全な救いにあずかって生かされている私たち一人一人が、イエス様の誉れ、イエス様の栄光を現す者とされているのです。
 そういう弟子たちのために、イエス様は、今日の箇所でどのように祈っておられるか見ていきましょう。

2 弟子たちのための祈り

 イエス様は、11節で「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります」と言っておられますね。イエス様は、これから十字架と復活の後に、父なる神のもとに昇っていかれます。今まで弟子たちは、目に見えるイエス様のそばにいることができましたが、イエス様が天に昇られた後、弟子たちは、この世でどのように生きていけばいいのでしょうか。その弟子たちのために、イエス様は、いくつかのことを祈っておられます。

@あなたの御名の中に、彼らを保ってください。

 イエス様は、まず、11節で「御名の中に彼らを保ってください」と祈っておられます。この「御名の中に保ってください」とは、どういう意味なのでしょうか。
 聖書で「名」と言うとき、それは、単なる呼称ということではなく、その人の存在そのもの、その人のすべてを包含して表すものとして使われています。ですから、「御名の中に保ってください」というのは、「神様の存在そのものの中におらせてください」とか「神様のご性質である愛や恵みや真理の中に保ってください」という祈りであるわけです。
 そして、イエス様は、続けて、「それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです」と祈っておられますね。弟子たち、が神様の御名の中に保たれるということは、神様のご性質に預かる者とされるということですね。神様は、三位一体の神様です。父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神が完全な調和と一致の中に存在しているおられる唯一の神様です。神様は、ご自身の内に愛と一致と調和を常に保っておられるのです。そして、その神様のご性質に預かる弟子たちもまた、一つとなっていくというのです。
 この「一つとなる」ということについては、20節以降の祈りの中に詳しく取り上げられているので、次回また詳しくお話する予定ですが、クリスチャンの特徴の一つは、みんなが一つとされているということです。
 しかし、誤解しないでいただきたいのですが、「一つになる」というのは、皆が同じような人間になることではありません。一人一人、性格も考え方も行動の仕方も違っていいのです。いや、違うからこそいいのです。一つになるとは、同じ神様を崇め、同じ救い主イエス様を信じ、神様の栄光が現されることを求め、神様を愛し、互いに愛し合っていく、ということにおいて一つになっているということです。また、個人だけでなく、教会や教団もいろいろありますが、イエス様は、それを全部一つにまとめて合同の教会を作るようにと祈っておられるわけでもありません。外側の組織を一つにまとめても、人の内面は変わるものではありませんね。クリスチャンは、どこにいようが、どこの教団に属そうが、父なる神様とイエス様と聖霊なる神様が一つであるように、互いに主にあって一つとされているのです。そのことをいつも覚え、保っていけるようにとイエス様は祈っておられるのです。 

A彼らを悪い者から守ってください

 次に、イエス様は、14節で弟子たちを「悪い者から守ってくださるように」と祈っていますね。
 この「悪い者」という言葉は、原文では単数形で定冠詞がついているんですね。ですから、特定の悪い者、つまり、悪魔という意味です。「主の祈り」の中に「我らを試みにあわせず、悪より救い出し給え」とありますが、この「悪」というのも、実は「悪しき者」という意味です。
 聖書は、悪魔、あるいはサタンと言われる存在があることを教えています。サタンは、「敵対者」であり、「訴える者」という意味です。この世に生きる限り、悪い者が、弟子たちを訴え、攻撃してくるでしょう。何とかして神様から引き離そうとするでしょう。しかし、イエス様は、弟子たちがそのような悪魔の訴えや攻撃から守られていくために、14節で「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました」と言われているのです。
 パウロは、エペソの教会に宛てた手紙6章10-17節で、このような勧めをしています。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」
私たちには、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の大盾、救いのかぶとと共に、御霊の与える剣である神のことばが与えられているというのです。
 イエス様が公の活動を始める前に荒野で悪魔の試みを受けられたとき、イエス様は、聖書のみことばによって、悪魔を撃退なさいました。そのように、私たちもイエス様が与えくださったみことばによって、悪い者から守られることができるのです。

B真理によって彼らを聖め別ってください。

 それから、イエス様は、17節で「真理によって彼らを聖め別ってください」と祈っておられます。「聖め別つ」というのは、聖書の他の箇所では「聖別する」という言い方もしていますが、この聖別とはどういうことでしょうか。
 ユダヤ的な背景のある人たちは、このことばはすぐに理解できました。ユダヤ人たちは、聖別の儀式を行う習慣があったからです。「聖別」とは、「神様の専用品として取り分ける」という意味です。人でも物でも何かを神様のために用いるときには、聖別の儀式をします。一般の家庭で使うのではなく、神殿のために使うなら聖別します。つまり、「聖別」とは、用途変更をすることなんですね。
 たとえば、ここにギターがありますね。これを聖別するというのは、「これは神様のために取り分けられ、神様のために用いられる用具として用途変更したよ」ということなんです。
 イエス様は、16節で、「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」と言われていますね。つまり、「弟子たちは、この世のものではなく、神様のものだ。弟子たちはすでに用途変更済みだよ」ということなんですね。神様のご用のために聖別されているということです。
 ここでいう「世」とは、「神様なしの秩序の世界」「神様がいなくても自立して生きていけると考えている世界」を意味しています。弟子たちは、そういう神様なしの秩序に支配されているのではない、神様に信頼し、神様に導かれ、神様の御名の中に保たれて生かされている者だというわけです。そういう意味で、信じる一人一人は、この世から聖別され、聖なる者とされているのです。
 しかし、イエス様は、18節で「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」と言われていますね。つまり、弟子たちは、この世のものではなく、神様のものとして聖別された者ではあるけれど、だからといって、世捨て人のように、世との関わりをまったく断ち切って生活するのではなく、逆に、世に遣わされた者として生きていくのだというのです。
 イエス様が選ばれた十二人の弟子たちとパウロは、「使徒」と呼ばれますね。この「使徒」という言葉は、「遣わされた者」ということです。父なる神様がイエス様をこの世に遣わし、救いを成就してくださいました。そして、イエス様が十字架つけられ、復活し、天に昇られた後には、イエス様の救いのみわざを世界中の人々に知らしめるために、弟子たちが遣わされていくわけです。弟子たちは、用途変更された存在として、世に遣わされていくわけですね。
 ところで、19節で、イエス様は、「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます」と言われていますね。イエス様が「わたし自身を聖め別ちます」というのは、どういうことでしょうか。イエス様は神のひとり子であられるわけですから、初めから聖なる方であり、聖め別たれる必要などないように思いますね。
 ここでイエス様が「わたし自身を聖め別ちます」と言われているのは、これから人々の罪のために自ら進んで十字架にかかろう、神様の救いのみわざを成し遂げるために自らをささげよう、という明確な意思を表す言葉なのです。
 イエス様がまずご自分を神様のみわざのために聖別なさいました。そして、イエス様の十字架によって罪赦され、神様のものとして聖別された弟子たちが、こんどは世に遣わされていくのです。
 その弟子たちのために、イエス様は、「御名の中に彼らを保ってください」「悪い者から守ってください」、そして、「これから世の中に遣わされていくけれど、世の秩序に取り込まれるのではなく、いつも神様の真理の内にとどまって生活し、神様の専用品としての働きが全うされるように」と祈られたのです。

 さて、イエス様のこの祈りは、弟子たちのためだけでなく、すべてのクリスチャン一人一人のために祈られている祈りであることを知ってください。私たちは、神様の御名の中に保たれ、神様の愛、恵み、真理、平和、一致を味わう者とされています。また、神様の栄光を現す器として聖め別たれています。イエス様は、私たち一人一人の存在を誇り、喜び、私たちを通して栄光を受けると言われるのです。ですから、私たちは、圧倒的な恵みと愛をもって支えてくださっている主によって、それぞれの場に遣わされていることを覚えながら歩んでいきましょう。