城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年一月二六日              関根弘興牧師
                ヨハネ一七章二〇節ー二六節

ヨハネの福音書連続説教55
   「一つであるように」

20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(新改訳聖書)


 ヨハネの福音書17章には、イエス様の祈りが記されています。イエス様は、最後の晩餐の時に、弟子たちに14章から16章までの大切な教えをお語りになり、それから、この17章の祈りを祈られたのです。
 この祈りは、大きく三つの部分に分かれています。第一の部分17章1節ー8節は、イエス様がご自身について祈っておられる祈りです。そして、先週読みました第二の部分9節ー19節は、イエス様が弟子たちについて願っておられる祈りです。そして、第三の部分が今日読みました20節から26節までです。これはイエス様があらゆる時代のあらゆる国の教会のために祈っておられる祈りです。20節に「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」と書いてあるとおり、このイエス様の祈りは、信じる私たち一人一人のための祈りであるわけです。
 イエス様はここで「彼ら(弟子たち)のことばによって私を信じる人々のために」と祈っておられますね。つまり、私たちがイエス様について知ることが出来るのは、弟子たちのことばによるのですね。弟子たちは、イエス様の目撃証言者です。彼らは、いつもイエス様と共にいて、イエス様が語られたこと、行われたことを一部始終見聞きしてきました。そして、これから、イエス様は十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活されすのですが、弟子たちは、その復活されたイエス様にお会いし、手で触れ、「イエス様は、本当に死からよみがえられました」と大胆に証言していくようになるのです。
 信仰というと、事実でないことを理性に反して思い込むことだと考える人もいるようですが、そうではありません。私たちは、「イエス様は本当に救い主です。私たちが実際に目撃しましたから」という弟子たちの証言によって、イエス様を信じているのですね。
 先週の箇所の中で、イエス様は「わたしは、弟子たちによって栄光を受ける」と言っておられましたね。それは、弟子たちのことばによってイエス様を信じる人々が起こされていく、という意味でもあるのです。でも、イエス様が17章の祈りをされた時の弟子たちは、まだ、弱く、愚かで、すぐに、つまづいてしまうような頼りない者たちでした。しかし、イエス様は、弟子たちに「わたしはみことばを与えた。そして彼らはそれを受け入れ、わたしが神から遣わされた者であることを確かに知り信じた。だから大丈夫」という確信を持っておられました。そして、イエス様は、この弟子たちのことばによって信じる人々が起こされていくことも、すでに、ここで確信しておられたのです。
 それでは、イエス様は、弟子たちのことばによってイエス様を信じる人々のために、どのような祈りをされたのでしょう。
 一つは、21節、22節、23節にあるように「彼らが一つとなるように」「一つであるように」という祈りです。そしてもう一つは、24節にあるように、「あなたがわたしに下さったもの(つまり、弟子たち)をわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」という祈りです。

1 一つとなるように

 まず、「彼らがみなが一つとなるように」という祈りについて考えていきましょう。これは、イエス様を信じることによって一つにされた人々が、さらに生涯を通して一つであり続けることによって恵みを味わっていくことができるようにという祈りでもあるのです。

(1)「一つとなる」とは

 では、「一つとなる」とは、どういう意味でしょうか。皆が一つの組織に組み込まれることでしょうか。皆が同じような外観、態度、考え方になることでしょうか。
 余談になりますが、ときどき、こんな質問をされます。「仏教もたくさんの宗派がありますが、キリスト教もたくさんの宗派にわかれているんですね」と。
 実は、言葉の使い方を厳密に区別するなら、キリスト教では「宗派」とは言わないんですね。「教派」と言います。  「宗派」と「教派」は、どう違うかといいますと、教えの基になる経典が違うグループは「宗派」と言います。仏教では、それぞれの宗派によって、経典も教えの内容もずいぶん違いますね。
 一方、キリスト教会は、いろいろなグループに分かれてはいますが、基になる聖書も中心的な教えもみな同じなんですね。そこで、それぞれのグループは、「宗派」ではなく、「教派」と呼ばれているのです。
 しかし、同じ聖書を使っているのに、どうしていろいろな教派があるのかと疑問に思われる方もおられるでしょうね。
 実は、人にいろいろな個性があって、それぞれが大切なように、教会にもいろいろなスタイルがあって、それぞれが大切なのです。礼拝の仕方や賛美の仕方、働きの方法などにもいろいろな特徴がありますが、だからこそ、いろいろな人々が教会につながることができるのです。また、お互いに協力し合う仲間がそれぞれグループを作った結果として、たくさんの教派ができているという面もあります。
 しかし、聖書を神の言葉と信じ、イエス様を救い主と告白するという点で一致しているならば、教派の違いは大きな問題ではないのです。
イエス様は、ある時、弟子たちにこんな質問されました。「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか?」すると、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました。それを聞くと、イエス様はこう言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16章17-18節)
 イエス様は、ここで、「あなたは、生ける神の御子キリストです」という告白の上に教会を建てると言われたのです。ですから、大切なのは、外側や組織ではなく、イエス様に対してどのような告白をしているかということです。
 こんな話を聞いたことがあります。18世紀のイギリスの教会の指導者でウェスレーという人がいました。彼はメソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導した人物で、彼の働きによって、メソジスト派という大きなプロテスタントの教派が生まれました。そのウェスレーがあるとき、天国に行った夢を見たのだそうです。天国の門番に「ここには、イギリス国教会の人は来ていますか」と尋ねると、門番は「来ていません」と答えました。「それではカトリックの人は?」「来ていません。」「ルター派の人は?」「来ていません。」「長老派の人は?」「来ていません。」ウェスレーは、恐る恐る尋ねました。「それでは、メソジスト派の人は来ていますか?」すると、門番は「来ていません」と答えたのです。ウェスレーは、大変なショックを受けて門番に尋ねました。「それでは、いったい誰が来ているのですか。」すると門番は、「クリスチャンだけです」と答えたというのです。天国では、教派の違いなど問題にならないということですね。大切なのは、イエス様を救い主として信頼し生きていくことなのです。
 イエス様が一つとなるようにと言われるとき、それは外側や組織やそういうものを一つにしなさい、と言われているのではないのです。
 では、一つであり続けることは、どういうことを意味しているのでしょう。まず、今日の箇所のイエス様の言葉から考えていきましょう。

@神様の御性質に預かる者として

 まず、21節でイエス様はこう言われました。「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。」
父なる神がイエス様の内におられ、イエス様が父なる神様の内におられる、つまり、父と子は一つとなっておられるのです。父と子と聖霊なる神様は、愛と調和の中で一体となっておられます。その神様を信じる私たちも愛と調和の中で一つとされるのです。

A神様に愛されている者として

 次に、22節で、イエス様は、「わたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです」と言われました。
 ここで、言われている「あなたがわたしにくださった栄光」とは何でしょう。今までも学んできましたように、イエス様の栄光とは、十字架と復活によって人々に罪の赦し、救い、永遠のいのちを与えること、そして、それによって神がどれほどまでに私たちを愛してくださっているかを示すことでした。愛する御子のいのちを与えるほどに大きな神様の愛が、一人一人に注がれているのです。私たちが、その愛を知り、その愛に生きることができるようにと、イエス様は願っておられるのです。 私たちの行動は、事実を知ることによって変わってきます。「愛されている」ことを知ると、「愛に生きよう」という行動が生まれてきます。神様の愛がイエス様を通して、一人一人に注がれていることを知ることによって、私たちは、互いに愛し合い、一つにされていくのです。

Bイエス様と一つとされている者として

 23節では、イエス様は、「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです」と言われました。「わたしは彼らにおり」、つまり、イエス様が信じる一人一人の内にいてくださるというのです。つまり、信じる一人一人はイエス様と一つとなっているのです。
信仰生活を送っていくとき、私たちが主イエス様と一つとされているということを覚えるのはとても大切です。
パウロは、ガラテヤ2章20節に、こう書いています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
また、洗礼式の時、よく読まれる箇所ですが、ローマ6章4ー5節には、こう書いてあります。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」
イエス様と一つとされているということは、私たち一人一人がキリストと共に十字架につき、キリストとともによみがえって新しいいのちを持って生きる者とされているということです。キリストの十字架と復活は、他人事ではありません。私たちは、みな同じ主イエス様と一つにされた者として生きているのです。そういう意味で一つとされているのです。

 このように私たちは、三位一体の神様の御性質に預かる者として、神様に愛されている者として、また、イエス様と一体になったと者として、一つとされているのです。この私たちが一つとなっていることについて、聖書は、いくつかのたとえで説明しています。

@ぶどうの木の枝として
 イエス様は、ヨハネ15章で「わたしはまことのぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われましたね。私たちは、同じ木の幹につながっています。その意味で一つです。

Aキリストの体の器官として
 第一コリント12章27節には「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」と書かれています。私たちは、それぞれ異なった特徴や役割をもっているけれど、結び合わされて一つのからだとされているのだというのです。

B同じ羊飼いに牧される羊として
また、ヨハネ10章には、私たちはみな、イエス様という同じ羊飼いに導かれる羊であり、一つの群れとなるのだと書かれています。

C神の家族として
 また、エペソ2章19節には、こう書かれています。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」私たちは、神の子とされ、同じ神様に「父よ」と呼びかける者、神の家族として一つです。

F神様の専用品として
 また、先週お話ししましたように、私たちは、一人一人がイエス様によって聖別され、神様なしの秩序の世界から、神様ありの秩序に生かされる者として移し出されました。神様の専用品としての生涯を送る者とされたのです。その意味でも、一つです。

 つまり、イエス様を信頼し生きる一人一人は、すでにイエス様にあって一つとされて生きる者となっているということなんです。どこの教派、教団に属そうがイエス様にあって一つとされている者たちなんです。ですから、パウロは、ガラテヤ3章28節で、「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」と記しているのです。

(2)一つとされることの結果

私たちが一つであるということを知り、歩んでいくとき、どんな結果がもたらされるでしょう。
イエス様は、21節で、「そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです」と言われ、23節では、「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです」と言われました。
 私たちが一つとされているということを自覚し、イエス様の愛の中に生かされていくとき、神様を否定している世の人々でさえ、イエス様のことを認めざるをえなくなり、私たちが神様に愛されていることを知るようになっていくというのです。
 教会では、伝道ということを考えますね。イエス様が救い主であることを知ってもらうために、特別集会とか、チャペルコンサートとか、何かの企画を立てて、そうすることが伝道だと考えます。大切な働きの一つです。しかし、イエス様は、まず私たちが一つとされ、恵みの中に生きていることが大切だと言われるのです。教会があらゆる垣根を越え、生まれや学歴や職業や年齢や性別の差を超えて一つとされていることを知ることによって、世の人々はイエス様が救い主であることを知っていくのです。イエス様が考えておられる伝道方法は、私たち自身を見せることなんです。ここに集まっている一人一人がイエス様のいのちに生かされていることを見せることなんです。失敗もあるし、つまずきもある弱い者ですが、だから共に祈り、イエス様の約束のことばに支えられているのだという姿を見せるのです。私たちには違いがあるけれど、神様に愛されている一人一人であることを喜び、感謝を持って生きていくのです。
 もし、私たちがイエス様とのいのちのつながりを放棄し、神様の大きな愛を否定し、分裂と争いを巻き起こしていくなら、どうして「世」はイエス様を救い主と信じることができるでしょう。
 イエス様は、私たちが神様に愛されている者として互いに愛し合っていくときに「世」が動かされていくことをご存じでした。だから、一つであり続けるようにと祈られたのです。

2 わたしといっしょにおらせてください

さて、24節には、もう一つのイエス様の願いが記されています。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」
イエス様は、「あなたがわたしに下さったもの(つまり、信じる一人一人)をわたしといっしょにおらせてください」と祈られました。
 イエス様は、以前、「わたしの行くところにあなたがたは来ることができません」と言われましたね。すべての人の罪を背負って十字架にかかることは、イエス様以外になしえないことだからです。しかし、救いの道を成就されたイエス様は、復活し、聖霊を送ってくだり、いつも信じる一人一人と共にいてくださいます。そのイエス様と歩むとき、私たちは、イエス様の栄光を見ることができるのです。愛されていることを味わい知ることができるのです。
 そして、イエス様は、祈りの締めくくりに、26節でこう言われました。「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」イエス様が共にいてくださるということは、イエス様が私たちに神様の御名(神様がどんなお方であるか)を知らせてくださるということです。神様が、どれほど恵みとまことと愛に富んでおらる方かを知らせてくださるのです。
 私たちは、主にあって一つとされているものです。だから、一つであり続けていきましょう。そして、主と共に、主の恵みの中を歩んでいきましょう。山キリスト教会 礼拝説教