城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年二月二日               関根弘興牧師
                 ヨハネ一八章一節ー二七節

ヨハネの福音書連続説教56
   「ペテロの裏切り」

 1 イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。5 彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。6 イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。7 そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」9 それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」とイエスが言われたことばが実現するためであった。10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。11 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
 12 そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕らえて縛り、13 まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。14 カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である。
 15 シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭に入った。16 しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れて入った。17 すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは、「そんな者ではない」と言った。18 寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。
 19 そこで、大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問した。20 イエスは彼に答えられた。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。21 なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。」22 イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。23 イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」24 アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。
 25 一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない」と言った。26 大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」27 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。(新改訳聖書)


 今日から、18章に入ります。
 前回までは、最後の晩餐の時の出来事を学んできました。イエス様は、最後の晩餐の時に、弟子たちの足を洗い、ご自分の愛を示されました。そして、互いに愛し合うようにと語り、弟子たちを勇気づけ、励まされたあと、17章で、ご自分のために、弟子たちのために、また、これから弟子たちのことばによって信じるようになる人々のために祈られたのです。今日の箇所はその続きです。

1 ゲッセマネの祈り

 イエス様は、祈り終わると、弟子たちを連れて、1節にあるように、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれ、そこにある園に入られました。もう夜中の十二時頃ではなかったかと思います。他の福音書を読むと、この園とは、エルサレム郊外のオリーブ山にあるゲッセマネの園であることがわかります。オリーブ山と呼ばれるとおり、辺り一帯にオリーブの木が茂っていました。そして、「ゲッセマネ」とは、「油搾り」という意味だそうです。圧搾機にオリーブの実を入れて大きなハンドルで締め付けます。そうすると実は砕かれ、油がしたたり落ちてくるわけですね。そうしたことから「ゲッセマネの園」と名付けられたのでしょう。
 イエス様は、夜中に、この園に弟子たちと入られました。他の福音書には、この「ゲッセマネの園」でのイエス様の壮絶な祈りの様子が紹介されています。イエス様は、十字架の苦しみを前にして、まるでオリーブを搾るときにしたたり落ちる油のような汗を流して、もだえ苦しみながら祈られたのです。
 今まで、弟子たちは、イエス様のどのような姿を見てきたでしょう。ヨハネの福音書の1章から12章までには、七つの「しるし」としての奇跡が紹介されていましたね。イエス様は、水をぶどう酒に変え、病人をいやし、五つのパンと二匹のさかなを用いて五千人以上の人たちを満腹にし、吹き荒れる嵐を静め、なんと死んでしまったラザロを生き返らせたのです。そして、当時の宗教家たちに対しては、いつも毅然として真理をお語りになりました。また、神殿が金儲けの場所と化してしまっていることに対して猛烈に怒り、商売人たちの台をひっくり返してしまわれたのです。
 そういう姿を見てきた弟子たちは、イエス様のそばにいることに興奮を覚え、「将来、イエス様が王様になったら、俺たちは、大臣になれるぞ」というような思いを持ったほどでした。
 しかし、今、真っ暗闇の中、ゲッセマネの園で祈り始められたイエス様の姿は、これまで見たことのないものでした。マルコ14章を見ると、イエス様は、深く恐れもだえ始められました。そして、弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目を覚ましていなさい」と言って、少し離れた所に行き、地面にひれ伏してこう祈られました。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」
 イエス様が飲まなければならない杯とは、すべての人のすべての罪をご自分の身に引き受け、十字架にかかるということでした。罪のないイエス様が、人々の罪を身代わりに背負って一身に罰を受けなければならない、という苦しみの杯です。十字架刑は、私たちには想像もつかないほど非常にむごたらしく残酷で、苦痛に満ちた刑罰です。神の御子のイエス様でさえ、「この杯を取りのけてください」と祈るほどの苦しい刑罰なのです。その十字架を前にして、イエス様は、もだえ苦しまれたのです。このゲッセマネの祈りは、人類の救いを大きく左右する時であったと言っても過言ではありません。
 しかし、イエス様は、続けて、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られました。イエス様は、ご自分が来られた目的が、人々の罪の身代わりに十字架につけられることであることをよくわかっておられました。「罪から来る報酬は死です」と聖書にあるように、イエス様は、人々の罪の報酬である死を身代わりに受けて、ゆるしといのちの道を開くことがご自分の使命であることを知っておられました。そして、ゲッセマネの祈りを通して、イエス様は、その十字架への道を進むことをはっきりと決意されたのです。その決意は、11節の「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」という言葉にも表れていますね。そこには、恨みも、憎しみも、憂いも、迷いもありません。イエス様は、ただ、まっすぐに十字架に向かって行こうとしておられるのです。

2 「それはわたしです」

 イエス様が祈り終えられたとき、3節の出来事が起こりました。「ユダは、一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。」
 ユダは、ほんの数時間前、イエス様と最後の晩餐の席にいましたね。しかし、イエス様を裏切るために出て行ってしまったのです。ユダは、イエス様が弟子たちとたびたびゲッセマネの園に行かれることをよく知っていました。そして、わずか銀貨30枚と引き替えにイエス様の居場所を祭司長やパリサイ人たちに教えたのです。彼らは、イエス様をなんとか捕らえて殺してしまいたいと思っていました。そこで一隊の兵士と役人たちをユダと共にゲッセマネの園に送ったのです。「一隊の兵士」とは、ローマの軍隊で、通常六百人の隊を表す言葉です。イエス様一人を捕まえるために、役人たちと共に、兵隊たちが何百人も動員されたわけですね。それぞれ、ともしびとたいまつと武器を持ち、騒然とした雰囲気であったことでしょう。
 ユダは、彼らを案内し、イエス様に近寄ってきました。マタイの福音書を読むと、ユダはイエス様に近づき口づけした、とあります。ユダは、あらかじめ、「私が口づけするのがイエスだ。その人を捕まえろ」と打ち合わせをしていたのです。親愛の象徴である口づけを利用して、イエス様を裏切ったわけですね。すると、イエス様は、ユダに「友よ。何のために来たのですか」と言われました。自分を裏切ったユダに対して「友よ」と言われたのです。「今からでも遅くない。わたしのもとに帰ってきなさい」という招きの心を込めた呼びかけだったのではないでしょうか。
 ユダによって手引きされた役人や兵隊は、イエス様を取り囲んでいきました。役人や兵士たちは、イエス様が逃げて隠れるのではないかと考えたかもしれません。ですから、その時のために、ともしびやたいまつ、そして、武器を携え、大人数でやって来たのでしょう。しかし、イエス様は、逃げ隠れすることなく、御自分から彼らの前に出て来られたのです。無理やりに捕まえられて十字架につけられるのではなく、御自分の意志で十字架に向かおうとしておられることを、はっきりと示されたのです。
 そして、イエス様は、彼らに「だれを捜すのか」と言われました。彼らが、「ナザレ人イエスを」と答えると、イエス様は「それはわたしです」と言われました。すると、不思議なことが起こりました。イエス様が「それはわたしです」と言われると、彼らは、あとずさりし、地に倒れてしまったというのです。これはどういうことでしょうか。
「それはわたしです」と訳されている言葉は、ヨハネの福音書ではお馴染みの言葉です。ギリシヤ語では、「エゴー・エイミー」と言います。英語では、「I am」です。この言葉には、特別な意味がありました。旧約聖書の出エジプト記3章で、モーセが神様にお名前を尋ねたとき、神様は「わたしは、『わたしはある』という者である」とお答えになりました。この「わたしはある」という名前は、「わたしは永遠の存在者である」という意味を表しています。そして、この「わたしはある」というヘブル語をギリシヤ語に訳した言葉が「エゴー・エイミー」なのです。つまり、これは、神様の御名を表す言葉なんです。イエス様が、「それはわたしです(エゴー・エイミー)」と言われたのは、御自分が父なる神と同質の存在、神そのものなる存在であることを示す独特な表現なんですね。そのイエス様の圧倒的な権威の前に、武器を持ってやってきた兵士や役人たちは地に倒れてしまったのです。
 彼らは、イエス様を捕らえることで自分たちは勝利したと考えていました。しかし、聖書は、最強の力を誇るローマの軍隊であっても、イエス様の権威の前にみな倒れてしまうものであることを教えているのです。
 つまり、イエス様が十字架への道を進まれるのは、決して力がなくて敗北したからではなく、人々の救いのために自ら進んで十字架にかかり、罪と死の力に勝利するという明確な目的があったからなのです。ですから、大勢の兵士や役人たちが押し寄せても、イエス様はまったく動じておられませんでした。
 しかし、ペテロは、剣を抜き、大祭司のしもべマルコスの右耳を切り落としてしまいました。ルカの福音書22章51節には、イエス様がこのマルコスの耳にさわっていやされたと記されています。そして、11節に書かれているように、「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」と言われました。マタイの福音書26章52節では、イエス様は、こう言っておられます。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが 父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
 イエス様が「エゴー・エイミー」と言われたとき、みなが地に倒れてしまったという出来事でもわかるように、イエス様は、ペテロが剣を振りかざさなくても、すでに勝利者なのです。これからイエス様は十字架への道を歩んでいかれますが、先ほどもお話ししたように、それは、決して敗北者としてではなく、世に勝つ勝利者としてなのです。
イエス様は、ペテロに「剣をさやに収めなさい」と言われました。イエス様の救いは、剣によってもたらされるものではありません。イエス様は、「剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われました。この時代、私たちはこのことばをしっかりと心に受け止めていきたいですね。私たちが「イエス様を守るためだ」と言って剣を手に取ることは、イエス様の方法でありません。剣によってもたらされるのは、結局、憎しみの連鎖だけだからです。
 イエス様は、剣はお用いになりませんでした。イエス様は、ご自分が私たちの代わりに十字架につくことによって私たちの罪の問題を解決し、死から復活することによって私たちに誰も奪い去ることの出来ない永遠の救いを与えてくださるのです。それが、イエス様の方法なのです。

3 ペテロの裏切り

 さて、四つの福音書の記事を総合すると、イエス様は、逮捕された後、十字架につけられるまでに六回の審問をお受けになったことがわかります。これは異例のことです。
 最初に、当時の陰の実力者であった元大祭司アンナス、次に大祭司カヤパのもとに送られました。それから、ユダヤ議会、ローマから任命された総督ピラト、そして、ヘロデ王という順番で審問をうけ、最後にまたピラトのもとに送られて十字架刑の宣告をうけるのです。
 陰の実力者であった元大祭司アンナスのもとに連れて行かれたときは、夜中の一時、二時という時間だったでしょう。アンナスとカヤパは、同じ場所にいたようです。その中庭に、ペテロともうひとりの弟子が入り込むことができました。もうひとりの弟子とは、たぶんヨハネのことだと思いますが、この弟子は大祭司の知り合いだったので、ペテロも連れて入ることができたというのですね。
 ペテロは、決して臆病な人間ではありませんでした。大祭司のしもべに切り掛かっていきましたし、他の弟子たちが逃げ去ってしまっても、イエス様の後について大祭司の庭にまで入り込んできたのです。しかし、そんなペテロも、そこにいる人々に「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言われると、「そんな者ではない」と三度も否定してしまったのです。イエス様の毅然とした姿とは対照的ですね。
 このペテロがイエス様を否定してしまう出来事は、すべての福音書に記されています。しかし、ヨハネの福音書と他の福音書とでは、ペテロの否定のことばが違うのですね。ペテロは、他の福音書では、「何を言っているのか私にはわからない」「そんな人は知らない」と言っているのですが、ヨハネの福音書では、「そんな者ではない」と言って否定しています。
 この「そんな者ではない」という言葉は、「ウーク・エイミー」というギリシャ語です。英語だと「I am not」という言葉なんですね。思い出してください。イエス様は、ご自分を捕らえにやってきた兵士や役人たちに「それはわたしです」と言われましたね。「エゴー・エイミー」「I am」「わたしはある」と宣言なさったのです。ところが、ペテロは、それとはまったく逆のことを言ってしまったのです。
 先週学んだのは、私たちがキリストと一つにされた者であること、そして、互いに一つとされている者であるということでしたね。ですから、弟子たちは、本当は、自分も「エゴー・エイミー」と答えることができるはずなのです。ただし、それは、「私は神様と同じ存在だ」という意味ではなく、「私はキリストと一つとされている」「そして、私たちは互いにキリストにあって一つとされている」という意味です。
 しかし、ペテロは「そんな者ではない」と否定してしまったのです。ペテロは以前、「主よ。あなたのためにはいのちも捨てます」「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言い放った男です。もちろん、その時は、本気でそう思ったのでしょう。しかし、実際に困難に直面したとき、人間はいかに弱いものであるかがわかります。彼は、イエス様の逮捕される姿をみて、自分が予想していたことが裏切られたと思ったかもしれません。そして、イエス様を否定する言葉を発してしまったのです。
 しかし、イエス様は、ペテロがご自分を否定してしまうことを前からご存じでした。その上で、17章15節でこう祈られたのです。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」イエス様は、「彼ら(つまり、弟子たち)を守ってください」と祈られたのです。ペテロの失敗の背後にもイエス様の祈りがあったのです。イエス様は、ペテロの失敗も全部ご承知の上で、ルカの福音書22章32節で、ペテロにこう言われました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と。
 みなさん、今日、私たちは、どんな告白をするでしょうか。「あなたはイエスの弟子ではないか」という問いに、何と答えますか。「はい、わたしは弱い者ですが、イエス様と一つとされている者です」と答える者でありたいですね。
 イエス様は、私たちの弱さをよくご存じで、ペテロや弟子たちのために祈られたように、私たち一人一人のためにも祈ってくださっています。そして、「わたしがあなたのために祈っているから大丈夫。あなたは、失敗しても立ち直ることができる。そして、兄弟たちを力づけることができるようになる。わたしがいつもあなたとともにいるから恐れるな」と言ってくださるのです。そのイエス様のまなざしを覚えつつ歩んでいきましょう。
 イエス様は、今日も「エゴー・エイミ」なるお方です。永遠の存在者であり、この方の権威の前に立ちはだかるものは何もありません。このイエス様の中に生かされていることを信頼し感謝しながら歩んでいきましょう。