城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年二月九日               関根弘興牧師
                ヨハネ一八章二八節ー四〇節

ヨハネの福音書連続説教57
  「真理とは何か」

28 さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。29 そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」30 彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」31 そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」32 これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。39 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。(新改訳聖書)


 四つの福音書の記事を総合すると、イエス様がゲッセマネの園で捕らえられて十字架につけられるまでに六回の審問をお受けになったことがわかります。最初に、当時の陰の実力者であった元大祭司アンナス、次に大祭司カヤパのもとに送られました。それから、ユダヤ議会、ローマから任命された総督ピラトの審問を受けました。そして、ちょうどこの時、ガリラヤ地方を治めていた国主ヘロデがエルサレムに来ていたので、そのヘロデのもとに送られたのです。イエス様は、ガリラヤのナザレで育ったので、「ナザレ人」と呼ばれていましたね。そこで、ガリラヤ地方の領主であったヘロデの審問を受けたわけです。そして最後に、またピラトのもとに送られて十字架刑の宣告をうけるのです。 ヨハネの福音書は、この六回の審問のうち、特に、陰の実力者であった元大祭司アンナスのもとに連れて行かれたときの様子と、ローマ総督ピラトのもとに連れていかれたときの対話が詳しく記されているのですね。

1 イエス様への審問の時間

 さて、イエス様が捕らえられて大祭司の審問を受けたときには、夜中の一時を過ぎていたのではないかと思います。
 元大祭司アンナスや大祭司カヤパの審問を受けているとき、ペテロは三度もイエス様を否んでしまいました。すると、すぐに鶏が鳴いた、と27節に記されていますね。みなさん、鶏は何時頃鳴くのでしょうね。いろいろな研究をする人がいるようで、「エルサレム近郊の鶏は何時頃鳴くのか」ということを十二年間も調べた人がいたそうです。その人によりますと、一番鶏が鳴くのは、夜中の一時半過ぎ、二番鶏が鳴くのは、その一時間後だそうです。ですから、ペテロがイエス様を否んだ直後に鶏が鳴いたということは、夜中の一時過ぎから三時頃ということになるわけですね。
 また、28節で、イエス様が大祭司カヤパのところからピラトの官邸に連れて行かれた時、「時は夜明けであった」とありますね。この「夜明け」と訳される言葉は、ローマの時間では午前三時から六時までを指す言葉なのです。ですから、イエス様がピラトのもとに送られたのは、早朝ということですね。夜中の逮捕の後、異例の裁判が続いたことがわかります。

2 神様の心を忘れてしまった人たち

 ローマ総督ピラトは、普段は、カイザリヤという海に面した場所に住んでいましたが、年に一度、過越の祭りの時には、世界中から人々が集まってくるので、任務上、エルサレムに駐在していたのです。彼は、公然と賄賂をとるような男で、乱暴な性質を持っていたと言われています。
 そんな彼のもとに、早朝、ユダヤ人のそうそうたるメンバーがイエス様を訴えにやって来ました。しかし、彼らは、官邸の中に入ろうとはしませんでした。異邦人の住む官邸に入ると、身が汚れて、過越の祭りに参加できなくなると考えていたからです。そこで、ピラトを官邸の外に呼び出したわけです。
 異邦人の家に入ると汚れるということは、聖書には書かれていません。しかし、ユダヤ人たちは、旧約聖書の律法を拡大解釈して、勝手に細かい規則をたくさん作り、それを守らなければならないと決めていたのです。
 しかし、考えてみてください。彼らは、イエス様を訴えるための口実を得るために偽の証人を立てたり、どうにかしてイエス様を殺そうとしているわけです。聖書の「偽証してはならない」「殺してはならない」という大切な戒めを堂々と破りながら、その一方で、人間が作ったにすぎない伝統や言い伝えを一生懸命守ろうとしているのです。
 そんな彼らに対して、イエス様は以前、「偽善の律法学者、パリサイ人」と批判なさいましたね。それは、彼らが、大切な神様の心を知ろうとせず、ただ表面的な戒めを守ることばかりに熱心だったからです。
 旧約聖書のミカ書6章8節で、神様は、表面的な戒めを守ることばかりに気を取られて、神様のみこころを無視した生活を送っている人々に対して、こう言われました。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」と。しかし、彼らは、この有名な聖書の言葉の意味をまったく理解していなかったのです。

3 なぜピラトのもとに行ったのか

 さて、皆さんは、ここで一つ疑問を感じるのではないかと思います。なぜ、彼らは、わざわざピラトのもとにイエス様を連れていったのか、という疑問です。彼らがイエス様を憎んでいたのは、イエス様がご自分を神の子、救い主であると言い、ユダヤ教の伝統的な教えに背き、神を冒涜していると思ったからです。あくまでも宗教的な問題ですね。それなのに、なぜ、ローマ総督であるピラトのもとに連れて行く必要があったのでしょうか。
 31節にこう書かれていますね。「そこでピラトは彼らに言った。『あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。』ユダヤ人たちは彼に言った。『私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。』」
 当時ユダヤは、ローマ帝国の属国でしたから、確かに、ユダヤ人たちは自分たちで死刑を行う権限をもっていませんでした。しかし、例外がありました。宗教的なことに関しては、死刑執行の権利が与えられていたのです。たとえば、神殿の中には、異邦人が入ってはいけない場所がありました。もしそこに異邦人が入り込んだら、死刑にすることが認められていたのです。その他、神を冒涜する者、偽預言者、偶像礼拝をそそのかす者、姦通した者などは、ユダヤ当局が「石打ちの刑」で処刑することが出来ました。
 「使徒の働き」の中で、ステパノが石で打ち殺されましたね。これは、ステパノがイエス様が神の子救い主であることを大胆に宣べ伝えていたので、それが神様への冒涜、人心攪乱の罪にあたると見なされ、ユダヤ当局の許可のもと死刑にされたということなのです。イエス様ご自身も、8章59節にあるように、ユダヤ当局から「神を冒涜する者」として石打ちにされそうになったことがありましたね。
 ですから、イエス様がピラトのもとに連れてこられたとき、ピラトは彼らに、「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい」と言ったわけです。つまり、「あなたがたの宗教的な問題なのだから、私の手を煩わせるな」というわけです。
 もし、ここでユダヤ人たちが「そうですか。それでは我々で処刑します」と言えば、彼らはイエス様を、石打ちの刑で死刑にすることが出来ました。ところが、彼らは「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません」と言ったのです。
 つまり、「宗教的な問題なのではない、ローマ政府が死刑にすべき罪を犯したのだ」と言い張ったのです。彼らがなぜイエス様を石打にすることで満足しなかったのか、なぜローマ政府の行う十字架刑で死刑にしてもらうことを望んだのか、聖書には理由が書かれていないので、はっきりわかりません。彼らは、ただ、石で打ち殺すだけでは気が済まない、もっとむごたらしい十字架刑がいいと思ったのかもしれません。あるいは、イエス様は民衆から人気がありましたから、もし自分たちが死刑を執行すると民衆の怒りを買うかもしれない、だから、死刑はローマ政府に任せたいと思っていたのかも知れません。ともかく、彼らは、イエス様を石打ちにするのではなく、十字架につけることを望んだのです。
 彼らの動機は身勝手なものでしたが、しかし、その背後には、神様のご計画がありました。32節に「これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった」と書かれていますね。イエス様は、ご自分がどのような死に方をするのかを、たびたび予告しておられました。
たとえば、ヨハネの福音書3章13ー15節のニコデモとの対話の中でこう言われました。「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」イエス様は、「モーセが荒野で蛇を上げたように、わたしも上げられる」と言われたのです。
 この「モーセが荒野で蛇を上げた」という出来事は、旧約聖書の民数記21章に記されています。モーセに率いられてエジプトを脱出し、荒野を旅していたイスラエルの民は、神様に逆らったために、神様から送られた毒蛇にかまれ、次々と死んでいきました。モーセが神様に祈ると、神様は、「青銅で蛇を作り、旗ざおの上につけて掲げなさい。そして、『その蛇を仰ぎ見る者は生きる』と民に告げなさい」と言われたのです。蛇の毒に苦しんでいた人々のうち、モーセの言葉どおりに青銅の蛇を仰ぎ見ると、毒が消えて、いのちが救われたのです。それは、どう考えても理屈では理解できないことですね。しかし、神の言葉を信じて、青銅の蛇を仰ぎ見た者は、実際に生きたのです。これは、旧約の大変有名な話です。
 イエス様は、「人の子もまた上げられなければなりません」と言われました。それは、イエス様が、私たちのすべての罪を背負って十字架につけられることを意味していました。そして、旗ざおにつけられた蛇を仰ぎ見た者が生きたように、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る者は、誰でも救われ、永遠のいのちを持つことができるようになるのです。
 イエス様は、ご自分が十字架につかられることを初めからご存じでした。ですから、エルサレムに行く前に弟子たちにこう予告なさったのです。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
(マタイ20・18ー19)
 ユダヤ当局は、自分勝手な理由で、イエス様をピラトに引き渡しましたが、その背後に神様のご計画が進められていたわけです。

4 ピラトの問い

 さて、ピラトは、ユダヤ人たちから無理矢理イエス様を押しつけられたわけですが、自分が裁判を行うとなると、ローマ法に照らし合わせて判断をする必要に迫られました。そこで、33節から、イエス様に尋問を始めたわけです。

@ユダヤ人の王か?

 まず、ピラトはイエス様に「あなたは、ユダヤ人の王か」と問いました。もし、イエス様がご自分をユダヤ人の王だと主張するなら、ローマに対する反逆罪で、即刻死刑ということになります。しかし、イエス様は、「わたしは王であるけれども、わたしの国はこの世のものではありません」と言われたのです。ピラトは、困ってしまいました。「この世の王だ」と言えば、即刻死刑判決が出せるのですが、「わたしの国はこの世のものではない」と言われたら、ローマ法は適用できないわけですね。
 イエス様が「わたしの国はこの世のものではありません」と言われたのは、どういう意味でしょうか。それは、イエス様が成し遂げられる救いや、イエス様の支配は、この世の武力や経済力や知恵によってもたらされるものではないということです。
イエス様は、37節でこう言われました。「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」と。つまり、イエス様の国とは、イエス様が真理をあかしし、その真理に人々が聞き従うことによって進展していくものなのだ、と言われたのです。

A真理とは何か

 ピラトは、イエス様の言葉に戸惑いを覚えたことでしょう。彼の頭には、国を進展させるためには、絶大な軍事力と経済力と指導力が必要だということしかなかったでしょう。しかし、今、目の前にいるイエスという人物が、「自分は王であり、真理によって自分の国を進展させる」と言っているのです。そこで、「真理とは何か」という問いが生まれたわけです。
 しかし、ピラトは、その問いに対する答えを待たずに、外に出て行ってしまいました。このまま真理についての話を聞きつづけたら、それに対してどういう態度をとるか決断をせまられるのではないかと無意識に恐れていたのかもしれません。しかし、もし彼がイエス様の前にとどまり、まじめに真理の意味を理解しようとしたなら、目の前にいる方こそ、真理そのなる方であることを知ることが出来たかもしれません。
 それでは、イエス様がここで言われる「真理」とは何でしょう。「真理とは何か」という問いは、とても哲学的な難しい質問に聞こえますね。ここで「真理」と訳されている言葉は、「真実」という意味でもあります。「真実とは何か」、「このイエス様の真実の証しとは何か」ということです。
 ヨハネの福音書12章24節で、イエス様は、ご自分が十字架につけられる時が間近に迫ったとき、こう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」そして、12章32節では、「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」と言われました。次の33節には、「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである」と説明されています。
 イエス様があかししてくださる真理、真実とは、イエス様ご自身が地上からあげられること、つまり、イエス様が私たちの罪を背負って身代わりに十字架についてくださること、そして、それによって、私たちの罪を赦し救ってくださるということです。イエス様が死んでくださることによって、信じる多くの人々が救われ、イエス様のところに引き寄せられるというのです。
  皆さん、イエス様は、十字架を通して、真理、真実を現してくださいました。ですから、教会からイエス様の十字架を取り除くことは、真理を取り除くことになってしまうのです。
 パウロは、第一コリント1章18節でこう言っています。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」また、ガラテヤ6章14節では、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と言っています。十字架につけられることは、のろいの象徴です。しかし、そこに神様の愛、赦し、救いの真実が示されたのです。そして、その十字架のイエス様を信じる者は、死からよみがえられたイエス様と共に新しいいのちに生きることができるのです。

5 バラバを赦せ

 さて、ピラトは、ユダヤ人たちのところに出て行って、「私は、あの人には罪を認めません」と言いました。ローマ法で有罪にすることはできないということですね。そして、ピラトは、過越の祭りにイエスを釈放するのがいいのではないかと提案しました。しかし、人々は「バラバを釈放しろ」と声を上げたのです。このバラバという男は、都で暴動を起こした有名な強盗で、近いうちに死刑になるはずでした。しかし、突然呼び出され、何がなんだかわからないうちに、手かせ足かせをはずされ、まったく自由の身になったのです。
 この出来事は、イエス様の十字架の意味を象徴的に示しています。それは、イエス様が身代わりに十字架についてくださることによって、赦しがもたらされるということです。私たちはみなバラバのような者です。しかし、イエス様の十字架によって、赦され、自由されたのです。

 イエス様は、37節で「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」と言われましたね。
 今日、私たちは、自分が真理に属する者とされていることをあらためて思い起こしましょう。イエス様の十字架の真実によって赦され、生かされていることを覚えましょう。
 今週も、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われるイエス様とともに、イエス様のすばらしい愛の真実、恵みの真実に触れながら歩んでいきましょう。