城山キリスト教会 二〇一四年三月二日              関根弘興牧師
               ヨハネ一九章二八節ー四二節

ヨハネの福音書連続説教60
  「十字架の死」

 28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。29 そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
 31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。
 38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。40 そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。42 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。(新改訳聖書)


 先週は、イエス様が十字架を背負ってゴルゴタの地に向かって行かれたこと、そして、十字架につけられたイエス様のまわりにどんな人々がいたかを学びました。
 四つの福音書の内容を総合すると、イエス様は、十字架上で七つの言葉を語られたことが分かります。
 第一は、ルカ23章34節の「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」というとりなしの祈りの言葉です。
 第二は、ルカ23章43節に書かれていますが、イエス様の両側で十字架につけられていた犯罪人のひとりに向けられた言葉です。犯罪人が「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言うと、イエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われたのです。
 第三は、先週お話しした19章26節ー27節に書かれている言葉で、イエス様は、十字架のもとにいた母マリヤに対して「女の方、そこにあなたの息子がいます」と言われ、弟子のヨハネに「そこにあなたの母がいます」と言われました。
 第四は、マタイ27章46節とマルコ15章34節にある「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた言葉です。イエス様は、私たちの罪を背負って私たちのかわりに罰を受けてくださいました。最も厳しい罰とは何でしょうか。それは、愛といのちの源である父なる神との関係が断たれてしまうということです。イエス様は、その苦しみの故に「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びをあげられたのです。。
 それから、第五は、今日の箇所の28節にある「わたしは渇く」という言葉、そして、第六は、30節の「完了した」という言葉です。
 そして、最後の第七の言葉は、ルカ23章46節の「父よ。わが霊を御手にゆだねます」というものでした。その後、イエス様は息を引き取られたのです。

1 ヨハネの福音書に記されている三つの言葉

 ヨハネの福音書には、イエス様の十字架上の七つの言葉のうちの三つが紹介されています。それぞれの言葉について見ていきましょう。 

@「そこに、あなたの息子がいます」「そこに、あなたの母がいます」

 まず、最初は、19章26節ー27節の言葉です。先週もお話ししましたので、復習になりますが、イエス様は、十字架の上から母マリヤに「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われ、「愛する弟子(ヨハネ)」に「そこに、あなたの母がいます」と言われました。イエス様は、ご自分が十字架の激しい苦しみの中にあるにもかかわらず、母マリヤを気遣い、ヨハネに母の世話を託されたのです。それとともに、イエス様のこの言葉には、もう一つ大切なメッセージがあると思います。イエス様がヨハネに「あなたの母がいます」と言われたということは、イエス様とヨハネは兄弟の関係とされたということでもあるわけですね。それは、イエス様の十字架によって救いを受ける人々が皆、神の家族の一員とされる、兄弟姉妹とされるということを暗示していると考えることができます。

A「わたしは渇く」

 次にイエス様が語られた言葉は、28節にあります。こう書かれていますね。「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた」と。これは、いったいどういう意味でしょうか。
 「聖書が成就するために」と書いてありますが、この「わたしは渇く」という言葉は、旧約聖書の詩篇22篇15節の「私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています」という言葉と、詩篇69章3節の「私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました」という言葉の成就だというのです。特に、詩篇に22篇は、来たるべき救い主の受難を預言した詩篇として読み継がれてきました。そして、この詩篇で預言されている救い主の苦しみの一つ一つが、今、イエス様の十字架によって成就しているということなのです。
 ところが、こう考える人がいます。「イエスが『わたしは渇く』と言ったのは、旧約聖書の言葉が成就したと人々に思わせるために、わざと言っただけなのではないか」と。
 しかし、聖書の言葉が成就したのは、このイエス様の言葉だけではありませんでした。そこにいた兵士たちは、聖書の言葉などまったく知りませんから、イエス様が「わたしは渇く」と言われるのを聞くと、そんなにのどが渇いているのかと思い、酸いぶどう酒を海綿に浸してイエス様の口元に差し出したのです。しかし、この酸いぶどう酒を差し出したという兵士たちの行為も、詩篇69篇21節の「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました」という聖書の言葉を成就させるものとなった、とヨハネは記しているのです。
 ところで、ここでイエス様が「わたしは渇く」と言われたのは、どういう意味があったのでしょうか。もちろん、肉体的な激しいのどの渇きもあったことでしょう。また、人々の罪を背負って十字架につけられたわけですから、魂の渇きもあったでしょう。神様に見捨てられるという霊的な渇きもあったでしょう。それとともに、イエス様がゲッセマネの園で捕らえられる時、ヨハネ18章11節で、こう言われたことを思いだしてください。「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」と。イエス様は、人々の罪を背負い十字架につくことを、自分に与えられた苦き杯を飲むことだと言われました。イエス様は、人々の救いを求めて渇きを覚え、苦き杯を飲み干すことを選ばれたのです。つまり、イエス様が渇き、十字架という杯を飲んでくださったことによって、聖書が約束していた罪の赦しと救いが成就されたのです。

B「完了した」

 さて、ヨハネの福音書に記されている十字架上の第三番目の言葉は、30節の「完了した」という言葉です。
 この「完了した」というのは、28節の「聖書が成就するために」の「成就する」と同じ言葉です。「完了した」「成し遂げられた」「目的を達した」「終結した」と訳される言葉です。 もし、イエス様が自分の意志に反して捕らえられて、無理矢理に十字架につけられたとするなら、「完了した」とは決して言いませんね。「何かの間違いだ!」と叫ぶでしょう。イエス様の十字架が偶発的な事故のようなものだとしたら、やはり「完了した」とは言いませんね。「完了した」というのは、ある明確な目的と意味がそこにあるわけです。それでは、いったい何が完了したのでしょう。何が十字架によって成し遂げられたのでしょう。
 パウロは、ローマ人への手紙10章4節で、このように記しています。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」この「終わらせられた」と言う言葉と「完了した」という言葉は語源が同じです。つまり、「キリストが律法を終わらせられた」というのは、イエス様が十字架についてくださったことによって、旧約聖書の律法を守ることによって救いを得ようとする生き方は終わったのだ、終結したのだ、ということなのです。そして、「信じる人はみな義と認められるのです」とパウロが言うように、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださったということを信じる人は、神様の前に義とされる、つまり、罪のない者と認められるのです。そのすばらしい救いのみわざが十字架の上で「完了した」とイエス様は言われたのです。
 私たちの救いは、イエス様の十字架によってすでに完了しています。ですから、私たちは、一生懸命、何かの宗教的なお勤めをしたり、修行をして、自分の力で頑張って生きていく必要はありません。自分の努力で救いを得ようとしなくてもいいのです。私たちは、ただ、イエス様の十字架によって完成された赦しと救いを感謝して受け取り、神様の愛と恵みの中で喜んで歩んでいけばいいのです。罪が赦された罪人として、神の前に義とされた者として、つまり、神様と何の隔たりも無く自由に交流しながら生きていくことができるのです。それは、イエス様が私たちの救いに関わるすべてのことを「完了」してくださったからなのです。
 
2 イエス様の死と埋葬

@預言の成就

イエス様は「完了した」と言われた後、息を引き取られました。ユダヤの社会では、死体をそのまま何日も放置することはしませんでした。なぜなら、旧約聖書の申命記21章22節ー23節にこう書かれているからです。「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」しかも、イエス様が十字架につけられたのは金曜日です。翌日は、ユダヤ人が大切に守っている安息日です。しかも、過越の祭りの第一日と重なる大切な「大いなる日」でしたから、ユダヤ人たちは、その前に死体を十字架から降ろして早く埋葬してほしいとピラトに願ったわけです。
 そこで、兵士たちは、十字架につけられている者たちのすねを折って死を早め、十字架から降ろそうとしたのです。しかし、イエス様は、すでに死んでおられたので、兵士たちは、イエス様のすねは折りませんでした。ただ、兵士のうちのひとりが、イエス様のわき腹に槍を突き刺しました。
 この時、イエス様のすねが折られなかったことも、イエス様のわき腹が槍で突き刺されたことも、聖書の預言の成就であるとヨハネは記しています。イエス様の十字架のもとで起こった細かい一つ一つのことが、すべて聖書の預言の成就として起こっているということなのですね。ですから、イエス様が十字架で成し遂げてくださった救いは、なおさら確かなことなのだと言えるのです。

A血と水
 
 ところで、ヨハネは、兵士がイエス様のわき腹に槍を突き刺したときに「血と水」が出てきたということを強調して書いています。これは、ヨハネの福音書だけに書かれている記事です。そして、35節にあるように、「その光景を目撃した者のあかしは真実だ」と念を押して書いているのです。ヨハネにとって、この「血と水」は大切な意味を持っていたのでしょう。
 ヨハネは、ヨハネの手紙第一5章6節で「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です」と記しています。
 先週もお話しましたように、当時の教会には、グノーシス主義という異端が入ってきました。彼らは、「イエス様は霊なる方で、肉体を持っていたわけではない。肉体を持っているかのように見えただけだ」と主張していました。そこで、ヨハネは、イエス様のからだから「血と水」が流れ出たという出来事を書き記すことによって、イエス様が本当に私たちと同じ人として来てくださったのだということをはっきりと示す必要があると考えたのでしょう。
 また、それとともに、この「血と水」は、イエス様の十字架の意味を示す象徴的なものでもあるということを覚えたいのです。
私たちは聖餐式で、パンを食べ、ぶどう液を飲みますが、パンは、十字架で裂かれたキリストのからだを、ぶどう液は十字架で流されたキリストの血を表すものですね。十字架で流された血とは、私たちの罪の赦しのために流された血です。ヘブル9章22節には、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」とあります。また、第一ヨハネ1章7節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」とありますね。イエス様が流された血は、私たちの罪を赦すためのものであり、罪をきよめるものです。
 それとともに、「水」も流れ出たとヨハネは記しています。 ヨハネの福音書では「水」のことがたびたび出てきました。イエス様は、サマリヤのスカルという町の井戸端で休んでおられたとき、水をくみに来た女性にこう言われました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」また、7章38節で、イエス様はこう言われました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
イエス様は、いのちの水を与えると約束してくださったのです。 ヨハネは、この福音書を記しながら、十字架のイエス様のわき腹から血と水が流れ出たことを思い起こし、そこに、イエス様の血による罪の赦しと、イエス様の救いによってもたらされるいのちの水を見ていたのではないかと思うのです。イエス様の十字架の死によって、罪の赦しと新しいいのちが与えられるようになったのです。ヨハネ12章23節に「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」とありましたね。イエス様の死によって、信じる人々の内に豊かないのちの実が結ばれるようになったのです。

Bヨセフとニコデモ

 さて、イエス様は十字架上で息を引き取られました。そして、アリマタヤのヨセフという人が、ピラトの許可を得て、イエス様のからだを取り降ろし、埋葬しました。そこに、以前、夜にイエス様のところに来て質問をしたニコデモもやって来ました。二人とも当時のユダヤ議会の議員でした。
 アリマタヤのヨセフは、議会の議員という立場でしたが、イエス様の弟子でもありました。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、弟子であることを内密にしていたのです。しかし、彼は、十字架上のイエス様の姿を見ていたのでしょう。その後、ユダヤ人たちを恐れず、はばかることなくイエス様の遺体を引き取って手厚く葬ろうとしたのです。
 ニコデモも同じでした。彼も議員であり、長老でした。そして、以前は、夜、こっそりとイエス様に会いに来たのでしたね。しかし、今では、イエス様の埋葬のために、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キロも持ってやって来たのです。これは、大変高価なものでした。
 考えてみてください。十字架につけられた者は、呪われた者として扱われるのです。そして、通常は、囚人たちの共同墓所に埋葬されました。しかし、イエス様は、まるで王様のように、たくさんの没薬と香料を使って埋葬されたのです。しかも、まだだれも葬られたことのない新しい墓に納められたのです。この埋葬の様子を見ると、「十字架につけられたこの方こそ私たちの王である」と読者一人一人に伝えているように思われます。
 ヨセフとニコデモ、二人ともユダヤ人たちを恐れて、自分の信仰を隠して生きてきました。しかし、イエス様の十字架の出来事は彼らの人生を変え、イエス様こそまことの王であるということを埋葬を通して伝えるかのような働きをしていったのです。

皆さん、十字架はイエス様の死なれた場所です。イエス様の血と水が流された場所です。ヨセフとニコデモの人生が変えられた場所です。イエス様の十字架の死こそ、罪の赦しと新しいいのちが流れ出る源となったのです。
 そして、それが真実であることが、イエス様の復活によって証明されることになるのです。次回は、その復活の出来事を学んでいくことにしましょう。