城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年三月一六日             関根弘興牧師
                ヨハネ二〇章一一節ー一七節

ヨハネの福音書連続説教62
  「なぜ泣くのか」

11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」(新改訳聖書)

 イエス様は十字架につけられ、墓に葬られ、週の初めの日(日曜日)に復活されたと聖書には記されています。
その復活の日の出来事を、今日もこの福音書から見ていきましょう。
 まず、先週の復習ですが、イエス様が納められた墓に最初に行ったのは、イエス様の遺体に香料を塗ろうとした女性たちでした。マルコの福音書を読むと、三人の女性たちの名前が出てきます。この三人は、イエス様の十字架のもとにいました。また、イエス様が埋葬される様子も見ていましたから、墓の入口は大きな石で塞がれているのを知っていました。ですから、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と思案しながら墓に向かって行ったのです。しかし、彼女たちが墓に着くと、その大きな石は、すでに脇に転がしてありました。「だれかが主を取り去ってしまった」と思ったマグダラのマリヤは、すぐにペテロとヨハネのもとに行って報告したのです。
 ペテロとヨハネは、すぐに墓に向かいました。そして、空っぽになった墓と残された亜麻布を見たのです。ヨハネは、わざわざ「自分は空っぽの墓と残された亜麻布を見て信じた」と記しました。それは、自分の信仰の原点があの空の墓と亜麻布を目撃した日から始まっているのだという思いを記したかったからなのではないかと思われます。

1 マグダラのマリヤ

 さて、今日の箇所では、ペテロとヨハネが墓から去って行った後のマグダラのマリヤの様子が描かれています。この場所には、実際には三人の女性がいたのですが、ヨハネの福音書では、特に、マグダラのマリヤのことにしぼって記されています。
 マグダラのマリヤは墓の外にたたずんで涙を流していました。そして、泣きながら身をかがめて墓の中をのぞき込んだときでした。白い衣を着た御使いが、イエス様のからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、もうひとりは足のところに座っているのを見たのです。マルコの福音書では「真っ白な長い衣をまとった青年」が座っていたと書かれています。
 さて、このマグダラのマリヤという女性ですが、どのような人だったのでしょう。
詳しくは書かれていませんが聖書からいくつかわかることがあります。まず、「マグダラのマリヤ」の「マグダラ」というのは、ガリラヤ湖の南西に位置する町で、マリヤはそこの出身でした。マグダラは、ガリラヤ湖の漁業の中心地の一つで、商業も栄えていた町です。
 また、マリヤは、イエス様がガリラヤの地域を回っておられたとき、十二弟子と共にイエス様に従った大勢の女性たちの一人でした。
 そして、マタイの福音書には、「イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった」と書かれています。マリヤは、以前、「七つの悪霊」に取り憑かれていたというのです。この「七つ」と数字は、具体的な数を示すというよりは、最悪な状態を示すものではないかと思われます。つまり、マリヤは、そうとう悪質な病の中にあったと理解したらよいと思います。医者も匙を投げてしまうような病の中にあったという意味で七という数字が使われているのでしょう。マリヤは、病のために肉体的にも精神的に疲れ切って、希望を失いながらかろうじて生きていたのでしょう。そんなマリヤが、イエス様によって病が癒やされ、生きる力が与えられ、イエス様と弟子たちと一緒に行動する者となりました。そして、イエス様のあのむごたらしい十字架のもとにもマリヤはいました。そして、イエス様が埋葬された後も、イエス様の遺体に香料を塗るために墓に向かっていったのです。
 ちなみに、ヨハネの福音書8章に、姦淫の現場で捕らえられた女性が登場しますね。ユダヤ当局者たちは、この女性をイエス様の前に連れてきて、「この女を律法に従って石打の刑で殺すべきか、それとも、赦すべきか」と判断を迫りました。イエス様が「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われると、皆、そこから立ち去り誰もいなくなったと書かれていますね。この女性がマグダラのマリヤだと考える人もいますが、聖書には、どこにもそのようには書いてありません。この二人は、別人と考えたほうがいいでしょう。

2 予期せぬ復活

さて、本題に戻りますが、マグダラのマリヤが墓の中をのぞくと、白い衣を着た御使いが座っているのを見ました。そして、御使いはマリヤに「なぜ泣いているのですか」と問いかけたのです。マリヤは、「どうしてそんなことを聞くのか」と思ったかもしれませんね。「だれかが主の遺体を取って行って、今、行方不明の状態なのだから泣くのはあたりまえでしょう」と言いたかったのかもしれません。
 しかし、御使いに返事をしてから振り返ると、なんとそこにイエス様が立っておられ、イエス様も「なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか」と言われたのです。
 マリヤは、このお方がイエス様だとは分かず、「園の管理人」だと思ったと書いてありますね。そして、「あなたがあの方を運んだのでしたら、どこに置いたか言ってください。私が引き取ります」と言ったのです。イエス様を愛して涙を流しているマリヤですが、ちょっと間の抜けた話ですね。イエス様がそこにいるのに、イエス様だと分からなかったというのです。
 おもしろいことに、同じような出来事がルカの福音書にも記されています。この日の午後、エマオの村へ帰っていく二人の弟子がいました。道々、十字架の出来事や空になっていた墓のことを話しながらエマオに向かっていたのです。すると、イエス様が彼らに近づいて来られ、彼らとともに歩き始められたのです。しかし、彼らは、それがイエス様であることに気づきませんでした。そして、イエス様に「何を話し合っているのですか」と聞かれると、「あなたはエルサレムにいたのに、ナザレ人イエスに何が起こったのか知らなかったのですか」と説明し始めたのです。なんとも滑稽な姿ですね。しかし、イエス様が彼らの家まで行って一緒に食卓に着き、パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡されたとき、彼らの目が開かれ、イエス様だとわかったというのです。
 先週、イエス様の復活を否定しようとするいろいろな説の中に「盗難説」があるというお話をしましたね。誰かがイエス様の遺体を盗んだのだろうという説ですが、その時の状況を見ると、墓泥棒にせよ弟子たちにせよ遺体を盗んだと考えるには無理があります。
 復活を否定する説として、もう一つよく言われるのが、「イエスが復活したというのは、弟子たちの復活願望や勝手な思い込みが生み出した心理的な空想の産物だ」というものです。「イエス様が復活してくれればいいのに、もう一度お目にかかりたい」という強い思いが復活の物語を作ったのだと主張するのです。しかし、イエス様を愛するマリヤも、エマオに向かっていった弟子たちも、恐れて閉じこもっていた他の弟子たちもイエス様が実際に復活されることをまったく予期していなかったことがわかるのです。

3 イエス様の呼びかけ

 では、マリヤは、園の管理人だと思っていた人物がイエス様であることが、どうしてわかったのでしょう。
 16節を見ましょう。「イエスは彼女に言われた。『マリヤ。』彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)』とイエスに言った」と書かれています。
マリヤは、イエス様を園の管理人だと思っていたわけですね。もしかするとイエス様の遺体をどこかに移動してしまった人かも知れない、というぐらいにしか思っていなかったわけです。ですから、また墓に向かって意気消沈し、うなだれていたのでしょう。その時、イエス様は「マリヤ」と呼びかけられたのです。マリヤは、一瞬、墓の管理人がどうして自分の名前を知っているのだろうと思ったかも知れません。しかし、すぐにイエス様だと気づき、「ラボニ(先生)」と答えたのです。
マリヤは、イエス様に名前を呼ばれたときに、それがイエス様であることに気づきました。これは、私たちが復活したイエス様に出会うときも同じではないでしょうか。イエス様の方から声をかけてくださるからこそ、私たちもイエス様に応答できるようになるのだと思います。
 ルカの福音書の19章に、エリコの町に住んでいたザアカイという取税人のことが書かれています。彼は、町一番の嫌われ者でした。イエス様がエリコの町を通られたとき、イエス様のもとに群衆が押し寄せました。ザアカイもイエス様を一目見たいと思いましたが、背が低かったので、いちじく桑の木に登って眺めていたのです。その時でした。イエス様は、「ザアカイ、木から下りてきなさい。今日、わたしはあなたの家に泊まることにしている」と呼びかけられたのです。ザアカイは、自分の名が呼ばれたことで心開き、大喜びでイエス様を自分の家に迎え入れ、そこから彼の人生は大きく変わっていきましたね。
 同じように、復活されたイエス様は、涙を流しているマリヤに「マリヤ」と呼びかけられたのです。その時、マリヤは、イエス様の復活の事実を知りました。最も短いすばらしいメッセージは、心を込めて「名を呼ぶ」ことなのですね。
 イエス様は、ヨハネの福音書10章3節-4節でこう言われました。「しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。・・・羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」と。
 信仰というのは、なにか十把一絡げのようなものではなく、個別対応なんですね。イエス様は、一人一人に対して、名を呼び、応答を待っておられるのです。今日、こうして礼拝をささげいるとき、また主を賛美しているとき、聖書を読んでいるとき、祈っているとき、復活の主は一人一人の名を呼んでくださっていることを知っていただきたいのです。
 説教をしていると、時々こんなことを言われることがあります。「先生、今日はわたしが考え悩んでいたことに対する答えを得たように思います」とか、「先生は、私のことを知っていてお話しされたのですか」とか。しかし、私は、説教を語るとき、事前に教会員の状況を調査しておくということはありません。それに、私はそんなに器用ではありません。ただ、私が聖書に記されていることを語る時に、イエス様が一人一人の名を呼び、教え導き、必要な心の糧を与えてくださるということを信じて、毎週語らせていただいています。
 復活の主は、いろいろな方法を通して私たち一人一人に語りかけてくださるお方なのです。

4 すがりついてはいけない

 さて、マタイの福音書には、マリヤたちが復活したイエス様にお会いして、「近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ」と記されています。
 しかし、今日の箇所の17節でイエス様はこう言われました。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい」と。
イエス様は、「わたしにすがりついていてはいけません」と言われましたが、これは、イエス様がマリヤを冷たくあしらったということではありません。マリヤは、十字架でイエス様が死んでしまわれた、また、墓からイエス様の遺体がなくなってしまった、もうイエス様にお会いすることができないかもしれないと悲しんでいました。ですから、またイエス様にお会い出来たことに喜び、もう放さないぞと言わんばかりにしがみついてしまいたい気持ちは分かりますね。
 しかし、イエス様は、「わたしはまだ父のもとに上っていないから、すがりついていてはいけない」と言われたのです。不思議な言葉ですね。イエス様が父なる神のもとに上っていってしまわれたら、ますますすがりつけなくなるのではないでしょうか。
 このイエス様が「父のもとに上る」というのは、どういう意味でしょうか。これから読み進めていくとわかりますが、イエス様は、これから四十日間に渡って、弟子たちの前に姿を現し、ご自分が本当に復活したことを示されます。そして、そのあと、弟子たちの目の前で天に昇っていかれるのです。
 イエス様の十字架は救いの成就でした。そして、復活は、イエス様の十字架によって救いが与えられることを証明する保証であり、そして、イエス様が天に昇って行かれること、つまり昇天は、イエス様が神と等しい方として栄光を受けられることを示すものです。つまり、イエス様の栄光とは、十字架と復活と昇天によって完結するものなのだということなんです。
イエス様は、昇天し、神の右に座し、私たちの主としてすべてを支配してくださいます。また、神の御前でいつも私たちのためにとりなしてくださいます。また、14章1節-3節で言われたように、父の家に私たちを迎える備えをしてくださるというのです。そして、また、イエス様は、16章7節でこう言っておられましたね。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」つまり、イエス様は、天に昇り、ご自分の代わりにこんどは助け主である聖霊を送ってくださるというのです。その聖霊が信じる一人一人の内に宿ってくださるので、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」というイエス様の約束が実現するのです。ですから、イエス様が父のもとに上っていかれることは、私たちにとって大きな益となるのです。
 イエス様がマリヤに「わたしにすがりついていてはいけない」と言われたのは、「わたしが父のもとに行けば、もっと素晴らしいことが起こる。あなたの内に聖霊が与えられるので、わたしはいつもあなたと共にいるようになるのだ」と言われたわけです。

5 わたしの神はあなたがたの神

イエス様は、続けてマリヤにこう言われました。「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい」と。
イエス様はここで、「わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神」と言われていますね。また、恐れて隠れている弟子たちを「わたしの兄弟たち」と言っておられるのです。
 十字架と復活と昇天、この三点セットが成し遂げられるとき、一つのことがはっきりと見えてくるのです。それは、「神はイエス様の父であるとともに、信じる私たち一人一人の父である」ということです。ですから、イエス様は私たちを「わたしの兄弟たち」と呼んでくださるのです。私たちは、父なる神の子供として、また、イエス様の兄弟として「神の家族」の一員となるのです。

あのマグダラのマリヤのようにイエス様を実際に見れば信じることが出来るのにと思う人はたくさんいます。しかし、この福音書を書いたヨハネは、弟子たちやマリヤが復活したイエス様を見たことも幸いだったけれども、それ以上に、イエス様が昇天し天の御座に着座されたことによってもたらされるイエス様との出会い、そして、聖霊が宿ってくださることによっていつもイエス様と共にいることができるということこそ本当の幸いなのだと語っているようです。
 復活して今も生きておられ、天の栄光にあふれるイエス様は、今も私たち一人一人の名を呼んでくださいます。そして、一人一人に「わたしの兄弟、姉妹」と呼びかけてくださるのです。私たちはそのイエス様のみ声をを素直に受け取り、イエス様を信頼して歩んでいきましょう。