城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年三月二三日             関根弘興牧師
                ヨハネ二〇章一八節ー二三節

ヨハネの福音書連続説教63
  「聖霊を受けよ」

18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(新改訳聖書)

 イエス様は、十字架につけられた後、三日目に復活されました。イエス様が十字架につけられたのは金曜日でした。そして、ユダヤ式の数え方では金曜日を含めて数えるので、三日目というのは日曜日になります。イエス様は、週の初めの日である日曜日に復活されたのです。
 イエス様が納められた墓に最初に行ったのは、イエス様の遺体に香料を塗ろうと思っていた女性たちでした。彼女たちは、墓の入口が大きな石で塞がれているのを知っていましたから、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と話しながら墓に向かって行ったのです。ところが、墓に着くと、入口の石はすでに脇に転がしてありました。そして、墓が空っぽだったのです。「だれかが主を取り去ってしまった」と思ったマグダラのマリヤは、すぐにペテロとヨハネのもとに行って報告しました。
 ペテロとヨハネは、すぐに墓に行って、墓が空っぽになっていること、そして、イエス様の遺体に巻いてあった亜麻布がおかれているのを目撃しました。そして、ヨハネは、「自分は、空っぽの墓と残された亜麻布を見て信じた」と記しています。それは、自分の信仰の原点が空の墓と亜麻布を目撃したその時にあるのだという思いを記したかったからではないかと思われます。
 ペテロとヨハネが仲間たちの所に戻っていった後、マグダラのマリヤはまだ墓のそばにとどまっていました。そのマリヤに、イエス様は姿を現され、ご自分が復活したことを示されたのです。それは、週の初めの日の朝に起こった出来事でした。
 そして、今日の箇所では、19節にあるように、その日の夕方に起こった出来事が記されています。

 マルコの福音書によれば、その日の夕方、弟子たちは一緒に食卓に着いていました。そして、19節にあるように、彼らはユダヤ人たちを恐れて戸を閉め切っていました。すると、イエス様がそこに入って来られたのです。
 学者は、いろいろ細かいことを考えますから、ここでも「イエスは、戸が閉めてあった部屋にどのように入って来られたのだろう」と考えるわけです。
 ある学者は、「扉を閉め切っていたとしても、ノックをすれば開けてもらえるではないか。だから、イエスは、律儀にノックをして、その部屋に入ったのだ」と考えるわけです。
 また、ある学者は「『使徒の働き』の中で、ペテロが牢屋につながれていたとき、御使いに導かれて外に出ることができたが、その時、牢屋の門がひとりでに開いたと書かれている。それと同じように、イエスが扉の前に立つと、扉がひとりでに開いたので入れたのだ」と考えます。
 どちらもイエス様の復活のからだが私たちの肉体と同じようなものだという前提に立った考え方ですね。
 しかし、前々回の説教でお話ししたように、イエス様の復活は、単に死んだはずの人間が蘇生したとか息を吹き返したとかいうのとは違うのです。聖書に読むと、イエス様の復活のからだは、普通の肉体とは違う性質をもったものだったようです。しかし、実態のない霊や幻のようなものでもありませんでした。ルカの福音書24章で、復活したイエス様は、弟子たちにこう言われました。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」と。また、「ここに何か食べ物がありますか」と言われるので、弟子たちが焼いた魚を一切れ差し上げると、「イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった」と書かれています。つまり、イエス様は、ご自分が本当にからだを持って復活されたことを弟子たちに示すために、触らせたり、実際に食べて見せたりなさったわけです。しかし、その一方で、イエス様の復活のからだには、特別な性質がありました。いろいろな場所に急に現れたり、弟子たちの見ている前で天に昇っていかれたからです。
 ですから、今日の箇所でも、イエス様は、扉や壁に遮られることなく、突然弟子たちの前に姿を現されたのかも知れません。

1 「平安があなたがたにあるように」

 さて、弟子たちのもとに来られたイエス様は、開口一番なんと語られたでしょうか。「平安があなたがたにあるように」と言われましたね。この福音書の原文のギリシヤ語では「エイレーネ」と書かれていますが、これは、ヘブル語では、「シャローム」という言葉です。「平安」という意味ですが、ヘブル語で「シャローム」は、今でもイスラエル人の挨拶の言葉として使われています。「こんにちは」も「さようなら」も「シャローム」と言うわけですね。
 では、イエス様も「こんばんは」という挨拶のつもりで「シャローム」と言われたのでしょうか。しかし、イエス様は、21節でも「平安があなたがたにあるように」と言っておられますね。それも、イエス様がご自分の手とわき腹を示され、弟子たちがそれを見て喜んだあとに「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。ですから、イエス様が「シャローム、平安があなたがたにあるように」と言われたのは、単なる挨拶の言葉ではなく、大切なメッセージがそこに含まれていると理解することができるのです。
 復活されたイエス様は、弟子たちに「お前たち、よくもわたしを裏切って逃げて行ったな。あれだけ世話したのに。まったく」とはひと言も言われませんでした。かえって、「平安があなたがたにあるように」と語りかけてくださったのです。それは、弟子たちにとってもなんとほっとする語りかけだったことでしょう。では、その「平安」とは、どのようなものなのでしょうか。
 もちろん、イエス様が復活されたわけですから、イエス様が「ここに一緒におられる」という平安を弟子たちは味わったことでしょう。しかし、それ以上の意味も含まれているのです。
 ヨハネ14章27節に書かれていますが、イエス様は、最後の晩餐の時に弟子たちにこう約束されました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 イエス様の与える平安は、ドライブインに寄ってちょっと一休み、休憩しましょう、というような一時的なものではない、ということです。そして、この平安は、私たちが生きていく上で大切な土台となっていくのです。それでは、イエス様の与える平安とは、具体的にはどういうことなのでしょうか。

@赦されていることからくる平安

 今日の箇所で、イエス様は、「ご自分の手とわき腹を示された」と書かれていますね。イエス様の手には、十字架に打ち付けられた時の釘の痕が、そして、わき腹には兵士の槍で突き刺された傷が残っていました。イエス様は、ご自分が十字架上で血を流されたことを弟子たちにあらためて示されたのです。
 イエス様が十字架上で流された血は、私たちの罪の赦しのための血でした。ヘブル人への手紙9章22節には、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」とあります。また、ヨハネの手紙第一1章7節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」とあります。イエス様が十字架で流された血によって、私たちは全ての罪からきよめられ赦されたのです。
 ですから、イエス様が「平安があなたがたにあるように」と言われた言葉の中には、「この手を跡を見なさい。わき腹を見なさい。あなたがたの罪が赦されるために、わたしは十字架上で血を流した。だから、今、あなた方の罪は赦されているのだ。安心しなさい」という大切なメッセージが込められているのです。
 赦されていることを知ると、平安が生まれます。お互いの人間関係でもそうですね。まして、イエス様の十字架によって完全な赦しが宣言されているのですから、私たちは、安心して神様の前に出て、神様を父と呼び、神様との親しい関係の中で生きていくことができるのです。

A使命に生きる平安

 次に、21節で、イエス様は「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言っておられます。つまり、イエス様によって遣わされて生きていくということから来る平安があるということです。生きる使命が与えられたことによる平安です。
 弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて戸を閉め切って隠れていました。もう自分の人生はおしまいだ、意味がない、これから何を目標に生きていったらいいのかわからない、という状態で、外に出ていくことを恐れ、引きこもっていたのです。しかし、死をも打ち破って復活されたイエス様に出会うことによって、弟子たちは、平安を与えられ、閉め切った扉を開けて、イエス様が遣わしてくださる場所に大胆に出て行くことが出来るようになったのです。
 そして、この約束は、限られた弟子たちだけに語られたものではなく、今日ここにいる一人一人にも与えられています。「平安があなたがたにあるように。わたしがあなたがたを遣わします」とイエス様は一人一人に言ってくださるのです。
 私たちは、こうして礼拝に集い、賛美を捧げ、聖書の約束に励まされ、赦されていることを知り、愛されていることを知り、平安を得ることができます。そして、遣わされているそれぞれの場所に主の恵みを運ぶ器としての使命をもって出て行く者とされているのです。
 それを聞くと「私など、何もできません。人の世話になるだけです。遣わされるとか、使命があるなんて、私には無理です」と思う方がおられるかもしれませんね。しかし、どうぞ覚えてください。イエス様は、何かをしなさい、と言っておられるのではないのです。「わたしがあなたを遣わす」と言っておられるのです。私たちは、偶然ここにいるわけではありません。この教会でも、職場でも、家庭でも、学校でも、今置かれている場所での様々な関わりの中で、イエス様から遣わされて生かされているのです。そういう自覚と自信を持って歩んでください。今まで出来ていたことが出来なくなってしまうこともあります。健康状態が悪くなることもあります。でも、生かされている限り、私たちは皆、イエス様によって遣わされた場所にいるのです。ですから、どこにいても、「今、わたしはここに遣わされている」と考えたらいいのです。もし病気で入院することがあるなら、この病院に遣わされたのだと考えるのです。そして、遣わされた者なのですから、「主よ。あなたが私をここに遣わしてくださったのですから、私をこの場所に主の恵みと愛を運ぶ器にしてください」と祈っていくのです。

2 「聖霊を受けなさい」

 さて、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と言われ、次に、22節では、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。
 ヨハネ15章26節で、イエス様は、十字架につけられる前に弟子たちにこう約束されていましたね。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」イエス様は、助け主である聖霊を送ると約束してくださったのです。
 この聖霊が来られたことが人々にはっきりわかるように示された有名な出来事が「使徒の働き」の2章に書かれていますね。ペンテコステ、日本語では五旬節と訳されている祭りの日に集まって祈っていた弟子たち一人一人に聖霊が注がれ、その時から、弟子たちは世界中にイエス・キリストの福音を宣べ伝えるようになったという出来事です。この日は聖霊降臨日と呼ばれ、また、教会の誕生日とも言われています。
 イエス様が復活されてから、このペンテコステまでの出来事を整理しますと、こういうことになります。復活されたイエス様は、復活の日から四十日の間、五百人以上の弟子たちの前に姿を現されました。そして、四十日目に弟子たちの見ている前で、オリーブ山から天に昇って行かれました。天に昇られる前に、イエス様は、弟子たちに「聖霊が注がれるまで、エルサレムにとどまっていなさい」とお命じになりました。そして、天に昇られてから十日後、つまり、復活の日から数えて五十日目のペンテコステの祭りの時に、イエス様の約束通り、聖霊が弟子たちに注がれ、弟子たちは大胆に福音を宣べ伝え始めたわけです。
 ですから、信じる人々が聖霊を受けたのは、ペンテコステの日が最初ではないか、と考える人もいます。しかし、イエス様は、今日の箇所で、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言っておられますね。つまり、イエス様が復活されたその日の夕方に弟子たちは聖霊を受けたというわけですね。これは、どういうことでしょうか。
 おそらく、この福音書を書いたヨハネは、「あのペンテコステの出来事は、実は、イエス様が復活された日に既に始まっていたのだ」ということを記したかったのでしょう。
 「使徒の働き」を読むと、ペンテコステの誰の目にもわかるような聖霊降臨の出来事が起こる以前から、弟子たちは共に集まり、共に祈り、イエス様を裏切って離れていったユダの代わりに他の人物を選んで使徒として任命するなど、これからの働きのために着々と備えを進めていました。つまり、教会としての働きは、ペンテコステの出来事の前からすでに始まっていたわけです。確かに、ペンテコステの聖霊降臨の出来事をきっかけに大きな働きが始まりましたが、実は、その前に、イエス様が復活された時から、弟子たちは聖霊を受け、新しい人生をスタートしていたのだということをヨハネは記しているのです。
 復活したイエス様を信じる時、そのイエス様によって一人一人に聖霊が与えられるのです。それは、今も同じです。私たちが復活の主を信じ受け入れるとき、聖霊が私たちの内に宿ってくださるのです。そして、聖霊は、いつも私たちを導き、満たし、成長させ、私たちを神様の栄光を現す器として用いてくださるのです。
 先ほど、私たちは、イエス様によって遣わされている者であるということを覚えながら生きていきましょう、というお話をしました。また、遣わされた者として、平安を持って生きていくことができるとお話ししましたね。イエス様は、私たちをそれぞれの場に遣わしてくださるわけですが、その時に「わたしは一緒に行かないからあなただけで行って来なさい。行ってらっしゃい」と手を振って見送る方ではありません。「わたしはあなたを遣わすが、あなたが独りぼっちにならないように、聖霊を受けなさい。聖霊がいつもあなたとともにおられるから安心しなさい」と言ってくださるのです。
ところで、イエス様は、「聖霊を受けなさい」と言われたとき、弟子たちに息を吹きかけましたね。この「息を吹きかける」という表現は、とても大切な意味のある言葉です。
 創世記2章7節にこう書かれています。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」人は、神様の息が吹き込まれて初めて人として生きるものとなったというのです。それは、私たちが、単なる肉体だけの存在ではなく、神様を思い、永遠を思う心が与えられた存在として生かされているということでもあります。
 また、旧約聖書に出てくるエゼキエルという預言者は、神様の言葉をこう伝えました。「見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」と。つまり、神様が息を吹き入れるとき、死んでいた者が生き返る、新しいいのちによって生きるようになる、と約束されているのです。
 復活されたイエス様は、今日の箇所で、恐れて戸を閉めきって失望の中にいた弟子たちに姿を現し、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われました。日本語で「あの人は、○○さんの息のかかった人だ」というような表現がありますが、私たち一人一人は、イエス様の息のかかった者であり、イエス様の霊、キリストの聖なる霊が与えられている者です。だからこそ、生きる力が与えられ、決して一人ではないということを知って歩んでいくことが出来るのです。
 
3 「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦される」

 さて、イエス様は「聖霊を受けよ」と言われたあと、23節で少し難しいことを言われました。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」これはどういう意味でしょうか。
 マルコの福音書2章7節には「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」とありますね。罪を赦すことができるのは神様だけです。私たち人間は、誰の罪も赦す権威など持っていないはずですね。ですから、ここでイエス様が言われたのは、私たちに「この人の罪を赦します」「この人の罪は赦しません」と決める特権が与えられているという意味ではありません。そうではなく、私たちには、それぞれが遣わされた場所で聖霊に力を与えられながら伝えることのできるメッセージがあるということなのです。それは、イエス様の十字架によって罪が赦され、イエス様の復活によって新しいいのちと平安が与えられるというメッセージです。私たちは、「あなたの罪はすでに赦されているのですよ。その赦しを受け入れて、イエス様のいのちを受け取って生きてください」ということを伝えていくことができるのです。
 パウロは、ローマ人への手紙10章14節ー15節でこう語っています。「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」
 私たちは、イエス様のゆるしといのちと平安を伝える者として、それぞれの場所に遣わされています。けれども、気負って自分の力で頑張ろうとする必要はありません。イエス様は、「わたしの平安の中で生きていきなさい」「聖霊がいつもあなたと共にいて、あなたを助け導き支えるから大丈夫」と約束してくださっているのです。ですから、私たちは、聖霊にゆだね、関わりのある人々に神様の赦し、いのち、喜び、平安が注がれていくことを願い、期待しつつ、共に励まし合いながら進んでいきましょう。平安がありますように!