城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年三月三〇日             関根弘興牧師
                ヨハネ二〇章二四節ー二九節

ヨハネの福音書連続説教64

  「見ずに信じる者の幸い」

24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(新改訳聖書)

 イエス様は十字架につけられ、葬られ、そして三日目に復活されました。それは週の初めの日、つまり、日曜日の出来事でした。
 その日、復活されたイエス様は、まず墓の前でマグダラのマリヤに現れました。それから、先週お話ししましたように、その日の夕方、弟子たちのいる部屋に現れ、「平安があるように」と語られました。弟子たちは、このイエス様の言葉にどれほど励まされ、安心したことでしょう。彼らは、イエス様が復活されたことを喜び、大いに慰められたのです。
 さて、イエス様が復活されたのは、過越の祭りの時でしたので、祭りの間、弟子たちはエルサレムにとどまっていたようです。そして、復活したイエス様と出会ったことを互いに興奮しながら語り合っていたのです。
 しかし、一人だけ喜べない弟子がいました。トマスです。彼は、イエス様が最初に弟子たちに現れてくださったとき、そこにいなかったのです。どこに行っていたのかはわかりませんが、トマスが戻ってみると、仲間たちが非常に興奮しているのです。「おい、トマス、どこに行っていたんだ。」「イエス様が復活されたんだ。」「すごいよな。」「あれは幻なんかじゃないぞ。手とわき腹の傷が確かにあったし、魚を召し上がったしな。」「トマス、お前、肝心なときにどこに行ってたんだよ。復活された主がここに来てくださったのに。」こんな会話が続いたことでしょう。
 しかし、トマスは、仲間が興奮すればするほど、冷めていくのです。そして、こう言いました。「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をその脇に差し入れなければ、決して信じない」と。なかなか頑固ですね。
 しかし、その八日後、つまり、ユダヤ式の数え方では翌週の日曜日になりますが、イエス様は、このトマスにも現れてくださいました。今日は、このトマスの姿を通して大切なことを学んでいきましょう。

1 留まり続けたトマス

さて、聖書の中にトマスについての情報はあまり多くはありませんが、24節に「デドモと呼ばれるトマス」と記されていますね。「デドモ」とは「双子」という意味です。ですから、トマスは双子であったようですが、双子のもう一人のほうは、聖書には登場していません。
 それから、トマスの性格を知ることの出来る箇所があります。ヨハネ11章に書かれていますが、ベタニヤに住むラザロが重病になり、使いの者がイエス様のもとにやってきて、こう伝えました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」と。すると、イエス様は、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」と言われ、二日間その場所にとどまられた後に、「もう一度ユダヤに行こう」と言われました。それは、「ベタニヤのラザロの所に行こう」という意味だったのですが、弟子たちは、「今、ユダヤに行ったら、イエス様をよく思っていない者たちから石打にされるかもしれない」と案じました。その時、トマスが、弟子の仲間たちにこう言ったのです。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と。トマスは、男気がありましたが、直線的というか、感情的な性格のようですね。「先生と一緒に死のう」と早とちりで勘違いしやすい、でも、大変一途な弟子であったようです。
 また、トマスは、決して安易に他者と迎合しない男でした。考えてみてください。仲間たちのみんなが「イエス様は復活した」とトマスに言い続けているのですよ。しかし、トマスは「私は自分の目で見なければ決して信じない」と言い張っているわけです。なんとなく気まずい空気が流れそうな感じですよね。トマスは、みんながそう考えているなら、ここは波風立てないように「そうですよね」と同意しておこう、というような事なかれ主義の男ではありませんでした。ちょっと頑固者ですね。しかし、よく言えば、自分に正直な男だとも言えるわけです。自分ではそう思わないのだから、仲間が何を言っても、自分が納得するまでは信じないという男なんです。
 そして、彼の偉いところは、それでもなお弟子たちの集まるその場所に留まり続けたということです。トマスは、「イエス様が復活されたことは自分は信じられない」と正直に言っているのですが、だからといってその集まりから離れようとはしませんでした。今は信じられないけれど、何かの期待がトマスの中にはあったのでしょう。これは、とても大切なことですね。
皆さんに是非知っておいていただきたいのですが、時々、「私は、聖書に書かれていることが信じられません。ですから、教会にはもう来ません」と離れてしまう方がいます。でも、それは大きな間違いなんですね。私たちの頭で信じられないことはたくさんあります。でも、信じられないからこそ、あえて留まっているということの大切さをトマスの姿を通して学んでいただきたいのです。そして、わからないことはわからないし、信じられないことは信じられない、という自分に正直に誠実に生きていきながら、イエス様が一つ一つの疑問に丁寧に答えを与えてくださることを期待しつつ共に集まり礼拝をささげていくのです。

2 トマスの告白

 さて、トマスは、仲間の言うことを信じることが出来ませんでしたが、イエス様は、復活してから八日目の日曜日にトマスに現れてくださいました。
 ちなみに、復活されたイエス様が現れてくださったのが最初の時も今回も日曜日だったので、いつしか日曜日は「主と出会う日」として「主の日」という言い方がされるようになっていきました。そして日曜日に集まって礼拝をすることが定着していったのですね。しかし、もちろん、日曜日でなくても、いつでも主とお会いすることはできますから、本当は、毎日が「主の日」と言っていいのですが。
 さて、今までイエス様の復活を否定する説をいくつかご紹介しました。一つは、「盗難説」、つまり、誰かがイエス様の遺体を盗んだという説です。もう一つは、弟子たちがイエス様の復活を強く望んでいて、その復活願望が次第にイエス様が本当に復活したというふうに変化してしまったのだという説です。しかし、それらの説は、聖書の記録を詳しく読むと、まったく根拠のないものであることがわかります。
 そして、もう一つ、復活を否定する説として有名なのは、イエス様の復活は幻、幻影にすぎないという説です。しかし、ヨハネはこの福音書の中で、復活したイエス様は決して幻や幽霊ではなかった、確かに肉体を持って復活されたのだということをはっきりと記しています。
 今日の箇所でも、イエス様は、トマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。わたしの脇に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われましたね。この言葉は、イエス様が幻や幽霊のようなものではなく、確かに、手で触れることができるからだを持って復活されたことを示していますね。
 イエス様は、トマスが「自分でイエス様の傷跡にさわらなければ決して信じない」と仲間の弟子たちに語っていた言葉をすべてご存知で、トマスにこう言われたわけですね。そして、トマスはイエス様の言葉を聞いた途端、即座に「私の主。私の神」と告白しました。トマスは、自分にとても正直な男です。信じられないことは信じらないとはっきりと言う男ですが、イエス様と出会ったとき、彼は一八〇度方向を変えて、今度は一直線にイエス様に従う者となっていったのです。
 このトマスの「私の主。私の神」という告白は、私たちにいくつかのことを教えています。

@告白の対象となるべき方

 当時の世界を支配していたのはローマ帝国です。ローマ帝国の皇帝は、どう呼ばれることを好んだでしょう。「わが主、わが神」と呼ばれるのを好んだのです。特にヨハネがこの福音書を書いているときは、ローマ皇帝を神としてあがめ、「わが主、わが神」と呼んで礼拝しなければならないと強制されている時代でした。
 しかし、トマスは、この世を治めているローマ皇帝ではなく、十字架につけられ復活されたイエス様に向かって「私の主、私の神」と言ったのです。死に打ち勝ち復活したイエス様こそ、まことの「主」、まことの「神」であると言う告白です。イエス様こそ救い主であり、礼拝すべき唯一のお方であるという告白をトマスはささげたのです。

A告白の意味

 トマスのこの告白は、イエス様が、私という個人の生活においても「主」であり「神」であるという告白です。
 これは勇気ある告白だと思いませんか。もし、イエス様を「わが主」と告白するなら、私たちは、もはや「主人」ではありませんね。しもべです。しもべは、主人に対して服従が求められるだけですね。イエス様を「わが主」と告白することは、「私の思いでなく、主のみこころをなしてください」「主よ、あなたの望まれるように、私を生かしてください」という告白につながるのです。
 私たちの人生において、誰が主となるのか、誰を神とあがめていくのかということは、最も大切な問いです。「あなたの人生の主は誰ですか」という問いにどう答えるかによって、人生は全く違うものになります。
 人は、いろいろなものを「わが主」と告白しながら生きています。「自分自身が主です」と告白するなら、自分の気の赴くまま自分勝手な方向に向かうでしょう。しかし、自分で自分の人生を支配しようとしても私たちには限界があります。過ちがあります。
 また、「物質こそが主だ」と言うのなら、物質に支配される人生になるでしょう。しかし、物質は滅びるもの、充てにならないものです。
 しかし、恵みとまことに満ちておられ、私たちの罪のためにいのちさえも惜しむことなく十字架についてくださるほどに私たちを愛してくださる方、いつも私たちの最善を願っておられる方、そして、三日目に復活して今も生きておられ、私たちの必要をすべて満たすことのできるお方を「私の主、私の神」と告白するなら、私たちは、安心して、希望をもって生きることができるのではありませんか。
 パウロは、獄中から書き送ったピリピ人への手紙の1章21節に、自分の人生を端的に表す言葉を書き記しています。「私にとって生きることはキリスト。死ぬこともまた益です」という言葉です。
 パウロは、自分の人生を振り返ったとき、「このイエス・キリストが私の人生の中心であり、私は、イエス様のゆえに、イエス様のために、イエス様によって生かされているのだ」という自覚を持っていました。彼が立派な人物だからこう言ったのではありません。彼は、自分が愚かで、弱く、罪人のかしらであることを十分自覚していました。そんな自分を恵みをもって赦し、愛し、きよめてくださったキリストこそ、生きることの中心軸であること、キリスト以外に人生に本当の調和をもたらしてくださる方はいないということを知っていたのです。
 今日私たちは、心から大胆に、「イエス様、あなたは私の主、私の神です」「私はあなたに従っていきます。あなたがよいと思われる道に導いてください」と祈っていきましょう。

3 見ずに信じる者の幸い

 さて、続いて29節のイエス様のことばを考えてみましょう。イエス様は、こう言われましたね。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と。
 実は、この言葉はよく誤解されます。「トマスはイエス様の姿を見せてもらって、やっと信じることができた。しかし、そんな疑い深い態度じゃなくて、見ないでも信じることができる素直な人にならなくてはならない」という意味だと受けられることがよくあるのです。しかし、それは誤解です。
 イエス様は、ここで「見て信じる者」と「見ないで信じる者」では、「見ないで信じる者」のほうがもっと幸いですよ、と比較しておられるわけでありません。
 トマスは、確かに「自分の目で見て触るまでは信じない」と言いました。しかし、他の弟子たちも、実際に復活したイエス様の姿を見て、信じたのです。トマスだけが、特に疑い深かったわけではありません。
 では、イエス様は、どのような意味でこう言われたのでしょうか。
  イエス様の復活の話をすると、「復活したイエス様の姿をこの目で見ることができれば信じましょう」と言う人が結構います。私たちも、復活したイエス様の姿を実際に見たり触ったりしてみたいと思うことがありますね。でも、考えてみてください。もし、ここにイエス様が現れて、「こんにちは。私がイエスです」と言われても、私たちは、それが本当にイエス様だとわかるでしょうか。本当にイエス様だと確認するためには、イエス様のことをよく知っている弟子たちの証言を聞く必要がありますね。ですから、私たちが信じるためには、結局、弟子たちの証言に頼るしかないのです。
 最初の弟子たちは、いつもイエス様と行動を共にし、イエス様をよく知っていました。ですから、復活したイエス様が現れたとき、それが本当にイエス様だとわかったのです。そして、だからこそ、どんな迫害や脅かしにも屈することなく大胆にイエス様の復活を宣べ伝え始めたのです。イエス様は、ご自分の十字架と復活を世界中の人々に保証する証人として、最初の弟子たちを選ばれました。だから、弟子たちの前に姿を現して、ご自分が本当に復活したことを示されました。そして、その弟子たちの証言を聞いて、多くの人々がイエス様を救い主として信じていったのです。
 しかし、ヨハネがこの福音書を記している頃には、実際の目撃証言者である弟子たちのほとんどは天に召され、残っているのは、彼らの目撃証言を記録した文書と空の墓だけになっていました。それは、今も同じですね。そういう時代に、ヨハネは、この福音書を書きました。そして、「私も他の仲間も、確かに復活のイエス様にお会いした」と記し、「イエス様が言われたように、実際に復活のイエス様を見なくても、私たちの証言を聞いてイエス様を信じる人々は幸いなのだ」ということを伝えようとしたのです。
 トマスは、目撃証言者となるために復活のイエス様に実際にお会いして、その傷跡に触れる経験をしました。彼は、以前からイエス様を知っていたので、復活のイエス様にお会いするとすぐに信じることができました。しかし、その後、教会にとって、イエス様の言われた「見ずに信じる者は幸いです」という言葉が大切な真理となっていったのです。そして、復活したイエス様の姿を見ることはなくても弟子たちの証言を信じた人々が、こんどは自分の人生の中でイエス様のみわざを体験し、それによって、最初の弟子たちの証言は信じるに値するものであることを証言するようになっていったのです。
 つまり、実際に復活したイエス様を見なくても、私たちは、初代の弟子たちが残した目撃証言を聞くことによって、また、その弟子たちの証言を信じた人たちがこんどは自分の人生の中で経験したイエス様のいのちと恵みについて語る証言を聞くことによって、イエス様を実際の目で見たのと同じ喜び、感動をもって信じること出来るということなのです。
 また、それだけではなく、以前、イエス様が約束してくださったように、聖霊が私たちの内に住んでくださり、復活のイエス様について教え導き、私たちがイエス様を信じ、その恵みを味わい知ることができるように助けてくださるのです。
弟子たちは、復活の主にお会いして、その目撃証言者として、全世界に散っていきました。トマスは、伝説によれば、インドに行って福音を宣べ伝えたようです。
 私たちが聞いた福音のことばは、確かな目撃証言に支えられています。実際の目撃証人者たちによって、また、信じてイエス様の復活の力を味わった人々によって、復活の事実は保証されています。今日、私たちは、その人々の言葉を信じることができるから幸いです。私たちは、見ないで信じる幸いの中に生かされているのです。そして、最初の弟子たちが見て信じた時に味わったのと同じ喜び味わうことができる幸いの中に生かされているのです。
 第一ペテロ1章8節ー9節には、こう書かれています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
今日、私たちもイエス様を目たことはないけれども愛し、信じて、喜びをもって生活することができます。ですから、こうしてイエス様を礼拝し、賛美をささげているのです。
 トマスが告白したように、「イエス様、あなたは私の主、私の神です」と告白しつつ、人生をゆだねて歩んでいきましょう。