城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年四月六日             関根弘興牧師
                ヨハネ二〇章三〇節ー三一節

ヨハネの福音書連続説教65

  「いのちを得るため」

30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(新改訳聖書)


今までヨハネの福音書の連続説教をしてきましたが、今日の箇所では、この福音書が書かれた目的が紹介されています。この福音書の結論が書かれているわけですね。
 ところで、結論を書いたら、普通はそれで終わりになるはずなのですが、ヨハネはさらに続けて21章の出来事を記しています。これは、ヨハネの性格にも関係あるかもしれません。
 この福音書だけでなく、「ヨハの手紙第一」でも、ヨハネは、5章13節で「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」とこの手紙の結論を書いているのですが、それで手紙が終わっているかというと、それからまた、別の問題について手紙を書き続けているのです。
 「イエス様の目撃証言者である他の弟子たちは、もう死んでいなくなってしまった。自分だけが生き残っている。だから、大切なことはすべて書き記しておかなくては」という思いが強かったのかもしれませんね。
 この福音書では、ヨハネはいったん20章までを書き終え、結論を記し、読み返しているときに、イエス様の復活された後のもう一つのエピソードも入れておこうと思って21章を付け加えたのでしょう。
 さて、今日は、この福音書の目的が書かれていますので、今までの内容を振り返りながら、私たちがこの目的に沿ってこの福音書を読んでいるかどうかお互いの心に問いかけながら、学んでいくことにしましょう。

1 ヨハネが記録したしるし

まず、30節を見ると「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた」と書かれていますね。また、この福音書の一番最後の21章25節にも「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う」と書かれています。
 イエス様は、とても書き切れない多くのしるしを行われたというのですね。その数多くのしるしの中から、ヨハネは特に大切だと思うしるしを選んでこの福音書に書き記したわけです。
 ところで、「しるし」というのは「証拠としてのきせき」という意味です。「イエス様こそ神に遣わされたまことの救い主である」ということを示すものです。ヨハネは、イエス様が人となって来られたまことの神であり、まことの救い主であることを示すために、まず、2章から11章にかけて七つのしるしを書き記しました。第一のしるしは、カナの婚礼の時に水をぶどう酒に変えられたこと、第二は、カペナウムに住む王室の役人の息子のいやし、第三は、ベテスダの池の近くで三十八年の間伏せっていた病人のいやし、第四は、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹になさったこと、第五は、嵐に荒れ狂うガリラヤ湖の上を歩かれたこと、第六に、生まれつきの盲人の目をいやされたこと、そして、第七に、死んだラザロを生き返らせたことです。これらのしるしは、イエス様が神の子であり、イエス様がどのような力に満ちた方なのかを示すものとなったわけです。
 しかし、実際には、イエス様の弟子たちは、福音書にしるされている出来事だけでなく、そのほかの多くのしるしもすべて目撃しました。イエス様は、「弟子たちの前で」多くのしるしを行われたと書かれていますね。それは、弟子たちが目撃証言者としてイエス様を宣べ伝えていくためだったのです。
 そして、ヨハネは、七つのしるしを書き留めただけでなく、この福音書の後半では、最も大きな出来事を詳しく書き記しました。それは、イエス様が私たちの罪をすべて背負って十字架にかかり、墓に葬られ、復活されたという出来事です。
 復活したイエス様が弟子たちに現われてくださったという出来事こそ、イエス様が罪と死の力に打ち勝たれたこと、十字架によってすべての人の罪が赦され、永遠のいのちが与えられる道が開かれたこと、そして、イエス様が今も生きておられ、いつも私たちとともにいてくださることを保証するものとなったのです。
 ですから、弟子たちは、復活のイエス様にお会いした後、目撃証言者として大胆に世界中に福音を宣べ伝えるようになりました。
 先週の説教の中で、イエス様がトマスに「見ずに信じる者は幸いです」と言われたことについてお話ししましたが、イエス様を実際に見ることがなくても、弟子たちの目撃証言を聞いて信じる人々は、罪赦され、いのちが与えられ、新しい人生をスタートすることができるのです。
 ヨハネは、「私たちは、実際にイエス様が数多くのしるしを行われるのを見たし、復活したイエス様にお会いしたのだ。だから、私たちの証言を聞いて、信じてほしい」と読者に呼びかけているのです。

2 すべてのしるしが記録されなかった理由

 ところで、イエス様が行われたしるしは、まだほかにもたくさんあるわけですね。それなら、もっとたくさん記録してくれればよかったのに、と思いませんか。全部をいちいち書きしるすことはできないとしても、もっとイエス様のことが詳しくわかるようにいろいろと書いてあればいいのにと思いますね。
 しかし、四つの福音書を全部読んでも、イエス様の十字架と復活の出来事はかなり詳しく書かれていますが、イエス様の少年時代のことなどはほとんどわかりませんし、イエス様の行われたしるしや出来事の多くは記されていないのです。
 しかし、ヨハネは、「この福音書に書かれていることだけで十分なのだ。これを読めば、イエス様が神の子キリストであることを信じることができるし、イエス様によっていのちを得ることができる」と言い切っているのです。
 ヨハネは、イエス様についてすべてを詳しく記録する必要はないと思っていたようですね。なぜでしょうか?
 たとえば、私はいろいろな所に行ってお話しをさせていただくことが多いのですが、いつも私について紹介してくださる方がいるわけですね。しかし、「関根先生は、昭和三十一年十二月九日に生まれ、どこどこで育ち、小学校の成績は・・・、中学ではこんなことをしてあんなことをして・・・、こんな性格で、こんなこともしでかして・・・」、普通はこんな風には紹介しませんね。その場にふさわしい必要な情報だけが紹介されるわけです。「関根先生は、小田原の城山教会の牧師で、ライフ・ラインの司会者で、今日は、説教者として来てくださいました。それではどうぞ」、これくらいですね。すべてを網羅するような事細かな紹介など必要ないのです。なぜなら、そこに本人がいるからです。本人の話す内容や様子を見て、「ああ、この人はこういう人なんだな」とわかりますね。いろいろな細かい情報を説明されるよりも、実際に本人に会うほうが、その人をずっとよく知ることができるのです。皆さんとは、礼拝で毎週お目にかかっていますが、こうして一緒に礼拝をし、話しをし、交流を持つことを通して、お互いのことがわかるようになるのですね。お互いに生きて交流をもっているからこそ、私たちはお互いを知ることが出来るのです。
 イエス様を知ることも、それと同じです。
 聖書には、私たちがイエス様を救い主として知るために必要なだけの十分な情報が書かれています。イエス様が神であられる方なのに、私たちと同じ人として来てくださり、神様がどのような方であるかを教え、私たちがどのように生きていくべきか模範を示し、そして、私たちのために十字架で罪の贖いを成し遂げ、復活して今も生きておられる、そのことを私たちは、聖書によって知ることができます。
 そして、その聖書のことばを信頼して、イエス様を救い主として受け入れるときに、今も生きておられるイエス様とともに生きる人生が始まるのです。そして、イエス様のすばらしさを日常の生活の中で知るようになるのです。イエス様は、弟子たちの前で多くのしるしを行われましたが、私たちの人生においても、多くのしるしを見せてくださるのです。

3 この書の書かれた目的

 ヨハネは、31節でこの福音書を書いた目的をこう記しています。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」と。これは、どういう意味でしょうか。

@イエスが神の子キリストであることを信じるため

以前、11章で学びましたが、エルサレムの近郊のベテニヤにマルタとマリヤという姉妹がいました。彼女たちの兄弟ラザロが重病になり死んでしまいました。イエス様は、ラザロが死んで四日目にそのベタニヤに行かれ、マルタに「ラザロはよみがえります」と言われました。すると、マルタは「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」と答えました。イエス様が続けて、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」と言われると、マルタは「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」と答えました。なんだか、とんちんかんな答えですね。
 この時、マルタは「信じます」と言ってはいるのですが、心の中では、「今、私が抱えている問題に対しては、イエス様でもどうすることも出来ませんよね。世の終わりの時には確かに何となるかも知れませんが」という思いを持っていたわけです。ですから、イエス様は、このマルタの信仰の告白を決して喜んではおられないのですね。
 ヨハネは、今日の箇所で、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためにこの福音書を書いた」と記していますが、その「信じる」というのは、知識として理解するとか、事実であることを認めるとかいうことだけではなく、先週の箇所でトマスがイエス様に対して「わが主、わが神」と告白したように、この福音書を読む一人一人が、イエス様を「わが主、わが神」と信じ告白して、今、この現実の生活の中でイエス様のいのちに生かされていく者になってもらいたい、毎日の生活の中でイエス様の恵みを味わい知るものになってもらいたいということなのです。
信じることは、生きることにつながっています。人は皆、信じる行為の連続の中で生きているのです。不信の中では、人は生きることが出来ません。
 たとえば、今、皆さんは、この礼拝に出席されていますが、まず、今日、この場所でこの時間に礼拝があるという情報を信じ、電車で来られた方は、電車の時刻表と行き先の表示を信じて来られたわけですね。一つでも疑ったら、決してこの場所には来ていませんね。本当に礼拝があるのだろうか、この電車は本当に小田原に行くのだろうか、この時刻表は違っているのではないか、などと疑っていたら、いつまでたってもたどり着きませんね。私たちの日常は、信じ続けることの連続です。信じなければ、生きていけないのです。ですから、信じることは、生きることにつながっています。
 大切なのは、私たちが何を信じるかということです。何を信じるかによって人生が大きく左右されるのです。
 ヨハネは、この福音書を書いて、「イエス様こそ、心から信じるにふさわしい方であり、私たちの信頼に必ず応えてくださる方である」ということを示そうとしたわけです。

A信じていのちを得るため

 それから、ヨハネは続けて、「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」と書いていますね。私たちがイエス様を信じるとき、「いのちを得る」というのです。
 私たちが礼拝にくるのは、ただ聖書の勉強のためではありません。何かのお勤めのようなものでもありません。イエス様のいのちを得て、そのいのちに生かされているから、集まって共に礼拝をささげるのです。
 ヨハネの福音書のキーワードは「いのち」です。イエス様を信頼して生きることは、「イエス様のいのちの中に生きる」ことなのだと言っているのです。
 この福音書の中で「いのち」という言葉が使われている箇所をいくつか引用してみましょう。それらの箇所を読むと、イエス様ご自身がいのちであり、光であり、人生の糧であり、渇くことのない水の源であり、希望であり、道であり、真理であり、守り支えてくださる方であり、死を乗り越えて永遠の住まいに導いてくださる方であることがわかります。
 1章4節「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」
 8章12節「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
 6章35節「わたしがいのちのパンです。」
 4章14節「・・・わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
 10章10節「・・・ わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」
 10章28節「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
 11章25節「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
 14章6節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
 この福音書を記しているとき、ヨハネの中にはいつも「いのち」という言葉が浮かんでいたと思います。イエス様こそ、いのちを与える方であり、いのちの源であり、永遠のいのちの中に生かしてくださる方であることを、ヨハネは知っていました。このイエス様と共に歩むことのすばらしさを知っていました。ですから、そのことを読者にもぜひ知ってほしいと願っているのです。
 17章3節で、イエス様は、父なる神様への祈りの中でこう言われました。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」と。まことの神、そして、神から遣わされた救い主イエス・キリストを知ることが永遠のいのちそのものなのです。
 今日、一人一人が「イエス様のいのちに生きる者」として感謝と賛美を持って歩んでいきましょう。