城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年四月一三日             関根弘興牧師
                 ヨハネ二一章一節ー一四節

ヨハネの福音書連続説教66

  「朝の食事をしなさい」

1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。(新改訳聖書)


 今週は、キリスト教界のカレンダー(教会暦)では、受難週です。イエス様が私たちの罪のために苦しみを受け、十字架につけられたことを覚えて感謝する時です。イエス様が十字架に付けられたのは金曜日です。そして、次の日曜日がイエス様が復活されたことを記念するイースター(復活祭)になるわけです。
 これまで、ヨハネの福音書から学んできたとおり、イエス様の十字架は、私たちの罪の赦しのためであり、その赦しは完全なものです。また、イエス様は、十字架につけられ葬られた後、三日目に復活されましたが、このヨハネの福音書の中では、イエス様が弟子たちの前に姿を現された出来事が三つ記録されています。

 まず、イエス様は、復活された日(日曜日)の夕方、恐れて戸を閉め切っていた弟子たちのもとに現れてくださいました。その時は、トマスだけその場にいませんでしたね。
 それから、その一週間後の日曜日に、イエス様は、今度はトマスも含めた弟子たちのもとに現れてくださいました。
 この二回の出来事は、どちらも場所はエルサレムで、過越の祭りの間に起こったことでした。この二回の出来事については、すでにお話しましたが、その時、イエス様が弟子たちに言われたいくつかの言葉をもう一度思い起こしてみましょう。
 まず、イエス様が弟子たちに姿を現されたときに最初に言われたのは「平安があるように」という言葉でしたね。「イエス様が十字架で死んでしまった。もう終わりだ」と絶望しきっていた弟子たちにとって、この言葉は、どんなに大きな驚きと喜びをもたらしたことでしょう。
 また、イエス様は、「父が私を遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われましたね。そこにいた弟子たちだけでなく、私たち一人一人が復活の主に遣わされてこの場所に生かされているのだという使命感を持って生きていくことができるのですね。
 そして、イエス様は、弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。聖霊が私たちの内に宿ってくださるので、私たちは、もはやひとりぼっちになることはない、いつも主が共にいて助け導いてくださるのです。
 それから、イエス様は、「あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」と言われました。私たちは、イエス様の十字架による罪の赦しと復活のいのちを伝える者として遣わされていますから、私たちを通して、主の赦しと救いが多くの人々に伝わっていくのです。

1 ガリラヤに戻っていた弟子たち

 さて、今日の箇所には、イエス様が弟子たちに姿を現された三つ目の出来事が記されています。
 テベリヤ湖とは、ガリラヤ湖とも呼ばれる湖です。弟子たちのうちの何人かは、以前、この湖で漁師として生計を立てていました。
 エルサレムで復活の主に出会った弟子たちのうち、少なくともガリラヤ出身の弟子たちは、過越の祭りが終わると故郷のガリラヤに戻っていました。そして、彼らがガリラヤ湖で漁をしているとき、イエス様が再び姿を現わしてくださったのです。
 2節には、「シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた」とあります。合計七人の弟子たちがいたことになりますね。ゼベダイの子たちというのは、この福音書を書いたヨハネとその兄弟ヤコブのことです。皆、イエス様の復活の大切な目撃証言者たちですね。
 ところで、今日の箇所でまず疑問に思われるかもしれない二つの点について考えてみましょう。一つは、「なぜ弟子たちがガリラヤに来ていたのか」ということ、もう一つは、「なぜ弟子たちは漁の仕事に戻ったのか」ということです。
 彼らがエルサレムで復活のイエス様にお会いしたとき、イエス様は「わたしはあなたがたを遣わします」と言われましたね。弟子たちは、イエス様から使命を与えられたわけです。それなのに、故郷のガリラヤに戻り、しかも、漁師の仕事を再開したのはなぜでしょうか。
 まず、漁師の仕事に戻ったことについてですが、いくつかの見方があります。
 一つは、彼らは、イエス様から命じられた使命に背を向けて元の職業に戻ってしまったのだという見方です。しかし、復活の主に二度もお目にかかっているわけですから、意図的にイエス様に逆らって漁の仕事に戻ってしまったとは、どうしても考えづらいですね。
 また、彼らは、漁師の仕事に戻ったのではなくて、たまたまこの時に漁をしてみただけだと考える人もいます。ちょうど牧師が休日に釣りに行くのと同じようなものだというのですね。 しかし、それは、どちらも違うのではないかと思います。  当時のユダヤの社会においては、「聖書を教えることで生計を立ててはいけない」という決まりがありました。聖書学者たちは、必ず手に職を持って、世俗の仕事で生計を立てながら、聖書を教えていたそうです。「使徒の働き」18章にありますが、パウロも、そのユダヤの慣習に合わせて、必要な時には天幕作りの仕事をしながら伝道していました。
 ですから、ペテロたちがイエス様から使命を与えられた後に漁師の仕事をしていたとしても不思議ではありません。彼らにとっては、むしろ当然のことだったでしょう。漁師の仕事をして生計を立てながらイエス様から受けた使命を果たしていこうとしていたのでしょう。
 私たちは「イエス様に遣わされる」と聞くと「今の仕事を辞めて、どこか別の場所に行って特別のことをする」というイメージを持ってしまいますね。もちろん、そうしなければならない時もあるでしょう。しかし、今いる場所で今の仕事を続けながら遣わされた者として生きていくことを意味している場合も多いのです。クリスチャンは皆、復活の主を信じ、主によって生かされている者たちです。しかし、皆が同じようになるかというと、そうではありません。みな違いますね。ある人は家庭の主婦として、ある人は会社員として、またある人は牧師として、働きや生かされる場所は皆違っていいのです。大切なのは、「私は、主に遣わされて今ここにいるのだ」という自覚を持って、イエス様の恵みを分かち合っていくことです。
 次に、なぜ弟子たちはガリラヤに戻っていたのかということについて考えてみましょう。二つのことが考えられると思います。
 一つは、ガリラヤが彼らのホームグラウンドだったということです。エルサレムで、イエス様の十字架と復活という素晴らしい経験をした弟子たちは、まず、自分たちの慣れ親しんだ場所にもどって素晴らしい知らせを伝えたいと思ったのかも知れません。あるいは、イエス様からどこに行くべきかの明確な指示をまだ受けていなかったので、待機するための場所としてガリラヤに戻っていたのかも知れません。
 もう一つの理由は、イエス様の指示があったからだと考えられます。マタイの福音書を見ると、イエス様は、最後の晩餐の後にオリーブ山に行かれたとき、弟子たちにこう言われました。「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」(26章32節)また、イエス様が復活された日に空の墓に行った女性たちに向かって御使いがこう告げました。「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。」(28章7節)つまり、イエス様は、よみがえってからガリラヤに行かれることを弟子たちに予告しておられたのです。それで、弟子たちは、ガリラヤに行き、その中の数人が漁に出かけたのかもしれません。
 
2 ガリラヤに現れたイエス様

@ガリラヤの意味

 では、どうしてイエス様は、わざわざエルサレムから遠く離れたガリラヤで弟子たちにご自身を現すご計画を立てられたのでしょうか。これには、大切な意味があるのではないかと思います。
 復活したイエス様は、まず、エルサレムで姿を現してくださいましたね。それは、ユダヤ最大の祭りの最中でした。エルサレムの町は特別な宗教的雰囲気に包まれ、祭りの熱気に満たされ、エルサレム全体が聖なる場所そのもののように感じられたはずです。ですから、弟子たちにすれば、このエルサレムの一週間は特別なものでした。日常から離れた非日常の一週間と言ってもいいかもしれません。
 皆さんも経験があると思いますが、たとえば、礼拝に出席して心から賛美をしているうちに、平安に満たされて感謝と喜びがあふれてくるということがありますね。でも、どうでしょう。家に帰った途端、仕事に追われ、食事の支度に追われ、現実の日常が待っているわけですね。つい愚痴は出るし、イライラもするわけです。日常の生活の場に戻ると、「あれ、主は、本当にここにおられるのかな?」と思わず疑ってしまうことがありませんか。
 しかし、今日の箇所で、イエス様は、エルサレムという特別な場所ではなく、祭りの熱狂の時でもなく、弟子たちのもっともなれ親しんだガリラヤ湖で、ごく普通の仕事をしているときに現れてくださったのです。つまり、イエス様は、日常の生活の場にご自分を現してくださったのです。
 
Aイエス様の指示

 その時の弟子たちは、どんな状態だったでしょうか。彼らは、漁に出かけたのですが、一晩中漁をしても一匹もとれませんでした。日常とはそういうものですね。大漁の時もあれば、一匹もとれない時もあるわけです。
 しかし、夜が明けそめたとき、イエス様が岸辺に立たれました。そして、「食べる物がありませんね」と声をかけられたのです。弟子たちが「ありません」と答えると、イエス様は「船の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」と言われました。弟子たちは、それがイエス様であることにまだ気づいていませんでしたが、すぐに言われた通りにしました。夜通し漁をしてもとれなかったので、駄目でもいいからやってみようと思ったのかもしれませんし、岸から魚の群れが船の右にいるのが見えているのかと思ったのかもしれませんね。すると、どうでしょう。網いっぱいにたくさんの魚が入っていたのです。
 それを見て、ヨハネはすぐに「主だ」と気づきました。なぜなら、弟子たちは、以前、同じような経験をしていたからです。 ルカの福音書5章に書かれていますが、イエス様は公の活動を開始されたばかりの頃、ガリラヤ湖のほとりに来られました。ちょうどそこではペテロたちが網を洗っていました。夜通し漁をしたのに一匹もとれず、がっかりしていたのです。
 イエス様は、そのペテロの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出してほしいと言われました。そして、岸に押し寄せてきた群衆に向かって舟の上から教え始められたのです。舟を説教台がわりにされたわけですから、ペテロは複雑だったでしょうね。
 イエス様は話し終えると、ペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。ペテロは、「プロの漁師である自分が夜通し働いても何一つとれなかったというのに、この人は何を言われるのだろう」と思ったでしょうね。しかし、イエス様の言われたとおりにやってみました。すると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになったのです。そして、このことがきっかけとなって、ペテロたちはイエス様の弟子として従っていくようになったのです。
 この出来事は、自分たちがイエス様の弟子となるきっかけとなった忘れることのできない出来事でした。そして、今再び、同じようなことが起こったのです。そこで、彼らは、すぐに、岸におられる方が主だとわかりました。ヨハネは、思わず「主です」と叫びましたし、ペテロは、わざわざ上着をまとって湖に飛び込んで岸まで泳いでいったのです。ペテロは、大変律儀でおもしろい男ですね。

B大漁の魚

 さて、ヨハネは、とれた魚が百五十三匹だったとわざわざ記しています。多くの学者が、この百五十三という数字に何か意味があるのではないかといろいろなことを考えました。学者というのは、いくら考えても答えが出ないようなことを一生懸命考えるものですね。
 たとえば、あの有名なアウグスチヌスという人は、「一から十七までを足し算すると百五十三になる。だから、十七という数字に特別な意味があるに違いない」と考えました。そして、「十は、十戒のことで、これは旧約聖書の律法を象徴している。そして、七は、イエス様の恵みが十分であることを表す数で、新約聖書を表している」と考えたのです。つまり、百五十三とは、律法(旧約聖書)と恵み(新約聖書)によってイエス・キリストのもとへ導かれるすべての人々を表わしているのだと解釈したわけですね。
 また、ヒエロニムスという人は、「このガリラヤ湖には百五十三種類の異なった魚がいたのだろう。百五十三匹捕れたのは、世界中のすべての民を表している」と解釈したのです。
 でも、聖書に正解が書いてあるわけではないので、百五十三という数字をいくら眺めても、わからないものはわからないのですよ。数字にこだわるのはやめましょうね。
 ただ、「イエス様によって、多くのものが集められる」とか「イエス様は豊かな恵みを与えてくださる」ということを表しているとは言えるでしょう。


C朝食の備え

 さて、弟子たちが陸地に上がったとき、そこに何が用意されていたでしょうか。
 イエス様は、彼らのために炭火をおこし、魚とパンを用意してくださっていたのです。そして、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と言われました。
 イエス様は、「わたしのために早く朝食の用意をしなさい」と言われたのではありませんでした。その逆です。イエス様ご自身がお腹をすかせた弟子たちのために朝食を用意してくださったのです。
 また、イエス様は「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい」と言われました。「足りなければ、今取ってきた魚も食べなさい」ということでしょうが、その魚も主がとらせてくださったものですね。
 弟子たちは、エルサレムで特別な経験をしてからガリラヤの日常生活に戻って、何だかエルサレムでの経験が遠い、普段の生活からかけ離れたもののように感じ始めていたかもしれません。しかし、イエス様は、彼らの最も身近な生活の場に来てくださり、朝食まで用意してくださったのです。
イエス様は、私たちの必要なものを備えてくださる方です。肉体の必要も心の必要も物質的な必要も備えてくださるお方です。私たちは、「主の祈り」の中で「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りますが、主は、私たちの日常の中にいてくださり、必要なものを備えてくださる方なのですね。

 弟子たちに多くの魚をとらせてくださり、朝食を用意してくださる方は、私たちとも共に歩み、私たちの必要を備えてくださいます。お互いの人生においても、この教会のためにも、主が必要なものを豊かに備えてくださらないはずがありませんね。

 さて、弟子たちは、いったんは漁師の仕事にもどりましたが、これからイエス様の復活の大切な目撃証言者として世界に出ていく必要がありました。
 次回は、この福音書の連続説教の最終回です。最後にあたって、弟子たちに与えられた新しい使命がどのようなものであり、また、私たち一人一人がイエス様に従っていくとはどういうことなのかをご一緒に考えていくことにしましょう。山キリスト教会