城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年四月二〇日             関根弘興牧師
                ヨハネ二一章一五節ー二五節

ヨハネの福音書連続説教67(最終回)

    「主の愛に応えて」

15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」23 そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。
  24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
 25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。(新改訳聖書)

長い間、ヨハネの福音書の連続説教を続けてきましたが、今日は最終回です。この福音書の学びの最後にあたって、私たちがこれからどう生きていくべきか、どのように進んでいくべきかということを考えていきましょう。また、今日は、イースターですね。復活されたイエス様が私たちと共に歩んでくださることを喜び祝いつつ礼拝をささげましょう。

 さて、このヨハネの福音書には、復活されたイエス様が弟子たちに姿を現された記事が三つ記されています。前回学んだように、初めの二回は、過越の祭りの間、弟子たちがエルサレムにいたときでした。そして、三回目は、エルサレムでなく、弟子たちが故郷であるガリラヤに戻り、漁をしている時でしたね。弟子たちは、夜通し網を打っていましたが何もとれませんでした。しかし、夜が明けそめたとき、イエス様が岸辺に立たれ、「舟の右側に網をおろしなさい」と言われ、弟子たちがその通りにすると、なんと大漁の魚がとれたのです。そればかりか、イエス様は、彼らのために炭火をおこし、朝食を用意されていました。なんとうるわしい光景でしょう。
 弟子たちは、エルサレムで復活したイエス様にお会いした後、ガリラヤに戻っていました。しばらくは、この場所で漁師をしながらイエス様の恵みを伝えていこうと思っていたのかもしれません。それが自分たちの使命だと考えていたかも知れません。 しかし、イエス様の計画は違いました。彼らは、イエス様の復活の大切な目撃証言者です。ですから、目撃証言者としての特別な使命を受けて全世界へ出て行く必要があったのです。そのことを象徴的に示しているのが今日の箇所です。

1 イエス様とペテロとの対話

@わたしを愛しますか

 さて、朝食を済ませると、イエス様はペテロに質問されました。「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか」と。これは、どういう意味でしょうか。他の弟子たちの愛とペテロの愛を比較なさっているのでしょうか。そうではないでしょう。イエス様は、誰が一番イエス様を愛しているか競わせようとなさるような方ではありませんね。では、どうしてイエス様は、このような質問をなさったのでしょうか。
 マルコの福音書14章に書かれていますが、イエス様が十字架につかれる前に弟子たちに向かって「あなたがたはみな、つまずきます」と言われたとき、ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言い張りました。ペテロは、「イエス様を愛することにかけては、自分が一番だ」と自負していたのでしょう。しかし、その後のペテロはどうだったでしょうか。実際にイエス様が逮捕された後、ペテロは「わたしはイエスなど知らない。関係ない」と三度も否んでしまったのです。ペテロは自分の弱さを思い知って、激しく泣きました。それ以来、ペテロは、自分に自信をなくしていたのでしょう。
 そんなペテロに、イエス様は、今日の箇所で「あなたは、他の者よりも自分が一番わたしを愛しているというのですか」とペテロを試すような質問をなさったのです。以前のペテロだったら、「はい。私は他の誰よりもあなたを愛しています」と自信満々に答えたでしょう。しかし、三度もイエス様を否んでしまったペテロは、もはや他の弟子と比べて自分を誇ることも、気負うこともできなくなっていました。ただ自分のありのままの心を主に見ていただくしかないという謙虚な態度で、「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えたのです。
ところが、イエス様は、また「あなたはわたしを愛しますか」と質問なさいました。そして、さらにもう一度、同じ質問を繰り返されたのです。ペテロは、自分が主を愛していることを信じていただけないのだろうかと思ったのでしょうね。三度目には、心を痛めて、「主よ、あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは私があなたを愛することを知っておいでになります」と答えました。
では、イエス様は、なぜ同じ質問を三度もなさったのでしょうか。ペテロの愛を疑っておられたからでしょうか。それとも、ペテロが三度もご自分を否定したことに対する非難や皮肉を込めて同じことを繰り返し質問なさったのでしょうか。いいえ、そうではありません。
 イエス様を三度も否定してしまったという出来事は、ペテロの生涯に大きな汚点となっていました。ペテロは、罪悪感にさいなまれ、それが大きな心の傷となっていたかもしれません。
 イエス様は、そんなペテロに三度同じ質問をして、「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と三度答えることができるようにしてくださいました。それによって、以前、三度も主を否んでしまったことを帳消しにして、傷が癒されるようになるためです。イエス様は、ペテロを癒し、リハビリを行ってくださったのです。
 ペテロは、今では、自分の弱さを自覚していました。イエス様を愛し従っていくことは自分の力ではできないことがわかっていました。それでも、自分の内にイエス様を愛するという心があること、そして、その心をイエス様がわかっていてくださるということを、三度の応答を通して確認することができたのです。ペテロの心の傷が回復するためには、主を愛して生きることを改めて確認することが必要だったのです。

Aわたしの羊を牧しなさい

 そして、イエス様は、さらにペテロに新しい使命をお与えになりました。イエス様は、三度もご自分を否んだペテロを見捨てずに癒してくださり、さらには、新しい使命に生きる人生をスタートすることが出来るようにしてくださったのです。
 イエス様が、ペテロに与えられた使命は、「わたしの羊を牧しなさい」というものでした。 それは、どういう意味でしょうか。「わたしの羊」というのは、イエス様を信じ従う人々のことですね。では、ペテロだけが全ての人を牧する使命を与えられたということなのでしょうか。カトリック教会では、ペテロが教会の頭であって、ローマ法王はそのペテロの権威を受け嗣いでいるということになっています。
 しかし、ヨハネの福音書10章でイエス様は、イエス様ご自身が羊たちを守り導く牧者であると言っておられます。
 また、ペテロも第一ペテロ2章25節でこう書いています。「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」つまり、イエス様こそ私たちの牧者であると言っているのです。
 ですから、ペテロも他の人々と同じイエス様の羊の一員です。今日の箇所でイエス様がペテロに「わたしの羊を牧しなさい」と言われたのは、「わたしを信じる人々を助ける働きをしなさい」「わたしを信じる人々の群れのリーダーとして働きなさい」ということなのですね。そして、ペテロだけでなく、他の使徒たちも同じ使命を与えられて全世界に出て行ったのです。
 ペテロだけでなく、私たちは皆、イエス様という羊飼いに導かれる羊として、一人一人にそれぞれの使命や役割が与えられています。パウロは、エペソ人への手紙4章、ローマ人への手紙12章、コリント人への手紙第一12章などで、そのことを説明しています。ある人は、使徒、預言者、伝道者、牧師や教師としての使命を与えられています。また奉仕する人、分け与える人、慈善を行う人、知恵や知識の言葉を語る人、いやしの賜物が与えられている人なと、それぞれがいろいろな働きを託されています。そして、それはすべて「キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」だというのです。
 「主を愛する」とは、自分自身がイエス様の恵みによって養われつつ、互いにイエス様の恵みを味わうことができるように助け合っていくことでもあります。私たちは、一人一人がキリストのからだの器官であり、それぞれの役割は違っていても、大切な体の一部として、栄養を受け、また栄養を運ぶ者として生かされているのです。
 今日の箇所では、ペテロが使命を与えられましたが、私たち一人一人も主から大切な使命を与えられていることを覚えていきましょう。

Bわたしに従いなさい

 さて、イエス様は、ペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われたあと、18節で不思議なことを言われました。「年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
 19節には、「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった」と説明されていますね。つまり、イエス様はペテロの死に方を予告なさったわけですが、「自分の手を伸ばし」という表現は、「腕を伸ばして十字架にはりつけにされる」ことを表すのによく使われた表現だそうです。実際、ペテロは後に、逆さに十字架につけられて殉教しました。
 つまり、イエス様は、ここで「ペテロは殉教の死を遂げるであろう」と予告なさったわけです。そして、そのことを話してから、「わたしに従いなさい」と言われたのです。
主を愛することは、主に信頼し従うことです。イエス様を愛してはいるけれど従いたくないというのは、矛盾です。
 結婚式の時には、「幸いにも、災いにも、富めるときも、貧しいときも、健やかなときも、病むときも、あなたを愛します」と誓約しますね。「幸いなとき、富めるとき、健やかなときは愛しますけど、収入が減ったり、病気になったり、災いが起こったら愛しません」というのでは、本当に愛しているとは言えませんね。
 イエス様は、「わたしは、あなたがどんな状態の時でもあなたを愛し続ける。貧しいときも困難なときも決して見捨てない」と約束してくださっています。私たちは、それに対して、なんと応答しますか。「調子のいいときだけ従っていきます」と言うのでしょうか。
 イエス様は、ペテロに、「あなたは殉教するだろう。それでもわたしを愛し従ってきなさい」と言われたわけです。イエス様は、誠実な方です。私たちの前に「おいしいにんじん」をぶら下げて、「ほら、従ってきたほうが得だぞ。いいことがあるぞ」と騙して従わせるようなことはなさらないのです。イエス様を信じて従っていくときに、全てが順調にいくとは限りません。困難があり、行き詰まることもあるでしょう。
 でも、聖書の中には、いろいろな約束が書かれています。
 たとえば、コリント人への手紙第一10章13節には、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」と書かれています。
 また、ローマ人への手紙8章28節には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と書かれています。
 ペテロの手紙第一1章5節ー7節には、こう書かれています。
「 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」
 その他にも、聖書の中には、たくさんの確かな約束が書かれています。
 私たちの生涯は、何が起こるかわかりません。明日のことはわからないのです。でも、明日のことを知っておられるイエス様がおられます。主がいつも共におられ、守り導き、必要を満たし、試練の中で成長させ、すべてのことを益としてくださり、永遠の栄光へと導いてくださるのです。ですから、どんなことが起ころうともイエス様を信頼し、歩んでいくことができるのです。「主よ。何が起ころうともあなたを愛し、信頼して、従っていきます」と告白していきましょう。

Cあなたは、わたしに従いなさい。

 さて、20節を読むと、「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た」とあります。このイエスが愛された弟子とは、ヨハネのことです。ペテロは、このヨハネのことが気になったようで、「主よ。この人はどうですか」と尋ねたのです。自分は、殉教するだろうと言われたわけですから、他の人はどうなるのか気になったわけです。
 すると、イエス様は、「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われました。つまり、イエス様は、「人にはそれぞれ異なった使命、道が与えられているのだ。大切なのは、他人と自分を比較することではなくて、自分が与えられた道を歩んでいくことだ」と言われたわけです。
 私たちは、他人が気になりますね。「あの人はあんなことをしているのに、私はしていない」とか、「私はこんなことをしているのに、あの人はしていない」とかすぐに比べるのです。
 けれども、一人一人違います。違っていて良いのです。イエス様に信頼して生きるとは、人を羨んだり比べたりする生き方から解放されて、「私は小さな者だけれど、与えられた使命がある。何かが出来る出来ないに関係なく、私の存在には意味があるのだ」と自覚して生きていくことです。どうぞ、そのことを心に刻み込んでくださいね。

2 聖書の証し

 さて、22節でイエス様がペテロにお答えになった言葉を、ヨハネは23節でわざわざもう一度繰り返して記録しています。イエス様は、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのですね。しかし、この言葉がいつの間にか誤解され、「ヨハネは死なない」という噂が立ったようです。ヨハネがこの福音書を書いたときには、他の使徒たちは皆、天に召されてしまっていました。そこで、ますますヨハネだけは死なないのだという噂が広まったのでしょう。
 しかし、その噂は早く正さなければなりませんでした。もしその噂が正されないうちにヨハネが死んでしまったら、「イエス様が『ヨハネは死なない』と言ったのは嘘だったのか。じゃあ、他のイエス様の言葉も信じられないぞ」ということになりかねませんからね。ですから、ヨハネは、ここで、イエス様の言われた言葉をきちんと記し、巷で流れている「ヨハネ不死説」を払拭しようとしたわけです。
 伝言ゲームというのがありますが、口で伝えることは、間違って伝えられることが多いですね。噂は、いつの間にかゆがめられて広がり、あたかもそれが真実であるかのように勘違いされていきます。ですから、正確に伝えるためには、きちんとした文書として書き記される必要があったのです。聖書は、イエス様の言葉やみわざを実際に見聞きした証言者たちが文書とし書き残したものですから、信頼することができるのです。
 24節にも、こう書かれていますね。「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。」この福音書は、イエス様と共に生活し、イエス様の復活の目撃者である弟子が書いたのであり、だから、ここに記されている証しは真実である、というのです。
実は、ギリシャ語では、「証人(あかしをする人)」と「殉教者」は同じ言葉で、「マルトュス」と言います。英語では「martyr」と訳される言葉なんですね。歴史の中でペテロも含め多く人々がイエス様の証人として殉教していきました。また、ヨハネのように聖書を書くことによってイエス様の証人としての役割を果たした人もいます。私たちは、殉教したり聖書を書くことはないでしょう。しかし、この福音書に記されているイエス様を信頼して生き、イエス様の恵みをあかししていくことを通して大切なイエス様の証人となることができるのです。

3 書き切れない多くのみわざ

 そして、25節に「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う」とあります。これは、ずいぶん誇張した表現に思えますね。しかし、ヨハネは、90年の生涯の大部分をイエス様の弟子として過ごしてきた中で、汲めども汲めども尽きることのないイエス様の恵みを味わってきたのでしょう。
 私たちは、イエス様の恵みを知り尽くすことは決してできません。イエス様の恵みは日ごとに新しくあふれるばかりに豊かだからです。歴史上のクリスチャン全員が生涯を通して味わう愛と恵みをすべて書きしるしたら、確かにこの世界に入りきらないかもしれませんね。
 イエス様は、今日、私たち一人一人に尋ねておられます。「あなたは、わたしを愛しますか」と。イエス様の愛に応え、イエス様が与えてくださる使命に生かされる者となっていきましょう。