城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年五月四日              関根弘興牧師
              第一テサロニケ一章五節ー一〇節

テサロニケ人への手紙連続説教2
     「主にならう者」

  5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。(新改訳聖書)


 先週から、テサロニケ人への手紙を学んでいますが、この手紙の宛先であるテサロニケの教会は、パウロたちがテサロニケに行ったときに生まれた教会です。パウロたちは、テサロニケでイエス様が救い主であることを宣べ伝え、信じる人々が起こされていきました。しかし、テサロニケに住むユダヤ人たちがパウロを捕らえようと暴動を起こしたため、パウロたちは、わずか三週間滞在しただけで、テサロニケを去らねばならなくなったのです。
 その後、パウロは、隣町のベレヤ、そして、アテネ、コリントへと移っていきましたが、テサロニケの若い教会の一人一人がどのように歩んでいるかということが大変気がかりでした。そこで、パウロは、アテネにいるとき、仲間のテモテに「テサロニケに行って、彼らの様子を知らせてほしい」と頼んだのです。しばらくして、パウロがコリントに滞在しているときに、テモテが戻ってきて、テサロニケ教会の様子を報告しました。その報告を聞いて、パウロはほっとしました。なぜなら、テサロニケのクリスチャンたちが信仰と希望と愛を柱として歩んでいるという報告だったからです。しかし、問題が何も無かったかわけではありませんでした。特に、終末(世の終わり)に関して極端なことを言う人たちが出てきたりして、若いテサロニケの教会がそうしたことに少し振り回されているということも聞いたのです。そこで、パウロは、彼らに教えと慰めと励ましの手紙を書くことにしたわけです。
 ところで、テモテがテサロニケ教会の報告を持って戻って来る前から、パウロのもとにテサロニケ教会のうわさが届いていたようです。「好事門を出でず悪事千里を行く」という言葉があります。良いことはなかなか世間に知られず、悪いことの評判はすぐに遠方まで広がってしまうという意味ですね。しかし、テサロニケ教会の場合は、ちょっと違っていたようです。8節でパウロは、「神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっている」と書いていますね。つまり、テサロニケの人々が神様に信頼していることが多く人たちに伝わっているというんですね。
 私もいろいろな教会の噂を聞くことがありますが、良い噂はなかなか入ってこないですね。教会に問題が起こった、分裂した、牧師が問題を起こして辞めた、そういうことは、すぐに伝わりますね。でも、テサロニケ教会の場合は、彼らの神様に信頼する態度が伝わっていったというのです。
 それは、テサロニケでクリスチャンになった人の中に町の実力者や有名人が多かったからでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。とくに実力者や有名人がいたわけではなかったようです。
 では、彼らがあらゆる所に伝わるほどの信仰を持つことができたのは、なぜでしょうか。

1 福音は力と聖霊と強い確信とによって語られた。

 5節にこう書かれていますね。「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」
 
@力

 パウロたちがイエス・キリストの福音を語る時、そこには、力がありました。
 誰しも力を求めていますね。権力を持ちたい。自分の思うようにできる力が欲しい。人は、いつの時代でも力を求めます。経済力、軍事力、支配力など、力というのは非常に魅力的な言葉ですね。しかし、ともすれば、力は高慢を呼び寄せます。もし力がただ自分勝手な欲望のためであったり、他者を押さえつけ自由を奪うためのものとして使われるなら、その力の結果は、破壊や虚しさです。しかし、謙遜をもたらす力というものもあるのです。その力は人間生活を豊かにしていくでしょう。
 5節でパウロが書いている「力」とは、何でしょうか。パウロは、「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、力による」と言っていますね。「福音」とは、「良き知らせ」です。イエス様こそ救い主であり、イエス様を信じる人は皆、神様との関係が回復されて新しいいのちに生かされるようになる、という知らせです。その福音を伝えるときに働いた力とは何でしょうか。パウロのリーダーとしての力でしょうか。または、パウロ自身が持っていた雄弁さや知恵などの才能や能力という意味なのでしょうか。そうではありません。ここに書かれている「力」とは、パウロ自身の持っている力ではなく、福音そのものの力なのです。
 パウロは、ローマ人への手紙1章16節でこう記しています。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
 パウロは、「福音は、神の力です」と言ったのです。ここで「力」と訳されているのは、ギリシャ語の「ドュナミス」という言葉です。
 スウェーデンの化学者ノーベルが、火薬の実験をしていました。そして、ある物とある物を化合したら大爆発を起こし、実験室がめちゃめちゃになってしまったのです。彼は真っ青になって実験室から飛び出し、「えらいものを発見してしまった。これが平和のために使われるならいいけれど、もし人を破壊するために用いられたら世界は破滅するだろう」と思いました。そして、彼は、この非常に破壊力のある火薬に、「力」という意味の「ドュナミス」というギリシャ語をとって「ダイナマイト」と名付けたのです。昔、芸術家の岡本太郎が「芸術は爆発だ!」と叫んだCMが話題になりましたが、パウロは、「福音は、単なる言葉だけではない。ダイナマイトだ」と記しているわけです。福音は、堅い岩も吹き飛ばすダイナマイトのようなものだというわけです。
 福音には力があります。この力は、人を生かす力です。赦され愛されていることを知らせる力です。私たちを束縛している様々な鎖を砕く力です。癒やしの力です。イエス・キリストの福音は、私たちがどうすることもできない罪の問題や死の問題を打ち破り、永遠に変わることのないいのちを与えることができるのです。

A聖霊

 パウロたちが福音を語っていくと、次々とクリスチャンが誕生していきましたが、パウロは、その背後に、聖霊なる神様の働きがあることを知っていました。
 先週、「クリスチャンは神に愛され選ばれた人たちだ」というお話しをしましたね。「選ばれた」と聞くと、選ばれる人と選ばれない人がいるのかと思ってしまいますが、そういう意味ではありません。神様は、すべての人を愛し、すべての人を永遠の救いに招いてくださっているのです。そして、その招きに応答した人たちがクリスチャンと呼ばれる人たちです。聖書は、その救いの招きに応じた一人一人の背後に、神様の選び、神様の働きかけがあるのだということを教えているのです。
 パウロも福音を語るとき、福音そのものの力とともに、その背後に聖霊なる神様が働いてくださっていることを確信していたのです。

B強い確信

 パウロは、「私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています」と記していますね。
 パウロは、イエス・キリストがまことの救い主であり、罪からの救い、永遠のいのちを与える方であることを強く確信していました。また、福音そのものに力があること、そして、背後に聖霊が働いてくださっていることも確信していました。
 だからこそ、福音を力強く宣べ伝えたのです。その結果、多くの人がクリスチャンになりましたが、それは、パウロの功績でしょうか。違いますね。パウロは、その働きために備えられた器にすぎません。パウロは、そのことを十分自覚していましたから、自分を誇ったり、教祖のように君臨することはありませんでした。かえって、自分は罪人のかしらであり、神様のあわれみによって福音を宣べ伝える使命を与えられたこと、神様の助けなしには何もできない弱い器であることをいつも告白していたのです。
 私たちも同じです。本来、滅びに向かって生きていた者が神様の愛によって救われ、神様のすばらしい恵みを運ぶ器とされたのです。自分が立派だからではなく、能力や才能があるからでもなく、ただ神様の恵みによって、私たちはイエス様のすばらしい福音を分かち合う器とされているのです。
 ですから、福音そのものに力があること、そして、背後に聖霊の豊かな働きがあることを確信しつつ歩んでいきましょう。

2 福音は喜びをもって受け入れられた

 それでは、パウロたちが語った福音をテサロニケの人たちはどのように受け取ったでしょうか。
6節に「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました」と書かれていますね。
 パウロたちがテサロニケに滞在していたのはわずか三週間でしたが、その間に迫害が起こりました。パウロたちが語る福音を聞いて信じた人たちにも苦難が襲ってきました。しかし、テサロニケの人たちは、「多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」たというのです。
 普通、苦難を経験すると喜びは消えてしまいますね。しかし、パウロたちが伝えたみことばは、苦難の中でも喜びをもって受け入れることができるものであり、また、苦難を堪え忍び、乗り越えることができるような希望をもたらすものだということなのです。
それから、9節には、テサロニケの人々が「偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるように」なったと書かれています。テサロニケの教会には、ユダヤ人もいれば、ギリシャ人もいました。以前は偶像を礼拝していた人々もいたようです。テサロニケの地方は、ギリシャ神話の神々が祭られていました。また、当時はローマに支配されていましたから、ローマ皇帝を崇拝することが強制されていました。
 テサロニケの人々はそのような環境の中で福音を聞き、天地を創造された神様を信じ、礼拝し、「イエス・キリストは主です」と告白する者となっていきました。これは勇気のいることですね。
 私たちが持ち得る最大の束縛は、宗教的束縛だといわれます。「キリスト教は好きだけと、クリスチャンにはならない」という人は多いですね。なぜなら、クリスチャンになると、今までの宗教的な関わりが変わってくるからです。すると、いろいろと問題が起こってくるかも知れません。人との軋轢が生じるかもしれません。また、万一、悪いことでも起きると、「勝手にクリスチャンになったから罰が当たったのだ」と言われたりする恐れもありますね。それで、クリスチャンになることを尻込みしてしまう人は多いのです。
 テサロニケでも、同じようなことを考えた人はたくさんいたはずです。でも、テサロニケの人たちは、異教の束縛とユダヤ人たちからの迫害という苦難の中にあって、神様がいつも一緒にいてくださることを信頼し、聖霊が与える喜びをもって、みことばを受け入れていったのです。苦難の中だからこそ、より一層、主の励ましと慰めが彼らの魂の奥深くに届けられていったのでしょう。
 苦難の中においても魂の喜び平安があるというのは、苦しみを感じないでへらへら笑っているという意味ではありません。私たちは、悩み、苦闘することがよくあります。しかし、そんな中でも、イエス様が私の人生の主であり、私の人生を握っていてくださる、最善に導いてくださる、そして、必ず脱出の道を備えてくださるということを確信しつつ歩んでいくときに、喜びと平安が内側から湧いてくるのです。苦難の中にも喜びがある人生、それが私たちに約束されている人生です。

3 福音のもたらす結果

@福音は人々を「主にならう者」へと変えていく

 テサロニケの人々は、福音を苦難の中で受け入れていきました。その結果、どのような者とされていったのでしょうか。
 まず、6節には、「私たちと主とにならう者になりました」と書かれていますね。そして、7節には「すべての信者の模範になった」と書かれています。
 確かに、彼らは、イエス様を救い主と信じたときから生活が変わっていきました。信仰、愛、希望が生まれ、イエス様を見上げながら生きる者となっていったのです。
 クリスチャンになっても特別に羽が生えるわけではありません。見た目はまったく変わりません。しかし、内側は新しく造られたものとされているのです。そして、そこから新しい行動が出てきます。新しい考え方が生まれてきます。祈りが生まれます。賛美が生まれます。生活は、徐々に変化していくのです。
 そして、そういうテサロニケ教会の人々の変化が、噂として近隣の地域に伝わっていったのですね。
 今日の説教題は、「主にならう者」ですね。クリスチャンの人生は、主イエス・キリストにならう者とされていく人生です。ならう者とは、まねをする者、見習う者という意味です。
 イエス様は、マタイ11章28節で、「わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます 」と言われました。イエス様から学ぶとは、イエス様をまねることです。そうすると、魂に安らぎが来るというのです。
 しかし、イエス様を知らなければ、まねしようがありませんね。だから、こうして聖書があるのです。特に福音書には、イエス様の語られたことやなされたことが記されています。イエス様は、恵みとまことに満ちておられる方です。私たちの罪のために身代わりにいのちを捨ててくださるほど愛に満ちた方です。私たちは、このイエス様から生き方を学び、手本としていくのです。
 テサロニケ教会のうわさは、その地方全体に広がっていきました。私たちも、大いに期待したいですね。「城山教会に来ている人を見ると、皆、普通の人だけれど、何か違うな。生きていることを喜び、辛い中にあっても、希望を失わないで生きているな。いったいあそこには何があるのだろう」、そんなうわさが広がるような教会になれたらいいですね。そのために、一人一人が聖人君主のようになる必要はありません。お互いの生活の中では、怒ることもあるし、愚痴も出るでしょう。落ち込んだり不安になることもありますよ。でも、だからこそ、「イエス様にならう者としてください」「私の中にイエス様の愛や誠実さが増し加わっていきますように」と祈っていくのです。
 実は、一日では実りません。しかし、初めは小さくても自然に少しずつ大きくなっていきます。ですから、他人と比べることをしないでください。自分は未熟なクリスチャンだと焦ってしまうことがありませんように。もちろん、反省することは必要ですが、必要以上に自分を責めることはしないでください。
 私たちは自分の力や努力で成長するのではありません。成長させてくださるのは神様です。そして、私たちは、神様の永遠のいのちが与えられているので、必ず成長することができます。 第二コリント3章18節にこう書かれています。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」私たちの内に宿っておられる聖霊が、私たちを主にならう者へと変えてくださるのです。ですから、「私は人生を主に委ねて生きて行きます。主が私を成長させてください」と告白していきましょう。「主よ、私の態度を、行動を、表情を、言葉をあなたの望まれるように作り替えていってください」。こんな祈りをもって、お互いの生活がますます主のすばらしさを表すものと変えられていきましょう。

A福音は人々を望みを持って生きている者へと変えていく

 福音によって、私たちは主にならう者へと変えられるだけでなく、希望をもって生きる者へとに変えられます。いつかは来る世の終わりにおいても失われることのない希望を持って生きることができるようになるのです。
10節には、テサロニケのクリスチャンたちが「神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになった」と書かれていますね。
 テサロニケ教会は、イエス様が世の終わりにもう一度天から来られること、つまり、再臨を待ち望んでいました。
 聖書は、私たちの人生にも、この世にも終わりがあることを教えています。誰もが肉体の死という個人的な終末を迎えますね。そして、この世もいつか終わりが来ます。そして、その終わりの時に、イエス様が再び来られて、私たちを天に引き上げてくださるのです。この地上ではいろいろな苦難があります。そして、すべてのものはいつかは朽ちていきます。しかし、最終的に、イエス様が永遠の天に引き上げてくださるというのです。
 人は望みを失ったら生きていけません。まさに、絶望は、死に至る病です。しかし、福音によって、私たちは、この地上の生涯において神の愛と導きがあるという希望をもって生きることができるだけでなく、肉体の死やこの世の終わりを越えた永遠の望みもしっかりと握りしめて生きていくことができるのです。

 お互いに神様に愛されている者、主にならう者として、決して失われることのない望みを持ちつつ、今週も歩んでいきましょう。