城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年六月八日              関根弘興牧師
             第一テサロニケ二章一三節ー二〇節

テサロニケ人への手紙連続説教4
   「内に働く神のことば」

13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。17 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので──といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、──なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。(新改訳聖書)

イエス様は、あるときこんなたとえ話をなさいました。
 種を蒔く人が種蒔きに出かけました。種を蒔くと、ある種は、道ばたに落ちました。すると烏がきて、食べてしまいました。ある種は、岩地に落ちました。すぐに芽を出しましたが、土が深くなかったので、日が上ると、根がないためにすぐに枯れてしまいました。ある種は、いばらの中に落ちたました。すると、いばらにふさがれて成長することができませんでした。しかし良い地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の身を結びました。 イエス様は、このたとえ話の意味を弟子たちに説明してくださいました。種とは、神様のことばのことです。神様のことばを聞くと、人はいろいろな反応をするわけですね。道ばたに蒔かれた種がすぐに鳥に食べられてしまうというのは、せっかく聞いた神様のことばに関心を持たず、すぐに忘れてしまう人のことを示しています。また、岩地に蒔かれるとは、神のことばを聞いてすぐに喜んで受け入れるけれど、自分の内にしっかりと根を張ることをしないので、ちょっと困難や問題が起こると、すぐにつまずいてしまい、「信仰なんて持っていても何にもならない」と言って去っていってしまう人のことを表しています。また、いばらの中に蒔かれるとは、神のことばを聞くけれど、この世の心づかいや誘惑に負けて、実を結ぶことができない人のことです。そして、良い地に蒔かれるとは、神のことばを聞いて深く受け入れ、そのことばに信頼して歩む人のことで、そういう人は、多くの実を結ぶことができるというのです。
 同じことばが語られても、受け入れる人の心によって、まったく違う結果になるわけですね。

1 神のことばとして受け入れた人たち

 さて、パウロがテサロニケに行って福音を語ったとき、テサロニケの人々は、そのことばをどのように受け入れたでしょうか。13節をご覧ください。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」
 テサロニケの人たちは、パウロが語る使信のことばを、神様が与えてくださったことばとして受け入れたのです。そして、その神様のことばは、「信じているあなたがたのうちに働いている」と書かれていますね。
 リビングバイブルでは、この箇所は、こう訳されています。「あなたがたはそのことばを、ただ人間の口から出たものと見なさず、神様のことばとして聞いてくれたからです。これは事実、神様のことばであって、信じる者の生活を一変させるのです」と。つまり、神のことばは、信じる者の生活を大きく変えていくものだというのです。
 「神のことばとして受け入れる」というのは、ただ聞いたことを完全に頭で理解するという意味ではありません。もちろん、知的に理解しようとすることも大切ですが、もっと大切なのは、聞いたことばを、神様が一人一人に与えてくださった約束のことばであると信じ、そのことばに信頼して生きることなのです。そして、その神様のことばには、私たちの生活を一変させる力があるというのです。
私たちの行動を規定しているのは、私たちの内側にある「ことば」です。ギリシャ語では「ロゴス」といいます。私たちの人生観や世界観や価値観を定めているのは、この内に持っている「ロゴス=ことば」なのです。
 どういうことかと言いますと、私たちは、生まれた直後から様々な語りかけを受けながら成長してきました。ところが、残念なことに、人間の語りかけられる言葉の80%は否定的な言葉だそうです。本当かなと思いますが、皆さん、どうでしょうね。子供の頃、どんなことを語りかけられていましたか。また、自分の子供にどんな語りかけをしていますか。「ぐずぐずしていなで、もっと早くしなさい」「遊んでばかりいないで、勉強しなさい」「早く片付けなさい」「まったくお父さんに似て、しょうがないわね」・・・確かに、結構、否定的な言葉が多いのではないでしょうか。社会に出ても、出来て当たり前、出来なければ非難され、失敗すれば駄目な奴だと言われ、努力が足りない、根性がない、と批判されることも多いですね。また、逆に、「あなたは他の人より偉い」「あなたが悪いんじゃない」「何をしてもゆるされるんだ」などとおだてられ、ちやほやされて育った人もいるかもしれません。
 私たちは、肯定的にしろ、否定的にしろ、そうしたたくさんの語りかけや評価の積み重ねによって、価値観や人生観を構築していくわけです。そうして、自分は駄目な人間だとか愛される価値がないとか思い込んだり、逆に、自分は人より勝っていると高慢になったり自信過剰になってしまうこともあるのです。
いろいろな「ことば」を心に受け入れていく中で、その「ことば」が私たちの人生を規定し、ある時には束縛し、自由を失わせ、本来の自分らしさ奪ってしまうこともあるわけですね。
 ですから、どのようなことばを受け入れ、どのようなことばに信頼して生きるかということは、私たちの人生にとって大切な問題なのです。
 聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」と教えています。たいへん意味の深い言葉ですね。 人が本来の自分らしく生きていくためには、衣食住だけがそろっているだけではだめだと聖書は教えています。また、自分勝手に培ってきた「ことば」や人から言われた「ことば」の上に人生を築いていこうとしても、それは、もろく、虚しく、本来のあるべき姿からかけ離れたものだと教えているのです。
 人が人として本来あるべき姿で「生きる」ことを求めるなら、まず、変わることのないことば、「神のことば」を受け入れ、その「ことば」によって生きていくことが必要だと聖書は教えているのです。
パウロは、13節で「神のことばは信じているあなたがたの内に働いている」と記していますね。神様の「ことば」は、信じる私たちの内で働き、私たちを生かし、様々な束縛から解放し、新しく変え続けていくのです。
 それではテサロニケ教会の人たちが聞き、受けいれた「神のことば」とは、どのようなものだったでしょうか。それは、「使徒の働き」17章2節ー3節に短く記されています。「パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、『私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです』と言った。」
 パウロがテサロニケ教会の人々に語った神のことばとは、イエス・キリストのことでした。イエス様が旧約聖書に預言されていたとおりに苦しみを受け、十字架につけられ、葬られ、三日の後に復活し、今も生きておられること、そして、このイエス様こそまことの救い主(キリスト)であることを語ったのです。イエス様は、私たちの代わりに十字架についてくださるほどの大きな愛を示し、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださる方なのだ、とパウロは語りました。また、イエス様は、復活して今も生きておられ、私たちといつも共に歩んでくださるのだと語りました。このパウロの言葉を、テサロニケ教会の人たちは、神のことばとして信頼し、受け入れていったのです。
パウロが語った「神のことば」とは、イエス様が救い主であるということを伝えることばでした。また、それとともに、イエス様ご自身が「神のことば」なる方であることを聖書は教えています。ヨハネの福音書1章1節と14節にこう書かれています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」つまり、イエス様は、神のことばそのものなる方なのです。
 ですから、神のことばを受け入れ、信頼して生きるということは、イエス様を受け入れ、イエス様に信頼して生きるということです。クリスチャンになるとは、イエス様を救い主として受け入れることです。それは、今まで自分の人生を規定していたことばが、神のことばであるイエス・キリストに入れ替わることなんです。
 繰り返しますが、私たちの人生を左右しているのは、私たちの内にあることばです。もし、イエス・キリスト、すなわち神のことばを私たちの心の中心に据えるなら、そのしっかりとした土台の上に新しい人生を築いていくことができるのです。その時、今までの価値観は変わっていくことでしょう。「自分の力で生きている」という視点から「神様に生かされている」という視点に変えられていくでしょう。人生の見方も変わっていくでしょう。刹那的な虚しい生き方ではなく、永遠の希望も持つ生き方が始まるでしょう。自分も他の人も大切な存在であることを理解するようになるでしょう。そして、神様への感謝と賛美をささげることが自然な姿になっていくでしょう。苦しみや困難がある時に希望をもって耐えることができるようになるでしょう。また、互いに助け合い、祈り合う関係が生まれてくるでしょう。「神のことば」であるイエス・キリストを受け入れるとき、人生は一変していくのです。
 それがテサロニケ教会の人たちの姿でもありました。

2 神のことばとして受け入れなかった人たち

 しかし、パウロが語ることばを受け入れないどころか、反発し、攻撃してくる人々もいました。彼らは、パウロたちを迫害し、亡き者にしようとまでしたのです。その人々の様子が、14節から16節に書かれていますね。
 15節をご覧ください。「ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています」とありますね。
イエス様を信じて人生を一変させた人たちもいれば、逆に、今の状態を変えたくないと頑なに神のことばを排除しようとする人たちもいたのです。
 福音が広がっていくとき、最初に強硬に反対したのは、地中海の沿岸の街々に住んでいたユダヤ人たちでした。その後、福音がますます広がっていくと、今度は巨大なローマ帝国が武器も財産もないクリスチャンたちを迫害していったのです。彼らの発想は共通していました。目の前にいる者たちを取り除けば、問題は解決すると考えていたのです。しかし、どんなにクリスチャンを迫害し、パウロやペテロたちを捕らえも、福音そのものを無効にすることはできません。
 ゴールデンウィークやお盆になると高速道路が渋滞しますね。この辺ですと、伊勢原バス停あたりがよく渋滞しますね。「東名高速は、伊勢原バス停を先頭に二〇キロの渋滞が発生しています」という交通情報がよく流れます。どうして伊勢原バス停を先頭に渋滞が発生するでしょうね。
 その時、「いっそのこと伊勢原バス停を取り除いてしまえば、渋滞は解消するのではないか」と考えて、バス停を取り除いたとしたら、渋滞は解消するでしょうか? いいえ、決して解消しませんね。当たり前です。そんなことをするのは滑稽ですね。 しかし、クリスチャンを迫害する人々は、これと同じようなことを繰り返し行ってきたのです。パウロを追い出しさえすれば、亡き者にしさえすれば、福音そのものも消滅させることができると考えたのです。これは愚かなことですね。そのようにして無駄なエネルギーを使う人生は、自らの罪を満たし、神の怒りを招くだけだとパウロは彼らを非難しています。どんな迫害も攻撃も、神様のことば、福音を無効にすることなど決して出来ないのです。
 ただ、当時のクリスチャンたちが、大きな痛み、苦難を経験したことは事実です。その時、彼らはどうしたでしょうか。

3 私たちの誉れ、喜び

 テサロニケ教会は、次から次へと嫌がらせや困難を経験しました。動揺する者も多くいたでしょう。しかし、彼らは、投げやりになって、「もうどうでもいい、キリストを捨ててしまおう」とは言いませんでした。困難の中でも、失われることのない希望を握りしめて歩んでいったのです。
パウロは、第一テサロニケ3章4節で「あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです」と書いています。
 クリスチャン生活にも苦難や問題が起こります。イエス様の福音は、良いことずくめの人生を保証するものではありません。パウロは、イエス様の福音を語っていくときに、またイエス様に信頼し生きていこうとするときに、困難や苦難もあることを教えています。
 でも、パウロは、同時に、ローマ8章28節で、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とも書いています。
 大切なのは、様々な苦難があっても、神様のことばが私たちの内に働き、萎えた心に勇気を与え、生きる希望を与え、立ち上がらせてくださるということです。信仰を持っても持たなくても、人生には、同じような苦難や問題や悩みがあります。しかし、神のことばを信頼する時に、問題に対する心構えや対処の仕方が変わってくるのです。
 ヤコブは、ヤコブの手紙1章2節で、こう言っています。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。なぜなら、その試練が忍耐を生み出し、それによって、成長することができるのだから」と。
 また、パウロは、第一コリント10章13節にこう書いています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」神様が試練とともに脱出の道をも備えてくださる、それをパウロは確信していました。
 旧約聖書に登場する預言者ハバククは、「主よ、わたしが助けを求めているのに、あなたはいつまで聞いてくださらないのですか! どうして救ってくださらないのですか!」と神様に自分の正直な思いをぶつけていきました。しかし、ハバクク書の最後に彼はこう語っています。「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高いところを歩ませる。」
 私たちは、自分の信仰が立派だから、自分で頑張ったから苦難を乗り越えることができるのではありません。私たちは弱いけれど、イエス様がいつも共にいて、支え、助け、導いてくださり、聖書の約束のことばを語りかけてくださるので、前を向いて生きていくことができるのです。
 テサロニケ教会の人たちも、そのイエス様に信頼して、神様の約束のことばを信頼して生きていきました。そして、そのテサロニケ教会の人たちに対して、パウロは、19節ー20節の言葉を贈っています。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」
 今日、もう一度、一人一人が神のことばに生かされていることを覚え、お互いの存在がお互いの誉れとなり喜びとなっていく、そんな教会の一員であることを感謝しつつ歩んでいきましょう。