城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年六月一五日             関根弘興牧師
             第一テサロニケ三章一節ー一三節

テサロニケ人への手紙連続説教5
   「パウロの生きがい」

1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。9 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。(新改訳聖書)

テサロニケの教会は、パウロたちがテサロニケに行って三週間滞在している間にクリスチャンになった人たちによって形作られた教会です。パウロたちがわずか三週間しか滞在できなかったのは、テサロニケに住むユダヤ人たちに迫害されたからです。迫害といっても、その理由が「ねたみ」だったということが「使徒の働き」に記されています。ねたみにかられたユダヤ人たちが町のならず者をかり集め、暴動を起こしたのです。そして、パウロたちが滞在していたヤソンという人の家を襲い、パウロたちを人々の前に引き出そうと捜したのですね。でも、見つけることができなかったので、代わりにヤソンたちを捕らえて町の役人たちのところに連れていき、こう訴えました。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしているのです。」町の人々や役人達は、それを聞いて不安に陥りました。ローマ皇帝カイザルではない別の王がいると主張している者たちを野放しにしておいたら、自分たちもローマに対する反逆者と思われるかもしれないからです。
 それで、パウロたちは、わずか三週間滞在しただけで、テサロニケを立ち去らなければならなくなってしまったのです。そして、隣町のベレヤにいきました。ベレヤでは、多くの人がクリスチャンになったのですが、その噂を聞いたテサロニケのユダヤ人たちが、執拗にベレヤまでやって来て、またパウロたちを迫害したのです。
 そこで、パウロは、やむなく、同労者であったシラスとテモテをあとに残して、自分ひとりアテネに逃れて行きました。そして、アテネでシラスとテモテが来るのを待っていたのです。
 パウロは、アテネにいる間、テサロニケの教会のことを考えると大変不安になったことでしょう。なぜなら、パウロがテサロニケにいたのはたった三週間でした。皆さん、たった三週間でいったいどこまで伝えられるでしょう。パウロは、もっと一緒に聖書を学びたい、共に生活しながら信仰を分かち合いたいと思っていたはずです。しかし、ユダヤ人たちの激しい迫害のためにテサロニケを離れざるを得なくなってしまいました。ですから、パウロは、「テサロニケのクリスチャンになったばかりの人々は大丈夫だろうか。生まれたばかりの教会がユダヤ人たちに迫害されていないだろうか。あのとき信じたあの人は、教会の群れに加わっているだろうか・」などと考えれば考えるほど心配であったのです。
 そんな時に、ベレヤに踏みとどまっていたテモテたちがアテネに到着しました。そこで、パウロはテモテに「テサロニケにもう一度戻って、教会の様子を見てきてほしい」と頼んだのです。
 1節ー3節に、こう書かれていますね。「そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。」
 テモテがテサロニケに向かった後、パウロは、アテネからコリントに移って伝道の働きを始めました。そのコリントにいたパウロのもとに、テモテがテサロニケから戻ってきて、テサロニケ教会の状況を報告したのです。それは、パウロにとって喜びの報告でした。6節ー7節にこう書いてあります。「ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。」
 テサロニケの人々がしっかりと信仰を保って歩んでいるという報告を聞いて、パウロは、どれほど安堵したことでしょう。パウロは、それによって大きな慰めを受けたのです。
 さて、今日は、この箇所から、教会のお互いの交わりが持つ意味について考えていきたいと思います。

1 「私たちは今、生きがいがあります」

 パウロは、苦難の中にあるテサロニケ教会が信仰を失うことなく愛と希望に根ざしてしっかりと歩んでいるという報告を聞き、「私たちは、今、生きがいがあります」と8節に記しています。テサロニケ教会の人々の姿が伝道者パウロの生きがいとなっていったのですね。
 ところで、この8節の言葉を他の翻訳された聖書で読んでみますと、ちょっとニュアンスが違います。
 新共同訳聖書では「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです」と訳されています。口語訳聖書では「なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである」と訳されています。
 聖書の中のキーワードの一つは、「生きる」ということばです。
 先週、ご一緒に学びましたように、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」と聖書は教えています。人が本来の自分らしく、本来あるべき姿で「生きる」ためには、衣食住だけがそろっているだけではだめなのであって、まず、決して変わることのない「神のことば」を受け入れ、その「ことば」によって生きていくことが必要だと教えているのです。そして、イエス・キリストこそ「神のことば」そのものなる方であり、このイエス様を受け入れることによって私たちは「生きる」ことができるというのです。だから、イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と約束なさいました。
 今日は、洗礼式がありますが、ローマ人への手紙6章8節には、「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」とあります。洗礼とは、水に体を浸すことによって、古い自分が十字架のイエス様と共に死に、水から上がることによって、復活のイエス様とともに新しく生きる生涯が始まった、ということを記念する式です。ですから、洗礼は、信仰のスタートであり、イエス様と共に「永遠を生きる」ことを始めた出発の式なわけです。
 イエス様と結び付くことによって生きる、これは、イエス様と私たちとの縦の関係です。
 それとともに、横の関係もあります。パウロは、「あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、私たちは生きるのだ」と記していますね。つまり、「あなたがたの信仰による歩みは、私と無関係なのではなく、私が生きるとことにつながっているのですよ」と記しているのです。新改訳聖書では、それを「生きがい」と訳しているのです。
今日、私たちは、こういう視点をもって互いに歩んでいきたいですね。「あなたがイエス様の恵みを受けながら歩んでいることが、私の喜び、私の生きがい、私が生きていることをさらに実感することにつながっていくんです」という思いをお互いに持つということです。これは、ユダヤ人たちがパウロたちを迫害した原因となった「ねたみ」とはまったく正反対の心です。お互いがお互いの喜びとなり、生きがいとなっていくのです。お互いの成長がお互いの喜びとなっていくのです。
 皆さん、信仰生活は、一匹狼(一匹羊)ではなかなか成長することが出来ません。教会の特徴は、お互いが安否を問い、互いに励まし、祈り、歩みつつ、生きていてよかったと実感することが出来るところにあるのです。
あの偉大な伝道者のパウロの生きがいとなったのは、テサロニケのクリスチャンになって間もない名の知れぬ人々だったのですね。そして、テサロニケのクリスチャンたちにとっては、パウロの働きを知ることが喜びだったのです。

2 主にある交わりの中で、苦難を乗り越える

 何回も言いますが、クリスチャンになっても苦難や問題がなくなるわけではありません。イエス様の福音は、良いことずくめ人生を保証しているのではありません。そのことをパウロは、テサロニケ教会に対して正直に語りました。4節に「あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになると、前もって言っておいたのですが」とあるように、パウロは、イエス様の素晴らしい福音を語るとともに、困難や苦難もあることを教えたのです。
 旧約聖書に登場するアブラハム、モーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤもそうでした。問題や苦難を経験しない人は、ひとりもいませんでした。
 私たちは、信仰を持っても持たなくても、同じように苦難や問題や悩みを経験します。しかし、信仰があるかないかでは、問題への対処の仕方が変わります。苦難に向かう心構えが違うのです。
 テサロニケ教会には、次から次へと嫌がらせや困難が起こってきました。戸惑ったでしょうし、「どうして?」という疑問が何度も生じたことでしょう。動揺する者も多くいたはずです。しかし、彼らは投げやりになって、「もうどうでもいいや、キリストを捨ててしまおう!」とは言いませんでした。彼らは、そんな中でも失われることのない希望を握りしめていったのです。
 そして、それができたのは、一人で頑張ったからではありません。互いに支え合い、慰め合い、励まし合い、祈り合うことによって、苦難に立ち向かうことができたのです。
 旧約聖書の箴言17章17節には「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」と記されています。
 お互い、いろいろな労苦がありますね。会社のこと、家庭のこと、信仰を理解してもらえないこともあるでしょう。もちろん、自分に非があるとはっきりとわかっている場合は、反省し、勇気を持って謝罪し、責任を取るなど、なすべきことをする必要がありますが、人生に労苦は付きものです。そういうとき、自分の信仰が弱いからだとか、自分が駄目だからだ、と自分を責めることはやめましょう。
 私たちは、神様が私たちを訓練し成長させるために試練を与えてくださること、また、私たちが耐えられないような試練はお与えにならないこと、また、試練を乗り越えることができるように脱出の道を備えてくださっていることを知っています。 また、教会で、互いに助け合い、励まし合う仲間が与えられているのです。教会はキリストのからだであって、キリストがかしらであり、私たちは、それぞれの器官です。エペソ人への手紙4章16節には、こう書かれています。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」
 ただし、私たちは、教会のどの人とも同じ強さで結びつくことはできませんね。よく話をする人もいれば、そうでない人もいます。気の合う人もいれば、そうでない人もいます。でも、神様が必要に応じてそれぞれを結びつけてくださるのです。そして、その結び目が組み合わされて、ともに成長し、愛のうちキリストのからだとして建てられていくのです。ですから、教会の交わりを通して、身近な仲間と分かち合い、祈り合い、励まし合いつつ歩んでいきましょう。また、関わりが濃かろうと薄かろうと、教会のすべての人々のために祝福を心から祈り求める兄弟姉妹とされていきましょう。

3 主にあって堅く立つ人生

 さて、私たちは教会の交わり中で互いに励まし合い、祈り合い、苦しみを分かち合いながら歩んでいく者とされていますが、それと共に、それぞれが自分の置かれた場所で堅く立って生活するために、大切なキーワードがあります。それは、8節にある「主にあって」ということばです。
 私たちは、自分の人生を確立させるためにいろいろなことを考えます。ともすると、自分の成功、自分の業績、自分の知恵、自分の知識というものの上に自分を確立していこうとします。もちろん、社会の大切な働きのために自分の技術や業績を求めることは決して悪いことではありません。しかし、人が人として「永遠を見つめて堅く立って生きる」ことが、この世の成功や自己実現によってもたらされることはないのです。
 人は、「主によって」ということ抜きに、確かな人生を得ることはできません。私たちに救いと永遠のいのちを与えることのできるのは、主イエス・キリストだけです。
 どんなにすばらしい建物でも、土台がしっかりしていなければ、傾き、壊れてしまいますね。せっかく努力して素晴らしい建物を建てても、土台が崩れれば水の泡です。先日、横浜のマンションが傾いて、住民が避難したというニュースが流れていました。原因は、地中に埋める杭が岩盤に到達していなかったので、建物が傾いてしまったというわけですね。結局、土台がしっかり築かれていなかったために、その上に建てた建物は全く役に立たなくなってしまったわけです。
 皆さん、人生も同じです。土台がしっかりしていれば、その上に堅く立つこと出来るのです。
 パウロは、コリント教会宛ての手紙の中で、私たちの人生の土台はイエス・キリストだと書いています。私たちを罪から解放するために十字架で死なれ、私たちにいのちを与えるために復活されたイエス様というに土台の上に人生を築いていく必要があるというのです。
 「主にあって」「イエス様にあって」と言う言葉を抜いてしまって、自分の力だけで一生懸命を人生を築いていこうとするのは、しっかりした土台を作らずに建物を建てるようなものです。そういう人生は、脆く、崩れやすいのです。
 パウロは、「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」と語りました。イエス様を信頼し、イエス様を人生の土台として歩んでいく人が一人でも多く起こされることがパウロの喜びでした。そして、一人一人が、いろいろな誘惑や困難の中でも、主にあってしっかりとした土台の上に堅く立ち続けていくことが出来るようにと願い、祈っています。
 パウロは、テサロニケ教会の人たちを励ますために、何としても訪問したいという願いを持ち続けていましたが、離れているときも、いつもテサロニケ教会のために祈り続けていました。その祈りの内容が12節、13節に書かれています。私たちも、この祈りをお互いのために祈っていきましょう。
「また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」