城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年六月二二日             関根弘興牧師
              第一テサロニケ四章一節ー八節

テサロニケ人への手紙連続説教6
   「神のみこころ」

 1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6 また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。7 神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。(新改訳聖書)

私たちは、自分自身の行動(行い)を振り返ってみると、その背後にいくつかの動機があることがわかります。
 その一つは、自分を喜ばせたい、という動機です。これは、人間にとって最も自然な思いですね。自分を満足させたい、気分良く生活したい、自分自身のことをまず最初に考えること、自分にとっての最善を考えることは、決して悪いことではありません。しかし、それが、エスカレートしていくと、ただの自己満足で終わってしまったり、自分さえよければよいのだ、という自己中心的な態度が生まれてしまうこともありますね。
 ですから、パウロはローマ人への手紙の15章1節、2節でこのように記しています。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」
 人とは不思議な生き物だと思います。なぜなら、自分を喜ばせるためだけに一生懸命になっても、本当の満足を得ることができないからです。人は、他の人の最善を願ったり、他の人の喜びのためにも自分が生かされているのだと分かってくると、人生がさらに豊かなものになっていくのです。
 しかし、人を喜ばせたいという動機にも、落とし穴があります。人のために何かをすることは大切ですが、それがだんだんエスカレートしてしまうと、他の人を喜ばせようとするあまり、自分自身を見失ってしまうことがあります。相手の要求に何でも応えようとして、自分の限界以上の無理をして、最後には疲れきってしまうということもあるのです。
 また、時には、相手が必要としていないのに与えようとするただの「おせっかい」になったり、相手のためといいながら、何かをしてあげることによって自分を満足させようとしているだけの場合もあるわけです。
 先週は、3章8節の「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」という箇所について考えましたね。「あなたが主に信頼して生きることは、私が生きることにつながっている。私が主に信頼して生きることは、あなたが生きることにつながっている」という関わりが教会の交わりの基本だというお話をしました。
 教会の交わりというものは、決して一方通行ではありません。「私は助ける人、あなたは助けられる人」「私は喜びを与える人、あなたはそれを受ける人」というような一方通行ではなく、互いに助け、助けられ、与え、与えられるという相互の関わりが大切なのです。
 ある本に、次のようなことが書かれていました。「本当の自立とは、何でも自分ひとりで出来るようになることではなく、必要な時には他の人に援助を求めたり、また、他の人に援助したりする関係が築けるようになることだ」と。つまり、時に応じて、助けたり、助けられたりできる関係、生きていく上で、お互いがお互いを支え合う関係を築くことだというわけですね。
では、そのような聖書が教えている関係は、どのようにしたら築いていくことができるのでしょうか。
 パウロは、4章1節でこのように記しています。「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」
パウロは、ここで、神様を喜ばすべき歩みをしていくことが大切であることを教えていますね。
 「神様を喜ばせる」というと、どうも人間の方が神様より上で、神様を喜ばせてあげようと、神様を上から目線で見ているような表現にも聞こえますね。でも、そうではありません。「神様を喜ばせる」とは、「神様に喜ばれる生き方をする」と言い換えてもいいと思います。神様に喜ばれる生き方をする、それが、結果的に、人を喜ばせ、自らも喜ぶことのできる人生の秘訣であるということを聖書は教えているのです。
 それでは「神様を喜ばせる生き方」「神様に喜ばれる生き方」とは、どのようなものでしょうか。

1 神様を信頼して生きる

 まず、ヘブル人への手紙11章6節に、「信仰がなくては神に喜ばれることはできません」と書かれています。ですから、当然のことですが、信仰が、つまり、神様を信頼することなしに、神様を喜ばせることはできないのですね。
 たとえば、私の息子がこう言ったらどうでしょう。「お父さん、私はあなたを決して信頼しません。あなたと何の関係も持ちたくありません。でも、私は隣の太郎君を喜ばせようと思います。ですから、お小遣いをください。」これは、おかしなことですね。愛する息子から「あなたを信頼しない」と言われたら、ショックですし、淋しいですね。逆に、「いつもお父さんを信頼しています」と言われたら、大きな喜びを感じますね。神様も同じです。神様は、何よりも私たちが神様を心から信頼することを喜んでくださるのです。神様を信頼して生きること、それが神様を喜ばせる生き方の前提なのです。 
 人間関係でも、「私は、誰が何と言おうがあなたを信じますよ」と言われたら、勇気が湧いてきますね。困難を乗り越えていけるようになります。信頼されているというのは、大きな喜び、励ましになるのです。
 聖書の神様は、私たちに対して、何と言っておられるでしょうか。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43・4)と言われるのです。私たちが神様を信頼している以上に、まず、神様の方から私たちを愛し、信頼し、期待してくださっているのです。ですから、その神様の愛と信頼に応えて、「私も、主よ、あなたを信頼します」と応答していくことが、神様に喜ばれる姿なのです。

2 聖くなる

 また、「神様を喜ばせる」とは、別の言葉で言えば、神様のみこころにかなう生き方をするということです。
 イエス様の誕生の夜、羊飼いたちに現れた御使いたちがこう賛美しましたね。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上には平和が、みこころにかなう人々にあるように。」これは、クリスマスの時に語られる大切なメッセージですね。神様のみこころにかなう生き方の中にこそ、平和が、平安があるというのです。
 では、「神のみこころ」とは何でしょうか。聖書は、何と言っているのでしょうか。3節をご覧ください。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」と書いてありますね。「聖くなること」、これが神様のみこころだと教えているのです。
 残念なことに、この「聖くなる」という言葉を聞いて、何か不自由な、禁欲的な、聖人君主のような、人間離れした生き方を強いられるような錯覚を持つ人が大勢いますね。そして、「それは無理な注文だ。私には、聖く正しい立派な生き方なんてとてもできない」と考えてしまうのです。
 でも、それは、誤解です。今日は、ぜひこの「聖くなる」という言葉についての誤解を解いておきたいんですね。
 今までもたびたびご説明してきましたが、「聖くなる」という言葉の基本的な意味は、「専用品になる」ということです。ですから、「聖くなる」とは、「自分が神様の専用品であるという自覚を持って人生を歩む」ということなんです。それが、神様のみこころだというわけです。
ヨハネの福音書1章12節-13節には、こう書かれています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 つまり、イエス様を信じ、受け入れた一人一人は、神の子どもとされているというのです。イエス様が、私たちの罪をすべて背負って十字架にかかり、罪の罰を受けてくださったので、私たちは赦され、罪のない者として認められました。第一ヨハネの手紙1章7節には、「御子イエス様の血はすべての罪から私たちをきよめます」と書かれています。
 また、私たちは、復活したイエス様を信じることによって永遠のいのちを与えられ、神様の子どもとして、神様の専用品として生きることが出来るようになったのです。
パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分の体をもって、神の栄光を現しなさい」と記しています。不思議なことですね。神様が、キリストのいのちという尊い代価を払って私たちを買い取ってくださったというのです。それは何のためでしょうか。私たちが神様の専用品となるためです。
 ですから、イエス様を信じた私たちは皆、今すでに神様の専用品であり、聖なる者とされているのです。
 そこで、パウロは、「あなたがは、聖なる者とされたのだから、聖なる者として具体的な生活を歩んでいきなさい」と勧めているのです。そして、神様の専用品としての人生を歩んでいくために、いくつか注意すべきことを今日の箇所で教えています。

@不品行を避ける

まず、3節で、パウロは「不品行を避けなさい」と書いています。また、5節では、「神を知らない異邦人のように情欲におぼれないように」と注意していますね。
「不品行」と訳された言葉は、もともとは神殿娼婦を指す言葉でした。現代の「ポルノ」の語源となった「ポルネイア」という言葉です。異教の神殿には神殿娼婦がいて、その神殿娼婦と性的な関係を持つことは、異教の偶像礼拝の交わりに直結していました。そのような場所は、テサロニケのあるマケドニヤ地方をはじめ、パウロたちが訪れた各地に数多くありました。当時の人々は、当たり前のように、神殿娼婦と関係を持っていたのです。
 しかし、その結果、夫婦間の麗しい関係は破壊されてしまいました。
 ヘブル人への手紙13章4節には「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです」とあります。
しかし、当時の社会ではどうだったかと言うと、ローマでは、「婦人は、離婚をするために結婚し、結婚するために離婚をした」と言われているほどでした。また、ギリシャでは、「われわれは楽しみのために売春婦を置く。毎日毎日、肉体の要求のために情婦を置く。子供を産み、家庭の忠実な後見人とするために妻たちを置く」といった具合だったのです。
そのような社会の中に、教会が誕生しました。そして、大きな社会変革を起こしていったのです。神様のことばが伝えられていくことによって、人々は、今まで当たり前と考えていたことが、実は、大きな罪であり、悲惨さの原因であることを知るようになったのです。
 まことの神様を無視し、いろいろなものを偶像として拝み、自分の満足のために欲望のおもむくままに生きていくなら、決して人生に本当の満足を味わうことはできません。そのような生き方は、結局、自分を心から喜ばせることも、他の人を、そして最も身近な家族をも喜ばせることにならないのだというわけですね。
だから、パウロは、「不品行を避けなさい」「情欲におぼれないようにしなさい」とここで警告したのです。

A自分の体を聖く、尊く保つ

次に、パウロは、4節で、「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ちなさい」と言っていますね。
「あなたがたは、神様の専用品なのだから、とても尊い存在なのだ。それを、いつも覚えて生活しなさい」ということです。 私たちは、神様の専用品としての意識をどれだけ持っているでしょうか。
 物の価値は、いくつかの基準によってきまります。
 一つは、それが誰によって作られたかということです。たとえば、バイオリンは、ストラディバリウスが作ったというだけで、何億円もの価値がありますね。
 もう一つは、誰によって使われるかということです。ここにベートーベンが使っていたピアノがあったら、どうでしょう。それだけで大きな価値がありますね。私が使ったピアノでは見向きもされませんが、ベートーベンが使っていたというだけで、価値がぐんと跳ね上がるのです。
 そして、もう一つ、物の価値を決めるのは、その物のために何が差し出されたかということです。たとえば、百万円を出してピアノを買ったら、買った人にとって、そのピアノは、百万円の価値があるということですね。
 皆さん、自分自身のことを考えて見てください。
 私たちは、一人一人神様に造られました。それだけでも、素晴らしい価値があるとは思いませんか。しかも、私たちは、神様の専用品とされ、神様が使ってくださるのです。
 そして、私たちを買い取るために、神様は、御自分の愛する御子イエス様のいのちを支払ってくださったのです。神様は、私たち一人一人を、それほどまでに価値あるものとして見てくださっているのです。
 ですから、私たちは、自分がどれほど大切で、神様に愛されている価値高い存在であるかを覚えて生活していくべきですね。それが、「自分自身を聖く、尊く保つ」ということなのです。 平凡な人生かもしれません。目立ったことは何一つないかもしれません。でも、私たち一人一人が、神様の専用品として神様の栄光を現すものとして生かされているのです。
 先ほども引用しましたが、イザヤ書で神様は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語ってくださっています。私たちは、専用品とされ、豊かな愛を注がれながら生かされているのです。
 ですから、自分を大切にするとともに、お互いに大切な存在として認め合うことが必要です。お互いの人生を、そしていのちを、「使い捨ての商品」のように扱ってはいけないのです。
 ですから、自虐的な生き方をしているなら、そこから解放されてください。投げやりな生き方は、主のみこころでありません。私たちは皆、高価で尊いのですから。
 神様から与えられた心も体も大切にし、人間関係においてもお互いに尊重しながら生きていきましょう。

B兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないこと

 それから、パウロは、6節で、「また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです」と記しています。先ほども言いましたように、お互いが神様の専用品であることを認め合うなら、兄弟を踏みつけたり、欺いたりすることはできませんね。
 私たちは神様の前で、また、お互いに対して、正直に、そして誠実に生きる者でありたいですね。他の人を踏みつけるような生き方は、教会にはふさわしくありません。欺きやだましごとは、神様のみこころから離れた行為です。教会では、自分が偉くなろうとか、人から脚光を浴びようとか、そんな思惑で生きることはまったく不要です。自分と人を比べて、自分のほうが価値があると見せかける必要はありません。お互いに神様の前で同じように価値のある存在なのですから、神様の専用品として生かされていることを喜びつつ、神様に造られたありのままの姿で誠実に歩んでいきたいですね。

3 聖霊によって

 パウロは、3節で「神のみこころは、あなたがたが聖くなるためです」と書きましたが、7節でも、「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです」と強調しています。神様が私たちを選んでくださった目的は、私たちが「聖くなること」であり、私たちに「聖潔を得させるため」なのだということをぜひ知ってほしい、というパウロの思いが感じられますね。
 先ほどから何回もお話しているように、「聖潔を得させる」とは「神様の専用品」として、神様に愛されている価値ある存在として生きていくことです。神様は、私たちをそのような生活へと召してくださっているのです。
 そして、私たちがそのような歩みができるように、聖霊を与えてくださいました。私たちの内には、聖霊が宿ってくださっているのです。その聖霊が私たちに神様の愛をおしえ、私たちの内を聖め、神様の専用品としての歩みを導いてくださるのです。
 ですから、今週、私たちは、神様に召された者として、また、聖霊を与えられた者として、自分自身を、そしてお互いを大切にしながら、神様の専用品として自信を持って歩んでいきましょう。