城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年六月二九日             関根弘興牧師
             第一テサロニケ四章九節ー一二節

サロニケ人への手紙連続説教7
   「落ち着いた生活の勧め」

 9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。(新改訳聖書)


テサロニケ教会に書き送られたパウロの手紙を今日も続けて学びましょう。
 テサロニケ教会は、パウロがテサロニケに三週間滞在している時に生まれたクリスチャンたちによって形作られた教会でした。テサロニケに住むユダヤ人たちからの迫害もありましたが、テサロニケのクリスチャンたちは、信仰と希望と愛を土台としてしっかりと歩んでいたのです。その信仰の姿は、その地方のすべての信者の模範になっていると1章7節に書かれています。
パウロはいろいろな所で伝道し、その結果、各地に教会が生まれていきましたが、中でもこのテサロニケ教会は模範的な教会となっていったのですね。パウロはこの教会からたくさんの慰めを受け、また、彼らの兄弟愛のすばらしさに心打たれることも多かったようです。それで、2章20節では、「あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです」と書いていますね。

しかし、そんな模範的な教会でしたが、気がかりなこともありました。どこか地に足がついていない、というような状態が教会の中にあったようなのです。
 どういうことかと言いますと、教会の中に、社会生活から離れ、まるで社会の一員であることを放棄してしまっているかような人々がいました。彼らは、終末(世の終わり)に関して、大変極端な理解をしていたのです。
 聖書は、世の終わりがあることを教えています。そして、世の終わりに、イエス様がもう一度来てくださり、信じる一人一人を天に引き上げてくださると教えています。これを「再臨」と呼んでいるのですね。
 このことについて、テサロニケの人々は、いろいろなことを考えました。たとえば、「イエス様がまもなく来て、私たちを天に引き上げてくださるのなら、この世の煩わしい仕事を一所懸命するのはやめよう。自分たちを理解しようとしないこの社会の中で我慢して仕事をする必要はない。社会から離れて、ただ、再臨を待っていればいいではないか」というふうに考える人がいました。そして、彼らは、仕事もせずに、イエス様が再び来られるのを、今か今かと興奮しながら待っていたようです。
また、世の終わりが来ると聞いて動揺し、落ち着かず、日常生活が手に付かない人もいたでしょう。熱狂的な興奮状態の人もいれば、不安や焦りを感じている人もいたようです。
 パウロは、そのことを知って、テサロニケの人々に「落ち着いた生活をするように」と記したのです。
イエス様の再臨がいつなのかは、誰もわかりません。今日かもしれないし、何百年も後かもしれません。それは、神様だけがご存じなのです。ですから、パウロは、イエス様の再臨の時まで、つまり、世の終わりの日まで、私たちが落ち着いた日常生活の中を歩んでいくことの大切さを教えているのです。私たちがいつ来るか分からない再臨や世の終わりのことばかりに気を取られて日常生活を放棄するなら、混乱が生じるだけです。
 これは、テサロニケ教会だけの問題ではありません。
 「この世界がもうすぐ終わる」と危機感を煽る人たちは、いつの時代にもいるものです。日本でも、だいぶ前になりますが、ノストラダムスの大予言などがブームになりましたね。また、西暦二千年を迎える時には、世紀末ということで、終末(世の終わり)が近いと叫ぶグループがいくつも出てきました。
 以前、あるグループが街頭でパンフレットを配り、「もうすぐ世の終わりが来る!」と宣伝していました。聖書は、「イエス様の再臨や世の終わりがいつ来るのかは、父なる神様以外誰にもわからない。その日は、突然やってくる」と書かれています。それなのに、そのパンプレットには「今年の10月28日にキリストの再臨があって、この世が終わる」とはっきり書いてあったのです。
 ですから、そのグループの中では、「もう世が終わるというのに、暢気にこの世の仕事などしていられない」と言って、仕事を辞める人もいたようです。そして、10月28日に世が終わると信じ込んで待っていたのです。
 私はそのパンフレットを見ました。そして、聖書の内容を歪め、間違った教えを広めようとしている彼らに激しい怒りを覚えました。それで、すぐに、そのパンフレットに載っている教会に電話して抗議したのです。しかし、何を言っても駄目ですね。相手は聞く耳を持ちません。「10月28日という日付は、ある預言者が神様から示されたのだから間違いない」と言い張るのです。そこで、私は、「わかりました。あなたがたは、10月28日に世が終わるというのですね。それでは、一日過ぎた10月29日に、またそちらに電話をします」と言って電話を切りました。
 さて、どうだったでしょうか。もちろん、10月28日には何も起こりませんでした。私は、10月29日にまた電話をしました。「やはり、28日に世の終わりはきませんでしたね。間違ったことを宣伝した責任をどのようにして取るのですか」と。すると、相手は、「私たちもこの事態に困惑しているのです」と答えたのです。自分たちの言っていたことが間違っていたのに、潔く認めようとしないのです。
 このような異端的なグループは、いつの時代にも登場します。
彼らは、自分たちに都合のいいように聖書の言葉を利用して、聖書の真理を歪めて、自分たちが勝手に作り出した教えを信じ込ませようとするのです。しかし、彼らが、どれほど聖書の言葉を引用したとしても、聖書全体が教える真理とはかけ離れた間違った内容を教えているなら、それは、正されなければなりません。
 さて、聖書には、世の終わりが来ることが、はっきり教えられています。しかし、それがいつなのかは誰にもわからないということもはっきりと書かれています。
 ですから、パウロは、あせったり動揺したりすることなく、神様のご計画に任せて、神様に信頼しながら、一日一日を落ち着いて生活していく必要があると教えているのです。
 それでは、「落ち着いた生活」とは具体的にどういう生活なのでしょうか。

1 主の前に静まる

 まず、「落ち着いた」と訳される言葉は、直訳すると「静かにする」「黙っている」という意味です。つまり、パウロは、生活の中で「静まる」ことが必要だと教えているわけです。
聖書は、他のいろいろな箇所でも、この「静まる」とか「黙する」ということが、とても大切であることを教えています。
 たとえば、詩篇62篇1節、2節には、こう書かれています。
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」
 また、詩篇37篇7節には、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」と書かれています。
 それから、出エジプト記14章を見ると、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトの奴隷生活から脱出し、葦の海のほとりに来た時、後ろからエジプトの軍勢が追いかけて来ました。目の前は海、後からはエジプトの軍隊、逃げ場のない絶体絶命のピンチに立たされたのです。イスラエルの民は、非常に恐れて動揺し、主に向かって叫びました。
 その時、モーセは、何と言ったでしょうか。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」と言ったのです。
 そして、モーセが主の命令通りに杖を海の上に差しのばすと、主は、非常に強い東風を起こさせ、海の水を別れさせ、海の真ん中に道を作られたのです。イスラエルの民は、その道を通って進んで行くことができたのです。
 私たちの人生には、神様に向かっての叫びがたくさんあります。「神様!どうしてこんなことがあるのですか」「神様、黙っていないでください」「神様、助けてください」と叫ぶことがよくあります。それは、決して悪いことではありません。私たちは心の中にある叫びを主の前にそのまま出していけばいいのです。しかし、それとともに、黙って主の前に静まることも必要なのです。
 いま、木曜日の聖書を読む会では、イザヤ書を読んでいます。 イザヤの時代、北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南ユダ王国もアッシリヤ帝国の脅威にさらされていました。 ユダの人々は、そういうときにこそ、まことの神様に信頼し、助けを求める必要がありました。ところが、彼らは信仰生活は、形骸化していました。彼らは、表面的には、エルサレムの神殿で礼拝し、いけにえを捧げ、祈り、献金していましたが、心は、神様から遠く離れてしまっていたのです。そして、目先の判断で、当時の大国エジプトなどの外国の力に頼ろうとしました。彼らの姿は、揺れる葦のごとく、こっちになびき、あっちになびくと言った具合で、その場しのぎの対応をとっていたのです。 そんな彼らにイザヤは、こう語りました。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(30章15節)と。「今、一番大切なのは、まことの神様の前に心静めて、自分たちを見つめ直し、将来を考えることだ。落ち着いて神様に信頼すれば、力を得ることができる」と教えたのです。しかし、残念ながら、彼らは、そのイザヤの言葉を無視し、ますます悪い状態に陥っていったのです。
 フランスの哲学者、物理学者、神学者のパスカルは 「人の悩みのすべては、一人きりで静かに部屋に座っていられないことから生じる」と言ったそうですが、心を静める、落ち着いて主を信頼していく、ということは、私たちがより良い人生を送るための秘訣なのですね。
 では、私たちの日常生活の中で「静まる」とは、具体的にどういうことでしょうか。
 一つは、祈りです。
 祈りというと、神様に向かって言葉を語り続けるようなイメージがありますが、そうではありません。もちろん、祈りには、神様に向かって「ああしてください」「こうしてください」といろいろな願い事をすることや、他の人のための祈りや、感謝の祈りもあります。しかし、それと共に静かな黙祷の時も必要です。何も言葉は要りません。神様の前に静まり、力を抜いて、主を想い、ただ、黙って主を見上げるのです。
 私たちは、毎日いろいろな出来事の中で、心を騒がせています。焦りも生まれます。だから、あえて、毎日の生活の中で、数分間だけでも神様の前に静まる時を持つといいのです。詩篇46篇10節に「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳)とあるとおりです。落ち着いた生活とは、主の前に静まり、神様がおられること、すべてをご存じで、すべてを支配しておられる神様がおられることを確認していくことです。
 そして、主の前に静まるためにもう一つ大切なことは、主のことばを聴くことです。つまり、聖書のことばに親しみ、聖書のことばを聴くのです。礼拝の説教や自分で聖書を読むことの中で、神様の約束の言葉を受け取っていきましょう。それによって、私たちは、堅い土台の上に成長し、さまざまな出来事の中でも動揺せずに、神様に信頼しつつ静まることができるのです。

2 社会の一員として歩む

さて、次に、パウロは、11節で「自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」と記していますね。「落ち着いた生活」とは、一つは、神様の前に静まることだとお話ししましたが、もう一つは、この社会の中で落ち着いた生活をすることです。
 クリスチャンになると、社会から離れて、別世界に住まなければならないのではないか、という誤解をしておられる方がけっこういますね。でも、そうではありません。この社会の中で、自分の役割を忠実に果たしていくことは大切なことです。
 でも、「この利益中心の社会の中で働くよりも、イエス様のために直接何かする方が立派なことだ」と思ってしまうことがありますね。社会から離れていくことがいかにも立派なことであるかのような錯覚をもってしまうのです。まして、「牧師になります」なんていうと、まるで、この世のすべてを捨ててしまうかのような印象すらありますね。
 私も以前はよくこう言われました。「関根さん、まだ若いのに、牧師をしているなんて偉いですね」と。最近は言われませんが、どこが偉いのかちっとも分かりませんね。むしろ、毎日満員電車に揺られ、クリスチャンがほとんどいない職場の中で、クリスチャンとして働いている方のほうが、よっぽどたいしたものだと思いますよ。
 皆さん、主にあって生きるとは、世捨て人になることではありません。社会生活を放棄することでもありません。それとは、まったく逆です。主イエス様は、「あなた方は世の光、地の塩だ」と言われました。神様が私たちを世の光、地の塩として、それぞれの場に遣わしてくださっているのです。その自覚をもって社会生活を送っていきましょう。

3 品位を持って歩む

次に、パウロは、12節で「外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです」と記していますね。
この「りっぱにふるまう」という言葉を、新共同訳聖書では「品位をもって歩み」と訳しています。この言葉は、「上品に」「優美に」「エレガントに」「品位、品格をもって」という意味の言葉なんですね。
 しばらく前に「品格」と言う言葉がブームになりましたね。インターネットのアマゾンのホームページで「品格」と言う字がタイトルに入っている本を調べてみました。たくさんありました。「女性の品格」「男の品格」「父親の品格」「国家の品格」「親の品格」「横綱の品格」「老年の品格」「日本人の品格」「皇室の品格」「離婚の品格」「薄毛の品格」「裁判官の品格」「極道の品格」などなど、たくさんありすぎて、品格の大安売りという感じですね。
 残念ながら「クリスチャンの品格」という本はありませんでした。でも、本がなくても、聖書を読めばいいわけですからね。
 当時、テサロニケ教会には、終末の危機感にあおられて、働きもせず、社会的な責任を放棄して、日常から離れた生活をしている人たちがいました。彼らはただ、イエス様が来られるのを熱狂的に待っていたわけです。しかし、自分で働かないのですから、他の人の世話になるしかありませんね。
 もし、他の人々がそんな姿を見たら、どう思うでしょう。クリスチャンとして品位のある生活とは、とても言えませんね。
 そこで、パウロは、「外の人々にたいしても品位を示すことの出来るような生き方をしなさい」と勧めているのです。
 私たちは、神様から愛されている価値高い存在です。そのことを自覚してきましょう。人生には困難や辛いこともたくさんあります。でも、主がいつも共にいてくださいます。そして、聖書の約束の言葉を受け取りながら、主に委ねつつ歩んでいきましょう。神様を愛し、また、互いに愛し合いながら、クリスチャンとしての品位がさらに豊かなものとなりますように。
 
 最後に、まとめましょう。
 落ち着いた生活とは、まず、神様の前に静まり、聖書のことばを聴き、自分の置かれている場所で与えられた役割を果たしつつ、神様に選ばれた尊い存在としての品位を持って生活していくことです。人と比べることなく、自分が自分であることを喜びながら、神様の専用品として神様の栄光を現す器として生きていきましょう。