城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年七月六日              関根弘興牧師
            第一テサロニケ四章十三節ー一八節

テサロニケ人への手紙連続説教8
   「いつまでも主とともに」

13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(新改訳聖書)

 パウロがテサロニケ教会に書き送った手紙を少しずつ読み進めていますが、今日は八回目です。
 テサロニケ教会は、パウロがテサロニケに三週間滞在していた間に生まれたクリスチャンたちによって形作られた教会です。テサロニケ教会は、その地に住むユダヤ人たちから迫害を受けたりして、様々な困難を経験していました。しかし、そんな中にあっても、しっかりと信仰と希望と愛を土台として歩んでいたので、その姿はその地方のすべての信者の模範となったと記されているほどです。
しかし、前回お話ししましたように、そんな模範的なテサロニケ教会にも、気がかりなことがありました。
 終末(世の終わり)に関して、ある人たちが大変極端な考え方をして、問題のある行動をとっていたのです。
 聖書には、この世界に終わりが来るということがはっきり書かれています。しかし、それがいつ来るのかは、父なる神様以外には誰も知ることができないとも書かれているのです。
 ところが、この世はもうすぐ終わるだろうから、もうこの世の煩わしい仕事に汗水流すのは無駄だと考えて、社会生活を放棄してしまい、ただキリストの再臨を待つことだけで日を過ごす人たちがいました。
 また、「世の終わりが来る」と言うことを聞いて、動揺し、日常生活が手に付かなくなってしまった人たちもいたようです。
 そこで、パウロは、テサロニケ教会の人たちに、「落ち着いた生活をするように」と書き送りました。その「落ち着いた生活」とは、まず、神様の前に静まって聖書のことばを聴くこと、また、社会の中で自分に与えられた役割をきちんと果たしながら生活していくこと、そして、自分が神様に選ばれた尊い存在であることを自覚して、それにふさわしい品位、品格を持って生活していくことだ、ということを前回学んだわけです。

 そして、今日の箇所に続くわけですが、テサロニケ教会の人々は、こんな疑問を持っていました。「この世が終わり、イエス様が私たちを迎えに来てくださるとき、イエス様を待っている途中で死んでしまった人たちは、いったいどうなるのだろう。墓の中に葬られたまま、置き去りにされてしまうのだろうか。」その疑問に対する答えを、パウロは今日の箇所に記しているわけです。
 パウロは、まず、13節で「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません」と書きました。
 この「あなたがたに知らないでいてもらいたくありません」という言い方は、「これから大変重要なことを述べていきますよ」という時に使う決まり文句なんですね。「これから記すことを、一人一人がしっかりと心に刻み込んでくださいね」という意味です。ですから、今日、私たちも、パウロの記していることをしっかりと心に刻んでいきたいわけです。
 なぜなら、18節に「このことばをもって互いに慰め合いなさい」とあるように、パウロが記した内容は、一人一人にとっての大きな慰めとなるからです。
 この慰めの根拠となる三つのことを、今日の箇所から受け取っていきましょう。

1 イエスは死んで復活された

 まず、第一のことは、14節にあるように「イエス様が死んで復活された」ということです。
 この「イエス様が死を打ち破り復活された」ということは、私たち一人一人の、そして、キリスト教会全体の信仰の中心なのです。
 パウロは、コリントの教会への手紙の中で、こう記しています。「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。・・・そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(1コリント15章14節、17節)
 もし、イエス様の復活がなかったとしたらどうでしょうか。「イエス様は、二千年前に登場し、たくさんの良い言葉を残し、社会に貢献した人物でした。でも十字架に付けられ、非業の死を遂げたのです。おしまい」ということになりますが、もし、それだけなら、イエス様は、ただの人間にすぎないということですね。ただの人間をわざわざ礼拝するのは愚かなことですし、死んでしまった人を礼拝するのは、そもそも聖書自体が禁じていることです。
 それに、イエス様ご自身が「わたしは、十字架にかかって、三日目に復活します」と言っておられたのに、もし復活がなかったのなら、その言葉は、まったくの嘘だったことになりますね。そうだとしたら、イエス様のそのほかの様々な約束も信頼することなどできなくなりますね。
 しかし、パウロは、「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています」と言っていますね。
 第一コリント15章4節ー8節では、パウロはこう記しています。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」
 イエス様は、十字架で死なれた後、三日目によみがえられ、五百人以上の弟子たちに現れてくださいました。そして、パウロもこの復活のイエス様にお会いしたのです。だから、パウロも外の弟子たちも、大胆にイエス様の復活を世界中に宣べ伝えるようになったのです。
 復活は、イエス様が、まことに神の御子であり、私たちに罪の赦しを与えることができる方であり、死を打ち破り、今も生きておられ、私たちに永遠のいのちを与えてくださる救い主であることを証明する出来事でした。
 私たちは、パウロが言うように、この死んで復活されたイエス様を信じているのです。死んでしまった方を礼拝しているのではなく、復活されて今も生きておられる方を礼拝し、この方を信頼し生きているわけです。
そして、復活を信じて生きるなら、大きな望み、希望が生まれてきます。私たちは、肉体の死は避けることが出来ませんが、それで、すべてが終わってしまうのではないということを、イエス様にあって信じることが出来るからです。
 聖書では、人の死を「眠っている」という表現で記しています。眠っているなら、眠りから覚めるときがあるわけですね。
 イエス様がカペナウムの町に入られたときのことでした。会堂管理者のヤイロという人が、大変動揺してやってきました。そして、イエス様に懇願しました。「娘が死にかけています。どうか、助けてください。」イエス様は、ヤイロの家に向かいましたが、群衆が押し寄せてきたので、なかなか前に進めません。ヤイロはヤキモキしていました。その時、ヤイロの家から使いの者が来て、「娘さんが亡くなってしまいました。もうイエス様に来ていただいてもどうしようもありません」と報告しました。しかし、イエス様は、意気消沈しているヤイロに向かって、「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われたのです。そして、ヤイロの家に着くと、集まって嘆き悲しんでいる人々にこう言われました。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」そして、娘を生き返らせてくださったのです。
 また、ベタニヤに住むラザロという人が死んでしまったときには、イエス様はこう言われました。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」そして、死んでから四日も経っていたラザロを生き返らせたのです。
 私たちにとって、もっとも大きな痛みの一つは、死という現実だと思います。しかし、イエス様の目から見ると、それは、決して絶望ではありません。すべての終わりでもありません。 イエス様は、死について「眠っている」という表現を使われました。眠っていると言うことは、目覚めの時があるということですね。
 イエス様は、ヤイロの娘やラザロを生き返らせることによって、御自分が死を支配する方であることを示されました。また、ご自身が十字架で死なれ、三日目に復活することによって、御自分が死を打ち破ることができる方であることを証明されました。そのイエス様が、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と約束してくださったのです。
 復活されたイエス様は、私たちがこの肉体の死によって眠った後に、再び目覚めさせてくださり、永遠に生きる者としてくださいます。ですから、イエス様が死んで復活されたことを信じている私たちにとって、死は、終わりではなく、永遠の始まりなのです。

2 主のみことばの保証がある

さて、次に、慰めの根拠となる二つ目のことは、何でしょうか。
 テサロニケ教会の人たちは、「すでに眠った人々は、イエス様が来られるとき、お墓に取り残されたままになってしまうのではないか」と心配していたわけですが、パウロは、15節ー17節で、「そんなことはありません。大丈夫です。死んでしまった人たちも、生きている私たちも、主のもとに引き上げられて、主とお会いすることができるのです」と説明しています。
 では、パウロは、何を根拠にしてそう語ることができたのでしょうか。それは、15節に「主のみことばのとおりに言いますが」と書かれているように、主ご自身がお語りになった約束のことばがあるからです。
イエス様は、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」と言われました。イエス様のことばは、決して無効になることはありません。イエス様が言われたことは、必ずその通りになっていくのです。これほど確実な保証はありません。
 キリスト教会の唯一の拠り所であり権威の源は、聖書のことばです。聖書に記録された神様のことば、イエス様のことばには権威があり、決して破棄されことはありません。いつも全面的に信頼することのできることばなのです。
 私たちの信仰は、とてもシンプルです。「イエス様がそう言われるのだから、誰が何と言っても何が起こっても大丈夫」という信仰だからです。イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と宣言されました。そのイエス様のことばこそ、本当に信頼に値するものなのです。
 さて、パウロは、「主のみことばのとおり」と記していますが、それでは、イエス様は何と言われているのでしょう。
たとえば、マタイ24章を読むと、弟子たちがイエス様にこんな質問したことが記されています。「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエス様は、世の終わりに現れる様々な前兆について説明なさったあと、こう言われました。「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます」と言われました。「人の子」というのは、イエス様のことです。イエス様は、「わたしは、世の終わりに、大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来る。そして、四方から選びの民を集める」と言われたのです。イエス様に敵対する者たちにとっては、それは、最終的な裁きを受ける脅威の時となるでしょう。しかし、イエス様を待ち望む者たちにとっては大きな喜びとなるわけです。
 今日の箇所の16節では、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます」とありますね。そして、キリストにある一人一人を御自分のもとに引き上げてくださるというのです。
 この世の終わりにおける光景は、私たちの想像を超えるものですね。でも、イエス様が、約束されたとおりに、眠った人々も生き残っている人々も引き上げてくださることは確かです。イエス様ご自身がそれを保証してくださったので、私たちは、それを信頼し、期待することができるのです。

3 いつまでも主とともにいることになる

 さて、慰めの根拠となる第三のことは、17節に書かれています。「私たちは、いつまでも主とともにいることになります」とありますね。
 私たちの最大の慰めとなるのは、「主が私たちとともにいてくださる」ということです。イエス様は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13・5)と約束してくださいました。この地上の生涯を歩んでいるときも、この地上の生涯を閉じて死という眠りについたときも、死から目覚めるときも、主がともにいてくださるのです。
 ですから、パウロは18節で、「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい」と語っていますね。私たちは、何があっても、「イエス様がともにいてくださるから大丈夫」と慰め合うことができるのです。
 でも、そうは言っても、イエス様がどういう方か知らないと、慰めになりませんね。
 たとえば、旅行をするのに、全く知らない人と一緒だと気を遣いますね。まして、気が合わない人と一緒となると、慰めどころか苛々しっぱなしということになるでしょう。でも、相手が自分のことをよく理解してくれていて、話しやすく、配慮のある人なら、安心して楽しい旅ができるでしょうね。
 「イエス様がいつもともにいてくださる」と聞いても、ちっとも慰めを感じられない人がいますか?それは、イエス様について間違ったイメージを持っているからです。
 たとえば、イエス様が律法をきちんと守るように要求する厳しい方だとか、いつも批判してばかりいる冷たい方だとか、すこしでも失敗すると責める方であるようなイメージを持っていると、「一緒にいても窮屈だな」と感じたり、「いつも立派に生きていかなければ、裁かれてしまう」と恐れたりしてしまいますね。もしイエス様がそんな方だったら、私たちは、慰めを受けるどころか、疲れ切ってしまうでしょう。
 でも、幸いなことにイエス様は、そんな方ではありません。イエス様が「いつも共にいてくださる」ことは、私たちの慰めになります。いつも一緒にいて、ほっとすることができるのです。それは、イエス様は、私たちのありのままを愛し受け入れてくださっているからです。イエス・キリストは、「恵みとまことに満ち満ちている方」です。この方は私たちの状態をよくご存知です。私たちの弱さをご存知です。私たちが疲れやすく迷いやすい羊であることもちゃんと知っておられます。その上で、いつもともにいて、守り、いやし、導き、養ってくださるのです。だから、私たちは、心から安心して生きることが出来るのです。私たちの必要をすべてご存じのイエス様がいてくださるので、私たちは気負うことなく生きていくことができるのです。
 もちろん、主は、私たちを戒めるときもあります。ふさわしくない行動を改めるように諭すこともあります。イエス様は、私たちの言うことを何でも聞く召使いではありませんからね。でも、いつも私たちの最善のことをしてくださるのです。ですから、最も頼りがいのあるお方なんですね。
 そういうイエス様をあなたは信頼していますか?
 私たちは、生きているときも、死んだ後も、目覚める時も、愛と恵みとまことに満ちた主とともに生きる者とされているのです。
 
 さて、聖書は、世界が終わる「終末」とイエス様が再び来てくださる「再臨」があることを教えています。しかし、私たちに日常生活を放棄する生き方を勧めているのではありません。まったく逆です。与えられたそれぞれの場所で、落ち着いた生活を志し、どんなときにも「主とともにいる」ことができるという確信をもって、また、決して滅びることのない約束のことばを信頼して、与えられた生涯を歩んでいきましょう。山キリスト教会 礼拝説教