城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年七月二〇日             関根弘興牧師
              第一テサロニケ五章一節ー一一節

テサロニケ人への手紙連続説教9
   「目を覚まし慎み深く」

1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。(新改訳聖書)


 テサロニケ教会は、パウロがテサロニケに三週間滞在していた間に生まれたクリスチャンたちによって形作られた教会です。テサロニケ教会は、その地に住むユダヤ人たちから迫害を受けたりして、様々な困難を経験していました。しかし、彼らはそんな中でもイエス様を信頼しながら歩んでいきました。そして、彼らの姿はその地方のすべての信者の模範となったと記されているほどです。
しかし、そんな模範的なテサロニケ教会にも、気がかりなことがありました。終末(世の終わり)に関して、ある人たちが大変極端な考えを持ち、問題のある行動をとっていたのです。中には、もうすぐこの世が終わるなら、この世の煩わしい仕事に汗水流すのはよそうと考え、社会生活を放棄してしまった人もいました。また、「世の終わりが来る」と言うことを聞いて、動揺し、日常生活が手に付かなくなってしまった人たちもいたようです。
 そこで、パウロは、テサロニケ教会の人たちに、「落ち着いた生活をするように」と書き送りました。その「落ち着いた生活」とは、まず、神様の前に静まって聖書のことばを聴くこと、また、社会の中で自分に与えられた役割をきちんと果たしながら生活していくこと、そして、自分が神様に選ばれた尊い存在であることを自覚して、それにふさわしい品位、品格を持って生活していくことでした。
 また、前回の箇所に書かれていましたが、テサロニケ教会の人々は、「この世が終わり、イエス様が私たちを迎えに来てくださるとき、イエス様を待っている途中で死んでしまった人たちは、いったいどうなるのだろう。墓の中に葬られたまま、置き去りにされてしまうのだろうか」、そんな疑問を持っていました。そこで、パウロは、「眠った人々のことについては、心配無用です。途中で死んでしまった人も生きている人も、最終的にいつも主と共にいるようになるのですよ」と書き送ったのです。
 そして、パウロは、今日の箇所の5章前半で、改めて「世の終わり」について語り、私たちがどのような心構えで生活していくべきかを記しているのです。
 まず、言葉の整理をしておきたいのですが、2節に「主の日」という言葉が出てきますね。聖書の中で、「主の日」という表現は、いくつかの意味に使われています。
 第一の意味は、イエス様が墓からよみがえられた週の初めの日、つまり、日曜日のことです。イエス様は、日曜日の朝に復活なさいました。それで、教会は、日曜日を「主の日」と呼び、皆で集まって礼拝するようになったのです。この城山教会でも、教会の予定表の日曜日の覧には「主日礼拝」と記しています。イエス様の復活を記念して、日曜日を「主の日」と言っているわけですね。
 第二に、「主の日」という言葉は、特に旧約聖書に多いのですが、「歴史の中で行われる神様のさばきの日」という意味で使われることがあります。「神様が悪しき者たちをさばき、虐げられている人々を助けてくださる時」という意味で使われています。
 第三に、「主の日」という言葉は、「この世の終わりの日(終末)」という意味で使われます。聖書は、この世界には初めと終わりがあると教えています。そして、その終わりの時である「主の日」には、イエス・キリストが再び来られ、神様の最終的な審判が下され、古い天地は滅び、キリストにある一人一人が神のみもとに集められ永遠に神と共に生きるようになるというのです。それは、イエス・キリストを信頼して生きる人々にとっては、希望と喜びと勝利の日でもあります。
 今日の箇所では、「主の日」という言葉が、この第三の意味で使われています。今日は、その世の終わりである「主の日」について、改めて学んでいきましょう。

1 主の日は突然やってくる

 まず、パウロは、1節で「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません」と言っていますね。クリスチャンは皆、主の日が突然来るということ、そして、それがいつ来るかは誰にもわからないということを知っていたからです。
 なぜなら、イエス様がご自身がこう教えておられたからです。「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」(マルコ13章32ー33節)
私も説教の中で何度も繰り返してお話ししていますが、「この世の終わりは何年何月に起こる」と特定の日付を言い広めたり危機感を煽ることは、聖書の教えとまったくかけ離れたことです。もしどこかで世界の終わりの日付をはっきり断言するような説教を聞いたら、「これは、聖書の教えではない」とすぐに判断してください。
 キリスト教の異端の多くは、終末に関していろいろなことを言います。たとえば、統一教会は、「教祖の文鮮明こそ再臨のキリストだ」と言います。またエホバの証人は、再臨の日はいついつだとはっきり言いながら、実際にその日に再臨が起こらないと、こんどはいろいろな理由を付けて教えの内容を変え、自分たちの間違いを決して認めようとしません。他にもたくさんの異端のグループがありますが、彼らの多くは、聖書を都合良く利用しながら、聖書からまったく逸脱したことを教えているのです。
 しかし、繰り返し言いますが、世の終わりがいつ来るは、誰も知らないし、知る必要もないのです。私たちは、間違った終末の教えを聞いても動揺せずに、その日がいつ来てもいいように毎日を誠実に生きていくことが大切なのです。
 
2 主の日の迎える時の状態

さて、次にパウロは、主の日を迎える時の状態について、二種類の人々の様子を記しています。
 一つは、神様のことばに無関心で、「世の終わりなど来るはずがない」と思い込んで生活している人々です。
 パウロは、そういう人は、「暗やみの中にいる」「夜や暗やみの者だ」と言っています。彼らは、暗やみにいるので、自分についてもこの世界についても神様についても、はっきり見ることができません。そして、酔っ払い、眠り込んで、何の備えも注意もしていないので、彼らのもとには「主の日」が突然、盗人のようにやって来るというのです。
 盗人のように来るとは、どういうことでしょう。盗人は、事前に予約などしませんね。「関根さん、今週の日曜日の八時にお宅に盗みに入りますので、金目のものを用意しておいてくださいね。よろしく」、そんな電話が盗人からかかってくることは決してありません。むしろ、私たちが眠り込み、油断しているときにやってくるのです。
 また、3節には、「ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません」と記されていますね。世の終わりとは、妊婦さんに急に陣痛が襲うようなものだというわけです。
 このたとえをお話しすると、時々、こう言う人がいるんですね。「先生、妊婦さんの場合には、出産予定日がわかるじゃないですか。だから、世の終わりも一、二週間の誤差はあってもある程度の日にちがわかるのではないですか」と。それは、ちょっと違うんですね。たとえというのは、物事のある一面を表現するために使われるもので、ここでは、終末が突然襲ってくること、また、その苦しみは必ず襲ってくることを説明するために、妊婦の産みの苦しみのたとえが使われているだけなのです。
 パウロは、言いたいのは、「平和だ。安全だ」と言って何の備えもせずに眠り込んでいる人々には、夜中の盗人や妊婦の陣痛のように突如として滅びが襲いかかる、そして、それは誰も逃れることができないということなのですね。
 一方、もう一つのグループの人々にとっては、「主の日」の訪れは、まったく違ったものとなります。
 パウロは、4節、5節でこう言っていますね。「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。」
「イエス・キリストを信じたあなたがたは、光の子ども、昼の子どもなのだから、主の日がいつ来ても心配することはない」というのです。
 イエス・キリストを信じている人々は、世の終わりが来ることがわかっていますから、そのために備えをしておくことができます。また、イエス・キリストの救いを受け取っていますから、突然、滅びに襲われることなど決してないのです。
 皆さんは、自分が「光の子ども」「昼の子ども」とされていることを十分自覚しておられるでしょうか。
 パウロは、エペソ5章8節で、「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」と記しています。
 私たちは皆、以前は暗やみだったというのですね。人は、本来、光よりも闇を愛する傾向があるようですね。「人は自分の悪い行いが明るみに出されることを恐れて、光を避け、暗やみの中に隠れようとする習性がある」と聖書は教えています。すべてを隠そう隠そうとする癖です。そして、暗闇へ暗闇へと向かう傾向があるのです。また、自分の本当の姿から目をそらして自分の姿を見つめようとしないこともよくあります。暗やみにいると、そこに何があるのかわかりません。どんなに汚くて埃だらけになっていてもわかりませんね。
 しかし、ヨハネの福音書1章には、「すべての人を照らすまことの光であるイエス様が私たちのもとに来てくださった」と書かれています。イエス様ご自身も、ヨハネ8章12節でこう言っておられます。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
 私たちが、光なるイエス様のもとに行くと、自分の心が照らされて、自分の心の汚さを直視しなければならないかもしれません。隠していたものがさらけ出されてしまうかもしれません。でも、自分自身の真の姿を見つめる勇気を持ちたいですね。イエス・キリストは、ありのままの私たちを愛し、受け入れ、きよめてくださり、暗やみを光に変えてくださるのですから、私たちは恐れることなくイエス様の前に出ることができるのです。
そして、この光なるイエス様を救い主として心に受け入れる時に光の子ども、昼の子どもとされるのです。
 ペテロの第一の手紙の中には、「神様が、私たちをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった」と書かれています。私たちは、自分の行いや努力によってではなく、ただ、神様の恵みによって、神様の招きに応えて、光の中に導き入れられたのです。ですから、そのことに感謝して、すでに「光の子ども」とされていることを覚えて、光なるイエス様を信頼しながら歩みつつ、主の日に備えていきましょう。

3 主の日への備え

それでは、「主の日」に備えるとは、具体的にどのようなことなのでしょうか。
 二十五年以上前、私たちはアパートに住んでいたのですが、隣の奥さんは妊婦さんでした。ちょうど私が自宅に一人でいるときでした。隣の奥さんの陣痛が始まってしまったんです。そして、私のところにやってきて、お腹を押さえて「生まれそうです」と言われるのです。それで、すぐに車で病院まで送りました。その時、私は、感心したことがありました。それは、この奥さん、いつ陣痛が起こってもいいように、ちゃんと入院に必要なものをバックに詰めて用意していたのです。妊婦さんにとっては、いつ起こるかわからない陣痛に備えて準備をしておくのは大切ですね。
 では、私たちは、「主の日」に備えて、どのような準備をしておけばいいのでしょうか。
 パウロは、6節で 「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう」と書いていますね。
「目をさましていなさい」というのは、「絶対眠ってはだめだ。毎日徹夜しなさい」という意味ではありません。そんなことは、不可能ですね。詩篇127篇2節には、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」と書かれていますから、私たちは、主に信頼して、安心して眠ってもいいのです。
 では、パウロの言う「目をさましている」というのは、どういう意味でしょうか。この「目をさましている」という言葉には、「見張っている」という意味があります。
 「見張っている」という言葉は、どのようなときに使うでしょうか。普通は、「見張り」というと、外部から敵が襲ってこないように警戒しているとか、土砂崩れや洪水が起こらないように監視しているというようなイメージを持ちますね。
 しかし、箴言3章21節には、このように書かれています。「わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。」また、箴言4章23節には、こう書かれています。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」
 聖書は、「あなたの心を見守りなさい。大切なものを見失わないようにしなさい」と教えています。心を静め、落ち着いて物事を見つめ、自分の心がどのようなことを考えているか、それが本当にふさわしいことなのか、本当に大切なことなのか、よく自分自身を吟味し、見張っていなさい、というのです。
また、詩篇139篇23節-24節には、こう書かれています。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。 私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
「信仰」というと、ただ熱狂的に思い込んでいる状態なのではないかと考える人もいますが、そうではありません。信仰に生きるとは、神様の前で静まり、神様に示された自分自身のありのままの姿を正直に見つめ、本当に大切なものを守っていく、そういう生き方なのです。それが、目をさましていることであり、また、それを別の言葉で表現するなら、慎み深く生きるということでもあるのです。
 8節にも「私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう」とありますね。
 この「慎む深く」というのは、おもしろい言葉です。酔っ払って自分を忘れ、いつのまにかどこかで眠り込んでしまうような酔っ払いの姿とは正反対の姿という意味なんです。酔っ払って自分を見失ってしまうのではなく、「慎み深く」ありなさいというのですね。それは、お酒をまったく飲んではいけないという意味ではないのですよ。自分の状態を忘れ、自分を見失い、自分の生き方を点検することもない生き方は、本来の生き方ではないということを言いたいわけです。
 私たちは、信仰と愛と救いの望みが与えられています。「いつまでも残るのは、信仰と希望と愛です」とあるように、その大切なものを身につけて光の中を歩んでいくことが慎み深い生き方であり、「主の日」に備えることになるのです。
 なぜ、神様は、私たちに世の終わりがあることを告げられたのでしょうか。それは、私たちの危機感を煽って混乱させるためではありません。私たち一人一人が、目を覚まして慎む深く生きるためなのです。この様々な情報が溢れる世の中で、一人一人が自分の心を見張り、自分が神様に愛されている大切な存在であることを理解し、聖書の言葉によって与えられた救いの確信を持って生きていくためなのです。それが、世の終わりの備えとなっていくのです。

4 主の日の希望

そして、パウロは、9節、10節で、私たちにとって、「主の日」の到来は、素晴らしい出来事なのだということを説明しています。
 9節には、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです」とありますね。世の終わりはいつ起こるか分かりませんが、私たちにとって、それは、救いの完成の時、イエス様が一人一人を永遠の御国に引き上げてくださる時となるのです。
 また、10節には、「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです」と書かれていますね。この「眠っていても」というのは、「死んでしまっても」と言う意味です。私たちのこのいのちは、いつかは終わりを迎えますね。でも、生きるにしても死ぬにしても、私たちは、主と共に生きる者とされているのだと、パウロは大胆に記しているのです。
 ですから、いつ世の終わりが来ても、私たちは、喜びをもってそれを迎えることができるのです。そのことを覚え、目をさまして慎み深く生活していきましょう。
 また、11節でパウロは、互いに励まし合い、互いに徳を高め合っていくようにと勧めています。「徳を高める」とは、直訳では「家を建てる」という意味です。お互いがお互いを破壊するのではなく、建て上げていく者とされているということです。
 私たちは、生きるにしても死ぬにしても主と共に生きていることを覚え、主の日を待ち望みつつ、互いに建て上げる者として、共に歩んでいきましょう。