城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年七月二七日             関根弘興牧師
            第一テサロニケ五章一二節ー一五節

テサロニケ人への手紙連続説教10
    「互いの関わり」

  12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13 その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。(新改訳聖書)

 
 パウロは、テサロニケ教会を模範的なすばらしい教会だと紹介しました。「テサロニケ教会は、私の誉れ、喜びだ」と言ったほどです。
 そう言われると、「きっとテサロニケ教会には、優秀で立派な人たちがたくさんいたのだろう」と考える人が多いでしょう。
 しかし、テサロニケ教会にも問題はありました。これまでお話してきましたように、テサロニケ教会には、世の終わりに関して極端な考えを持つ人たちがいました。そのため、いくつかの混乱が生じていましたね。
 でも、皆さんにぜひ知っておいていただきたいのは、問題がないことがすばらしいのではなく、問題が起こったとき、その問題にどのように向き合い、解決していくかということのほうが遙かに大切なのです。
 聖書を読むと驚くのは、人間の弱さが正直に描かれていることです。信仰が賞賛されている立派な人物であっても、失敗したり道をそれたりしてしまったことが記録されているのです。
 また、教会の中にも様々な問題が起こったことが記されています。
たとえば、パウロがコリントの教会に宛てた手紙には、教会の中に分裂、分派が起こったり、仲間同士で裁判沙汰になったり、聖餐式がまるでどんちゃん騒ぎのような状態になってしまったり、といったような考えられないような事態が記されています。また、別の手紙を見ると、異端的な教えが入り込んでクリスチャンたちが惑わされてしまったり、互いに励まし合うどころか、互いにかみ合ったり、傷つけ合ったりしている教会もあったというのです。
 私たちは、クリスチャンになったからといって、すぐに完璧な人間になるわけではありません。私たちは、皆、イエス様のような姿に変えられていく途上にあるのです。そんな未完成な者たちが集まるのですから、しかも、性格も背景も置かれている状況も皆違うのですから、教会にも様々な問題が起こります。
 しかし、繰り返しますが、大切なのは、問題が起こらないことではなく、問題が起こったときにどのように対処していくかということです。神様は、私たちを成長させるために、さまざまな問題を与えて、対処の仕方を学ばせてくださるのです。
 では、今日の箇所から、お互いの関わりの中で心に留めるべきことを学んでいきましょう。

1 指導者との関わり

 まず最初に記されているのは、指導者との関わりについてです。12節ー13節にこう書かれていますね。「あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。」(一二〜一三節)
 最初にテサロニケ教会の基盤を作ったのは、パウロですね。パウロといえば、偉大な伝道者で、とても有名で人気があるわけですよ。ですから、パウロが去った後、後を引き継いだテサロニケ教会の指導者たちは、何かとパウロ大先生と比較されて、やりづらかったことでしょうね。
 そこで、パウロは、こう記しました。「あなたがた間で労苦している指導者たちを認め、愛をもって深い尊敬を払いなさい」と。パウロという人は、本当に配慮がある人ですね。教会を指導する人々の大変さや必要をよくわかっていたのです。
 でも、皆さん、たた闇雲に「尊敬を払いなさい」と言われても、むずかしいですね。人を尊敬するということは、命令されてできるものではありませんからね。
 パウロは、ここで「その務めのゆえに、尊敬を払いなさい」と言っています。では、「指導者たちの務め」とは、何でしょうか。
 指導者たちの務めの中心、それは、聖書を語ることです。教会の指導者が聖書を語ることを止めたら、務めを放棄していることになるのです。聖書を語らないなら、教会の指導者として尊敬の対象にはなりません。
 牧師もいろいろなタイプの人がいますね。性格の細かい人もいれば、のんびりした人もいます。ちょっと短気な人もいるでしょう。しかし、そうしたことは、大きな問題ではありません。大切なのは、聖書が語られ、分かち合われているかということなのです。
 Tペテロ2章2節には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」と記されています。
また、ローマ10章14節には、「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」と記されています。 
 聖書の言葉は、私たちの栄養となり、成長をさせ、救いをもたらします。聖書の言葉は、受け入れた人の内で生きた言葉として働き、その人を変えていくのです。ですから、聖書を語り、聖書を聞くことは、教会の土台であり基本なんですね。そして、教会に遣わされた指導者の一番大切な務めは、聖書の言葉を語り、宣べ伝えていくことなのです。
 では、皆さん、私たちは、指導者がきちんと聖書を語るという務めを果たしているかどうかを、どのように判断できるのでしょうか。そのためには、一人一人が聖書を知る必要がありますね。私たちは、皆、自分で聖書を読み、聖書から教えられ、戒められながら、歩んでいくのです。そして、指導者は、その一人一人の歩みを援助する役割を担っているということなのですね。
 さて、パウロは、続けて、「お互いの間に平和を保ちなさい」とも書いています。パウロの時代も今の時代もそうですが、教会の中で対立が起こってしまうことがしばしばあります。信徒同士の対立だけでなく、牧師と信徒という対立が起こってしまうこともあるのです。
 そんなとき、互いに平和を保つようにとパウロは勧めています。牧師は、自分に異議を唱える人々に対して、不要な権威を振り回すべきではありません。また、信徒も自分たちの言動が聖書の中心から離れてはいないかということを自らに問うことが大切なのです。
 いずれにしても、対立が起こったとき、ただ相手を批判するのではなく、互いに聖書の言葉に聞き従うことを基本にして、互いの違いを認めながらも尊敬と平和を保っていくかどうか、それが、教会の健康度を測るバロメーターとなるのです。いつもそのことを確認していきましょう。

2 教会の中の互いの関わり

 次に、14節を見ると、教会に集う人同士の互いの関わり方について書かれています。「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」とありますね。
 テサロニケの教会には、世の終わりに関して極端な考え方をして仕事を辞めてしまう人たちがいました。また、世が終わると聞いて恐れ戸惑う人たちもいました。「気ままな者」「小心な者」「弱い者」がいたのです。
 そういう人たちは、どこにでもいますね。私たち自身も、自分が「気ままな者」「小心な者」「弱い者」だなと感じることがありますね。
 パウロは、そういう特に配慮が必要な人々にどのように関わっていくべきかをここで教えています。

@気ままな者を戒める

 まず「気ままな者を戒め」とありますが、この「気ままな者」というのは、「怠惰な者」「わがままな者」「自分勝手で無責任な者」と訳される言葉です。元々は、「隊列から離れた兵卒」という意味があります。「気ままな人」というのは、中途で投げ出してしまう癖があるのですね。
 せっかく神様の恵みよって与えられた信仰を中途で投げ出してしまう人がテサロニケ教会にもいました。また、世の終わりについて極端な解釈をして日常生活を放棄してしまう人もいました。
 私たちも皆、そういう「気まま性」を持っているように思いますね。調子の良い時は、「主よ、あなたのためなら何でもします!」と言いながら、少し落ち込むと「もう、やめた」となってしまうのです。こういうことはよくあります。
 パウロは、そういう気ままな人たちを「戒めなさい」と言いました。
 「戒める」というと、何か、厳しく叱るようなイメージがありますね。「互いに戒めなさい」なんていうと、互いにさばき合って険悪なムードになりそうな感じがしますね。
 しかし、パウロは、そういう意味で言っているのではありません。ここで使われている「戒める」という言葉は、二つの言葉からできた合成語です。「心」という言葉と「置く」という言葉が合わさってできた言葉なのです。ですから、聖書における「戒め」の基本的な態度は、「相手の心に置く」ということです。つまり、相手の心に届くということを基本としているわけです。
 頭ごなしに「何やってるの。こうでしょう!」と言っても、心に届きませんね。心に届けるためには、まず、相手が心を開いてくれなければ始まりません。カウンセリングの世界では、「聴く」ことの大切さがいつも強調されますが、その通りだと思います。まず、こちらに「聴く」という態度がなければ、相手は、心を開きませんからね。まず、相手に心を開いてもらうということが大切です。
 そして、相手が心を開いたとき、聖書の言葉をそこに置いてあげること、それが聖書が教える「戒める」ということなんですね。

A小心な者を励ます
 
 次に、「小心な者を励まし」と書かれています。
 私たちは、いろいろな問題に対して心配ばかりします。何か問題が起こると、すぐに落胆してしまいます。そして、本能的に最悪な事態を予想して、不安に駆られてしまうことが多いのです。もちろん、人によってその度合いは違いますが、多くの場合は、否定的な方向に向かってしまうのです。
 私たちは皆、正直に自分を見るとき、自分は小心な者だと感じるのではないかと思います。だから、皆、励ましを必要としているのですね。
 ところで、ここで言われる「励まし」という言葉も特殊な言葉です。「傍ら」という言葉と「話す」という言葉から成っているのです。つまり、「励まし」の基本は、傍らにいることなんですね。遠く離れて傍観する批評家のような態度ではなく、また、「あなたと私は無関係だ」と突き放すような態度でもなく、その人の傍らに共にいるということが大切なのです。 
 イエス様は、「わたしは世を去って行きます。しかし、わたしはあなたがたに聖霊を遣わします」と約束してくださいました。そして、イエス様が復活し、天に昇っていかれた後、聖霊が私たちのもとに来てくださったのです。聖霊は、「パラクレイトス」といいますが、それは「傍らで呼ぶ」という意味の言葉です。聖霊は、私たちの助け主、慰め主として、いつも私ちの傍らにいて呼びかけてくださるのです。
 主が、いつも私たちの傍らにいて慰め、励ましてくださるように、私たちも落ち込んでいる人、心配している人の傍らにいることによって励ましを与えることができます。
 励ましの基本は、「傍らにいる」ということであることをいつも覚えていてください。

B弱い者を助ける

 それから、「弱い者を助け」と書かれていますね。
 「弱い」という言葉は、新約聖書では何回も使われています。病気を持っていることの弱さ、良心的な弱さ、意志の弱さ、さまざまな弱さがありますね。
 普通、「弱い者」イコール「ダメな人間」と思われることが多いですね。弱さを認めることは敗北であると考えている人もいます。ですから、弱音をはいてはいけないと考えたり、弱さを覚えても強がって生きなければならないと思っている人も多いのです。
 でも、教会では、強がりは必要ありません。格好つける必要もありません。弱くてもいいのです。というより、本当は、皆、弱く、助けを必要としているのです。
 パウロは「弱い者を助けなさい」と言いましたが、この「助ける」という言葉は、「親しむ」「かたく結びつく」「重んじる」とも訳される言葉です。そして、これも二つの言葉からできています。それは、「正面から」という言葉と「持つ」という言葉なんですね。ここでは、「正面から」ということが大切なわけです。
 イエス様のことを考えてください、イエス様は、私たちの弱さを真正面から受け取ってくださるお方です。
 マタイの福音書11章28節では、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と招かれましたね。
 また、ルカの福音書15章でイエス様が話された放蕩息子のたとえを思い出してください。放蕩三昧したあげく、落ちぶれて意気消沈して帰ってきた息子を、父親は真正面から受け入れたではありませんか。
 つまり、弱い者を助けるとは、まずその人を真正面から受け入れることから始まるというのです。
 また、「助ける」とは、「重んずる」という意味もあります。普通、弱さを持っている者は、軽んじられますね。しかし、聖書は、「弱さを持った者を重んじていきなさい。排除するのではなく、受け入れなさい。それが教会の互いの関わりなのですよ」と教えているのです。

 さて、パウロは、「気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助けなさい」と言いました。
 それは、一方的な「わたし助ける人、あなた助けられる人」ということではありません。私たち自身も、弱く、起き上がることができないような時がしばしばありますね。ですから、皆、戒めや励ましや助けを必要としているのであり、また、互いに戒めや励ましや助けを与えることができる者とされているのです。
 そして、そういうお互いの関わりを持つために必要なことをパウロは14節の最後に記していますね。それは、「すべての人に対して寛容でありなさい」ということです。
 教会には、いろいろな人がいます。性質、考え方、行動の仕方など、皆違いますね。私たちは、自分と違う人、合わない人を、つい批判したり、拒否しようとする傾向があります。気ままな人、小心な人、弱い人を見ると、見下したり、さばいたりしてしまうことがありますね。もちろん、人との関わりですから、腹の立つこともあるでしょう。納得がいかないこともあるでしょう。
 でもそういう時にこそ、寛容であることが必要なのです。
 私たちは、自分自身が多かれ少なかれ気ままな者であり、すぐに落ち込んでしまう小心な者であり、弱さを抱えている者ですね。イエス様は、そんな私たちを寛容に受け入れてくださり、戒め、励まし、助けてくださいます。ですから、そのイエス様の心を持って、私たちもお互いを寛容に受け入れ合いながら、互いに戒め、励まし、助け合っていくのです。相手を正面からありのまま受け入れ、相手の傍らに寄り添って、聖書の言葉を相手の心に届けていく、それが、教会における関わりです。
 イエス様の弟子のヨハネは、雷の子と呼ばれていました。すぐに頭にきて怒る性質だったようです。しかし、後に「愛の人」と呼ばれるようになりました。私たちも、イエス様に作り変えていただきながら、イエス様と同じ愛の心を持って、共に歩んでいきましょう。

3 教会の内外での関わり

 それから、パウロは、15節で、教会の中の関わりだけではなく、外部の人々に対してどのような態度を取るべきかを書いています。
「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい」と書いていますね。
テサロニケ教会にとって特に大きな問題は、ユダヤ人たちからの迫害でした。迫害ほど不条理なものはありません。怒りと憎しみを生み出すものです。しかし、パウロは、「悪を持って悪に報いるな」と記しているのです。
 ローマ人への手紙12章19節-21節には、こう書かれています。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
 人間関係の最も基本的なあり方は「善を行う」ことだと聖書は教えています。なされた悪に対して何からの形で報復したいという思いを人間は本能的に持っています。しかし、この報復の原理は、結局、悲惨な状況を生み出していきます。それは、世界のあちこちでなされている悲劇を見ればすぐに分かることですね。
 聖書は、「善を持って悪に打ち勝ちなさい」と教えます。それこそ本当の積極的平和主義と言えるでしょう。敵と思われる人々のために最善を行い、祝福を祈り求めていきましょう。
 夏になると私たちは終戦記念日を迎えます。平和のために祈り、また、お互いの関わりの中に平和を保ちつつ歩んでいきましょう。