城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年八月三日             関根弘興牧師
            第一テサロニケ五章一六節ー一八節

テサロニケ人への手紙連続説教11
    「生き方の極意」

16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(新改訳聖書)


先週は、お互いの関わりの基本についてお話しました。14節に「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」とありますね。「気ままな者を戒める」とは、頭ごなしに糾弾するのではなく、相手に心を開いてもらい、その心に聖書の約束を置いてあげることです。また、「小心な者を励ます」とは、その人の傍らに寄り添って語りかけることです。そして、「弱い者を助ける」とは、その人のありのままを正面から受け入れ、大切な存在として見ることから始まるのだ、ということをお話ししましたね。それは、イエス様が私たちに対してしてくださることでもあるのです。私たちは皆、気ままで、小心で、また弱い者ですね。だから、イエス様がしてくださるように、お互いに戒め、励まし、助け合っていくことが必要なのです。  

 さて、今日は、お互いがクリスチャンとしてどのような態度で歩んでいくことがふさわしいのか、クリスチャン生活に特徴的な姿とは何かを見ていきましょう。
 パウロは、今日の箇所で、簡潔に三つのことを記しています。それは、喜び、祈り、感謝です。
 パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です」と言いました。信仰は、私たちに喜びをもたらします。なぜなら、「神様が私の人生を導いてくださる」と確信するからです。希望は、祈りを生み出します。希望があるからこそ、私たちは心から主に祈り、願いをささげるのです。また、神様の愛が注がれているからこそ、私たちは心から感謝することができるんですね。
 ですから、クリスチャンとして生きていくとき、信仰と希望と愛が与えられ、そこから、喜び、祈り、感謝が生まれてくるのです。

 旧約聖書の詩篇34篇1節で、ダビデは「私は、あらゆる時に主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある」と記しました。ダビデは調子のいい時にこう言ったのでしょうか。違うのです。詩篇34篇の序文には「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気が違ったかのようにふるまい、彼に追われて去ったとき」という注釈が書かれています。どういうことかといいますと、ダビデは、何も悪いことをしていないのにも関わらず、ダビデに嫉妬したサウル王にいのちを狙われ、執ように追い回されて逃亡生活を続けていました。ある時、ダビデは、国内に留まるのが危険だったので、仕方なく敵国であるペリシテ人の町ガテに逃げて行ったのですが、ガテの人々はダビデに疑いの目を向けます。そして、ガテの王アビメレク(アキシュ)に殺される危険を感じたダビデは、彼らの前で気が狂ったふりをして、やっとの思いでそこから逃れ出ることができました。そういう困難の中で、ダビデは詩篇34篇を作り、「私は、あらゆる時に主をほめたたえる」と歌ったのです。
 また、皆さん、旧約聖書のヨナの話をご存じでしょう。ヨナは、イスラエルの預言者の一人です。ある時、神様は、ヨナに、「イスラエルの敵であるアッシリヤの首都ニネベに行って、わたしの言葉を語りなさい」とお命じになりました。しかし、ヨナは、敵に神様の言葉を聞かせたくなかったので、神様の命令に逆らって、正反対の方角に向かう船に乗り込みました。しかし、神様が大嵐を起こされたので、ヨナは、ついに海に投げ出されてしまいました。すると、大きな魚がヨナを呑み込んだというのですね。彼は魚の腹の中で神様に祈り、最後にこう告白しました。「しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」絶望と暗闇の中でヨナは、なんと感謝をささげたのです。すると、魚は彼を陸地に吐き出しました。
 また、昔、ユダの国にヨシャパテという王様がいました。ある日、彼は、自分の小さな国が近隣の強大な軍隊に包囲されたことを知りました。でもどうすることもできません。彼は、神様に向かって叫びました。自分の無力さを認め、神様に助けを求めて祈ったのです。すると、神様は、こう言われました。「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」この言葉を聞いて、ヨシャパテは、どうしたでしょうか。第二歴代誌20章21節にこうあります。「それから、彼は、民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾りものをつけて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出ていって、こう歌うためであった。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』」軍隊の先頭に聖歌隊を置いて神様を賛美させたというのです。常識では考えられない方法ですね。しかし、その時、何がおこったでしょうか。彼らが賛美の声をあげ始めた時、敵の大軍は、別の軍隊に攻撃されて全滅してしまったのです。ユダの人々は、神様を賛美をしている間に、神様が敵の大軍を滅ぼしてくださったのです。
 それから、新約聖書の使徒の働き16章には、このような記事があります。パウロとシラスがピリピへ伝道に行きました。すると、そこに占いの霊に憑かれた女性がいました。彼らは、彼女をその霊から解放しましたが、その女に占いをさせて儲けていた主人が激怒して役人に訴えたため、パウロとシラスは捕らえられ、着物をはがされ、何度も鞭打たれました。そして、足かせをつけられ、牢に入れられてしまったのです。背中は水膨れでひどく痛んでいたでしょう。これからさらにひどい罰を受けることになるかもしれません。そのような状態の中で彼らはどうしていたでしょうか。真夜中に祈りつつ賛美の歌を歌っていたのです。ほかの囚人たちもその賛美に聞き入っていました。その時、大地震が起こり、たちまち牢のとびらが全部あいて、みなの鎖がとけてしまったのです。この事件をきっかけとして、牢の看守とその家族がイエス様を信じて洗礼を受けました。だれも予想もしなかった展開になったのです。その鍵は、やはり、「祈りつつ、賛美をささげていた」ということでした。
 今日、なぜ聖書の引用をこれだけしているかといいますと、今日の箇所で、パウロが言っている「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」ということが、どれぼど大切かということをわかっていただきたいからです。
 物事が自分に都合よくいっている時や、良いことがあった時や、成功した時には、「主を賛美します。感謝します」と告白するのは簡単ですね。しかし、人生においては、多くの逆境や困難に遭遇します。そんな時に賛美するのは不自然だし、とても賛美なんかする気にならない、と普通は誰でも考えますね。しかし、不思議なことに、聖書は、逆境の中にあっても神様に賛美することを教えているのです。
 詩篇22篇3節には、「主は、イスラエルの賛美を住まいとしておられる」と書かれています。私たちが、どんな時にも主を賛美していくとき、そこに主がいてくださることを味わうことができる、と教えているのです。
 ですから、私たちは、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝していきたいですね。
 では、そうするためには、何が大切なのでしょうか。今日は、三つのことをお勧めしたいのです。

1 「あえて」が大切

まず、「あえて」ということです。あえて喜び、祈り、感謝するのです。
 今日の箇所を説教すると、いろいろな反応が返ってきます。「でもね、先生、実際は、喜ぼうにも喜べないことがたくさんあるんですよ。感謝せよと言ったって、感謝できることなど何一つありません」と言う方がいます。また、「感謝したいと思わないのに、口先だけで『感謝します』というのは、偽善ではないですか。牧師はいつも説教で『正直に生きよう』と言っているではありませんか」と言う方もいます。その通りだと思います。
 でも、聖書は、それでも「いつも喜べ。絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ」と教えています。そして、このことは神様が私たち一人一人に望んでおられることなのだというのです。
 ある本に、今日の聖書箇所とは正反対の人間が陥りやすい姿が記されていました。「いつも落ち込んでいなさい。絶えず恨みなさい。すべてのことについて不平を言いなさい。これこそサタンがあなた方に望んでいることです。」
 皆さん。私たちは落ち込むこともあります。恨むことも、不平を言うこともあります。でも、考えてみてください。人生が落ち込み、恨み、不平の三色で染まっていったら、悲惨な結果になるでしょう。でも、そうした落ち込みや恨みや不平を、あえて喜び、祈り、感謝に変えていったら、人生の景色は確実に変わっていくと思いませんか。 
 そこで、大切なのは「あえて」ということばなんです。
 確かに、「心で感謝したくないと思っているのに、感謝します、と言ったら偽善ではないか」と考えるかも知れません。でも、たとえば、子どもがこう言ったらどうでしょう。「お母さん、私は自分に正直に偽りなく生きていこうと思います。今日は宿題はまったくやる気持ちがありません。今ここで宿題をしたら、自分を偽ることになるので、今日はやりません。」これは、おかしなことですね。ただその時の気分に流されているだけですね。
 人間の感情や気分というのは、あてにならないものです。ジェットコースターのように舞い上がったり落ち込んだりしますね。また「なぜそんなことが起こったのか自分には、理解も納得もできないから、喜んだり感謝したりするなんてできない」という方もいますが、人間の理性にも限界があって、分からないことはたくさんあります。信仰に生きると言うことは、時には自分の理性や感情がついていかないこともよくあるのです。
 でも、神様がすべてを支配し、すべてを益にしてくださると聖書は約束しています。その約束の言葉を信頼して、意志を働かせて、「あえて」感謝を「あえて」祈りを「あえて」賛美をささげていくことによって、人は成長していくのです。
 この「意志を働かせる」ということは、信仰生活の基本です。意志をもって神様に信頼して歩む道を選び取っていく、意志をもって迫害する敵のために祝福を祈る、ます、意志を働かせるのです。そうすると、その後から、それにふさわしい感情や思いが生じてくるのです。
 ですから、辛い時には、まず、つらさを全部神様に打ち明けましょう。そして、あえて賛美し、祈るのです。思い煩いと心配の中にあるなら、神様にそのことを全部知っていただいて、あえて感謝していくのです。なぜなら、神様が私たち一人一人を愛し、最善のことをなしてくださることを、私たちは知っているからです。

2 「勇気」が大切

私は、礼拝の説教の中でたびたび言うことですが、信仰生活は、ほんの小さな勇気と冒険心が必要だと思っています。神様の約束の言葉を信頼して一歩踏み出していく勇気です。これはイエス様にあって生かされている信仰生活の醍醐味です。
 旧約聖書の中に、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地へ導かれて行くという有名な出来事が書かれていますね。彼らは長い間、荒野を旅していましたが、ついに約束の地を目前にする所までやってきました。しかし、ヨルダン川が彼らの前にとうとうと流れていたのです。この川を渡らなければ、約束の地に入ることはできません。すると、神様は、モーセに代わってリーダーとなっていたヨシュアにこう言われました。「まず祭司たちが契約の箱をかついで先頭を進め。祭司たちは、ヨルダン川の中に足を踏み入れなければならない。」ちょうど、一番水かさの増している時期でしたから、川の中に入ったら押し流されてしまうかもしれません。しかし、彼らは主の言葉に従って川の中に踏み出しました。すると、どうでしょう。先頭の者が一歩足を川に踏み入れたとき、川の流れがせき止められ、全員が無事に川を渡ることができたのです。もし、彼らが恐れて踏み出さなかったら、とても無理だとあきらめていたら、渡ることはできませんでした。岸でいくら眺めていても何も起こりません。でも彼らが神様の言葉を信頼し、一歩踏み出していったとき、川はせき止められたのです。これには勇気が必要ですね。でも神様は、彼らにこの素晴らしい経験をさせるために、あえて彼らをこの場所に導かれたのです。
 神様は、私たちにも同じようなことをなさいます。私たちは、まず、現状を冷静に受け入れ、この出来事も神様の支配と許しの中にあるのだと理解することが必要です。そして、聖書の約束の言葉を信頼して、勇気をもって踏み出していくのです。
 パウロは、コロサイ人への手紙3章16節で「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」と言っています。まず、キリストのことばを私たちのうちに豊かに住まわせることが大切なのです。主の豊かな約束があるからこそ、私たちは、喜び、祈り、感謝することができるのです。
 聖書には、素晴らしい約束がたくさん書かれていますね。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ8・28)
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3・11)
 私たちは、ただ闇雲に賛美、感謝しているわけではありません。主の豊かな愛の支えの中に生かされ、育まれているからこそ、賛美するのです。目の前の状況は全く変わっていないけれど、最善をなしてくださる神様が共にいてくださることのゆえに感謝する勇気を持っていくのです。

3 体験的に理解することが大切

 古い格言に「聞いたら、忘れる。見たら、記憶する。しかし、実行したら理解する」というのがあります。
 特に、今日のような説教は、実際の生活で試してみる以外、本当に理解することは出来ないでしょう。
 でも「いつも」「絶えず」「すべてのことについて」喜び、祈り、感謝するというのは、とても無理だと思う方もいるでしょうね。どうしてパウロは、「いつも」「絶えず」「すべて」と言ったのでしょうか。
 習慣とはおもしろいもので、初めはぎこちなくても、繰り返し続けていくと、ほんとんど意識しなくてもできるようになってしまいますね。自転車を乗る練習も、最初は何度も転びますが、いつのまにか乗れるようになりますね。体が覚えてしまうわけです。
 もしパウロが、「時々、気が向いたら、喜び、祈り、感謝しなさい」と書いてくれていたら、「それなら自分でもできる」と思うでしょうが、でも、それでは身についていかないのです。
 もちろん、私たちは、完璧ではありません。ですから、いつも喜んでいられないし、祈れないときもあるし、感謝できないこともよくあります。でも、「いつも」「絶えず」「すべて」と書いてあることによって、私たちが生活の中でこうしたことを身に付けていくことを神様が願っておられるのだと知りながら歩んでいくことが出来るのです。そして、この生き方こそ、私たちの人生を豊かにする極意なのです。

 さあ、今日の説教は、聞いてすぐ忘れてしまうのではなくて、「よし、今週この言葉を実行していこう」という思いを持って生活してみてください。
 いつも喜んでいなさい。大丈夫です。主なるイエス様が共にいてくださるのですから。絶えず祈りなさい。大丈夫です。イエス様は、「わたしの名によって祈り求めるなら、与える」と約束してくださっているのですから。すべての事について感謝しなさい。大丈夫です。すべてを働かせて益としてくださる神様がおられるのですから。
 あえて、勇気を持って、喜び、祈り、感謝をささげつつ今週も歩んでいきましょう。