城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年八月一〇日             関根弘興牧師
            第一テサロニケ五章一九節ー二八節

テサロニケ人への手紙連続説教12
   「真実な方によって」

19 御霊を消してはなりません。20 預言をないがしろにしてはいけません。21 しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。22 悪はどんな悪でも避けなさい。
23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
  25 兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。26 すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい。27 この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。
28 私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。(新改訳聖書)


今までテサロニケ人への手紙第一を連続して学んできましたが、今日はその最終回です。
 思い出していただきたいのですが、パウロは、テサロニケ教会に対して、「あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです」と書き送りました。なぜなら、テサロニケ教会の人々は、迫害を受けながらも信仰と希望と愛を保ちながら歩んでいたからです。その姿は、他の教会の模範となるものでした。
 しかし、テサロニケ教会にも問題がなかったわけでありません。世の終わりに関して大変極端な解釈をして、社会生活を放棄してしまい、締まりのない生活をしている人たちがいたのです。
 そこで、パウロは、この手紙の中で、そのような人々を戒めるように、そして、世の終わりはいつ来るのか分からないのだから落ち着いた生活をするように、と書き送ったのです。
 しかし、この後、パウロがテサロニケ教会に第二の手紙を書いた時にも、まだその問題は残っていたようです。
 パウロは、テサロニケ人への手紙第二の3章6節から12節でこう書いています。「兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。・・・ 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」パウロは、間違った熱狂や極端な解釈の故に仕事を放棄し、日常生活から離れてしまっている人たちを厳しく戒めたのです。
 さて、前回は、クリスチャンとしての生き方の極意ということで、クリスチャン生活の特徴的な姿を学びました。それは「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する」ということでしたね。これは、ただの知識としてではなく、一生涯を通じて実際に行いながら体験的に理解していくものです。皆さんは、この1週間、どのように過ごしてこられましたか。自分の意思を働かせて、あえて喜び、祈り、感謝をささげることができたでしょうか。
 そして、今日は、この手紙の最後の部分を学びますが、ここには、クリスチャンとしての生涯を送っていく上で心に留めておくべき大切なポイントが記されています。

1 いつも聖霊の働きを認める

 まず、19節に「御霊を消してはなりません」と書かれていますね。御霊、あるいは、聖霊と呼ばれる方について、また、その働きについて、ここでもう一度、確認しておきましょう。
 私たちの信じる神様は、三位一体なる神様です。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神という三つの位格(人間でいう人格にあたるもの)を持っておられる唯一の神様です。父なる神、子なるキリスト、聖霊は、同じ本質をもっておられ、完全な調和の中で、いつも一つの思いと目的を持って、一体となってみわざをなされているのです。
 父なる神は、私たちを救うために御子イエスを遣わしてくださいました。私たちのもとに人となって来てくださった御子イエスは、私たちの罪を背負い、十字架にかかり、救いの完成を成し遂げてくださいました。そして、御子イエスが復活し、天に昇られた後、今度は、信じる一人一人のもとに聖霊が遣わされたのです。聖霊は、いつも私たちと共にいてくださいます。聖霊が共におられるということは、父なる神、子なるイエス・キリストが共におられるということです。つまり、三位一体の神様がいつも私たちと共にいて、守り導いてくださるのです。聖霊によって、私たちは、神様の心を理解し、聖書のことばを生きて働くことばとして理解出来るようになります。また、聖霊によって、私たちの内側はきよめられ、愛、喜び、平安などの実を結び、キリストと同じ姿に変えられていきます。また、聖霊によって、神様に信頼し従っていく力や励ましを与えられるのです。聖霊は、私たちの内にも外にも、周りの状況にも働いてくださって、私たちを最善の道に導いてくださいます。
 ですから、その聖霊の働きを無視したら、クリスチャン生活は成り立ちません。
 ところが、私たちは、信仰生活を送る時にも、教会を建て上げる時にも、人間の計画や才能などを重視しすぎてしまい、人間的な標準で評価したり判断し、人間的な知恵や能力にのみ頼って、聖霊の働きを期待しなくなってしまうのです。
 しかし、神様は、ゼカリヤ書4章6節で、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と言われました。また、使徒の働き1章8節で、イエス様は「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」と言われました。私たちの信仰生活も、教会を建て上げる働きも、聖霊の働きなしには不可能です。だから、パウロは、御霊の働きを無視してはならない、御霊を消してはならない、と警告しているのです。
 しかし、その一方で、注意しなければならないことがあります。聖霊の働きを強調するあまり、今度は、逆に極端になって、人間の理性や感情や常識などをまったく無視して、ただ熱狂的になったり、混乱を引き起こすような状態になることがあるからです。
 私たちが忘れてはならないのは、神様は人を用いてみわざをなしてくださるということです。聖霊は、私たちの理性、意志、感情、思い、行動、能力などを用いてくださるのです。
 また、聖霊の働きは、預言やいやしのような華々しい出来事の中だけにあるのではありません。私たちが毎週共に礼拝する中にも、普段の日常生活の何気ない一つ一つの小さな事柄の中にも働いてくださっているのです。
 ですから、そういうことをまったく無視して、ただ奇跡的な出来事や不思議な働きが起こるのを期待するような傾向が出てきたら、気をつけなければなりません。
 クリスチャン生活には、バランス感覚が大切です。私たちは、それぞれに与えられた知恵や能力を生かしながら、その背後に聖霊なる神様の働きを信じ、期待し、歩んでいくものでありたいですね。
  
2 預言を吟味する

 次に、20節ー21節で、パウロは「預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」と記しています。
 預言は、聖霊の賜物の一つですね。聖霊の賜物は、他にもいろいろありますが、パウロは、ここで特に預言の賜物について記しています。預言は、私たちの信仰生活にとって、とても大切なものです。神様が私たちに語りかけてくださる言葉だからです。
 聖書のいう「預言」とは、どういうものでしょうか。一般的には、「予言」と書いて「未来を予告する」という意味に使われていますが、聖書の中の「預言」の「預」は「預かるという意味で、つまり、「神様の言葉を預かって語る」ということなんですね。ただ未来のことだけでなく、神様から与えられた言葉は、すべて「預言」なのです。
 新約聖書を見ると、預言の働きがいくつか書かれています。 一つは、「これから起こることを予告する」という働きです。たとえば、使徒の働き11章28節では、「アガボという預言者が世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった」と書かれています。
 また、預言には「徳を高める」「勧めをする」「慰めを与える」「罪を示す」などの働きがあることが、第一コリント14章に書かれています。
 預言は、聖霊によって語られるものですが、私たちは、「預言を語る」というと、どのようなイメージを持つでしょうか。恍惚状態になった人が不思議な言葉を発するとか、独特の雰囲気をもった人が特別な口調で語るとか、そういう神秘的な光景を想像する方もおられるでしょうね。
 けれども、聖書の「預言」とは、そのような特別なものだけを指すのではありません。たとえば、牧師が説教をするときは、神様の言葉を預かって語るわけですね。そして、説教を聞いている人が自分の問題に気づいたり、解決の方法を示されたり、励まされたりするわけですから、これは、大変、預言的なことだといえますね。また、私たちが個人的に誰かの相談に乗ったり祈ったりするときに、何気なく語り、祈った一言が相手の励ましや慰めになるということもあるでしょう。それも預言的な働きではないでしょうか。神様は、私たちの口を通して語ってくださり、互いに励まし慰め合うことのできる者としてくださっているのです。
 ですから、パウロは、コリント教会の人々に「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と勧めているのです。また、今日の箇所では、「預言をないがしろにしてはいけません」と記しています。一人一人が神様のことばを蓄え、互いに慰め、戒め、励まし、徳を高める言葉を語ることができるようになっていけたら、また、語られた言葉を大切に受けとめて成長していけたら素晴らしいですね。
 ただ、預言について、注意しなければならないことがあります。パウロは今日の箇所で「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」と書いていますね。また、第一コリント14章では、「預言をする人がいたら、ほかの人はその預言を吟味しなさい」と書いています。
 預言は、それが本当に神様からのものであるかどうか吟味し、見分ける必要がある、そして、本当に良いものだけを受け入れていく必要があるというのです。
 なぜなら、昔も今も、「聖霊に示された」と言いながら、間違った偽の預言を語る人が大勢いるからです。自分勝手な思い込みを「キリストのみ告げだ」とか「主がこのように言われる」と言って語る人々がたくさんいるのです。
 ですから、私たちは、よく吟味しなければなりません。では、どのようにして吟味するのでしょうか。基準は、聖書です。今日、聖書はすでに完成されていますから、これ以上何も付け加える必要もないし、何かを差し引くこともあってはなりません。
 私たちは、誰かが何かを語ったときに、「聖書は本当にそう言っているだろうか」「この人は、聖書に書かれていない何かを付け加えようとしているのではないだろうか」「聖書の言葉を自分の都合のいいように曲げて語っていないだろうか」と問い返す習慣を付けることが大切です。もし聖書と違うことを語っていたとしたら、それは神様からのものではありません。聖霊によるのではありません。よく吟味して異端に引きずり込まれないように注意しましょう。
 使徒の働き17章を見ると、パウロがベレヤという町に行って福音を宣べ伝えると、ベレヤの人々は「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」と書かれています。「はたしてそのとおりかどうか聖書を調べる」ことが大切なのです。そうすることによって、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守ることができるようになるのです。
 私たちは、聖霊の豊かな働きを認めながら、一方で、自分に与えられている知恵や思索をもって考え、聖書からじっくり吟味することが求められているんですね。このバランス感覚を大切にしていきましょう。

3 真実なる神に信頼する

次に、パウロは、23節で、まずこう祈っています。「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」
「聖なるもの」とは、「神様専用の大切な存在」ということです。私たちは、神様の専用品とされた大切な存在なのですから、自分を責めたり、互いに傷つけ合うのでなく、神様に愛されている者として感謝しつつ、自分もお互いも大切にしていくのです。
 また、パウロは、「主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」と祈っていますね。。
 ここで、「あなたがたの霊、たましい、からだ」と書かれていますが、人間は三重構造なんですね。一番外側に「からだ」、それから、内側に知性、感情、意志などを含む「たましい」と呼ばれる部分、そして、奥底に「霊」と呼ばれる部分があるというのです。この霊の部分は、神様から離れているときは死んだ状態です。死んでいるから、腐っていくし、神様と応答することができない状態です。でも、イエス様を信じて、この霊の部分が生かされると、神様との関係が回復し、生ける水が湧き出てきて、御霊の実が実るようになるのです。「霊」の部分が生きると「たましい」にも「からだ」にもまわりの人々にも良い影響が広がっていきます。ですから、聖書は、私たちの考えや感情だけでなく、私たちのすべてを全人格的に取り扱っている書物なのです。
 パウロは、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」と祈りました。私たちは、礼拝でよく「God Bless You(神様の祝福があなたにありますように)」という賛美を歌いますね。その中に「あなたの心とからだとすべての営みが守られささえられ、喜びあふれるように私は祈ります」という歌詞がありますが、パウロもテサロニケ教会の一人一人のために神様の祝福を祈っているわけです。
 そして、パウロは、24節で、「あなた方を召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」と宣言しています。
 パウロは、クリスチャン一人一人に対して、「神様があなたがたを召してくださったのだ」と言います。コロサイ1章13節では、「神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子の御支配の中に移してくださいました」と書いています。皆さんは、この言葉を「本当です」とうなずくことができますか。神様が私たちを召して、愛するイエス・キリストの御支配の中に、つまり、恵みとまことの中に移してくださったというのです。私たちが自分から神様のもとに行ったのではなく、神様が私たちを招き、みもとに召してくださったのだから、その神様が私たちを守ってくださらないわけがないでしょう、というのですね。
 パウロは、この5章にたくさんの命令を記していますね。「指導者を尊敬しなさい」「お互いに平和を保ちなさい」「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「すべてのことに感謝しなさい」「御霊を消してはいけません」などなど。
 でも、最後に「お前たち、頑張れ!」と言ったかというと、そうではなく、「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」と言ったのです。
 わたしたちの神様は「真実」なる方です。「真実」とは、「語る言葉に偽りがない」「約束したことを必ず行う」ということです。神様は約束したことをかならず行ってくださるのです。聖書には、神様の素晴らしい約束がたくさん書かれているではありませんか。神様は、それをすべて実現させてくださるのです。
「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」(第一コリント1・9)「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント10・13)「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(第二テモテ2・13)「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」(ヘブル10・23)
真実な方である神様ご自身が、私たちを守ると約束してくださっているのです。だから、肩の力を抜いて、委ねて生きていきましょう。

4 祈りの支援とあいさつ

パウロは、テサロニケの教会のために祈った後、25節では、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください」と頼んでいます。
パウロは、テサロニケ教会の生みの親のような存在ですが、自分も多くの祈りを必要としていました。教会とはそういうものです。牧師も信徒も互いが祈りを必要としているのです。私は祈る人、あなた祈られる人という構図があるなら、それは違います。互いに祈る者、祈られる者とされているのです。
 「私は祈りが下手なんです」とおっしゃる方がいますが、それは勘違いです。祈りに上手も下手もありません。神様に何でも自由に祈ってください。そして、自分のことだけでなく、他の人のためにも祈る者となっていきたいですね。
 それから、パウロは、26節で「聖なる口づけをもってあいさつをなさい」と書きました。あいさつを交わすことは大切ですね。それは、互いに安否を問うことでもあります。
ヨハネの手紙第三の15節でヨハネは「そちらの友人たちひとりひとりによろしく言ってください」と書いていますが、文語訳では「なんじ名をさして友に安否を問え」と訳されています。いい言葉ですね。「名をさして安否を問え」、それは、小さなことかもしれませんが、とても大切なことです。お互いに名前を挙げながら安否を問い合う仲間とされていることを覚えましょう。教会の中でも「私なんか、あまり価値がないのではないか」と勘違いしている人がいます。「私一人いなくても、どうってことないでしょう」と思うかもしれません。でも、そうではないことを知ってください。一人一人が主に愛されている大切な存在なのです。
 教会は、キリストの体に例えられます。いろいろな器官があるからこそ体は機能することができるのです。手ばかりでは不便ですし、口ばかりではうるさくてしょうがないですね。だから、主は、いろいろなタイプの人々を集めてくださっているのです。だから、自己卑下しないでください。他人と比べないでください。あなたがあなたであるからこそいいのです。
 一人一人が大切な存在であることを覚え、互いに安否を問いながら、共に与えられた信仰を保っていきましょう。互いにつながっていくことによってキリストのからだを建て上げ成長していくことができるのです。
 パウロは、最後に、この手紙がすべての人に読まれるように命令し、そして「イエス・キリストの恵みがあなたがたとともにあるように」という祝福の祈りをもって閉じています。
今日、この祈りをお互いの祈りとしながら、テサロニケの手紙の学びを閉じることにいたしましょう。