城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年八月一七日             関根弘興牧師
                         詩篇23篇

   「人生の羊飼い」

1 主は私の羊飼い。
  私は、乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、
  いこいの水のほとりに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、
  御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
  私はわざわいを恐れません。
  あなたが私とともにおられますから。
  あなたのむちとあなたの杖、
  それが私の慰めです。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
  私の頭に油をそそいでくださいます。
  私の杯は、あふれています。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
 恵みとが、私を追って来るでしょう。
 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(新改訳聖書)


 今日から八月の最後の礼拝までは、連続説教をお休みして、聖書のいろいろな箇所から説教させていただきたいと思います。 今日は、最も有名な詩の一つであり、世界中の多くの人たちから愛されている詩篇23篇をご紹介します。そして、この23篇を通して、自分自身の姿、また、聖書の神様がどのようなお方であるのかをご一緒に考えていきましょう。

今日、特に心に留めていただきたいキーワードがあります。それは、この詩篇の最初に書かれている「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」という言葉です。
 聖書は、人を羊にたとえることがよくあります。羊は、とても弱い生き物です。家畜として養ってもらわなければ絶滅していただろうと言われているくらいです。ですから、羊は、羊飼いなしには生きていけないわけですね。私たち一人一人は、そんな羊にたとえられているわけです。つまり、私たちも羊飼いが必要であり、誰が羊飼いであるかということは、人生にとって大きなテーマなのです。「あなたの羊飼いは誰ですか」と問われたら、皆さんは何と答えますか。
 聖書は、その答えをはっきりと記しています。天地を創造された神様ご自身が私たちの羊飼いだというのです。そして、天地万物を造り支配しておられる神様が羊飼いなら、私たち羊は乏しいことがないのです。
 では、神様は、私たちが乏しいことがないようにするために、どんなことをしてくださるのでしょうか。

1 養ってくださる

 まず、2節を見ると、「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」と書かれています。
 私たちは、日本に住んでいるので、辺り一面、緑があり、たくさんの川が流れていますね。「緑の牧場に伏させ、水のほとりに伴われる」と聞くと、まるでピクニックにいくような感じがしますね。
 しかし、この詩篇が書かれたパレスチナ地方は、荒涼とした場所が多く、まず緑を見つけるのが一苦労です。ですから、羊飼いは、羊のためにわずかな緑を探し求めてあちこち移動していくわけです。また、川もいつも水が流れているわけではありません。乾期になれば、みな干上がってしまうのです。ですから、羊たちに水を飲ませるのも一苦労です。羊たちのいのちはすべて羊飼いの肩にかかっているわけですね。
 神様は、その羊飼いのように、私たちを生きるために必要な緑と水のある場所に導いてくださるというのです。
 マタイ6章26節で、イエス様は、こう言われましたね。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」
 また、使徒14章17節で、パウロはこう言いました。「神様は、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」
 私たちが生きているのは、神様の養いがあるからこそなのです。神様が羊飼いとなってくださるのですから、私たちは、「私は乏しいことはない」と告白しつつ生きることが出来るのですね。そして、神様が与えてくださった一つ一つのことに対して感謝が生まれてくるのです。
 
2 たましいを生き返らせてくださる

次の3節を見ると、「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」と書かれています。「たましいを生き返らせてくださる」というのですね。
 人は、衣食住があれば、生きることはできます。しかし、人衣食住が足りればそれで済むかというと、そう簡単ではありませんね。それだけでは、本当に生きているとは言えないのです。
 宮城県の方が、ラジオ番組「世の光」にお便りをくださいました。「朝、朝食を作る。おいしいでもなければ、ありがとうでもない。夜、夕食を作る。おいしいでもなければありがとうでもない。ああ、むなしい」という内容でした。自分のやっていることに意味があるのだろうか?自分の存在は必要とされているのだろうか?こうしたことがわからないと、生きていても生きている実感がわきませんね。
しかし、「主は私のたましいを生き返らせてくださる」と書かれていますね。主は、私たちに太陽を昇らせ、雨を降らせ、養ってくださるばかりか、私たちのたましいを生き返らせてくださる方なのです。
 では、「たましいを生き返らせる」とはいったいどういうことでしょうか。
 以前にもお話ししたことがありますが、人の生活を規定しているのは、その人の内にある「ことば」です。内にある「ことば」が、私たち一人一人の人生観や世界観や価値観を定めているのです。
 どういうことかと言いますと、私たちは、生まれた直後から様々な語りかけを受けながら成長してきました。肯定的な語りかけもあれば、否定的な語りかけもあります。そうしたたくさんの語りかけや評価が私たちの内に積み重ねられて、価値観や人生観を構築していくわけです。そのため、「自分は駄目な人間だ」とか「自分は愛される価値がない」とか思い込んだり、また逆に「自分は人より勝っている」と高慢になったり自信過剰になってしまうこともあるのです。
 いろいろな「ことば」を心に受け入れていく中で、その「ことば」が私たちの人生を規定し、ある時には束縛し、自由を失わせ、本来の自分らしさを奪ってしまうこともあるわけですね。ですから、どのようなことばを受け入れ、どのようなことばに信頼して生きるかということは、私たちの人生にとって大切な問題なのです。
 聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」と教えています。人が生きるのは、神のことばによるのだというのです。人が人として本来あるべき姿で「生きる」ためには、変わることのないことば、「神のことば」を受け入れ、その「ことば」によって生きていくことが必要だと聖書は教えているのです。
 では、その「神のことば」とは、どのようなものでしょうか。神様は、私たちに何を語ってくださっていますか。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語ってくださいます。また、「わたしは、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と語ってくださいます。
 人生は、どんな言葉に支配されているかによって変わっていくのです。私たちの羊飼いである主は、私たちに愛、恵み、祝福、慰め、励まし、希望のことば、また、知恵のことば、戒めのことばを語りかけてくださいます。そのことばによって、私たちの魂を生き返らせ、義の道、つまり、人として本来あるべき道に導いてくださるのです。

3 守ってくださる

次に、4節には、こう書かれています。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
 「死の陰の谷」とは、狭く険しく見通しのきかない場所のことです。そうした人生の暗闇のような所を通るときも、恐れることはないというのですね。
「死の陰の谷」を歩くような経験をすることは、誰にでもありますね。私は、この4節を読む度に思い出すことがあります。それは、母が病床で書いていた日記のことです。母は、19年前に肝臓癌で召されました。召される前に、私たち家族は集まって、母に、癌であること、そして、この地上の生活はそう長くはないことを告げたのですが、その日の母の日記の最後に、この4節の言葉が記されていたのです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、 私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」そして、母は、そのひと月後に召されました。
 死という現実は避けることが出来ません。しかし、その現実を受け入れ、永遠の御国に導いてくださる羊飼いなる神様を信頼することによって、勇気と希望が与えられるのです。
 羊飼いなる主は、死の陰の谷を通るときも私たちと共にいてくださいます。そして、「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」と書かれていますが、この「むち」とは、羊を打ちたたくものではなくて、外敵から羊を守るために使われるものです。また、「杖」は、羊が道をそれていかないように、羊をやさしく導くために使われるのです。神様は、いつも共にいて、永遠に至るまで私たちを守り導き続けてくださるのです。

4 落ち着きとゆとりを与えてくださる

そして、5節には、こう書かれています。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」
 ここでは、「敵」に直面したときのことが書かれていますが、「敵」とは誰のことでしょうか。それは、自分と立場の違う人々のことを指しているのです。私たちは、社会生活の中で、立場の違う人にたくさん出会いますね。意見が違い、考え方が違い、時には、その違いによって争いにまで発展していくわけです。
 ですから、ここでいう「敵」とは、戦いの時の敵ということだけではなく、普段の生活の中で様々な違いによってもたらされる人間関係の問題と考えてもいいのです。
 そういう敵の前で食事をととのえてくださるというのは、緊張した状況、困難な状況にあってもゆとりや落ち着きを与えてくださることだと言ってもよいと思います。
 フランスの哲学者、物理学者、神学者のパスカルは 「人の悩みのすべては、一人きりで静かに部屋に座っていられないことから生じる」と言ったそうですが、 旧約聖書のイザヤ書30章15節には、こう書かれています。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」
 私たちは、人々とのいろいろな意見の違いによって、物事が進まなかったり軋轢が生じると、あせったり、動揺したりすることがあります。また、心配や不安に襲われると、食事がのどを通らないということが起こります。でも、そんな時、主は食事をととのえてくださる、つまり、落ち着きとゆとりを与えてくださるというのです。
 そして、そればかりか、「頭に油を注いでくださる」とありますね。「油を注いでくださる」とは、どういう意味でしょうか。イザヤ書61章3節に「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう」とあります。ここでは、「油が注がれる」とは、「喜びが与えられる」という意味なんですね。
 また、「私の杯はあふれています」とありますが、これは、困難な時でも満ち足りる経験をしている、ということなんです。
これと似たようなことをパウロはピリピ4章11-13節で語っています。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
 
5 いつくしみと恵みを絶えず与えてくださる

次に、6節には「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」と書かれていますね。
 みなさん、是非、このことを覚えてください。私たちがこの地上に住む間、神様の愛を失うことは決してありません。私たちの行く所どこにおいても、いつくしみと恵みが追ってくるというのですから。
 「いやー、関根さん、そんなことはありませんよ。私は、いつも問題や苦しみに追いかけられていますよ」とおっしゃる方もいるかも知れません。確かに私たちの毎日は、苦労の連続だと思います。
 しかし、そうした中で、今日のキーワード、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」と言う言葉を思い出していただきたいのです。確かに苦労があるし、困難が次から次へとやってくるのが現実です。しかし、そんな中でも、羊飼いなる主は、私たちを養い、導き、ゆとりを与えてくださるのです。死の影を通る辛い経験の中でも、それを乗り越える希望を与えてくださいます。落ち込んで起き上がれないような状態にあるときに、たましいを生き返らせてくださるのです。そういうお方がいつも共に歩んでくださっているのですから、私たちは、その方のいつくしみと恵みを味わいつつ歩んでいくことができるのです。
哀歌3章22節ー25節には、こう書かれています。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。」

6 住む家を備えてくださる

そして、この詩篇の最後に書かれている言葉は、「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」というものですね。
 旧約聖書の申命記33章27節には「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に」と書かれています。神様ご自身が私たちの住む家となってくださると約束しているのですね。
 家とは、本来、自分がそこにいることが良いとか悪いとか決して問われない場所です。ありのままの姿でくつろぐことの出来る場所であり、本当の自分でいられる場所が家であるはずです。家は、ほっと出来る場所なんですね。
 聖書は、永遠の神様ご自身が私たちの家となってくださっていると教えています。神様が私たちの家であるということは、私たちは神様の中でありのままの姿で本当の安心と安息とくつろぎを得ることができるということなんです。この地上の生涯を歩むときも永遠の住まいに移されてからも、私たちは、神様という永遠の家に住むことができるのです。

 さて、今日の箇所は旧約聖書ですから、「主」、つまり神様が私たちの羊飼いであると書かれていますね。
 一方、新約聖書のヨハネ10章10節ー11節では、イエス様がこう言っておられます。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と。
 つまり、神であるのに私たちと同じ人となって私たちのもとに来てくださったイエス様の姿を通して、私たちは、詩篇23篇の羊飼いの姿をより具体的に知ることが出来るようになったのです。
 私たちの羊飼いは「羊のために自分のいのちを捨ててもかまわない」というほどに愛に満ちた方です。私たちを救うために十字架にまでついてくださったかたです。また、イエス様は
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」とも言われました。その偉大な権威をもって、私たちを守り、必要なものをすべて備えてくださいます。また、イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とも言われました。イエス様は、私たちを行くべき道に導き、真理を教え、いのちを与えてくださるのです。
 そういうイエス・キリストが私たちの羊飼いとして共に歩んでくださるのですから、私たちは、「私は乏しいことがありません」と告白しつつ与えられた人生を歩んでいくことができるのです。
この詩篇の内容を覚えつつ、主が与えてくださるいつくしみと恵みの中を歩んでいきましょう。