城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年八月二四日             関根弘興牧師
                         詩篇42篇

    「魂の渇き」

指揮者のために。コラの子たちのマスキール
1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。4 私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
 6 私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から 私はあなたを思い起こします。7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。8 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言っています。11 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。(新改訳聖書)

 今日は、礼拝の聖書交読でもたびたび読まれている詩篇42篇から、信仰に生きるということはどのようなことなのか、そして、私たちがどのような態度でこの人生を歩んで行けばいいのかをご一緒に考えていきましょう。
今日の詩篇には、表題が付いています。「指揮者のために。コラの子たちのマスキール」とありますね。
 旧約聖書の有名なダビデ王は、神様を賛美するために特別に訓練した聖歌隊と楽団を作り、アサフ、ヘマン、エドトンという三人を指導者として任命しました。1歴代誌25章の記録を見ると、聖歌隊は12人が一組で、24組あり、三人の指導者の息子たちが各組のリーダーとなっていました。彼らは、交替で公の礼拝の際に楽器を演奏し、賛美しました。詩篇の言葉にメロディーをつけて歌ったのです。
 ですから、詩篇には、いろいろな表題がついています。たとえば、「フルートに合わせて」「弦楽器にあわせて」とか、また、歌い方の技法のようなものが書かれているものもあります。今日読んだ詩篇42篇の表題には、「指揮者のために。コラの子たちのマスキール」と書かれていますが、「コラの子たち」は聖歌隊で奉仕をした人たちです。そして、「マスキール」というのは、意味がよくわからないのですが、「教える歌」「教訓的な歌」という意味があると言われています。あるいは、「特別な歌の技法」のことだと考える人もいます。
 とにかく、旧約の時代の人々は、神様に賛美をささげることを大切にしていました。礼拝のために特別な聖歌隊が編成され、賛美をささげ、また、賛美を通して神様が語りかけてくださるということを覚えながら礼拝していたのですね。
詩篇22篇3節には、神様が「イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と書かれていますが、私たちが神様を心から賛美するとき、神様が共にいてくださると知ることができるのですね。
 ですから、私たちがここで礼拝するときにも、賛美は大切です。賛美は説教前の「刺身のつま」ではありません。賛美を通して、時には説教以上に神様の現実に触れ、励まされ、支えられることもあるのです。ですから、私たちは、心からの信仰の告白として賛美をささげていくのです。
 さて、今日読みました「詩篇42篇」は、大変な苦悩の中で書かれた詩篇です。この詩篇を通して苦しみの中にあっても希望を告白することが私たちの信仰生活にとても大切なのだということを学んでいきたと思います。

1 魂の渇き

この詩篇の作者の魂は、とても渇いていました。パレスチナ地方では、日本と違って、いつも水が流れているわけではありません。乾季になると多くの川は枯れてしまいます。そこで、鹿は、少しだけちょろちょろ流れている水を求めて谷底まで下っていくのです。それは、水を必死に求める孤独な姿です。この作者は、自分の姿をその鹿の姿と対比しているのですね。
 作者はその時、礼拝の中心地であったエルサレムから遠く離れざるを得ない状態にあったようです。6節に「それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします」とありますね。ヨルダンとヘルモンには高い山があります。ミツァルというのは小さいという意味があるそうですので、低い山ということなのかもしれません。
 ある学者は、「この詩篇は、エルサレムがバビロン軍に破壊された時に捕虜となった祭司が、バビロンに連れていかれる途中のヨルダンやヘルモンの地で書いたのだろう」と考えます。また別の学者は、「1節の動詞の形が女性形だから、この作者は、もしかすると、奴隷狩りで捕らえられた女性ではなかったか」と言います。いずれにせよ、この詩篇は、人生で最も困難な中で書かれたものの一つなのです。
 この作者は、苦しみの中で、魂の渇きを覚えていました。また、3節には、「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」と書かれていますね。自分の置かれた状態を考えて、絶えず涙し続けていたようです。
 とくに、この作者を苦しめていたのは、「どうして、まことの神様を礼拝していた私がこんな惨めになるのだろう」「神様が生きているなら、どうしてこんな事態をほっておかれるのだろう」という思いでした。聖書には、たとえば詩篇73篇1節には、「まことに神は、心のきよい人たちに、いつくしみ深い」と記されています。だから、神様を信頼し生きているなら、当然、神様のいつくしみと恵みがあふれていいはずだと考えるわけですね。それなのに、なぜこんな苦しみが襲ってくるのかという思いが作者を苦しめていました。しかも、周りの人々からは「おまえの神はどこにいるのか」というあざけりの声が聞こえてくるのです。
 これを読むと、あのヨブ記に出てくるヨブの妻の言葉を思い出しますね。ヨブが突然すべての財産と子どもたちを失い、しかも全身に悪性の腫物ができて苦しんでいたとき、ヨブの妻は、「こんなひどいことになっても信仰を持ち続けるのですか。信仰なんか持っていても何の意味もない。くだらない。いっそ神様をのろって死になさい」と言ったのです。これは、実に多くの人の考えを代表している言葉だと思います。
 しかし、ヨブは「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」と言いました。立派な答えですね。しかし、それからしばらくの間、ヨブは絶望との壮絶な戦いを経験しなければなりませんでした。きれいごとなど言っていられません。神様をのろうことはしませんでしたが、あまりの苦しみに、「私なんか生まれて来なければよかった。私の生まれた日はのろわれよ」と叫んだのです。
 ヨブを最も苦しめたのは、「神様は、私のことを本当に理解してくださっているのだろうか」という心の渇きでした。ちょうど、今日の詩篇の作者と同じようにです。私たちもそのような状態に陥ることがあるでしょう。そんなとき、どのような信仰のあり方が必要なのでしょうか。

2 信仰のあり方

@生ける神を求める

私たちが「信仰」という言葉を使うとき、いくつかの自分勝手な思い込みがあるように思います。
 一つは、神様を信じると良いことがある、神様を信じると立派になれる、お金が儲かる、とにかく自分の色々な欲求を満足させるために信仰があるという思い込みです。いつも自分が中心で、神様は自分に都合のいいことをしてくださるはずだと思い込んでいるのです。ですから、調子の良いときは、何も問題はありませんが、突然、問題や苦しみ、病気などが起こると、とたんに「神様は、なんでこんなことをなさるのか。神様なんて信じられない」で終わってしまうんです。こうした信仰の持ち方をしていると、必ずつまずいてしまいます。
 もう一つは、「信仰を持っていれば、問題が襲って来ても悩んだり落ち込んだりすることはないはずだ」という思い込みです。そして、もし悩んだり落ち込んでしまうと、それは自分には立派な信仰がないためだと考えるのです。そして、自分は神様を信じ切れない不信仰な者だと考えてしまうのです。こう考えている人の信仰生活は辛いですね。なぜなら、問題が起こらないことなど人生にはないからです。問題が起こるたびに落ち込み、悩み、そのたびに自分を責めていくわけですから、これは辛いですね。このような信仰生活も、いつしか疲れ切って、つまずいてしまうのです。
 しかし、聖書教えている信仰のあり方は、そういうものとは違います。「自分」が中心にならないんです。たとえ困難があっても、悩んでも、「神様はなお私を愛してくださる」「神様がなお私を導いてくださる」というように、いつでも主語が自分ではなく神様なんです。
 先週、旧約聖書の詩篇23篇を読みました。「主は私の羊飼い」「主は、導いてくださる」「主がともにいてくださる」「主がゆとりをあたえてくださる」、すべて、主語は神様でしたね。神様がすべてのことを支配し、導いておられる、神様が羊飼いで私たちを養ってくださる、だから、「たとえ、死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざいわいを恐れない」と告白することができるのです。
 ですから、いつでもその神様を慕い求めていくことが大切です。今日の詩篇の作者も、「生ける神を求めて渇いています」「あなたを慕いあおいでいます」と記していますね。生きている神様に求めるのでなければ、その求めはむなしいものです。木や石にすぎないいのちのない神々に求めるのではなく、生ける神をこそ求めるのだ、というのです。
人生最大の困難の中で、渇きを覚え、苦しみが襲ってきた時、この作者は「こんな苦しみがあるのだから、もはや神などいない」と告白したのではなく、生ける神を慕い求めたのです。
 神様を否定して、問題の解決を得ることはできません。神様をのろって、道が開けることはありません。自分では理解出来ない苦しみがある時、信仰の葛藤がある時こそ、生ける神がおられることを信頼し、なおこの神様に求め続けていく姿が大切であることをこの詩篇は教えているのです。

A思い起こす

 さて、壮絶な渇きの中で、問題解決への糸口は何だったのでしょう。この作者はまず、「思い起こす」ということをしていきました。4節にこう書かれていますね。「私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。」 どういうことかと言いますと、この作者は、喜びと感謝をもって神様に礼拝をささげた時のことを思い起こしたのです。エルサレムの神殿で、みんなと一緒に礼拝をした時のことです。
 でも、思い起こすのはいいのですが、ただ「昔はよかった。でも、今は駄目だ」で終わってしまっては意味がありません。今を否定し、無益な回想をするだけというのは虚しいですね。 しかし、この詩篇の作者にとって、昔、喜びと感謝をもって神様を礼拝したことを思い起こすことは、大きな慰め、力となっていきました。昔、みんなと一緒に喜びと感謝をもって礼拝をささげた神様は、今の全く違う環境の中にもいてくださる生ける神様ではないか、ということを深く思う方向へと向かわせていったのです。
 詩篇103篇には「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあります。主の良くしてくださったことはたくさんありますが、中でも、特にイスラエルの人々が困難な時にいつも思い起こした出来事があります。それは、エジプトで奴隷であった彼らがモーセに率いられてエジプトを脱出し、紅海を渡り、約束の地へと導かれた出来事です。そのすばらしい主のみわざを思い起こし、彼らは、「あの時、私たちを守り、導いてくださった神様が、今もおられるではないか」と再確認していったのですね。
私たちは、時々、信仰生活がマンネリになって感動が薄れ、主の恵みに慣れっこになってしまうことがありますね。だから、いつも繰り返し、神様の恵みを想起することが大切です。
 私たちは、毎週この場所で礼拝をしていますが、いつも心から、生ける神様に喜びと感謝の心を込めて礼拝したいですね。そして、困難に直面した時には、礼拝の有様をを思い起こすのです。どうでしょう、皆さんなら、何を思い起こしますか。「ああ、退屈な説教だったな」というのでは、思い起こしても意味がありませんね。でも、この詩篇の作者は、「あの時は喜びと感謝をもって礼拝したんだ。本当に生き生きとした礼拝をささげたんだ。なぜなら、生ける神様がおられるのだから」という思いを持ったのです。
 ですから、私たちは、いつも「この礼拝において、主の豊かな現実を見させてください。恵みをあふれるほど味わわせてください」と期待しつつ集うことが大切です。神様が今も生きておられることを本当に味わうことのできる礼拝でありたいと私は願っています。礼拝は、共に喜び、共に賛美し、共に感謝をささげ、主が共にいてくださることを覚えるひとときです。そして、どんな時にも「生ける神様に喜びと感謝を持って礼拝をささげた」ということを思い起こすことができるようでありたいですね。

B告白

 それから、もう一つ、問題解決のために必要な糸口は、正直な告白です。まず、神様の前に素直になるのです。神様は、私たちが素直に告白する悩みや真実な叫びを無視される方ではありません。
 この詩篇の作者は、3節で「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」と言ったかと思うと、8節では「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが」と言っています。しかしまた、9節では「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」と言っています。泣いたり、賛美したり、不満をぶつけたり、まるでジェットコースターみたいですね。この作者の置かれている状況は何も変わっていませんが、この作者は本当に素直に、自分を隠そうとせずに、その時々の自分の思いを素直に告白しています。そして、「昼も夜も涙があるけれど、でも、その傍らには恵みの歌もあるのだ」ということを苦しみの中で体験していったのです。人生には、涙もあるけれど、同時に恵みの歌も備えられているということを味わうことができるのですね。
 私たちは、この作者に親近感が持てるのではありませんか。私たちの心も、まるでジェットコースターみたいですね。でも、それでいいではありませんか。私たちは、喜んだり悲しんだり、賛美したり嘆いたりします。それを隠す必要はありません。無理をして自分をよく見せる必要はありません。ただ、素直に主の前に正直な告白をしていくとき、主の恵みへの感謝の歌も生まれてくるのです。

C待ち望む

 さて、神様に素直に自分の状態を告白するとともに、この作者は、5節でこう言っています。「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」
 大変な心の葛藤の中で、作者は「なぜうなだれているのか」と自分に問いかけています。そして、自分に向かって「神を待ち望め」、「なおも神をほめたたえる」と意志的にあえて自らに言い聞かせているのです。
 この作者は生ける神に求めています。生ける神様がいてくださるから求めたのです。そして、求めたら、今度は神様の働きを待つのです。もちろん何もしないでただ待っているということではなくて、与えられた毎日を誠実に生きながら待つのです。 この詩篇の作者は、「私は、生ける神様に求めたのだから、その生ける神様の働きを待ちます」と告白しました。そして、それを自分に言い聞かせ続けたのです。
 私たちは、なかなか待てないことがあります。そして、焦り、恐れ、不安に駆られてしまうのです。だから、この作者が行ったように、何度も何度も「神を待ち望め。私は、なおも神をほめたたえる」と自分に繰り返し言い聞かせていくのです。
 私たちの人生で訓練される必要があるのは何かというと、この「待つこと」ではないかと思います。「忍耐」です。私たちは、自分の考えている時間と神様の時間がなかなか一致しないので焦ります。そして、待てないのです。そして、委ねることをしなくなってしまうことがあるのです。でも伝道者の書3章11節には、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と書かれています。ですから、「神を待ち望め」と自らに語りかけ続けるのです。
ところで、お気づきなった方もいると思いますが、5節と11節にはほとんど同じ文が書かれていますが、違いが二つあります。一つは、「なぜ」という言葉が5節は一回なのに11節には二回出てきます。もう一つの違いは、最後の行です。5節では「御顔の救いを」となっていますが、11節では「私の顔の救い、私の神を」となっていますね。
 聖書では「顔」という表現を使ってその人自身を表すことがあります。ですから、5節で「御顔」と訳されているのは、神様ご自身のことです。つまり、「御顔の救い」とは「神様の救い」という意味です。
 一方、11節では、「私の顔の救い」となっていますね。「私の顔の救い」というのは、とても奇異に感じる表現ですね。しかし、先ほどお話しましたように、「顔」とはその人自身をさす表現として使われることがよくあります。ですから、「私の顔」とは、この作者自身のことなんですね。つまり、「私の顔の救い」とは「私自身の救い」、「私自身に与えられる神様からの救い」という意味なんです。ですから、5節と11節の意味は結局、同じなんですね。
 困難な中でも、なおも生ける神様をほめたたえ、神様の救いを待ち望む、それが大切だということをこの詩篇は教えているのです。

 今週、神様の様々な恵みを思い起こしながら、「主よ。私はあなたをほめたたえます」という祈りをもって過ごすことができたら、幸いですね。時には、自分自身に向かって「わがたましいよ。なぜ、絶望しているのだ。なぜ、思い乱れているのだ。神を待ち望め、なおも神をほめたたえよう」と問いかける必要があることが起こるかもしれません。でも、その涙の叫びの傍らに恵みが備えられていることも覚えていてください。
最後に、42篇5節の言葉をご一緒に読んでお祈りしましょう。
「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。 御顔の救いを。」
キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年八月一七日             関根弘興牧師
                         詩篇23篇

   「人生の羊飼い」

1 主は私の羊飼い。
  私は、乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、
  いこいの水のほとりに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、
  御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
  私はわざわいを恐れません。
  あなたが私とともにおられますから。
  あなたのむちとあなたの杖、
  それが私の慰めです。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
  私の頭に油をそそいでくださいます。
  私の杯は、あふれています。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
 恵みとが、私を追って来るでしょう。
 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(新改訳聖書)


 今日から八月の最後の礼拝までは、連続説教をお休みして、聖書のいろいろな箇所から説教させていただきたいと思います。 今日は、最も有名な詩の一つであり、世界中の多くの人たちから愛されている詩篇23篇をご紹介します。そして、この23篇を通して、自分自身の姿、また、聖書の神様がどのようなお方であるのかをご一緒に考えていきましょう。

今日、特に心に留めていただきたいキーワードがあります。それは、この詩篇の最初に書かれている「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」という言葉です。
 聖書は、人を羊にたとえることがよくあります。羊は、とても弱い生き物です。家畜として養ってもらわなければ絶滅していただろうと言われているくらいです。ですから、羊は、羊飼いなしには生きていけないわけですね。私たち一人一人は、そんな羊にたとえられているわけです。つまり、私たちも羊飼いが必要であり、誰が羊飼いであるかということは、人生にとって大きなテーマなのです。「あなたの羊飼いは誰ですか」と問われたら、皆さんは何と答えますか。
 聖書は、その答えをはっきりと記しています。天地を創造された神様ご自身が私たちの羊飼いだというのです。そして、天地万物を造り支配しておられる神様が羊飼いなら、私たち羊は乏しいことがないのです。
 では、神様は、私たちが乏しいことがないようにするために、どんなことをしてくださるのでしょうか。

1 養ってくださる

 まず、2節を見ると、「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」と書かれています。
 私たちは、日本に住んでいるので、辺り一面、緑があり、たくさんの川が流れていますね。「緑の牧場に伏させ、水のほとりに伴われる」と聞くと、まるでピクニックにいくような感じがしますね。
 しかし、この詩篇が書かれたパレスチナ地方は、荒涼とした場所が多く、まず緑を見つけるのが一苦労です。ですから、羊飼いは、羊のためにわずかな緑を探し求めてあちこち移動していくわけです。また、川もいつも水が流れているわけではありません。乾期になれば、みな干上がってしまうのです。ですから、羊たちに水を飲ませるのも一苦労です。羊たちのいのちはすべて羊飼いの肩にかかっているわけですね。
 神様は、その羊飼いのように、私たちを生きるために必要な緑と水のある場所に導いてくださるというのです。
 マタイ6章26節で、イエス様は、こう言われましたね。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」
 また、使徒14章17節で、パウロはこう言いました。「神様は、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」
 私たちが生きているのは、神様の養いがあるからこそなのです。神様が羊飼いとなってくださるのですから、私たちは、「私は乏しいことはない」と告白しつつ生きることが出来るのですね。そして、神様が与えてくださった一つ一つのことに対して感謝が生まれてくるのです。
 
2 たましいを生き返らせてくださる

次の3節を見ると、「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」と書かれています。「たましいを生き返らせてくださる」というのですね。
 人は、衣食住があれば、生きることはできます。しかし、人衣食住が足りればそれで済むかというと、そう簡単ではありませんね。それだけでは、本当に生きているとは言えないのです。
 宮城県の方が、ラジオ番組「世の光」にお便りをくださいました。「朝、朝食を作る。おいしいでもなければ、ありがとうでもない。夜、夕食を作る。おいしいでもなければありがとうでもない。ああ、むなしい」という内容でした。自分のやっていることに意味があるのだろうか?自分の存在は必要とされているのだろうか?こうしたことがわからないと、生きていても生きている実感がわきませんね。
しかし、「主は私のたましいを生き返らせてくださる」と書かれていますね。主は、私たちに太陽を昇らせ、雨を降らせ、養ってくださるばかりか、私たちのたましいを生き返らせてくださる方なのです。
 では、「たましいを生き返らせる」とはいったいどういうことでしょうか。
 以前にもお話ししたことがありますが、人の生活を規定しているのは、その人の内にある「ことば」です。内にある「ことば」が、私たち一人一人の人生観や世界観や価値観を定めているのです。
 どういうことかと言いますと、私たちは、生まれた直後から様々な語りかけを受けながら成長してきました。肯定的な語りかけもあれば、否定的な語りかけもあります。そうしたたくさんの語りかけや評価が私たちの内に積み重ねられて、価値観や人生観を構築していくわけです。そのため、「自分は駄目な人間だ」とか「自分は愛される価値がない」とか思い込んだり、また逆に「自分は人より勝っている」と高慢になったり自信過剰になってしまうこともあるのです。
 いろいろな「ことば」を心に受け入れていく中で、その「ことば」が私たちの人生を規定し、ある時には束縛し、自由を失わせ、本来の自分らしさを奪ってしまうこともあるわけですね。ですから、どのようなことばを受け入れ、どのようなことばに信頼して生きるかということは、私たちの人生にとって大切な問題なのです。
 聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」と教えています。人が生きるのは、神のことばによるのだというのです。人が人として本来あるべき姿で「生きる」ためには、変わることのないことば、「神のことば」を受け入れ、その「ことば」によって生きていくことが必要だと聖書は教えているのです。
 では、その「神のことば」とは、どのようなものでしょうか。神様は、私たちに何を語ってくださっていますか。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語ってくださいます。また、「わたしは、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と語ってくださいます。
 人生は、どんな言葉に支配されているかによって変わっていくのです。私たちの羊飼いである主は、私たちに愛、恵み、祝福、慰め、励まし、希望のことば、また、知恵のことば、戒めのことばを語りかけてくださいます。そのことばによって、私たちの魂を生き返らせ、義の道、つまり、人として本来あるべき道に導いてくださるのです。

3 守ってくださる

次に、4節には、こう書かれています。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
 「死の陰の谷」とは、狭く険しく見通しのきかない場所のことです。そうした人生の暗闇のような所を通るときも、恐れることはないというのですね。
「死の陰の谷」を歩くような経験をすることは、誰にでもありますね。私は、この4節を読む度に思い出すことがあります。それは、母が病床で書いていた日記のことです。母は、19年前に肝臓癌で召されました。召される前に、私たち家族は集まって、母に、癌であること、そして、この地上の生活はそう長くはないことを告げたのですが、その日の母の日記の最後に、この4節の言葉が記されていたのです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、 私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」そして、母は、そのひと月後に召されました。
 死という現実は避けることが出来ません。しかし、その現実を受け入れ、永遠の御国に導いてくださる羊飼いなる神様を信頼することによって、勇気と希望が与えられるのです。
 羊飼いなる主は、死の陰の谷を通るときも私たちと共にいてくださいます。そして、「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」と書かれていますが、この「むち」とは、羊を打ちたたくものではなくて、外敵から羊を守るために使われるものです。また、「杖」は、羊が道をそれていかないように、羊をやさしく導くために使われるのです。神様は、いつも共にいて、永遠に至るまで私たちを守り導き続けてくださるのです。

4 落ち着きとゆとりを与えてくださる

そして、5節には、こう書かれています。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」
 ここでは、「敵」に直面したときのことが書かれていますが、「敵」とは誰のことでしょうか。それは、自分と立場の違う人々のことを指しているのです。私たちは、社会生活の中で、立場の違う人にたくさん出会いますね。意見が違い、考え方が違い、時には、その違いによって争いにまで発展していくわけです。
 ですから、ここでいう「敵」とは、戦いの時の敵ということだけではなく、普段の生活の中で様々な違いによってもたらされる人間関係の問題と考えてもいいのです。
 そういう敵の前で食事をととのえてくださるというのは、緊張した状況、困難な状況にあってもゆとりや落ち着きを与えてくださることだと言ってもよいと思います。
 フランスの哲学者、物理学者、神学者のパスカルは 「人の悩みのすべては、一人きりで静かに部屋に座っていられないことから生じる」と言ったそうですが、 旧約聖書のイザヤ書30章15節には、こう書かれています。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」
 私たちは、人々とのいろいろな意見の違いによって、物事が進まなかったり軋轢が生じると、あせったり、動揺したりすることがあります。また、心配や不安に襲われると、食事がのどを通らないということが起こります。でも、そんな時、主は食事をととのえてくださる、つまり、落ち着きとゆとりを与えてくださるというのです。
 そして、そればかりか、「頭に油を注いでくださる」とありますね。「油を注いでくださる」とは、どういう意味でしょうか。イザヤ書61章3節に「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう」とあります。ここでは、「油が注がれる」とは、「喜びが与えられる」という意味なんですね。
 また、「私の杯はあふれています」とありますが、これは、困難な時でも満ち足りる経験をしている、ということなんです。
これと似たようなことをパウロはピリピ4章11-13節で語っています。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
 
5 いつくしみと恵みを絶えず与えてくださる

次に、6節には「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」と書かれていますね。
 みなさん、是非、このことを覚えてください。私たちがこの地上に住む間、神様の愛を失うことは決してありません。私たちの行く所どこにおいても、いつくしみと恵みが追ってくるというのですから。
 「いやー、関根さん、そんなことはありませんよ。私は、いつも問題や苦しみに追いかけられていますよ」とおっしゃる方もいるかも知れません。確かに私たちの毎日は、苦労の連続だと思います。
 しかし、そうした中で、今日のキーワード、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」と言う言葉を思い出していただきたいのです。確かに苦労があるし、困難が次から次へとやってくるのが現実です。しかし、そんな中でも、羊飼いなる主は、私たちを養い、導き、ゆとりを与えてくださるのです。死の影を通る辛い経験の中でも、それを乗り越える希望を与えてくださいます。落ち込んで起き上がれないような状態にあるときに、たましいを生き返らせてくださるのです。そういうお方がいつも共に歩んでくださっているのですから、私たちは、その方のいつくしみと恵みを味わいつつ歩んでいくことができるのです。
哀歌3章22節ー25節には、こう書かれています。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。」

6 住む家を備えてくださる

そして、この詩篇の最後に書かれている言葉は、「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」というものですね。
 旧約聖書の申命記33章27節には「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に」と書かれています。神様ご自身が私たちの住む家となってくださると約束しているのですね。
 家とは、本来、自分がそこにいることが良いとか悪いとか決して問われない場所です。ありのままの姿でくつろぐことの出来る場所であり、本当の自分でいられる場所が家であるはずです。家は、ほっと出来る場所なんですね。
 聖書は、永遠の神様ご自身が私たちの家となってくださっていると教えています。神様が私たちの家であるということは、私たちは神様の中でありのままの姿で本当の安心と安息とくつろぎを得ることができるということなんです。この地上の生涯を歩むときも永遠の住まいに移されてからも、私たちは、神様という永遠の家に住むことができるのです。

 さて、今日の箇所は旧約聖書ですから、「主」、つまり神様が私たちの羊飼いであると書かれていますね。
 一方、新約聖書のヨハネ10章10節ー11節では、イエス様がこう言っておられます。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と。
 つまり、神であるのに私たちと同じ人となって私たちのもとに来てくださったイエス様の姿を通して、私たちは、詩篇23篇の羊飼いの姿をより具体的に知ることが出来るようになったのです。
 私たちの羊飼いは「羊のために自分のいのちを捨ててもかまわない」というほどに愛に満ちた方です。私たちを救うために十字架にまでついてくださったかたです。また、イエス様は
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」とも言われました。その偉大な権威をもって、私たちを守り、必要なものをすべて備えてくださいます。また、イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とも言われました。イエス様は、私たちを行くべき道に導き、真理を教え、いのちを与えてくださるのです。
 そういうイエス・キリストが私たちの羊飼いとして共に歩んでくださるのですから、私たちは、「私は乏しいことがありません」と告白しつつ与えられた人生を歩んでいくことができるのです。
この詩篇の内容を覚えつつ、主が与えてくださるいつくしみと恵みの中を歩んでいきましょう。