城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年八月三一日             関根弘興牧師
                         詩篇30篇

    「朝明けには喜びが」

 ダビデの賛歌。家をささげる歌
1 主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。2 私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。3 主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。4 聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。6 私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」7 主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。8 主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。9 私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。10 聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。12 私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(新改訳聖書)

 今日は、詩篇30篇から人生を考えていきましょう。
 まず、この詩篇の表題をご覧ください。「ダビデの賛歌」と書かれていますね。ダビデは、その生涯の間にたくさんの詩篇を記しました。そして、先週お話ししましたように、ダビデや他の人々によって書かれた詩篇が、礼拝や祭りの時に聖歌隊によって歌われ続けていったのです。
 また、この表題には、「家をささげる歌」とも書かれていますね。この表題が付けられるようになったのは、ダビデの時代から七百年以上もたった時のことだと言われています。
 旧約聖書の最後のマラキ書から新約聖書のイエス・キリストの誕生までの間には、聖書に記録されていない約四百年間の中間時代と呼ばれる時代があります。その中間時代の紀元前二世紀に、イスラエルはシリヤという国に占領されてしまいました。シリヤ王は、エルサレムの神殿にゼウス像を置き、ユダヤ人たちが忌み嫌う動物を運び入れたり、神殿の宝物を略奪したりして、大切な神殿をめちゃくちゃにしてしまったのです。その時、祭司の家系のマカベアという人が立ち上がって、シリヤから大切な神殿を奪回し、神殿をきよめ、祭壇を再建しました。この歴史的な出来事がきっかけとなって始まったのが「宮きよめの祭り」です。そして、その宮きよめのときに、この詩篇30篇が歌われ、「家をささげる歌」という表題が付けられたと言われています。「きよめられた神の家で、再び新たに礼拝をスタートしよう」という思いが込められていたのでしょう。
ですから、この詩篇は、ダビデの個人的な経験をもとに書かれたものですが、それとともに、大きな国家的危機から脱出し、回復することができたという出来事を覚え、神様に賛美と感謝をささげるために歌い継がれてきたのです。
 今日は、この詩篇を読みながら、前回に引き続き、神様は困難の中でどのように私たちを支えてくださるか、私たちに、どのような約束が与えてくださっているのかを見ていきましょう。
1 逆境の意味

 ダビデは、この歌を記したとき、大きな死の危険の中にあったようです。それは、重い病気だったのかもしれません。しかし、神様は、ダビデを回復させてくださいました。それで、ダビデはこの詩を書いたようです。
 スイスの精神科医で、ポール・トゥルニエという優れた医師がいました。彼は、たくさんの本を書きましたが、ある本の中でこう書いています。「私たちはまた、他人をその成功あるいは失敗で判断します。・・・私の体験から言える事は、人間の成熟は、成功より失敗や試練を通してこそ実現されるということです。また、健康な人たちよりも、病気の人たちの中に真に人生を生きている人たちがあるものです。幸せを求めるあまり、もっと富がなければならないとか、もっと才能がなければならないとあせって、かえって不幸せに沈んでいる人たちが案外多いかと思えば、試練や失敗に苦しんでいるように見える人たちの中に、ほんとうのしあわせに輝いている人が少なくないということも知りました。」
 人が自分の一生を全うしていくとき、順調な時もあれば、逆風の時もあります。何が起こるからわからないのが人生です。 そのような人生に備えをするというのは、どういうことでしょうか。「負けてはいけない」「しっかりしなくてはいけない」「弱気を出してはいけない」と自分を叱咤激励することでしょうか。それとも、「人から見下されてはいけない」「人の世話になってはいけない」と、いつも周りを気にしながら歩むことでしょうか。もちろん、そういうことも時には大切です。しかし、自分の弱さを隠し、強がりを言い続けても、それは強がりにしかすぎません。
 パウロは、2コリント12章で、自分の肉体にとげ(病)があり、それを取り除いてくださいと何回も祈ったと書いています。パウロにしてみれば、この病がなければ、もっと大きな働きができると考えたでしょうし、もっと快適な生活を送ることができるとも考えたでしょう。しかし、主は、パウロにこうおっしゃいました。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と。そこで、パウロは「私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と記したのです。
 もう召されましたが、倉敷の河野進牧師の「祈りの塔」という詩集の中にこんな詩があります。
   
  病まなければ ささげ得ない祈りがある
病まなければ 信じ得ない奇跡がある
病まなければ 聞き得ないみ言葉がある
病まなければ 近づき得ない聖所がある
病まなければ 仰ぎ得ない聖顔がある
おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得なかった

 病気という、いわば望ましくない体験に出会うと、私たちは、なんとか早く治りたいと思い、そのために努力します。そして、癒されるようにと共に祈ります。それは、大切なことですね。だれもが健康を願っています。でも、どんなに健康を願っていても、病気をしない人は誰もいません。誰もがいつかは健康が失われ、命が閉じていくわけです。
 しかし、河野牧師は、病むことによって得ることのできるものを詩に書きました。もしかすると、私たちは、時には自分にとって「あってほしくないもの」「なくなってほしいもの」に助けられて生きている、という事実があるのではないかと思うのです。
 考えてみれば、誰もが苦悩がなくなればいいと思いますが、そうすると自分の限界を忘れてすぐに調子に乗ってしまうように思います。矛盾や苦悩に助けられて、かろうじて人間として目覚めている、保たれている、ということもあるように思います。
もう天に召されましたが、城山教会員だった松島道子さんのご主人のことを思い出します。突然の病に倒れ、私がお見舞いに伺ったときのことでした。ご主人がこうおっしゃったのです。「もし私の病が軽いものだったら、すぐに良くなって、神様のことなど考えもしなかっただろう。逆に、もし私の病が重すぎたら、やっぱり神様のことをなど考えることもなかっただろう。神様がちょうどいいようにしてくれたんだよ、関根さん。そして、ここの壁に掛けられているこの言葉が、分かったような気がするよ」と言われたのです。そこには、星野富弘さんのこんな詩が掛けられていました。

花が上を向いて咲いている
  私は上を向いて寝ている
あたりまえのことだけれど
神様の深い愛を感じる。

 ご主人は、その後、病床で洗礼を受けられ、それから約一ヶ月後に天に召されました。
 人生の最も順調な時に私たちは神様の愛を深く感じることがあるでしょう。しかし、人生で最も辛い困難の中でも深い愛を感じることが出来るということは、私たちへの大きな励ましですね。
 今日の詩篇を書いたダビデも、同じような経験をしました。
 彼は、6節にこう書いていますね。「 私が栄えたときに、私はこう言った。『私は決してゆるがされない。』」
 彼は人生が順調にいっているときには、自信に溢れていました。そして、高慢の心も見え隠れしていたように思います。成功、地位、名誉を手にして、「私がゆるがされるはずがない」と自負していたのです。
 しかし、彼の人生に、大きな病気か、あるいは、困難な出来事が襲いました。7節の後半に、その時の辛い様子を「あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていました」と書いていますね。しかし、そのとき、彼は真剣に心を開き、神様に祈り叫ぶ者となっていったのです。
 聖書をわかりやすい言葉に書き直したリビングバイブルというものがありますが、その訳では、6節から10節までが次のようになっています。
 「順境の日に、私はこう言いました。『いつまでも今のままだ。 だれも私のじゃまはできない。神様が恵んでくださって、私をびくともしない山のようにしてくださった。』 ところが、神様は顔をそむけて、祝福の川をからしたのです。 たちまち私は意気消沈し、恐怖におじまどいました。『ああ神様。』 私は大声でお願いしました。『神様、私を殺したって、一文の得にもなりません。 生きていてこそ、友人の前で神様をたたえることができるのです。 墓に埋められたら、どうして神様の真実を世間に知らせることができましょう。ああ神様、どうか私をあわれみ、助けてください。』」
 ダビデは、自己過信に陥っていましたが、逆境の中で、あらためて神様の助けが必要であることを自覚したのです。
 旧約聖書の伝道者の書7章14節にはこう書かれています。「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」
 私たちの人生には、自分が何が襲ってきてもびくともしない岩のように思える時代があるかもしれません。雲にでも上るようにすべてが順調な日々を送ることもあるかもしれません。
 しかし、神様は、私たちのために逆境をお与えになることもあります。その逆境から、大切なものを得ることができると、この詩篇は教えているのです。

2 神への叫び

 ダビデは、自分ではどうにもならない状況に陥ったとき、何をしたでしょうか。10節でこう叫んでいます。「聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。」彼は、主に向かって叫んだのです。
 大切なのは、誰に向かって叫ぶかということですね。この詩篇には、「主」という言葉がたくさん出てきます。それも、新改訳聖書では太字になっていますね。この太字になっている「主」という言葉は、原文では「ヤーウェ」と書かれています。「ヤーウェ」とは、神様の名前を表す言葉で、英語のbe動詞にあたる「ある」という意味の言葉が元になっているものです。 出エジプト記を見ると、モーセは神様から「エジプトで奴隷生活をしているイスラエルの民を約束の地に導き出しなさい」と命じられました。その時、モーセは、神様に「あなたのお名前を教えてください」と願いました。すると、神様は、「わたしは、『わたしはある』という者である」とお答えになったのです。それは、「わたしは永遠の存在者だ」という意味です。また、「わたしは無から有を生み出すことのできる神だ」ということでもあります。その神様の名を聖書は「ヤーウェ」と記しているわけです。
 ところで、十戒の中に「神様の名をみだりに唱えてはいけない」という戒めがありますね。ユダヤ人は、それを文字通りに解釈して、聖書に「ヤーウェ」という御名が出てくるたびに、それをそのまま口に出すのは畏れ多いということで、「アドナイ」と読み替えることにしたのです。「アドナイ」とは「主」という意味です。それで、新改訳聖書では、原文が「ヤーウェ」となっている箇所を太文字の「主」と記しているわけです。
 ダビデは、その「主」、つまり「ヤーウェ」、永遠の存在者であり、天地万物を無から作り出すことのできる神様に向かって叫んだのです。
 先週は、詩篇42篇を読みましたね。42篇の作者は、困難なときに、「私は、生ける神を求めて渇いている」と書きました。ダビデも、永遠に生ける神である方に叫び求めたのです。
私たちは、苦しいときには、叫びしか出てこないようなことがあるかもしれません。それでいいのです。その時、覚えておいていただきたいのは、私たちが叫び求める神様が「ヤーウェ」なる方、つまり、永遠の存在者であり、無から有を生み出すことの出来る方だということです。

3 神の応答

 その神様は、私たちの叫びにどのように答えてくださるのでしょうか。
 詩篇22篇24節に、こう書かれています。「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」
今日の詩篇の5節には、「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」と書かれていますね。苦悩の中で叫び続けたダビデが得た神様からの約束は、「夕暮れにあっても必ず朝が来る。涙が宿っても、そのあとに喜びの叫びがある」ということでした。
 また、11節には、「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました」とありますね。荒布とは、深い悲しみや悩みの時に身にまとうものです。この作者の苦悩がどれほど深かったかを表しています。でも、その嘆きが踊りに、悲しみは喜びに変えられていったのです。
 私たちの人生には、明日何が起こるかわかりません。また、思うようにいかないこともたくさんあります。「夕暮れに涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがあるなんて信じられない」と思う時もあるでしょう。でも、夜は必ず明け、喜びの朝を迎えることができると、主は言われるのです。
 ローマ人への手紙9章33節には、「彼に信頼する者は、失望させられることがない」とあります。口語訳聖書では「彼に頼む者は、失望に終ることがない」と訳されています。
 失望は襲ってきます。病も襲ってきます。願ったように、回復が進んでいかないこともあるかも知れません。しかし、主に信頼して生きていくとき、たとえ失望することがあっても失望に終わることはないのです。

4 神への応答

 そして、最後の12節は「私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。 私はとこしえまでも、あなたに感謝します」と締めくくられています。
 ダビデは、困難から救い出され、喜びを与えられたとき、自分に言い聞かせました。「これからは、黙っていないで、いつも神様をほめたたえ、感謝をささげていこう」と。
 これは、1テサロニケ5章16節-18節と同じですね。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」とある通りです。
 先週学んだ詩篇42篇5節に、こう書かれていましたね。「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」と。42篇の作者は「私のたましいがうなだれ、思い乱れているときも、私はなおも神をほめたたえる」と言ったのです。どんな状況にあっても、「なおも」「あえて」神様をほめたたえることが大切なのですね。
 けれども、いつも神様をほめたたえるのは、難しいと思うことがありますね。そして、感謝したり、賛美したり、祈ったり出来ないと、「感謝できないのは私の信仰が足りないからだ」とか、「祈れないのは不信仰のためではないか」とか、自分を責めてしまうことがあります。
 でもどうぞ、知ってください。先週学んだように、私たちの思いや感情はジェットコースターのようなものです。高く上ったかと思うと、急下降してしまうのです。詩篇42篇の作者も、「主の恵みに感謝します」と言ったかと思ったら、「神様、なぜ私をお忘れになったのですか」と叫んだり、でもまた、自分に「なおも神様をほめたたえよ」と言い聞かせたりしていますね。
 「いつも」「絶えず」喜び、感謝し、賛美しなさいと言われてもそれを完全に実行することは難しいと思います。でも、途中であきらめずに持続していくことが大切なのです。途切れ途切れになっても焦らないでください。心配しないでください。出来ないときがあっても、なお続けていけばいいのです。途切れ途切れでも、持続していくことが大切なのです。
 ですから、ダビデと同じように私たちも、12節にあるように「神様、私は、とこしえまでもあなたをほめ歌い、あなたに感謝します」と今週も告白していきましょう。永遠の存在者である「主」に向かって叫び、主に向かって感謝と賛美をささげながら歩んでいくのです。「夕暮れに涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」のですから。