城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年九月二一日             関根弘興牧師
             ルカの福音書五章二七節ー三二節

イエスに従った弟子たち2 
   「立ち上がって従った」

  27 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。28 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。29 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(新改訳聖書)

 さて、今日は、イエス様に従ったレビという人の姿を通して、信仰に生きることの意味を考えていきましょう。

1 レビの名前について

 まず、レビという人物の名前について確認しておきましょう。 今日の箇所とほぼ同じような出来事が、マタイの福音書9章とマルコの福音書2章にも記されているのですが、マタイの福音書では「レビ」ではなく「マタイ」という名前になっていて、マルコの福音書では「アルパヨの子レビ」となっています。
 今日のルカの福音書に登場する「レビ」と、マルコの福音書に書かれている「アルパヨの子レビ」は同じ人物と考えていいでしょうが、マタイの福音書に書かれている「マタイ」は「レビ」とは別の人物で、似たような出来事が別々に起こったのではないかと考える学者もいます。でも、一般的には、「レビ」と「マタイ」は同一人物であると考えられています。
 先週は、ペテロについてお話ししましたね。ペテロは、もともと「シモン」という名前でしたが、イエス様が「岩」という意味の「ペテロ」という名前をお与えになってからは、ペテロと呼ばれることが多くなりました。
 今日登場する取税人レビも、もとは「レビ」という名前ですが、イエス様の弟子となってから「マタイ」と呼ばれるようになったのかもしれません。ただ、その辺のところが聖書に書かれていないので、はっきりとはわかりませんが。
 「マタイ」というのは「主の賜物」という意味です。いい名前ですね。しかし、彼の職業は、当時、最も嫌われていた職業の一つである取税人でした。

2 レビの職業

  レビは、ガリラヤ湖に面するカペナウムという町の近くで取税人の仕事をしていました。
 当時、ガリラヤ地方は、ローマ帝国の属州となっていました。そして、ローマ皇帝からこの地方の領主として任ぜられたのが、ヘロデ・アンテパスという人でした。彼は異邦人であり、神をあがめようともしない高慢な領主でした。
 そして、各地域には取税人がいて、ローマ政府のために人々から税金を取り立てていました。町と町を結ぶ街道には、その道路を利用して運搬される商品に課税するための収税所がありました。たぶん、今日の箇所に登場するレビは、そういう通行量の激しい街道の一角の収税所で商品にかかる税金を取り立てていたのでしょう。
 当時のユダヤ人の社会では、取税人は毛嫌いされていました。ユダヤ人たちにしてみれば、自分たちは神の選びの民であるという自負がありました。自分たちの本当の支配者は、神様だけであり、お金は、自分たちの国の再建のために、神様だけに捧げられるべきだと考えていたのです。ですから、ローマ政府のために税金を取り立てる取税人を、ローマの手先、国を売った奴、裏切り者、ローマの犬と呼んで軽蔑していたのです。
 さらに、当時、税の取り立ては請負制になっていて、ある一定の額をローマ政府に納めればいいことになっていました。そこで、取税人の中には、ローマ政府に納める額よりもはるかに多額の税を取り立てて、差額を着服して私腹を肥やす者も多くいたようです。ですから、余計に取税人は嫌われていました。当時のユダヤ社会では、裁判の時に取税人は証言することが許されなかったそうです。それほど、信頼されていない、罪人の象徴のような存在として見られていたのです。
 でも、取税人は、多額の収入があり、また、仕事柄、ヘブル語にもアラム語にもギリシャ語にも通じる教養を持っていたと言われます。先週お話ししたペテロたちは、漁師で、特に裕福なわけでもなく、立派な教育を受けたわけでもありませんでした。一方、取税人のレビは、お金もあるし、教養もある、しかし、人々から嫌われ、軽蔑されていたわけです。

3 イエス様との出会い

 そんなレビの人生を一変させる出会いが訪れました。27節、28節を見てください。「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい』と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」と記されていますね。ここで、イエス様は、ただレビをご覧になって「わたしについて来なさい」と言われただけです。しかし、これが、レビにとって大きな転機となったのです。
 私たちが生きているこの時代は、不確かな時代、不安定な時代と言われています。また、自分自身についても「自分は揺れ動く葦のように不安定だな」と思うこともあるでしょう。そんな私たちが本当に人生に確信を持って生きるためには、確信を持っている存在との人格的な関わりが必要なのです。
 例えば、子どもが宿題をやっていたとしましょう。子どもは答えを書いたけれども自信がありません。でも、親がそばにいて「その答えは合っているよ」とひとこと言ってやったら、子どもは自分の答案に自信を持つでしょう。自分一人で答案とにらめっこしていても、なかなか確信は持てませんね。私はそのことを大学受験で経験しました。私は自分の答案をチェックして、これで大丈夫だろうと思ったのですが、残念ながら、大学側は違う意見だったようです。つまり、自分で「これで大丈夫」と思っても、間違っている場合があるわけですね。
 算数の問題なら、公式に当てはめて答えを出すことができますから、正しいか間違っているかは、はっきり分かりますね。しかし、人生は、なかなかそうはいきません。何が正しいのか、どのように歩んでいったらいいのか、わからないことだらけです。ですから、確信を持って生きるためには、自分と一緒に歩み、「これが本来の人生なんだよ。これが人としてあるべき姿なんだよ」と示してくれる存在との関わりが必要なのです。問題は、そのような存在がいるのか、ということですね。
 取税人のレビは、お金の力でいろいろなことが出来たでしょう。しかし、「自分の人生はこれでいいのだろうか」という思いを抱いていたのだと思います。彼は、イエス様の噂を聞いて、ガリラヤ湖畔で行われたイエス様の説教をこっそり聞きに行っていたのかもしれません。だから、イエス様から「わたしについて来なさい」と言われたとき、すぐに立ち上がって従うことができたのでしょう。彼は、このイエス様について行けば大丈夫だ、と思ったのでしょうね。なぜなら、イエス様は、三つのことについて確信を持っておられたからです。

@自分の存在についての確信

「あなたはだれですか」と聞かれたら、皆さんは、何と答えますか。普通は、「はい。私は関根弘興です」と答えますね。でも、「それはあなたの名前でしょ。名前はいいんですよ。あなたはだれですか」と聞かれたらどうですか。「あのう、小田原の城山に住んでいるんです」「それはいいですが、あなたは一体だれですか?」「だから、関根弘興ですよ」「それは親のつけてくれた名前でしょ。あなたはだれですか」「ちょっと明るい性格です」「性格はどうでもいいです。あなたは一体だれですか。どういう存在ですか。あなたの本質は何ですか。」
 こんなことを言われたら、わからなくなってしまいますね。私たちにとって大きな問題の一つは、自分自身がわからないということです。自分がどういう存在であるかわからないので、不安定な思いを持つのです。
 自分はどういう存在なんだろうか、私は愛される価値があるんだろうか、私はここにいていいんだろうか、私はどう見られているんだろうか、そもそも、人とは一体どういう存在なんだろうか、それが、わからないのです。自分がわからなければ、どうして確信を持って人生を歩むことができるでしょうか。そして、そういう不確かな生き方の中では、自分を見失い、自分のしていることの愚かささえもわからなくなることがあります。 しかし、イエス様は、ご自分がどんな存在であるかということを明確に自覚して、はっきり宣言なさったのです。イエス様は、「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6・48)と言われました。つまり、「わたしは人々を生かすことのできる存在だ」というのです。また、「わたしは世の光です」(ヨハネ8・12)と言われました。「わたしは人々の暗闇を照らす存在だ」と宣言されたのです。そして、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14・6)と言われました。「わたしこそ真理そのものであり、神に近づくための道なのだ」と言われたのです。イエス様は自分のあり方をはっきりと自覚しておられました。

A自分の使命についての確信

 また、イエス様は、自分の使命についても確信をもっておられました。
 私たちはどうでしょう。自分が何のために生きているのかわからないと思うことが多いのではないでしょうか。また、何をしていいのか迷うことが多く、自分のしたことを後悔することも多いですね。自分では、いいことをしたと思っても、他人の評価がよくないと、すぐに自身をなくしてしまいます。まさに私たちの人生は、迷いながらの人生ですね。
 イエス様は、いつもご自分の目的を明確に語っておられました。ヨハネの福音書10章では、「わたしが来たのは、人々にいのちを与えるためです」と言われました。ルカの福音書19章10節では「わたしは失われた人を捜して救うために来た」と言われました。また、マタイの福音書5章17節では、「わたしは旧約聖書に書かれている律法や預言を成就するために来た」と言われました。それは、「わたしこそ旧約聖書で約束されている救い主であり、救いの約束を成し遂げるために来たのだ」ということです。
 イエス様は、神様から離れて生きる意味や目的を見失い迷っている私たちを捜して救い出し、いのちを与え、養い導くために来てくださったというのです。イエス様は、そのご自身の使命を自覚しておられました。そのイエス様が「わたしについて来なさい」とおっしゃるのです。

B将来についての確信

 また、イエス様はこれから何が起こるのかを明確に把握しておられました。
 イエス様は、この世には初めがあって終わりがあることを知っておられました。そして、世の終わりにはどういうことがあるのかも明確に把握されていました。
 また、ご自分が捕らえられ、十字架につけられ、三日目によみがえること、そして、天に昇り、後に、また、戻って来られることも知っておられました。それで、ヨハネ14章28節-29節では、こう言っておられます。「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」 
 これはすごいことですね。人は何が不安かといえば、将来どうなるのかわからない、明日のことがわからないということです。しかし、イエス様は、マタイ6章33節-34節でこう言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
 イエス様は、明日のための心配は無用だと言われます。なぜなら、イエス様が明日のことをご存じで、必要を備えてくださるからです。

 さて、このように自分自身が何者であるか、自分の使命が何であるか、また、将来どんなことが起こるかについて、確信を持っておられたイエス様が、収税所に座っているレビを見て、「わたしについて来なさい」と言われました。それは、「わたしと共に歩み、わたしの生き方そのものを見て学びなさい」ということです。これほど実際的な指導方法はありませんね。
 すると、レビは、何もかも捨てて、立ち上がってイエス様に従っていったのです。
 先週の箇所では、ペテロたちが何もかも捨ててイエス様に従ったと書かれていましたね。今日のレビと同じです。
 しかし、ペテロたちの場合は、残された舟と網は、その後、家族が使っていたでしょうね。そして、それらは再び使うことが出来るものでした。ペテロたちがその気になれば、すぐに元の漁師生活に戻ることも出来たのです。実際、イエス様が十字架につけられ、三日目に復活された後、ペテロたちは、ガリラヤ湖に戻って漁をしていますね。
 しかし、レビの場合は、ちょっと違います。収税所の椅子から立ち上がってイエス様に従って行ったら、すぐにガリラヤ地区収税所の後任人事が行われ、違う人がその椅子に座るようになったでしょう。レビは、二度と古巣には戻れないのです。つまり、退路を断ち切ってイエス様に従っていく、という大きな決断だったわけです。
 それでも、レビは、イエス様に従う道を選びました。取税人としての人生に虚しさを感じていたのでしょう。そして、ここから新しい生き方が始まったのです。 

4 うるわしい交わり

 さて、イエス様に従うようになったレビが、最初にしたことは何だったでしょうか。彼は、自分の家にイエス様を招き、大盤振る舞いをしたのです。そこには取税人やほかの大勢の人たちが招かれていました。
 この記事を読んで、「あれっ?」と思いませんか。「レビは、何もかも捨ててイエス様に従ったはずなのに、どうして大宴会が開けるのだろう」と思う方もおられるのではないでしょうか。
 先週もお話ししましたが、「何もかも捨てる」というのは、持っているものを粗大ゴミのようにポイと捨てるという意味ではありません。自分の持っているものを、神様から託されたものとして用いていくという意味なのです。私たちは、ひとりひとりが良い管理者としての生き方を与えられているのです。「すべては自分のもの」という思いから「すべては神様から託されたもの」という意識に変化させること、それが「何もかも捨てる」という意味なのです。
 レビは、大宴会を開きました。それまでも職業柄、頻繁に宴会を開いていたと思いますが、今回の宴会は、いままでとは違います。その中心にイエス様がおられるからです。そこに、当時、社会的に嫌われていた仲間の取税人たちが招かれていました。それは、うるわしい宴のひとときでした。その光景は、イエス様の働き、つまり罪人を救いに招き入れる働きを象徴するかのようでした。
 しかし、当時の宗教家たちであるパリサイ人や律法学者たちが、イエス様の弟子たちに文句を言いました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と。 彼らは、自分をきよく保つためには、取税人などと付き合ってはならないと考えていたのです。
 すると、イエス様は、31節でこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
 イエス様は、自分は正しい、自分はきよいと考えている人たちは相手にしません。しかし、自分には問題がある、病んでいる、変わる必要があると自覚している人々を招いてくださるのです。
 皆さん、病気になって病院に行ったら、お医者さんに診てもらいますね。しかし、もしお医者さんに「あなたの病気が移ると困るから、診察室に入らないで廊下にいなさい。こちらには近づかないで」と言われたら、どうでしょう。そんな病院には二度と行きませんね。
 イエス様は、自分には罪がある、自分はきよくない、と自覚している人に対して、「あなたが近づくとわたしが汚れるから、離れていなさい」と言うような方ではありません。レビの家に行って取税人たちと一緒に食卓につかれたように、イエス様は、私たちの傍らに来て、私たちをみそばに招き、いやしてくださるのです。
 イエス様は、「わたしは、罪人を招いて、悔い改めさせるために来た」と言われました。「悔い改め」とは、「方向を変える」という意味です。神様なしの人生から、神様ありの人生に方向転換するということです。
 レビが収税所から立ち上がってイエス様に従ったのは、まさに人生の方向を変える決断でした。そして、仲間たちにも、イエス様を紹介したいと考えて、宴会を設けたのでしょう。こんな自分たちを、かけがえのない存在として見てくださり、いのちを与えてくださる方がいるということを皆に知ってほしかったのだと思います。そして、その後も、レビは、生涯を通してイエス様を伝える者となっていきました。
さて、最初にお話ししましたが、このレビは、マタイと同一人物と考えられます。マタイと言えば、十二弟子の一人であり、マタイの福音書の著者でもあります。そのマタイの福音書のなかで、彼は、イエス様の言われたこと、行われたことをいろいろと記録していますが、一番最後に、イエス様のこのようなことばを記しています。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)
 彼は、イエス様との出会いが、世の終わりまで続いていくことを確信していたのですね。