城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年九月二八日             関根弘興牧師
             ヨハネの福音書一章四三節ー五一節

イエスに従った弟子たち3
    「天のはしご」

 43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(新改訳聖書)

今日は、イエス様に従っていったピリポとナタナエルという二人の弟子の姿を通して、信仰に生きることの意味を考えていきましょう。
 このシリーズでは、まず最初に、ペテロがイエス様に従っていった時のことをお話ししました。そして、前回は、収税所に座っていたレビという人がイエス様に従い、自分の家にイエス様と仲間の取税人たちを招いて大宴会をしたという出来事を見ていきましたね。ペテロは漁師でしたが、レビはその当時最も嫌われていた取税人でした。このまったく背景の違う人たちが、イエス様に「わたしについてきなさい」と招かれ、従っていったわけです。
 さて、今日の箇所には、ピリポとナタナエルがイエス様に従うきっかけとなった出来事が記されています。
 このピリポは、ペテロと同じ町の出身でした。聖書には、ピリポについて詳しいことは書かれていませんが、「ピリポ」というのは、ギリシャの名前です。ですから、彼はギリシャ文化の影響を受け、彼の周りにはギリシャ語を日用語として使うユダヤ人たちがたくさんいたのではないかと思います。
 それを裏付けるように、ヨハネの福音書を読み進めていきますとこんな出来事が記されています。過越祭りのとき、ギリシャ人がエルサレムの神殿に礼拝のために上って来ました。そのギリシャ人というのは、世界各地に離散したギリシャ語を使うユダヤ人のことかもしれませし、改宗したギリシャ人のことかもしれませんが、彼らは、まずピリポのところに来て、イエス様に面会を求めたのです。それは、ピリポがギリシャ語が堪能で、ユダヤ人ではありますがギリシャ文化の中で育った人だということが知られていたからではないかと思われるのです。
 もちろん、ピリポは、ギリシャ文化に浸っているだけでなく、ユダヤ人としての信仰を受け継ぎ、旧約聖書に約束されている救い主を待ち望んでいました。また、荒野で悔い改めを叫んでいたバプテスマのヨハネの言葉に共鳴していた一人でもあったようです。
 イエス様は、そんなピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われました。すると、ピリポは、友人のナタナエルを見つけて、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」と告げたのです。
 ピリポは、イエス様と出会って、「こ
の方は、旧約聖書で預言されている救い主だ」と信じることができたのですね。そして、すぐに友人のナタナエルの所に行って報告したのです。ピリポは、何でもみんなと分かち会いたいという性格の持ち主だったのでしょうね。
 さて、このナタナエルという弟子ですが、ナタナエルという名で呼ばれているのは、ヨハネの福音書だけです。他の福音書の中でバルトロマイと呼ばれている人物がこのナタナエルのことだろうと考えられています。彼は、ガリラヤ地方のカナの出身でした。
 ピリポがやってきて、「私たちは、救い主に出会った。その方は、ナザレ人だ」と報告すると、ナタナエルは、すぐに反論しました。「馬鹿なことを言うな。救い主がナザレから出るなんて聖書のどこにも書いていない。救い主はベツレヘムで生まれるはずだ。ナザレのようなつまらない所から良いものが出るはずがないじゃないか」と懐疑的な反応を示したのです。
 すると、ピリポは、決して議論しようとせず、「それなら、来て、そして、見なさい」とナタナエルをイエス様のもとに連れて行きました。「実際に自分の目でこの方を見ればわかるから」というわけですね。
 これは、とても賢明な方法ですね。議論することは、思索を深めていくために必要なときもあります。しかし、何の益も生み出さないこともしばしばあります。議論では、イエス様を信じさせることはできないのですね。
 トウザーという神学者は、こう記しています。「もしもあなたが説得されてキリスト教に入ったのならば、だれか賢い人に説得されてキリスト教から離れることもあるだろう。しかし、聖霊が内側を照らし明らかにするなら、だれもあなたを説得してキリストから離れさせることはできない」と。
 私たちは、いろいろ質問されても、うまく説明できずに落ち込むことがあるかもしれませんね。
 もちろん、説明できるように備えておくことも必要ではあります。第一ペテロ3章15節には、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」と書かれています。ですから、私たちは、イエス様について、そして、イエス様が与えてくださる救いについてお話しできるように準備をしておくことは大切なことです。
 しかし、相手を説き伏せて信じさせることはできない、ということをいつも覚えておきましょう。人がイエス様を信じることができるのは、神様のわざなのです。ですから、ただピリポのように「来て、そして、見なさい」と言うことも大切です。「実際に教会に来て、礼拝に集い、聖書を読みながら、イエス様がいてくださることを味わってみてください」と勧めるのです。
 ピリポは、ともかくナタナエルをイエス様のもとに連れて行きました。すると、イエス様は、彼を見てこうおっしゃいました。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
 これは、ちょっと褒めすぎのような感じではありませんか?ナタナエルは、「ナザレから良いものが出るはずがないじゃないか」と言って、ピリポの言うことに耳を貸そうとしなかった男です。それなのに、イエス様は、なぜ彼をこんなに褒めておられるのでしょうか。もし、私がピリポなら、イエス様に文句を言うかもしれませんね。「イエス様、ちょっと褒めすぎですよ、評価が高すぎますよ。この男は、あなたがナザレ出身だといって馬鹿にしていたんですよ」と言うでしょうね。
 でも、イエス様の評価基準は、私たちの基準とは違うのです。イエス様は、ナタナエルが心から真実を求めている求道者であることを知っておられたのです。
 旧約聖書の哀歌3章25節に「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに」とあります。救いを求める一人一人に、イエス様は、慈しみ深いまなざし向けてくださるのです。
 では、イエス様は、なぜナタナエルが真実を求める求道者だということがわかったのでしょうか。
 その理由は、続けてイエス様が語られた言葉に隠されています。イエス様は、「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と言われました。すると、ナタナエルは、態度が一変して、「あなたこそ神の子です」と言ったのです。不思議ですね。
 この箇所は、当時の状況がわからないと、何度読んでも理解出来ませんね。イエス様が「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と言われただけで、どうしてナタナエルの態度が一変したのでしょうか。
 例えば、私が、「私は、あなたがお城の松の木の下にいるのを見ましたよ」と言っても、皆さんは感動しますか。「あ、そうですか」で終わってしまいますね。ということは、イエス様が語られた「いちじくの木の下にいるのを見た」という言葉は、何か意味がありそうですね。
 実は、「いちじくの木」は、ユダヤ人にとって、平和と静けさの象徴でした。また、いちじくの木は葉が繁って日陰を作るので、その木の下に座って黙想、瞑想する習慣があったといわれます。ですから、ナタナエルがいちじくの木の下にいたのは、疲れたから木陰でひと休みをしていた、というわけではなかったようです。彼は、いちじくの木の下で、人生の意味や救い主のことについて思いをはせ、静かに祈っていたのだと思います。彼は、真実を求める心を持った求道者だったのですね。
 ですから、イエス様が「あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」とおっしゃったとき、ナタナエルは、イエス様が自分の居場所をご存じだったということに感動しただけでなく、自分の心の奥底にある思いや願いまでも読み取り、理解することのできる方であることを知って感動し、「あなたは神の子です。イスラエルの王です」と告白したのです。
 すると、イエス様はこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」と。でも、これも不思議な言葉ですね。実は、これは、イエス様のこれからの働きを象徴する言葉でした。
 この言葉は、ユダヤ人ならだれもが知っている出来事に由来しています。それは、創世記28章に記されています。
 イスラエルの父祖アブラハムには、イサクという息子がいました。そのイサクに、エサウとヤコブという双子の兄弟が生まれます。この二人は、何かと軋轢が多かったのですが、とうとう兄のエサウが弟のヤコブを殺そうと考えるまでになってしまいました。そこで、弟のヤコブは、父の家から離れざるをえなくなり、母の実家がある遠い場所に旅をしていくことになりました。旅の途中、ヤコブは、ある所で野宿をすることになりました。その場所の石をひとつ取り、それを枕にして、横になったのです。すると、彼は夢を見るのです。一つのはしごが天と地の間に立てられていて、神の使いたちがそのはしごを上り下りしているという夢でした。そして、主が彼のかたわらに立って、こう言われたのです。「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」と。
 ヤコブは、眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言い、「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」と言って、その場所を「ベテル(神の家)」と呼んだのです。
 このユダヤ人なら誰もが知っている有名な旧約聖書の話をもとに、イエス様は「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」と言われたのです。
 このイエス様の言葉は、先ほどの旧約聖書の内容と少し変わっていますね。
 ヤコブは、夢の中で御使いたちが「はしご」の上を上り下りするのを見ました。一方、イエス様は、御使いたちが「人の子」の上を上り下りすると言っておられますね。この「人の子」というのは、人となって私たちのもとに来てくださったイエス様ご自身のことです。ですから、イエス様は、ご自身が天と地をつなぐはしごとなってくださるというのです。つまり、断絶していた神様と私たちの関係を回復させる仲介者となってくださるということです。
 では、そのイエス様の上を御使いたちが上り下りするというのはどういう意味でしょうか。
 ヘブル人への手紙1章14節にこう書かれています。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」
 つまり、御使いは救いを受け取る私たちに仕える存在です。その御使いがイエス様の上を上り下りするというのは、イエス様こそ真の救いをもたらしてくださる方であり、イエス様を通して神様の救いや恵みが私たちのもとに届けられるということ、また、私たちの祈りや感謝や賛美がイエス様を通して神様のもとに届けられる、つまり、私たちがいつもイエス様を通して神様との親しい交わりを続けることができるということを示しているのです。
 私は、高校生の頃、アメリカの「サイモンとガーファンクル」という二人組の音楽をよく聞きました。彼らの歌の中で特に有名なのが「明日にかける橋」(Bridge Over Troubled Water)です。いい曲ですね。和訳すると、こんな詞です。

君が疲れ果てて、自分がちっぽけに感じるとき
君が涙を浮かべているとき
僕がその涙を拭いてあげよう
僕はいつも君の味方、君のそばにいる
辛いとき、友達も見つからないとき
激流の上にかかる橋のように
僕が身を横たえよう

 「君が困難な状況を乗り越えて向こう岸に渡っていけるように、僕自身が橋になろう」という内容です。でも、私たちには本当にそんなことができるでしょうか。「私が橋になってあげるよ」と言うことはできても、すぐに激流に押し流されてしまうでしょうね。どんなことにもびくともしない橋になることなど、とてもできませんね。
 しかし、聖書は、イエス様こそ天へと繋がる永遠の架け橋となってくださる方だと教えているのです。
 ナタナエルは、旧約聖書の内容をよく知っていたので、イエス様の言葉の意味を理解することができたのでしょう。すぐにイエス様に従う者となりました。
 この時から、ピリポもナタナエルもイエス様と行動を共にするようになりました。ただ、この二人のことは、聖書にはあまり書かれていないので、詳しいことはわかりません。
 ヨハネの福音書にピリポが登場する記事が二つあるので、紹介しておきましょう。
 一つは、ヨハネ6章に記されています。イエス様がガリラヤ湖を見渡す場所に行かれたとき、多くの群衆がついてきました。男だけでも五千人以上いました。すると、イエス様は、ピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と言われたのです。もしかしたら、ピリポは、十二弟子の中で総務のような働きをしていたのかもしれませんね。ピリポは、大変驚き、「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません」と非常に現実的な答えをしました。しかし、イエス様は、そこに来ていた少年がもっていた大麦のパン五つと小さい魚二匹で、五千人以上の人を満腹にしたのです。ピリポはそのみわざを見ながら、イエス様というお方は、無いに等しいようなものから多くを生み出すことのできる方なのだと言うことを知ったことでしょう。
 また、もう一つは、最後の晩餐のときのことでした。イエス様は、弟子たちに大切な教えをいろいろお語りになりましたが、その中で、こう言われました。「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです」と。イエス様を知っているなら、父なる神様のことも知っているはずだというのです。しかし、ピリポは、この言葉がよく理解出来なかったようで、こう言いました。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と。すると、イエス様は「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです」と言われたのです。それは、つまり、イエス様が父なる神様と同じ存在である方であり、イエス様を見たということは、神様ご自身を見たということなのだということです。これは、驚くような真理ですね。
 ピリポは、イエス様のおっしゃることがよくわからなかったり、納得出来ないときには、分かったふりをせずに、正直に思ったことを口に出しました。その結果、イエス様のすばらしい真理を学ぶことができたのです。
 私たちも、わからないことはわからない、と正直にイエス様に伝える者でありたいですね。疑問を持つことは人生にたくさんあります。そんなとき、「どうしてですか」「それはどういうことですか」「私にはよくわかりません」と素直にイエス様に打ち明けながら、その答えを得ていくものでありたいですね。
 さて、ペテロもレビも、今日のピリポとナタナエルも、イエス様に出会って人生が変えられていきました。イエス様は、それぞれの置かれている状況、それぞれの思いや願いを知っておられます。そして、一人一人を招き、近くにいてくださるばかりか、天へと続く「はしご」となってくださるのです。この方を信頼し、委ねつつ歩んでいきましょう。