城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年一〇月一二日            関根弘興牧師
             マルコの福音書三章一三節ー一九節

イエスに従った弟子たち4
    「十二弟子の任命」

13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。16 こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。18 次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、19 イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。(新改訳聖書)

 今、礼拝では、「イエス様に従った弟子たち」というテーマで連続説教をしていますが、今日は、イエス様が十二弟子を任命された箇所から学んでいきましょう。

 イエス様が公に活動なさったのは、三十歳になった時から十字架にかかるまでのわずか三年余りの間でした。決して長い期間ではありません。しかし、イエス様は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と大胆に語り、多くの病人をいやされ、様々な奇跡的なみわざを行われたので、イエス様の噂は、あっという間に広がっていきました。
 その中には、良い噂も悪い噂もありました。病んでいる人たちや絶望の中にいる人たちや社会的に蔑まれている人たちの間では、「イエス様は、どんな病気もいやしてくださるらしい。イエス様は罪人を赦し、受け入れてくださるらしい」という噂が広まっていきました。一方、当時の宗教家たちの間では、「イエスは、私たちの伝統的なやり方を批判して、私たちの地位を脅かそうとしている。私たちの教えに従わず、神を冒涜している」というような噂が立っていたのです。
 ですから、イエス様のもとには大勢の人たちがやって来ましたが、目的は様々でした。病の癒やしを求めて来た人もいれば、イエス様の話を聞きたいという人もいました。また、イエス様の行動を監視して、何か訴える口実を見つけて捕らえて、あわよくば抹殺してしまおうと考えている人たちもいました。実に様々な人たちがイエス様の元に押し寄せてきたのですね。
 イエス様は、そういう人々に対して、どのような態度を取っておられたでしょうか。
 イエス様は、誰に対しても、「あなたは、わたしのもとに来てはいけない」と追い払われるようなことは決してなさいませんでした。人々から汚れていると見なされている病人たちも、社会的に蔑まれている職業に就いている人たちも、イエス様は受け入れておられました。イエス様に対して批判的が人々がやって来て議論を吹きかけても、拒絶したり無視したりせずに真摯に対応なさっていました。
 また、イエス様は、人々を無理矢理にご自分に従わせようとすることも決してありませんでした。「おまえたち、私を信じないと、これからとんでもないことが起こるぞ」と脅して従わせるようなことは決してなさいませんでした。イエス様は、いつも、一人一人が自分の意志でイエス様に対する態度を決めることを求めておられたのです。
 そんな中で、イエス様に従う人々がたくさん起こされていきましたが、イエス様は、その大勢の中から、特に十二人をお選びになったのです。

1 十二弟子のリスト

 今日の箇所にその選ばれた十二人の名前が記録されていますね。彼らは、どんな人たちだったのでしょうか。
 私は、小学校の頃、教会学校で、十二弟子の名前を覚えるための歌をよく歌いました。こういう歌です。

  ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、
  ピリポとトマスとマタイたち、
  ヤコブとタダイ、シモンとユダ、バルトロマイが十二弟子
  弟子たちはイエス様のお手伝いをしたのです
  僕たちもイエス様のお手伝いをいたしましょう

私は昔、バスケットボールをやっていました。大会では、試合の前に対戦相手のメンバー表が渡されます。それには、選手の名前と学年と身長が記載されています。私たちは、対戦相手が決まると、まず、相手のチームに背の高い選手が何人いるかをチェックして、相手の力を予想するわけです。
 普通、チームを作るときには、なるべく能力があるメンバーを集めようとしますね。ところが、イエス様が選ばれた十二弟子のリストを見ると、どうしてこの人たちが選ばれたのか不思議です。もし悪魔がこのメンバー表を見たら、「これなら勝てるぞ」とほくそ笑んだかもしれません。
 まず、ペテロとアンデレは兄弟で、漁師でした。ヤコブとヨハネの兄弟も漁師で、イエス様から「ボアネルゲ」というあだ名をつけられていました。「ボアネルゲ」とは、「雷の子」という意味ですよ。雷というのは怖いイメージがあります。昔は「雷おやじ」なんて言いましたね。親父は怖い存在、うるさい存在ということです。でも、最近は違うんだそうですね。「うちのおやじは雷親父だから」というのは、「いつも家でゴロゴロしている」という意味なんだそうです。それはともかく、ヤコブとヨハネが「雷の子」とあだ名されたのは、たぶん二人とも短気で、すぐにカッとなる性質だったからかもしれません。
 それから、マタイは、ローマ政府に税金を納めるために働く取税人でした。ユダヤ社会では、ローマの手先、ローマの犬と呼ばれて軽蔑されていた人です。
 その一方では、熱心党員のシモンという人もいました。熱心党員というのは、ユダヤ教の中でも特に排他的で国粋主義者と言われる人たちでした。彼らは唯一の神様を信じることに熱心で、他の宗教を排斥すると同時に、自分たちでローマ帝国の支配を排除し、ユダヤの独立国家を打ち立てたいと願っていました。ユダヤ原理主義の過激派のようなグループです。シモンはそういう「ローマ政府打倒」を叫ぶグループのメンバーだったわけですね。
 ですから、このシモンは、ローマ政府のために税金を集めていたマタイとは、水と油のような関係ですね。それなのに、その二人が一緒に選ばれているのです。
 それから、バルトロマイは、ヨハネの福音書に出てくるナタナエルのことだろうと言われています。彼は、木陰で静かに瞑想して過ごしていたような人でしたね。
 また、リストの最後には、後にイエス様を裏切ってしまうイスカリオテのユダの名前も記されています。イエス様は、ユダが裏切ることを初めからご存じだったはずなのに、どうしてそんな男を十二弟子の一人に選ばれたのだろうかと思いますね。しかし、イエス様は、ご自分を裏切るようなユダに対しても、最後まで愛をあますところなく示されているのです。
 私は、この十二弟子たちのリストを見るたびに不思議に思います。田舎育ちの漁師もいれば、嫌われ者の取税人もいる、ローマ政府から危険視されそうな革命家もいる、という具合で、「本当にこんな人たちでまとまるのかなあ。イエス様は、よりによって、どうしてこうも違う人たちを任命されたのだろう」と思うのです。
 でも、このリストを見るたびに、なんだか励まされませんか。イエス様は、違いのある人たちを弟子として選ばれたのです。この人たちは、背景も性格も全然違います。けれども、たった一つだけ共通点がありました。それは、一人一人がイエス様に招かれ、「はい、従います」と言ってイエス様について行ったということです。イエス様の招きに応えたということが、彼らの唯一の共通点でした。「ペテロ、お前もイエス様によって招かれたのか。ヨハネ、お前もイエス様に招かれたのか。マタイ、お前もか。俺もだよ」、それが彼らのただ一つの共通項だったのです。
 皆さん、福音とは違いを超えていくものです。人はいろんな違いがありますが、福音はその違いを超えていくのです。
 教会というのは、本当に間口の広い所だと思いますね。こんな広い所はありませんよ。みんな違う場所から来ています。みんな背景が違います。育ちも性格も考え方も違います。職業も学歴も支持政党も違うでしょう。違うことばかりですね。でも、共通点が一つだけあれば、一致することができるんです。それは、イエス様の招きに、「はい、ついていきます」と応答したかどうかということです。そのイエス様の招きに応えた人々の中には、調和と一致が生まれていくのです。
 パウロは、エペソ人への手紙2章14節に「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわす方だ」と記しています。私たちの間には、いろいろな隔ての壁があります。しかし、イエス様は、その隔ての壁を打ちこわして平和と調和をもたらしてくださるのです。
 ところで、イエス様は、なぜ十二人だけを選ばれたのでしょうか。今日の箇所は、十二弟子だけに関係があって、他の弟子や私たちには関係ないのでしょうか。そうでは、ありません。
 今日の箇所の出来事があったのは、イエス様がまだ私たちと同じ肉体を持って地上におられた時でした。肉体を持っておられるイエス様は、一度に多くの人と共にいることはできません。ですから、まず十二人だけを選んで、身近に置かれたのです。
 しかし、イエス様が十字架にかかり、三日目に復活し、天に昇ったあとに、今度は、聖霊が来てくださいました。聖霊は、肉体の制限がありませんから、いつも私たち一人一人と共にいてくださることができます。つまり、今では、だれでも十二弟子と同じようにいつもイエス様と親しい交わりを持つことができるようになっているのです。ですから、私たち一人一人が、十二弟子と同じようにイエス様に選ばれた弟子として、今日の箇所から大切なことを学んでいきましょう。

2 十二弟子任命の目的

 さて、それでは、イエス様は、何のために十二弟子を、そして、私たちをお選びになったのでしょうか。14節ー15節に三つのことが書かれていますね。

@身近に置くこと

 まず、イエス様が十二弟子をお選びになった一番の目的は、彼らをご自分の身近に置くことでした。
 詩篇16篇11節には、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみがとこしえにあります」と書いてあります。また詩篇73篇28節には、「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」とあります。 私たちにとって最高の喜びは、主と共にいるということです。イエス様が私たちにまず望んでおられるのは、私たちがイエス様と共に歩み、イエス様が与えてくださる恵みを味わい、イエス様の愛の中で憩うことなのです。
 ヨハネの福音書15章で、イエス様はこう言っておられます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」私たちは、イエス様を離れては、実を結ぶことはできません。でも、いつもイエス様につながり、イエス様の愛、恵み、いのちを受け取っているならば、必ず実を結ぶことができるのです。
 ですから、私たちは、何かしなければならないと考える前に、まずイエス様につながり、イエス様の中で憩うことが大切なのです。
 コリント人への手紙第一の1章9節に「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました」と書いてあります。私たちがこうして礼拝の中で心から賛美をささげ、主が共にいてくださることを喜び、今日は聖餐式もありますが、イエス様の十字架の大きな愛と恵みを覚えて憩い、イエス様の復活によって与えられたいのちに生きることこそ、つまり、イエス様との交わりの中で生きることこそ、イエス様が私たちを招いてくださった一番の目的なのです。
 
A福音を宣教するため

次に、イエス様が十二弟子を選ばれたのは、「彼らを遣わして福音を宣べさせ」るためだと書かれていますね。弟子たちは、福音を宣べ伝えていく者として任命されました。弟子たちは、イエス様の身近にいることによって、イエス様のすばらしさを味わい、イエス様がまことの救い主であること、イエス様が私たちの罪のために自ら進んで十字架につけられ、墓に葬られ、三日目に復活されたことを体験的に知ることができました。だからこそ、イエス様の目撃証言者として全世界に福音を宣べ伝えていくことができたのです。
 さて、それでは、私たちはどうでしょうか。私たちは、十二弟子のような実際の目撃証言者ではありませんが、私たちもイエス様を信じ、イエス様と共に生活するなかで、イエス様の救い、愛、恵みを味わい、その体験を他の人々に分かち合うことができる者とされています。ですから、私たち一人一人が十二弟子と同じように福音を伝える働きを担っているのです。
 ただ、「福音を宣べ伝える」と聞いて、皆さんは、どのようなイメージを持ちますか。街頭に立って「イエス・キリストを信じなさい」と大声で宣伝したり、一軒一軒訪問して何とか話を聞いてもらおうとするようなイメージを持って、「私には、とても無理」と思う方もおられるのではないでしょうか。
 でも、そうではありません。福音とは、良き知らせです。福音を伝えるというのは、イエス様という素晴らしい救い主がおられることを紹介することです。そのためには、まず自分自身がイエス様をよく知る必要がありますね。自分がよく知らない方のことを口先だけで説明しても相手には伝わりません。自分自身が実際に経験したイエス様の愛や恵みを、自分自身の生き方を通して伝えるのでなければ、説得力はありませんね。
 ですから、「福音を伝える」というのは、自分自身がその福音によって生かされていくことと同じなのです。
 イエス様の言葉を思い出してください。嵐の中で恐れ戸惑う弟子たちには、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われましたね。病の中や混乱の中にある人たちには「安心しなさい」と言われ、「あなたの罪は赦された」と宣言なさいました。当時の社会で罪人呼ばわりされて蔑まれていた人たちと共に食事をされたときには、「医者を必要とするのは病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と言われました。また、十字架につけられた時、ご自分を釘付けした人々のために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのわからないのです」と祈られました。また、十字架上の犯罪人の一人が、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言ったとき、イエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われたのです。それから、三日目に復活されたイエス様は、恐れ惑う弟子たちの前に現れ、「シャローム、平安があるように」と言われ、また、「わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいます」と約束なさいました。
 これら一つ一つの言葉がみな、福音そのものです。良き知らせです。これらの言葉を凝縮すれば、「大丈夫」というひと言になるでしょうか。イエス様は、私たち一人一人に「大丈夫」と言ってくださるのです。イエス様の福音の本質は、「大丈夫」ということなんです。「あなたは、わたしと共にいるから、大丈夫。罪のさばきを受けることはない。何が起こっても守られるから恐れることはない。死を恐れる必要もない。あなたは永遠に大丈夫だ」と言ってくださるイエス様がおられる、それこそが福音です。
 皆さん、福音に生きるとは、イエス様の「大丈夫」という声を聞いて生きることなのですよ。そして、福音を伝えるとは、イエス様が「大丈夫」と言ってくださっていることを分かち合っていくことなんです。それが、イエス様にあって生きる一人一人に与えられている目的なんです。

B悪霊を追い出す権威を持たせるため

 さて、イエス様が十二弟子を選ばれた三番目の目的は、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」であると書かれていますね。
 「悪霊」と聞くと、何だかオカルトの世界のような感じがしますね。恐ろしい化け物のような姿を想像してしまうかもしれません。しかし、聖書が教えているのは、この世界には、私たちをまことの神様から引き離そうとする力が働いているということです。神様への信頼を失わせたり、お互いに憎しみ、ねたみなどを起こさせて分裂や混乱をもたらそうとする力です。しかし、そのようなものより、はるかに偉大な力を持っておられるイエス様が「大丈夫」と言ってくださるのですから、私たちは、そのイエス様に信頼して、悪の力を退け、平安をもって生きていくことができるのです。
 皆さん、誤解しないでいただきたいのですが、私たちに「悪霊を追い出す権威」が与えられているというのは、自分が特別な力を身につけてスーパーマンのように悪と戦うということではありません。また、映画の「エクソシスト」のように、悪霊と対決してやっつけるということでもありません。
 私たちは、高速道路を運転しているとき白バイを見たら、どきっとしますね。なぜですか。白バイは速度違反を取り締まる権威を持っているからです。でも、白バイに乗っている警官が、退職してバイクで高速道路を走っていても、何にも力はありません。取り締まる権威はありませんね。権威というのは、その人自身にあるのではないからです。もし、その人が任命された職から解かれたら、何の効力もなくなるのです。
 つまり、「悪霊を追い出す権威」というのは、私たちが自分で大きな能力を持つということではなく、イエス様によって与えられるものなのです。私たちが力があるからではなく、イエス様に権威があるから、その権威を委ねられた私たちは、どんな悪しき力もイエス様の御名によって退けることが出来るのです。主イエス様に力があり、イエス様の名前に権威があるから、私たちは、その権威の中で守られ生きていくことが出来るのです。
 イエス様は、一人一人を身近に置き、「大丈夫」という約束の中に生かしてくださっています。人生にはいろいろなことがあります。でも、いつも傍らで「大丈夫、わたしが共にいるから」と語ってくださる主がおられるのです。
 お互いに違いがありますが、違いの分かる仲間として、また、互いにイエス様の招きに応えた者として、そして、イエス様の「大丈夫」を伝える者として、共に歩んでいきましょう。