城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年一〇月一九日            関根弘興牧師
            マルコの福音書一〇章三五節ー四五節

イエスに従った弟子たち5
    「一番偉いのは誰?」

 35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」 36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」 37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」 38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」 39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。 40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」 41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。 42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(新改訳聖書)

 先週は、イエス様が十二弟子をお選びになった箇所を学びました。イエス様が十二弟子をお選びになったのは、彼らを身近に置いて、イエス様の恵みを体験的に学ばせるため、また、その体験によって知ることができた福音を宣べ伝えさせるためでした。
 福音とは何でしょう。それは、ひと言で言うと「イエス様が共におられるから大丈夫」という良き知らせです。イエス様は、恐れの中にいる人に、「わたしがいるから大丈夫。恐れることはない」と語りかけてくださいます。人生の意味がわからず迷っている人には、「わたしが道であり、真理である。わたしに従ってくれば大丈夫」と呼びかけてくださいます。また、死の恐れの中にある人には、「わたしはあなたに永遠のいのちを与えるから大丈夫」と言ってくださるのです。天においても地においても一切の権威が与えられているイエス様が、いつも私たちと共にいてくださるのです。これ以上の「大丈夫」はありませんね。
 ですから、イエス様が十二弟子を、そして、私たちを招かれたのは、一人一人がいつも共にいてくださるイエス様の福音を味わいながら生きていくため、そして、自分の生き方を通して「イエス様がおられるから大丈夫」ということを伝えていくためなんですね。
 しかし、私たちは勘違いしやすくて、「私の信仰が立派だから、私は大丈夫だ」とか、「私はいつも迷ったり、失敗したりするから大丈夫じゃない」と思ってしまいがちですね。でも、聖書は、最初にイエス様に選ばれた十二弟子でさえ、私たちと同じように弱さやもろさがあり、勘違いや失敗が多い普通の人間であったこと、そして、そんな弟子たちにイエス様がどんなことを教えてくださったのかを記しています。今日の箇所もその一つです。

 もし、あなたがイエス様の立場になって十二人の弟子を選ぶとしたら、どんな人を選びますか。私だったら、まず神学的な論争ができる人を二人、大衆伝道向きの口達者な人を三人、テレビ向きのタレント的要素を持った人を二人、マネージメントにたけた人を一人、それにボディガードとして空手の有段者を四人、これなら、最強のメンバーですね。普通は、優秀な一騎当千の器を選びますよね。
 しかし、先週学んだように、イエス様が選ばれた十二弟子は、そうではありませんでした。彼らの多くは、「この地域から何の良いものが出ようか」と言われていたガリラヤ地方の出身者でした。また、彼らは「無学な普通の人」であったと使徒の働きに書かれていますが、「無学」というのは「専門的な宗教教育を受けていない」ということです。また、ローマ打倒を目指す熱狂的な国粋主義者がいるかと思えば、ローマの犬と呼ばれた取税人もいたわけです。どうみてもまとまりそうもないメンバーだったのです。しかも、彼らは、イエス様の教えをなかなか理解できませんでした。体裁が悪いので、人々がいなくなってからそっと「イエス様。さっき言われたことはどういうことなんでしょうか?」と尋ねる始末です(マルコ7・17、9・28)。
また、すぐにカッとなったり、自分勝手なことをしたり、動揺したり、的外れなことを言ったりしました。そして、一人は、イエス様を裏切り、イエス様が十字架にかけられる時は、ほとんどの弟子がイエス様を見捨てて逃げ去ってしまったのです。
 彼らがイエス様と共にいたとき、最も多くの時間を費やしたのは何だったでしょうか。互いに「言い争う」ことでした。それも、「だれが、この中で一番偉いか」と言い争っていたのです。人は、いつも「上に立ちたい」「人よりも偉くなりたい」と考えるようですね。イエス様の弟子たちの中でも、そのような競い合いがあったのです。どう見てもイエス様ご自身の姿とはほど遠いですね。
 しかし、イエス様は、そんな彼らを見放されることはありませんでした。そういう出来の悪い、まとまりのない、自分勝手な彼らと共に生活をし、彼らにご自分の姿を示し続け、また、大切なことを教え続けておられたのです。今日の箇所の出来事もその一つです。

1 ヤコブとヨハネに対して

 ヤコブとヨハネは兄弟でしたが、イエス様に大変図々しい頼み事をしました。37節に書かれていますが、「あなたが栄光の座につくとき、ひとりをイエス様の右に、ひとりを左にすわらせてください」と言ってきたのです。彼らは、イエス様がいつか栄光の座につかれるということを信じていました。そして、その時に、自分たちが他の弟子たちよりも偉くなりたいと願ったのです。そんな彼らにイエス様は何と言われたでしょうか。
 イエス様は、まず、38節で、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか」と言われました。
 ヤコブとヨハネは、イエス様が敵を打ち破って、イスラエルの国を再建し、栄光の王座について支配するという華々しいイメージを持っていたようです。そして、自分たちが王の次に偉い位に就いて輝いている姿を想像して、うきうきしていたかもしれません。しかし、イエス様は、「あなた方の想像とはまったく違うことが待っているのだ」と言われたのです。
 イエス様が言っておられる「わたしの飲もうとする杯」「わたしの受けようとするバプテスマ」とは何でしょうか。それは、これから、イエス様が捕らえられ、嘲られ、むち打たれ、悲惨な十字架の死を遂げるということです。
 旧約聖書では、「杯」は、人間の罪に対する神の怒りとさばきを意味する言葉としてよくでてきます。例えば、エレミヤ49章12節にはこう書かれています。「まことに主はこう仰せられる。『見よ。あの杯を飲むように定められていない者も、それを飲まなければならない。あなただけが罰を免れることができようか。罰を受けずには済まない。いや、あなたは必ずそれを飲まなければならない。』」
 私たちは皆、罪がありますから、本来は一人一人が神様のさばきの杯を飲まなければなりません。しかし、イエス様は、私たちの代わりに神様の怒りの杯を飲んでくださる、私たちの代わりに罪の罰を受けてくださる、というのです。神にのろわれたものとして十字架につけられ、死を味わわれること、それがイエス様の飲もうとする杯、受けようとするバプテスマなのです。
 そのような杯を飲み、バプテスマを受けることができますか、と聞かれて、ヤコブとヨハネは「できます」と即座に答えました。彼らは、イエス様の言われる「杯」や「バプテスマ」がどんなことを意味しているのかよくわかっていなかったのです。ただ自分たちが他の弟子より偉くなりたいということばかりに気を取られて、「できます」と威勢よく答えたわけですね。
 しかし、人には、出来ることと、決して出来ないことがあります。十字架につけられて救いのみわざを成し遂げることは、神のひとり子であり、罪のないイエス様にしかできないことなのです。それなのに「出来ます」と言ったヤコブとヨハネは、まったくとんちんかんな答えをしたわけですね。
 でも、イエス様は、「何を馬鹿なことを言っているのだ」と叱らず、「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします」と言われました。これは、どういう意味でしょうか。それは、彼らが、将来、イエス様の福音を伝えていくときに大きな苦難を味わうことになるという意味でした。今は、自分が偉くなることばかり考えている身勝手な二人ですが、将来は、自分たちが偉くなるためではなく、イエス様の福音を伝えるために、いのちがけの働きをするようになるということをイエス様はご存じだったのです。
 そして、イエス様は、40節で「しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです」と言われました。
 イエス様は、いつも父なる神様のみこころに従うことの大切さを身をもって教えておられました。「わたしが決めるのではなく、父なる神が決めておられることに従っていく」という姿勢の模範を示されたのです。十字架にかかる前にゲッセマネの園で祈られた時にも「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られましたね。
 神様は、私たち一人一人に最善の計画を立てておられ、それぞれをふさわしい場所に置いてくださっています。だから、どんな地位につくとか、どんな役割を果たすかは、神様にお任せして、今、与えられている場所で、みこころをなしてくださいと祈りつつ、自分のすべきことをしていくことが大切だ、ということをイエス様は、教えておられるのです。 

2 弟子たちに対して

 さて、ヤコブとヨハネに出し抜かれた他の十人の弟子たちは、心穏やかではありません。二人に腹を立てました。彼らも、野心やプライド、自分が人より偉くなりたいという思いが心の中にびっしりと根を張っていたようです。
 そこで、イエス様は、弟子たちを集めて大切なことをお教えになりました。この世の基準と神の国の基準は、まったく違うということです。
 まず、42節でイエス様は「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます」と言われましたね。弟子たちは、現実の生活の中で、このことをいやというほど経験していました。異邦人のローマに支配され、権力者に逆らえず、不自由を強いられていたわけですからね。
 イエス様は、次に、43節-45節で、驚くことを言われました。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
 皆さん、神の国で一番偉いのは誰ですか?イエス様です。その一番偉いイエス様が、「わたしは、人々に仕えるために、そして、自分のいのちを与えるために来た」と言われるのです。
 そして、弟子たちに対しても、「あなたがたがわたしに従ってくるつもりなら、わたしを見習いなさい。みなに仕える者、みなのしもべになりなさい」と言われたのです。
 弟子たちは、それを聞いて、きっと戸惑いを感じたはずです。「偉くなりたいなら、しもべ、つまり、奴隷になれ」というのですからね。
 しもべの特徴は何でしょうか。他の人の生活がより良くなるように、他の人の益になるように仕えるということです。
 考えてみてください。自分のことばかり考えている人は大変です。「人は私をどう見ているだろうか」「自分をよく見せるためにはどうしたらいいだろうか」といつもいつも自分のことが気になるのです。もちろん誰でもこうした思いを持っていますが、行き過ぎると本当に疲れてきますね。
 ヨハネの福音書12章に、何人かのギリシヤ人がイエス様に会いに来たことが記されています。ギリシヤ人は自己表現、自分をどう見せるかということに、いつも頭を使っている人たちだと言われます。自分をいかに誇るかということに時間を費やすのです。ギリシヤ彫刻を見ると、男は筋骨たくましく、女はビーナスのように美しくと、美の追究に熱心でした。また、知識を追い求めることにも熱心でした。そんなギリシャ人たちに、イエス様はこう言われました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」(ヨハネ12・25)つまり、「自分のことのみに終始している人生は、結局、人生そのもの、いのちそのものを失うのだ」とはっきり言われたのです。自己中心の人生は、疲れをもたらすだけでなく、結局、何も得ることはできないし、人生そのものを失ってしまうだけだというのです。
 一方、イエス様は、今日の箇所で「しもへとして生きなさい」と言われました。それは、その生き方の中に、人生の豊かさの秘訣があるからです。
 キリスト教テレビ番組「ライフ・ライン」で、鐘紡薬品の社長をされていた三谷康人さんとお話をしたことがありますが、三谷さんは、こう言っておられました。「会社の上に立つ人間は、自分のために人を利用しようとするとき、すぐに見破られ、信頼を失う。自己保身や自分の出世だけを考えて、人を利用しようと考えてしまうと結局得るものはない。いかに部下が、そして、この薬を利用した人たちが幸せになれるかを考えて仕事は進めなければいけない」と。
 イエス様はしもべとして来てくださいました。仕えるために来てくださいました。人を利用したり自己保身だけを考えて歩もうとは決してなさいませんでした。あのむごたらしい十字架で私たちの罪を背負い、私たちの身代わりに死んでくださったのです。私たちを赦し、生かすために、ご自分のいのちを差し出すほど大きな愛を示されたのです。イエス様は、私たちのために仕え、永遠の救いの道を開いてくださったわけですね。ですから、そのイエス様に従う私たちにも、仕えることを考えて歩んでいきなさいと言われるのです。
 では、「しもべとして仕える」とはどういうことでしょうか。

@自分の役割を果たす。

 この礼拝では何回も語ってきたことですが、教会はキリストのからだである、と聖書は教えています。からだには、いろいろな器官がありますが、それぞれがしもべの役割に徹しているのです。もし私の口がストライキを起こしたら、私は説教が語れません。手を切ると血が流れますが、からだ中のいろいろな器官がその血を止めようとして様々な働きをします。各器官はからだ全体のために存在し、また、各器官を支えるために、からだ全体が協力するのです。からだには、不必要な器官は一つもありません。どの器官にも役割があり、どの器官も他の器官の助けを受けています。ですから、互いに比べ合ったり、誇る必要はないのです。
 私たちも同じです。キリストのからだである教会にとって、それぞれが必要で、それぞれが自分の役割を果たしながら、互いに補い合っています。ですから、だれも人と比べて誇ったり自己卑下する必要はないのです。しかし、からだの中で、ある器官が自己主張をして勝手な行動を始めたら、からだは健康を失っていきます。からだが健康を保つためには、それぞれの器官がしもべに徹することが大切なのですね。
 私たちには、それぞれ主に与えられた役割があります。そこにいるだけでも大きな役割です。何かが出来る出来ないは、関係ありません。一人一人の存在そのものが、高価で尊い主の器官としての意味を持っているのです。人と比べるのではなく、自分に与えられた役割を果たす、それがしもべとしての生き方です。

A互いに仕え合う

 次に覚えておいていただきたいのは、「互いに」仕え合うということです。時々、「仕える人の方が偉いのか。よし、私は、他の人より仕えるぞ」と間違った競争心を持ってしまう人がいます。「私仕える人、あなた仕えられる人。私のほうがあなたより偉い」と考えるなら、今日の弟子たちの姿とあまり変わりませんね。
 しかし、聖書には「互いに」という言葉が非常に多く出てきます。「互いに愛し合いなさい」「互いに祈り合いなさい」「互いに助け合いなさい」「互いに仕え合いなさい」と教えているのです。「私は助けなど必要ない。私は自分で何でもできるから」と思っている人がいるかも知れません。しかし、実際には、それぞれが他の人の助けを必要としている存在なのです。そのことを素直に認め、「どうぞ、私のために祈ってください」「こんどは、私があなたのために祈りましょう」と互いに仕え合うことのできる群れでありたいですね。喜んで助けを受け、喜んで仕えもする、それがしもべの姿なのです。

Bできること、できないことの境界線をわきまえる

 もう一つ覚えておいていただきたい大切なことは、しもべができることとできないことがあるということです。
 ヤコブとヨハネは、できないことを「できます」と答えましたね。でも、できないことは、いくら自分で頑張ってもできないのです。無理にやろうとすると必ず問題が起こります。
 しもべとして生きるときに、自分のできることとできないことの境界線をしっかりと見極めることが大切です。「よし、私は、全世界の人に仕えるぞ」と考えても、そんなことは無理ですね。できないことは、できないと認めることは大切なのです。また、相手が自分ですべきことにまで、手を出そうとしないように気を付けることも必要です。自分がすべきこと、他の人がすべきことの境界線を持っていることも大切なのです。

C愛の動機で

 そして、しもべとして生きるための動機は、愛です。いやいやながら、強いられて何かをするのはふさわしいことではありません。また、自分の評価を上げたいという間違った動機で行うこともふさわしくありません。「愛を増してください」とイエス様に祈りつつ、互いの最善を願って仕え合っていきましょう。

 イエス様は、個性豊かな私たちを集めてくださいました。考え方も育った背景も違いますが、違いがあるからこそ、すばらしいキリストのからだが建て上げられていきます。互いにしもべの心をもって生きていくとき、キリストにある不思議な調和と一致が与えられていくのです。キリストのからだの一部とされていることを心から喜びながら、与えられた人生を歩んで行きましょう。