城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年一1月九日             関根弘興牧師
     ルカの福音書二二章三一節ー三四節、五四節-六二節

イエスに従った弟子たち6
    「失敗から学ぶ」

31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」


  54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。55 彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。62 彼は、外に出て、激しく泣いた。(新改訳聖書)

 今日は、「イエス様に従っていった弟子たち」というシリーズの第六回目です。最初、このシリーズは十月中で終えるつもりでしたが、十一月の後半まで続けていくことにしました。
 弟子たちの姿を見ると、弱さもあり、欠点もあり、失敗もあり、思い違いもあり、私たちとあまり変わりません。だから、その弟子たちの記事から、私たちはいろいろと学ぶことができるのですね。
 弟子たちの中には、水と油のような様々なタイプの人がいました。彼らが一番関心をもっていたのは「誰が一番偉いのか」ということで、いつもそのことを議論していました。お互いに比べ合い、競い合っていたのですね。
 でも、彼らには、たった一つだけ共通点がありました。それは、「わたしについて来なさい」というイエス様の招きに従っていったということです。
 さて、今日は、その弟子たち中でも最も有名なペテロがイエス様を三度も否定してしまうという出来事から、イエス様に従うことの大切さを学んでいきましょう。今年の新年礼拝でも同じ内容のお話しをしましたが、改めてこの箇所から考えていきたいと思います。

 ペテロは、弟子の中でもリーダー格でした。イエス様に最初に招かれた弟子の一人であり、イエス様とずっと一緒に行動してきましたから、イエス様のことを誰にもましてよく知っていました。彼は、どんなことを見、どんなことを聞き、どんな体験をしてきたでしょうか。
 彼は、イエス様が多くの病人に行われたいやしのみわざを目撃しました。わずかなパンと魚で五千人以上の人を満腹になさった出来事も目撃しました。ガリラヤ湖でイエス様が水の上を歩いて来られ、荒れ狂う嵐を鎮められた時もその場にいました。それどころか、イエス様にお願いして自分自身が水の上を歩くという体験までしました。もっとも、途中で怖くなって沈みかけたのですが。また、山の上でイエス様が栄光の御姿に変わったのも目撃したのです。また、イエス様が死んで四日もたっていたラザロをよみがえらせた時も、その場にいました。それに加えて、イエス様のすばらしい説教を毎日のように聞いていたのです。
 皆さん。これだけの経験をしてきたら、立派な信仰者になってもいいはずだと思いますよね。多くの人が「奇跡を見たら、奇跡を体験したら、キリストを信じる」と言います。私たちも「もっと奇跡的な出来事を体験したら、強い信仰が持てるのではないか」と思ってしまいますよね。
 でも、ペテロはどうだったでしょうか。数々の奇跡を目撃し、すばらしい経験をした結果、何があってもびくともしない信仰者として成長したでしょうか。実は、そうではありませんでした。実際には、今日の箇所にあるようにイエス様を三度も否定してしまったのです。
 すばらしい体験をしてきたペテロにとっても、また、他の弟子たちにとっても、どうしても理解できないことが一つありました。それは、イエス様が十字架について死なれる、ということでした。「神から遣わされた救い主が、のろわれた十字架につけられるはずがない」「イエス様こそ、敵を打ち破って、このユダヤの国を再建して王になる方だ。こんなに素晴らしい奇跡を行える方が十字架で死ぬなんてありえない」と考えていたようです。
 ところが、弟子たちの思いとは逆に、イエス様は、いとも簡単に捕らえられ、すぐに大祭司の家に連れて来られて審問が始まったのです。
 そして、ペテロが生涯忘れることのできない出来事が起こりました。大祭司の中庭で、ペテロは、イエス様がどうなってしまうのだろうと案じていました。すると、そのとき周りにいた人が、「お前もあのイエスの弟子だろう」と言い出しました。すると、ペテロは、三度もイエス様を知らないと強く否定してしまったのです。
 ほんの少し前、33節で、彼は「主よ。ご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と威勢のいい言葉を語っていました。また、マタイの福音書26章33節を見ると、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」とまで言い切っていたのです。それが、今、「イエスなど知らない」と否定しているわけです。それでも、一回くらいなら、口がすべったなんて言い訳ができるかもしれませんが、三回も否定したのです。
 この時、彼の心中はどうだったでしょうか。すべてを捨ててイエス様に従ってきたのに、そのイエス様を否定してしまったのです。人生の意味や目的を見失って、これからどうやって生きていったらわからなくなってしまったことでしょう。また、「死んでもついて行きます。私だけはつまずきません」と皆の前で宣言したのに、いとも簡単にイエス様を裏切ってしまったという恥辱感や罪責感や敗北感が襲ってきたと思います。ペテロは、この時、人生最大の失望と挫折を味わったのです。
 しかし、そんなペテロに対して、イエス様はどうなさったでしょうか。61節に「主が振り向いてペテロを見つめられた」と書かれていますね。
 イエス様のこの時のまなざしは、どのようなものだったのでしょうか。聖書には書かれていないのでわかりませんが、「ペテロ。よくも裏切ってくれたな」という憎しみのまなざしだったでしょうか。「ペテロ。おまえは本当に駄目な奴だ」という軽蔑のまなざしだったでしょうか。
 私には、そうは思えません。イエス様は、ご自分を否定したペテロを慈しみと愛のまなざしで見つめられたと思うのです。なぜならば、32節を見ると、イエス様がシモン、つまり、ペテロにこう言われているからです。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と。イエス様は、最初からペテロがイエス様を裏切ることを見通しておられました。その上で、ペテロの信仰がなくならないように祈ってくださり、また、ペテロが挫折から立ち直って兄弟たちを力づける存在となることを期待し、励ましてくださったのです。
 ペテロは、イエス様を三度も否定してしまったとき、イエス様に見つめられて、イエス様のことばをはっきり思い起こしたことでしょう。そして、62節にあるように外に出て、激しく泣きました。ペテロがそれまで持っていた自信も誇りもすべて崩れ去ってしまったのです。
 しかし、その涙も、三日後には喜びに変わりました。それは、イエス様が復活されたからです。意気消沈していたペテロは、復活されたイエス様にお会いして、どれほどの喜び、どれほどの勇気が与えられたことでしょう。そして、この復活の事実こそ、何にもましてペテロや他の弟子たちの大きな信仰の確信となり、その後、彼らは世界中に出て行って、イエス様が死を打ち破り、今も生きておられることを伝えていったのです。

 さて、今日は、このペテロの大きな失敗の経験を通して、大切な三つの事を皆さんに知っておいていただきたいと思います。

1 失敗しても価値は変わらない

 私たちは、「失敗を重ねる度に自分の価値が減少する」と考えることが多いですね。また、失敗した時、自分を責めるだけで、その失敗から学ぼうとしないことが意外に多いのです。私たちには失敗がつきものですが、失敗する度に自分を責め、また人からも責められ、自信をなくしていきます。そのくせ、私たちは、誰かが失敗すると、すぐに責めたくなるのですが。
 しかし、聖書の見方は違います。神様は、私たちが弱く、失敗しやすいものであることをご存じの上で、私たちを愛してくださっています。そして、挫折し、気落ちしている私たちを支え励ましてくださるのです。
 イエス様は、ペテロの裏切りを見て、態度を変えられたでしょうか。「イエス様のペテロに対する態度は冷たくなった」と聖書に書いてありますか。いいえ。イエス様はそういう方ではありません。イエス様は、私たちが失敗した時、責めるのではなく、赦し、いやし、これからの生き方を示して希望を与えてくださいます。私たちがどんな失敗をしても、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを見捨てない。だから、わたしと共に歩んでいこう」と語りかけてくださるのです。
 イエス様は、ペテロの弱さも承知の上で、「ペテロよ。立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい、励ます者になりなさい」と将来の生き方を示してくださいました。私たちは、失敗した人に向かって、そんなことはなかなか言えませんね。でも、イエス様は、ただ言葉で語るだけでなく、私たちがそのように生きていけるように支え、助け、力を与えることがおできになるのです。
 イエス様は、いつも私たちに愛のまなざしをそそぎ、「あなたが失敗しても、あなたの価値は変わらないのだよ。わたしのあなたへの愛も変わらないのだよ」と語りかけてくださいます。私たちは、たとえ失敗しても、神様が常に高価で尊い者として見ていてくださることを忘れないようにしましょう。

2 失敗や挫折は必要な栄養となる

 また、私たちは、失敗や挫折を通して大切なことを学ぶことができます。それは、「謙遜」ということです。ですから、失敗や挫折は、人生の大切な栄養であると言ってもいいでしょう。 箴言18章12節に「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」とあります。考えてみてください。もし、何をやってもすべてうまくいって、失敗も挫折もまったく経験しなかったら、その時、自分の姿がどうなっているか想像できますか。ちょっと怖いですね。
 皆さん、あなたはあなたです。あなた以上でも以下でもありません。しかし、高慢は、あなたがあなた以上になってしまう状態です。自分は何でもできると錯覚し、まわりのものがすべて自分中心に回っているかのように勘違いしてしまうのです。高慢は回っている独楽のように、近づくものをみな跳ね返してしまうだけのものです。でも、失敗や挫折によって、その高慢に気づくことができるのですね。
 私が最初この城山教会の牧師に赴任するときは、かなり自信を持っていました。最初は少人数でしたが、私が説教すれば、すぐに人が集まってくるだろうと思っていたのです。ところが、三年たっても状態は変わりませんでした。何をやっても、うまくいきません。何をやっても思うようにいかないのです。出てくる言葉は、「こんなはずではないのに」でした。そして自分を責めていくわけですね。「俺は駄目な牧師だ。何をやっても駄目だ。もう、牧師をやめよう」と本気で考えたのです。しかし、その挫折経験を通して、教会を建て上げるのは自分の力ではなく、神様の力によるのだ、ということを知ることができました。また、聖書の約束の言葉に委ねることの大切さも学ぶことができたのです。そして、今があるわけですね。
 ペテロは、「人が何と言うようが、私は大丈夫。何があろうとイエス様に従っていける」と自負していました。「私はずっとイエス様の身近にいて、いろいろな奇跡を体験してきたから、他の人とはレベルが違う」というような思い上がった気持ちを持っていたのかも知れませんね。しかし、ペテロは、言い訳ができないほど完全にイエス様を否定してしまいました。彼の自信は崩れ去ってしまいました。しかし、この出来事が、彼の後の生涯の大切な栄養になっていくのです。
 彼は、謙遜を学びました。自分の弱さを自覚し、その弱い自分を愛してくださる神様の愛の大きさを知り、その弱い自分を用いて素晴らしいみわざを現すことのできる神様の力をほめたたえることができるようになっていったのです。
 「謙遜」とは何でしょう。それは、自分を必要以上に低く見積もることではありません。自己卑下することではありません。自分以上でも以下でもない、自分のありのままを認めることです。つまり、謙遜とは、神様によって支えられ、生かされ、愛されていることを自覚し、神様の恵みなしには生きていけない存在であることを自覚しながら歩むことなんです。
 そして、そこには、必ず感謝と賛美が生まれてくるのです。謙遜のバロメーターは、感謝と賛美がどれだけ生活の中に生まれているかということです。
 イエス様を裏切ったペテロでしたが、彼は、後に、手紙の中でこう記しています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」(1ペテロ1章8ー9節)。聖書の約束を信頼して生きる時、そこに喜びが感謝が賛美が与えられていくのです。
 皆さん、失敗や挫折を経験したからといって、「私は、信仰がない」とか「信仰を持ち続けても無駄だ」などと思わないでください。もちろん、失敗や挫折によって自信を失い、どうしたらよいのか途方に暮れてしまうこともあるでしょう。しかし、その失敗や挫折を通して教えられ、自分の生き方を点検させられ、人生の栄養を得ることができるということを知っていただきたいのです。神様は、私たちの失敗をも益とすることがおできになるのですから。

3 キリストのまなざしが一人一人に注がれている

 イエス様は、どんな時にも一人一人への配慮を忘れることはありませんでした。ご自分が殺されるかもしれない危険な状況の中でも、一人の盲人に目を留め、いやされました。エリコの町で大群衆に取り囲まれているとき、木の上からイエス様を眺めていた嫌われ者の取税人ザアカイに目を留め、その名を呼んで招かれました。ご自分が捕らえられ、厳しい審問を受けている時にも、イエス様を否定したペテロを見つめられたのです。
 イエス様は、今日も、一人一人に目を注がれています。失敗し、挫折感の中にある人がいますか。罪責感や恐れの中にある人がいますか。イエス様は、「大丈夫、わたしがあなたの罪を十字架で背負い、贖った。わたしと共に歩もう」と、愛のまなざしを注いでくださっているのです。
先週の木曜日の集まりで、イザヤ書63章を読みましたが、9節にこう記されていました。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」
 これは、あなたにも語られている神様の言葉です。失敗があり、挫折があるかも知れません。困難が続くこともあるでしょう。しかし、主は、共に痛み、苦しみ、過去においても、現在においても、未来においても、愛とあわれみによって贖い、背負い、抱いてくださる方なのです。

今日、あなたに、イエス・キリストのまなざしは注がれています。安心してください。あなたの失敗によって、あなたの価値は下がりません。どうぞ、キリストのまなざしが注がれていることを確信し、自分らしく、謙遜に、キリストとともに感謝と賛美をもって生かされていく一週間となりますように。