城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年11月一六日            関根弘興牧師
                 使徒の働き二章一節ー八節

イエスに従った弟子たち7
    「新しい言葉」

1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。(新改訳聖書)


今日は、「イエス様に従った弟子たち」の第七回目です。
 何度もお話をしているように、弟子たちは、私たちと同じように弱さもあり、欠点もあり、失敗もあり、思い違いもありました。また、水と油のような様々なタイプの人が集められていましたね。そして、彼らが一番関心をもっていたのは「私たちの中で誰が一番偉いのか」ということで、いつもそのことを議論していたのです。お互いに比べ合い、競い合っていたのですね。
 そんな一見ばらばらに見える弟子たちでしたが、たった一つだけ共通点がありました。それは、「わたしについて来なさい」というイエス様の招きに従ったということです。
 といっても、イエス様が十字架につけらたとき、ほとんどの弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまいました。また先週お話ししましたように、ペテロはイエス様を三度も否定してしまいました。イエス様が捕らえられ、十字架につけられたことで、弟子たちは、恐れ、失望してしまったのです。
 しかし、イエス様は、以前から、ご自分が苦しみを受けること、十字架で殺されること、そして、三日目によみがえることを弟子たちに予告しておられました。そして、その予告通りにイエス様は復活して、弟子たちの前に姿を現してくださったのです。
 この復活のイエス様に出会って、弟子たちの人生は一変しました。「イエス様は、今も生きておられる」ということを知ったからです。そして、イエス様が復活されたということは、イエス様の数々の約束も必ず実現することが保証されたということです。
 イエス様はヨハネ11章25節で「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。そのことばの通り、イエス様は復活し、信じる人々に「死んでも生きる」いのちを与えることができることを証明されたのです。
 そして、死の力を打ち破って今も生きておられるイエス様は、約束したことを必ず実現してくださいます。私たちは、それを信頼して生きることができるのです。イエス様が今も生きておられるからこそ、聖書の一つ一つの言葉が、今を生きる私達に必要な力と励ましを与え、永遠の救いを約束するものとなっているのです。
 ですから、「イエス様が復活して、今も生きておられる」と知ることはとても大切なことですが、もう一つ知るべき大切なことがあります。それは、「イエス様がどこにおられるのか」ということです。
 「イエス様は、今も生きておられるけれど、遠いところにおられる」というのでは、あまり慰めにも支えにもなりませんね。いつも恐れることなく平安と希望をもって歩んでいくためには、「イエス様が私たちと共にいてくださる」という確信がどうしても必要なのです。
 実は、そのことについても、イエス様は、十字架につけられる前に何度も弟子たちに予告しておられました。ヨハネ14章18節で、イエス様は、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」と約束なさいました。また、復活した後に天に昇って行かれる前に、イエス様はマタイ28章20節で「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束なさいました。
 しかし、復活して天に昇られたイエス様が、いつも私たちともにいてくださるとは、どういうことでしょうか。
 ヨハネ14章16節で、イエス様は、こう言われました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」つまり、イエス様が復活して父なる神のものに昇って行かれた後に、もう一人の助け主である聖霊が送られ、いつまでも私たちとともにいてくださるというのです。
  聖書の神様は、三位一体の神様です。「三位一体」というのは神学用語で、その言葉自体は聖書のどこにも出てきませんが、聖書全体を読むと、神様は、唯一の方であるとともに、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊という三つの位格を持っておられることがわかるのです。「位格」というのは、人間でいえば人格と言われるものですが、神様なので人格ではなく位格という言葉を使います。神様はただひとりの方ですが、三つの位格を持っておられ、父も子も聖霊も、同じ性質、同じ意志を持ち、統一がとれていて、愛においても、聖なることにおいても、同じ働きをなさる、その意味で一体だと聖書は教えているのです。そして、そのことを言い表すために「三位一体」という言葉が使われるようになりました。
 ですから、聖霊が私たちのもとに来てともにいてくださるようになるという約束は、父なる神とイエス・キリストも私たちとともにいてくださるようになるという約束でもあります。三位一体の神様が、いつもともにいてくださるというのです。
 イエス様は、私たちと同じ肉体をもって来てくださいましたが、そのままでは、一人一人といつもともにいるということはできませんね。しかし、イエス様が天に昇り、ご自分のかわりに聖霊を送ってくださると、聖霊は、いつでもどこでも一人一人とともにいてくださることができるのです。そして、聖霊が私たちに父なる神、イエス・キリストの愛と恵みを示し、私たちを導き、成長させ、豊かな実を結ばせてくださるのです。
 イエス様は、十字架につけられ、三日目に復活されました。そして、四十日の間、弟子たちに現れて、ご自分が生きていることを示された後に、オリーブ山から天に昇っていかれました。その時、弟子たちは、「イエス様、なぜ私たちから離れていくのですか」「なぜ一緒にいてくださらないのですか」とは言いませんでした。なぜなら、イエス様と同じ本質をもっておられる聖霊が来てくださるという約束をすでに知っていたからです。
 その約束どおり、イエス様が天に昇られてから十日目に、弟子たちに約束の聖霊が注がれました。それが、今日の箇所です。弟子たちは、この時から全世界に出て行って、「イエス様は今も生きておられる」と宣べ伝え始めたのです。そして、エルサレムから始まって、各地に教会ができていきました。
 ところで、今日の出来事は、五旬節、つまり、ペンテコステに起こりました。ペンテコステというのは、ユダヤ人たちが過越の祭りが終わってから五十日後に行う祭りで「刈り入れの祭り」とも言われています。
 イエス様は、過越の祭りの時に十字架につけられ、復活されてから四十日目に天に昇り、それから十日後、つまり、復活から五十日目のペンテコステに聖霊が下ったというわけです。それで、キリスト教会では、ペンテコステは、聖霊が下られた日、そして、教会の誕生日として記念しているのです。
さて、今日の箇所を読むと、不思議な出来事が起こりましたね。「天から激しい風が吹いてくるような響き」があり、「炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった」というのです。そして、弟子たちは聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉で話し出したとあるのですから、まさに特別な出来事でした。
 弟子たちの中で高等教育を受けている者はほとんどいませんでした。聖霊が下るのを待っている間、語学学校に通って集中的に勉強していたわけでもありません。それなのに、彼らは、世界中からエルサレムに集まって来た人たちにわかるように、それぞれの国の言葉で神の大きなみわざを話し出したのです。話している弟子たちもびっくりしたでしょう。聞いた人たちもびっくりです。もし、私たちがこの場にいたら、弟子たちは、日本語でも語ったかもしれませんね。
 ともかく、普通では考えられないことが起こったわけですから、「こんな経験をするのは、特別な選ばれた弟子たちだけではないか」と思う方もおられるでしょう。たしかに、私たちみんなが同じような経験をするわけではありません。今日の箇所のような、誰もが驚くような出来事が起こったのは、イエス様の約束が実現したことが誰にでもわかるように、神様が特別なしるしを見せてくださったのでしょう。
 しかし、特別な弟子たちだけでなく、誰でもイエス様を信じ受け入れるときに、表面的なしるしが見えなくても、聖霊が私たちのもとに来てくださり、私たちのうちに宿り、いつもともにいてくださるという聖書の約束が実現するのです。そして、その聖霊の働きによって、私たちの生涯を通して神様のみわざが現されていくのです。
 では、聖霊が来てくださるとき、どのようなことがおこるのでしょうか。そのことが、今日の箇所の出来事の中に象徴的に示されていますので、それを学んでいきましょう。

1 言葉の変化

 聖霊は、不思議なことをなさいましたね。集まってきた人々のそれぞれの国の言葉で、弟子たちに神様の大きなみわざを語らせたのです。つまり、聖霊が弟子たちの舌をコントロールされたということですね。
 考えてみてください。弟子たちは以前はどんな人たちでしたか。「俺たちの中で一番偉いのは誰か」という議論ばかりしていました。自分を誇り、人を見下す言葉を語っていました。また、都合が悪くなるとごまかしたり、その場しのぎの自分勝手なことを語っていたのです。
 皆さん、舌をコントロールすることは、なんと難しいことでしょうね。ヤコブの手紙3章2-10節には、そのことが書かれています。「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。・・・しかし、舌を制御することは、だれにもできません。」
思わず納得してしまいますね。しかし、聖霊は、弟子たちの舌をコントロールして、神様のみわざを語る者としてくださったのですね。
 私たちも同じです。クリスチャンとして生きるようになる時の特徴は、今まで知らなかった言葉を使うようになるということです。お互い、振り返ってみてください。イエス様に出会う前には、「神様、あなたをほめたたえます」「主に感謝します」そんな言葉が唇に上りましたか。「生かされている、愛されていること、恵みの中に憩うことができることを感謝します」そんなことを言ったことがありましたか。
 聖霊は、私たちの内に宿り、内側から新しく変えてくださり、私たちの舌をも支配して、新しい言葉を語る者としてくださるのですね。義務感で無理に行うのではなく、自然に神様をほめたたえる者に変えられていくのです。
 ただ、誤解しないでくださいね。弟子たちは、この後、愚痴も不平も一切言わなくなったかというと、そうではありません。ペンテコステの出来事は、聖霊が、一人一人の舌をコントロールして、主のすばらしい恵みを語り、分かち合うことのできる者としてくださるということを示す象徴的な出来事でした。しかし、それは、一瞬にして完成されるのではなく、生涯を通じて学び育んでいくものなのです。
 パウロは、第二コリント3章18節で「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と書いています。私たちは、すでに完全に主と同じように変えられたのではなく、少しずつ変えられていく途中なのです。そして、それは、聖霊なる主の働きによるのです。
 生まれたての赤ちゃんは、歩くことができません。でも、お座りができるようになり、ハイハイができるようになり、立ち上がり、よちよち歩きができるようになり、次第に自由に歩いたり走ったりできるようになります。私たちが変えられていくのもそれと同じです。最初は、できなかったり、失敗ばかりしていても、しだいに出来るようになっていきます。それは、神様に与えられたいのちによって、絶えず成長させられているからです。内側に宿ってくださる聖霊が成長する力を与えてくださるのです。ですから、失敗することがあっても挫折することがあってもいいのです。愚痴も不平もこぼすことがありますよ。今の自分のありのままの姿、ありのままの思いを神様の前に出していくことは大切です。でも、それで終わるのではなく、聖霊が成長させてくださること、キリストの姿に似た者とされていくことを期待していきましょう。
 そして、私たちの側で必要なことは何かというと、助けてくださる方がともにおられることを信頼して、やってみようとすることです。
 たとえば、自分がいつも使っている言葉を点検してみましょう。「私の語る言葉を神様は喜んでおられるだろうか」「私の言葉で誰かに不快な思いを与えていないだろうか」と。時には、相手に率直に指摘してもらうことも必要かもしれませんね。
 また、無意識に習慣的に使っている言葉はないでしょうか。使い癖がついている言葉というのは結構あるのですね。たとえば、「大変」を多用する人がいます。なんでも大変、晴れても大変、雨が降っても大変、曇っても大変、癖なんですね。それに気づいたら、「大変」を「感謝」に変える練習してみてください。晴れたら感謝、雨が降ったら感謝、曇ったら感謝、そういう訓練をすることも大切です。それとともに、「主よ、私の舌をコントールしてください」と祈りつつ歩んでいくのです。大丈夫です。聖霊なる神様は、私たちの舌をコントロールすることができる方なのですから。

2 福音を語る

 さて、今日の出来事を契機に、弟子たちは、イエス様の福音を世界中に宣べ伝えていくようになりました。
 「福音」とは何ですか。前にお話ししましたように、「福音」とは、「大丈夫」という知らせです。「何が起こっても大丈夫、どこにいても大丈夫、イエス様が愛と真実を持って一人一人を支配してくださっているのだから」という知らせなのです。
 ただ、「支配される」という言葉を聞くと否定的なイメージを持つ方も多いかも知れませんね。しかし、私たちの人生は、必ず、何かに支配されているのです。神などいないという考え方に支配されている人もいるし、お金があれば幸せになれるという考え方に支配されている人もいます。自分は誰からも愛されないという思いに支配されている人もいます。誰か特定の人物に支配されて言いなりになって生きている人もいます。
 様々な宗教的な迷信に支配されている人もいます。善行を重ねなければ人間は救われないという考え方に支配されますと、悪い事が起こる度に、自分の善行が足りないと責めることになるでしょう。また、前世が悪いから、今の状態が不幸なのだと考える考え方に支配されている人もいます。因果応報の考え方に支配され、先祖が今の生活を不幸にしていると考える人もいます。水子のたたり、先祖のたたり、過去の因縁、様々なことや宗教的な支配に縛られて不自由になっている人もいます。
 つまり、私たちは皆、何かに支配されて生きているのですが、だれによって、また、何によって支配されているかによって人生が大きく変わってしまうのです。
 聖書は、何を伝えていますか。愛と真実に満ちた神様が、私たちの罪を赦すためにイエス・キリストを遣わしてくださり、そのイエス・キリストが私たちの罪のために十字架についてくださり、そして、三目目によみがえり、信じる一人一人に、赦しと永遠のいのちを与えてくださる、そして、この方が、今も生きており、一人一人の内に住んでくださり、私たちを様々な束縛から自由にしてくださるというのです。
 福音とは、「愛と恵みと真実に満ちたキリストの支配の中に移され、生かされて歩むことができるから大丈夫」という知らせなんですね。
 パウロは、コロサイ1章13節でこう書いています。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」キリストが私たちの人生を守り導いてくださるので、私たちは、安心して、喜びを持って、最も自分らしく生きることができるのです。
 さて、このペンテコステの出来事をきっかけに教会が誕生し、弟子たちは、福音を携えて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして、地の果てにまで伝えていきました。そこには、言葉の違いがあります。習慣の違いがあります。肌の違いがあります。文化の違いがあります。様々な違いがありましたが、イエス様の福音は、その違いを乗り越えて進んでいったのです。あの弱く、つまずきやすい弟子たちでしたが、聖霊が来てくださってからは、全世界に出て力強く福音を語る者となっていきました。 繰り返しますが、弟子たちの原動力は、「イエス様が今も生きておられる」、そして、「いつでもどこでも私とともにいてくださる」という確信だったのです。
 この確信が、今日集まっている私たち一人一人の確信ともなっていきますように。
最後にヨハネの手紙第一4章13節を読みましょう。「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」