城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年一1月二三日            関根弘興牧師
                 使徒の働き三章一節ー八節

イエスに従った弟子たち8
    「弟子たちの宝」

 1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。(新改訳聖書)


今日は、「イエス様に従った弟子たち」の最終回です。
 前にもお話ししましたように、イエス様は水と油のような弟子たちをお選びになりました。彼らはイエス様と行動を共にしているとき、イエス様の語る言葉の意味やイエス様が何のために来られたのかということをあまり理解していませんでした。ですから、イエス様が捕らえられ、十字架につけられると、ほとんどの弟子たちは、恐れて逃げ、隠れてしまいました。また、ペテロは、「他の者がつまずいても、わたしはつまずきません」と威勢のいいことを言っていたのですが、イエス様が捕らえられると、いとも簡単にイエス様を三度も否定しまいましたね。イエス様は、以前からご自分が苦しみ受け、殺され、そして三日目によみがえることを予告しておられたのですが、弟子たちは、イエス様の言われたことを理解することも受け入れることも出来ていなかったのです。
 しかし、先週お話ししたように、彼らの生涯が一変する出来事が二つ起こりました。
 一つは、十字架につけられ、死んで葬られたイエス様が、三日目に復活されたという出来事です。弟子たちは、復活したイエス様にお会いして、「イエス様が今も生きておられる」ということを知ることができました。
 そして、もう一つは、イエス様が天に昇っていかれた後、ペンテコステの日に弟子たち一人一人に聖霊が下られたという出来事です。聖霊は、父なる神、子なるイエス・キリストと一体のお方ですから、その聖霊が信じる一人一人の内に宿り、いつもともにいてくださるということは、父なる神とイエス・キリストもいつもともにいてくださるということなのです。
 この二つの出来事を通して、弟子たちは、「主が今も生きておられる」ということと、「主がいつもともにいてくださる」ということを知ることができたのです。
 それは、当時の弟子たちだけではありません。現在も、主は生きておられ、信じる私たち一人一人の内にともにいてくださいます。そして、私たちを教え、導き、成長させてくださっているのです。クリスチャンとは「主は今も生きておられ、わが内におられる」という約束を信頼して生きていく人々なのです。

 さて、今日の箇所ですが、これは、弟子たちに最初に聖霊が下られてからまもなく起こった出来事です。
 登場するのは、ペテロとヨハネですが、ペテロは、以前は自信過剰で、それなのにイエス様を三度も否定してしまったのでしたね。それから、ヨハネは、以前、兄弟のヤコブと二人でイエス様のもとに来て「あなたが栄光の座につくとき、一人を先生の右に、ひとりを左に座らせてください」とずうずうしいお願いをした男です。イエス様は、ヨハネに「ボアネルゲ(雷の子)」というあだ名を付けられました。短気で、すぐカッカとするような、そして、人を押しのけるような性格だったのかもしれませんね。
 しかし、今日の箇所を読むと、ペテロもヨハネも、以前とずいぶん変わっているようです。自分のことしか考えていなかったような彼らが、祈りのために宮に上り、「美しの門」のところで物乞いしていた生まれつき足のなえた人に目を留めたのです。彼らは、以前、生まれつきの盲人が物乞いをしているのを見たことがありました。その時は、「この人が盲目なのは、この人か両親が罪を犯したからだろう」と冷たい目で見ていたのです。ところが、今はどうでしょう。足のなえた人が施しを求めたとき、その人に目を注ぎ、助けの手を差し伸ばしたのです。すると、すばらしいことが起こりましたね。
 今日は、この二人の変化した姿から、イエス様によって生かされ、イエス様とともに生きていくことの幸いを学んでいきたいと思います。

 まず、1節に「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った」と書かれています。午後三時に祈るというのは、以前からユダヤ人である彼らが行っていた習慣です。ペテロとヨハネは、復活のイエス様にお会いし、聖霊を受けて新しい出発をしましたが、だからといって、今までの習慣をすべて否定して捨て去ってしまったわけではありません。イエス様が復活されたことも、聖霊が注がれたことも、昔から旧約聖書に約束されていたことでしたから、ペテロもヨハネも自分たちがまったく新しい教えに入ったというような感覚は持っていませんでした。ですから、あたりまえのように、今まで通り神殿に行って神様に祈ろうとしたのです。
 私たちも、クリスチャンになったからといって、今までやっていたことを全部捨てたり止めたりするわけではありませんね。もちろんクリスチャンになったことによって何かを捨てたり止めたりすることが必要な場合もありますが、ほとんどの場合、仕事も家庭も学校も同じように続けていくわけです。しかし、神様なしの生活から、神様を礼拝しつつ歩む人生へと変わったことによって、今までと同じように見える生活の中に神様のみわざが現されていくのです。
 さて、今日の出来事が起こったのは、神殿の中の「美しの門」と呼ばれる場所でした。当時の神殿は、パレスチナ随一を誇る壮大な建物でした。ヘロデ王によって大規模な改築工事が行われ、金が豊富に使われ、巨大な大理石が立ち並ぶものでした。そして、「美しの門」というのは、神殿の一番外側にある「異邦人の庭」から、さらに内側の「婦人の庭」に通じている門で、金や銀や真鍮を使って他の門より壮麗に造られていたので「美しの門」と呼ばれていたようです。
 しかし、何とも皮肉なことに、その美しい門のかたわらで、美しさとは程遠い足のなえた男が施しを求めていたのです。神殿は飾り立てられているけれど、人がみじめな生活をしている、何かがずれてしまっている姿ですね。
 そこに、ペテロとヨハネがやってきました。先ほどお話ししたように、以前の彼らなら、冷たい視線を向けるか、無視するか、せいぜい小銭をめぐむ程度のことしかしなかったでしょう。しかし、今は、違います。その男を見つめて、「私たちを見なさい」と行ったのです。なんと大胆な言葉でしょう。
 皆さんは、「私たちを見なさい」と言えますか。「私でなく、お隣の方を見てください」となら言えるかもしれませんが、自信がなければ「私たちを見なさい」などと言えませんね。
 ペテロは、自信をもって「私たちを見なさい」と言いました。そう言われたら、普通は、「たくさん施しをしてくれるのかな」と思いますよね。この足のなえた人は、期待してペテロたちを見たことでしょう。しかし、次に言われたのは、「金銀は私にはない」という言葉でした。彼は、とまどったでしょうね。「お金をくれるわけじゃないのか」とがっかりしたかも知れません。
 でも、お金よりもっと素晴らしいものが与えられたのです。ペテロが「私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせると、彼は、おどり上がって立ち、歩いたり、はねたりし始めたのです。
 ペテロは、「私にあるものをあげよう」と言いました。ペテロが持っていたのは、イエス・キリストの御名でした。その御名があるので、「私を見なさい」「歩きなさい」と大胆に宣言することができたのです。
 そして、この出来事に驚いたユダヤ人の指導者や大祭司たちに対して、ペテロは、4章10節と12節で、はっきりとこう言っています。「この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

1 イエスの御名

 ペテロたちに金銀はありませんでしたが、最高の宝を持って
いました。それは、「イエスの御名」という宝でした。
 この「イエスの御名」とは、どういうものでしょうか。

@イエス様の権威

 イエス様は、十字架につけられる前に、弟子たちにこう約束しておられました。ヨハネ14章13-14節「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」と。 私たちがイエス様の御名によって求めることは、何でもしてくださるというのです。すごいですね。
 では、「イエス様の御名によって求める」とは、どういうことでしょうか。
 名前は、その人の力、権威を表します。この教会が宗教法人の認可を受けたとき、証書には神奈川県知事の名前が記載され、印鑑が押されました。県知事に認可の権限があるからです。知事の名前には権威があるのです。その知事の名前があれば、その通りに認められ、行われていくのですね。
 イエス様は、どうでしょうか。イエス様は、天においても地においても一切の権威が与えられているお方です。その方の名によって求めるなら、その通り行われるのです。
 ですから、イエス様は「わたしの名によって求めなさい」と言われました。だから、私たちは、祈るとき、イエス様のお名前によって祈るのです。そして、イエス様はその祈りに答えてくださり、そのことによって父なる神様が栄光をお受けになるというのです。
 今日の箇所でも、イエス様の御名によってすばらしいことが起こりました。それは、イエス様の御名に権威があったからです。そして、その結果、神様への賛美が生まれ、神様が栄光をお受けになったのです。
 
Aイエス様の性質

 それから、聖書では、「名」という言葉は、その人自身を表すのに使われます。ですから、「イエスの御名」とは、イエス様ご自身のことでもあるのです。「イエス様の御名」によって祈り求めるとは、イエス様の御性質にそって祈り求めることです。イエス様は、愛とあわれみと恵みとまことに満ちた方です。罪人をまねき、罪をゆるし、救いを与え、迷った羊を捜し求め、
休ませ、養い、導き、豊かな祝福をあふれんばかりに与えようとする方です。そういうイエス様の御性質にそって祈り求めていくこと、それがイエス様の御名によって祈ることです。
 美しの門に座って物乞いをしていた人に、イエス様は目を留め、いやしてくださいました。ペテロとヨハネを通して、みわざを行われたのは、イエス様ご自身だったのです。

Bイエス様の知恵と知識

 また、イエス様は、すべての知恵と知識を持っておられます。 パウロは、コロサイ2章3節に「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」と記しています。
また、コリント人への手紙第一1章24節には「キリストは神の力、神の知恵なのです」と記しています。
それから、コロサイ人への手紙1章15節-16節には、こう書かれています。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。」この世界はイエス・キリストによって造られたというのです。詩篇104篇24節には、「主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています」と書かれています。
皆さん、私たちが何かを造ろうするときには、知恵と知識が必要ですね。聖書は、「イエス・キリストの内に知恵と知識との宝がすべて隠されている」、だから、御子イエスは、万物を造ることがおできになったのだ、と教えているのです。
 ですから、イエス様の御名が与えられているということは、イエス様の知恵と知識が与えられているということでもあります。
 ヨハネの手紙第一5章20節には、「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」と記されています。イエス様が神様を知る理解力を与えてくださったというのです。
 皆さん、感謝ではありませんか。私たちの主は、全てをご存知の方です。知恵と知識の宝に満ちた方です。私たちは、分からないことがよく起こります。突然の出来事であったり、不慮の災害であったり、物事がうまくいかなかったり、意味の分からないことが多いのです。でも、全てをご存知の方がともにいてくださるのですから、安心ではありませんか。知恵と知識に満ちた方がともにいてくださるのですから、この方にあって問題の解決があることを知ることができるのです。
 また、イエス様は、私たちのことをすべて理解し、わかってくださる方です。私たちにとって何が必要なのか、何が最善なのかもよくわかっておられます。そういう方が、いつも共にいてくださるのですから心強いですね。

2 土の器
 
 私たちには、イエスの御名があります。それは、イエス様ご自身が私たちの内にいてくださる、つまり、イエス様の権威、イエス様の性質、イエス様の知恵と知識が私たちとともにあるということなのです。私たちにとって、これほど素晴らしい宝があるでしょうか。しかし、だからといって、私たちは、自分を誇るべきではありません。パウロは、Uコリント4章7節-9節手紙の中でこう記しています。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」宝は素晴らしいけれど、その宝の入れ物である私たちは、土の器にすぎないというのです。
 今日の出来事の後、3章12節ー15節を見ると、ペテロは、生まれつき足のなえた人が歩けるようになったのを見て驚いている人々にこう言っています。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」 ペテロは、「この素晴らしい奇跡が起こったのは、私たちの力でなく、私たちが信仰深いからでもありません。イエス・キリストの御名によるのです」とはっきり言ったのです。
 私たちは、土の器です。もろく壊れやすい器です。でもその中に素晴らしい宝が輝いているのです。ですから、自分を誇るのではなく、その宝を誇ることができるのです。
 ペテロたちは、そのことを知っていたので、どんなに迫害されても、恐れることなくイエス様の御名を宣べ伝えていきました。「今も生きておられるイエス様が、私の内に生きておられる。それがわたしの宝であり、私を生かすものだ」ということを確信していたからです。
 皆さん、私たちは神の栄光のために生きるということを考えたとき、立派な人にならなければならないとか、すばらしいことをしなければならないと考えてしまうかもしれませんね。でも、実はそうではありません。私たちは、土の器に過ぎないのです。土の器のままでいいのです。しかし、イエス様の御名という宝が与えられているのですから、その御名を信頼し、毎日の祈りの中でイエス様の御名によって祈り求めていきましょう。それが、結果的に神の栄光につながっていくのです。そういう意識を持って歩んでいきたいですね。

3 新しい生活の始まり

 さて、歩き出したこの男の人生はどう変わったでしょうか。 彼は、歩けることのすばらしさを知って、神を賛美しました。しかし、この後の現実はどうでしょうか。もう歩けるのですから、物乞いを続けるわけにはいきません。当時の社会では「施し」は徳を積むことだと考えられていましたから、物乞いをしている限り、最低限の生活はできたでしょう。しかし、イエス様の御名によって歩くことができるようになって、彼は古い生活から新しい生活へと立ち上がっていったのです。
 第二コリント5章17節で、パウロはこう書いています。「だれでもキリストにあるなら、新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と。イエス様によって歩み出す人生は、新しい人生なんですね。新しい人生は、確かにすばらしいことがたくさんあるでしょう。しかし、クリスチャンになったが故に、以前は考えなかったことを考え、悩むときもあることでしょう。困難に遭うこともあるかもしれません。しかし、いつも主がともにいて支え導いてくださることを信頼してすすんでいきましょう。新しくされたがゆえに悩むことがあっても、心配しないでください。イエス様に信頼する者は、失望に終わることがないのですから。
最後に、第二コリント4章7節-9節の言葉を読んで、お祈りいたしましょう。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」