城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二三年三月五日              関根弘興牧師
                第二サムエル七章一節〜一三節
               
 サムエル記連続説教14
   「あなたの家はとこしえに」
 
 1 王が自分の家に住み、主が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、2 王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」3 すると、ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」4 その夜のことである。次のような主のことばがナタンにあった。5 「行って、わたしのしもべダビデに言え。主はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。6 わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。7 わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と、一度でも、言ったことがあろうか。8 今、わたしのしもべダビデにこう言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。9 そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい大いなる名をあなたに与える。10 わたしが、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、民を住みつかせ、民がその所に住むなら、もはや民は恐れおののくことはない。不正な者たちも、初めのころのように重ねて民を苦しめることはない。11 それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに主はあなたに告げる。『主はあなたのために一つの家を造る。』12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」 (新改訳聖書第三版)
 
 前回、全イスラエルの王になったダビデは、都をヘブロンからエルサレムに移しました。そして、長い間忘れ去られていた契約の箱をエルサレムに運び上り、天幕の中に安置しました。それは、神様が共にいてくださることを覚え、礼拝を回復するためでした。
 その続きが今日の箇所です。1節に「主が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられた」と書かれていますね。ダビデは、これまで敵との戦いを繰り返し、また、サウル王に狙われて長い逃亡生活を強いられ、波乱に満ちた生活を続けていましたが、今、やっと安息の時が与えられたのです。
 
1 ダビデの思い
 
 その安息の中で、ダビデは、これまでの神様の恵み、助け、導きを振り返って、神様への感謝と共に、神様のために何かしたいという思いが湧いてきたのでしょう。そこで、預言者ナタンを呼んで助言を求めました。
 以前にもお話しましたように、健全な王制を保つためには、王に直接進言できる預言者が必要です。つまり、王がいつも神様のみこころを求め、神様に聞き従うという姿勢を持っていることが大切なのです。王が神様を無視し、周りの言うことを一切聞かずに独裁的になっていくと、その国は立ちゆかなくなります。ですから、イスラエルの国には、いつも王宮付の預言者がいて、王の相談役としての役割を果たしていました。
 ダビデには、ナタンという預言者がいました。そのナタンにダビデは2節でこう相談したのです。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」5章11節には、エルサレムに都を移したダビデのもとに、ツロの王ピラムが杉材、大工、石工を送って、ダビデのために王宮を建てたことが書かれています。ダビデは、「自分は高級杉材の王宮に住んでいるのに神の箱は天幕の中にとどまっているではないか。神様のために立派な神殿を建てるべきではないか」と考えたのです。
 
2 主の答えと約束
 
(1)あなたが神殿を建てるのではない
 
 ナタンは、ダビデの主への思いを良いものだと認めました。しかし、その夜、主はナタンにこう告げられたのです。「わたしのしもべダビデに言え。主はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と、一度でも、言ったことがあろうか。」つまり、神様は「ダビデよ、お前は私のために神殿を建てなくてもよい」と言われたのです。神様は「あなたがどこにいようと、わたしはあなたと共に歩む」ということと、「わたしは手で造った建物に納められるような存在ではない」ということを示されたのです。
 ただ、これは、今後神殿を建てる必要はまったくないという意味ではありません。神殿は、神様がともにおられ、人々の祈りや願いを聞き、罪を赦し、祝福してくださることを示す場所であり、神様への礼拝を大切にすべきであることを示す場所です。ですから、後にダビデの息子ソロモンが壮大な神殿を建てることになるのですが、神様は、なぜダビデには神殿建築を許可されなかったのでしょうか。その理由が第一歴代誌22章8節に書かれています。ダビデが息子のソロモンにこう語っています。「ある時、私に次のような主のことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。』」神様は、あまりにもたくさんの血を流してきたダビデは神殿建築の働きには相応しくないと言われたのです。そして、神様は、ダビデの息子ソロモンが神殿を建てるのにふさわしいと言われました。そこで、ダビデは、ソロモンが立派な神殿を建てることができるように、金、銀、青銅、宝石、大理石、高級木材などを大量に用意し、また、ソロモンに王位を譲るときに「主は、聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい」と励まし、神様から示された神殿の仕様書を与えました。そして、人々を集め、ソロモン王とともに喜んで神殿を建てるように、そして、主を心から礼拝し続けるようにと励ましたのです。ダビデは、自分では神殿を建てられませんでしたが、自分の死後も王や民が心から主に仕えていくために、自分のできる最善の事を行ったのです。
 
(2)とこしえの王国の約束
 
 そんなダビデに、神様は今日の箇所で、重要な約束をお与えになりました。「あなたがわたしのために家を建てるのではなくて、わたしがあなたのためにとこしえまでも続く家を建てよう」という約束です。そして、「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」と言われたのです。
 この「家」と訳された言葉は、「神殿」という意味でも使われますし、「王朝」という意味としても使われる言葉です。つまり、神様はダビデ王朝がとこしえまでも続くと約束されたのです。この「とこしえ」という言葉は、「永遠」という意味もありますが、単に「長い間」という軽い意味でも使われることもあります。
 つまり、この神様の約束には、二重の意味があるのです。
 一つは、実際のダビデ王朝が長く続くという意味です。歴史を見ると、ダビデ王朝はバビロニヤ帝国によって滅ぼされるまでおよそ四百年間続きました。長く続きましたが、永遠ではありませんでしたね。
 しかし、もう一つの意味は、ダビデの子孫からまことの王となる方が生まれ、決して滅びることのない永遠の王国、神の国を確立するということです。ダビデ王朝がバビロニヤ帝国によって滅ぼされた後も、この約束を信じる人々は、いつかダビデの子孫の中から永遠の神の国の王となる人物が生まれ、自分たちをすべての苦しみから救い出し、平和と繁栄をもたらしてくれると期待したのです。そこから、「ダビデの子」という言葉が「救い主」という意味で使われるようになりました。
 この約束は、イエス・キリストが来られた時に実現しました。この方こそ、永遠の神の国の王となり、私たちを救い、豊かな恵みを与えてくださる方です。だからこそ、私たちはこうして礼拝をささげているのですね。
 
3 ダビデの祈り
 
 預言者ナタンからこの神様の素晴らしい約束を聞かされたダビデは、契約の箱の安置されている天幕に行って座り、祈りました。その内容が7章18節ー29節に書かれています。ダビデはどんなことを主に祈ったのでしょうか。
 
@謙遜
 
 ダビデはまず18節で「主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか」と告白しています。王様というのは、とかく自分の功績を誇りたがるものです。自慢し、高慢な態度をとることがあります。しかし、ダビデは、そうではありませんでした。これまでのことを振り返りながら、自分の才能や力によるのではなく、神様が自分を選び、ここまで守り導いてくださったことに大きな驚きを感じる謙遜な心を持っていたのです。
 
A感謝
 
 そして、19節ではこう祈っています。「神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。」ダビデは、神様が自分の家の将来を約束してくださったことにも驚きました。これからも、様々な困難や災難が襲ってくるかもしれないし、失敗や間違いを犯してしまうかもしれません。普通、「人の定め」というと、因果応報の考え方をしますね。良いことをすれば祝福を受けるけれど、悪いことをすれば罰を受けると考えるのです。しかし、神様は、これからのダビデの人生に何があろうともダビデがどんな状態になろうとも決して変わることのない約束を与えてくださったのです。神様の約束は決して無効になることはありません。自分の弱さや欠けを自覚していたダビデにとって、このような素晴らしい約束が無条件で与えられたことには、ただただ感謝するしかなかったのです。
 
B賛美
 
 そして、22節でダビデは神様を賛美しています。「それゆえ、神、主よ。あなたは大いなる方です。私たちの耳に入るすべてについて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はありません。」
 パレスチナのこの地方では多くの神々が祭られていました。しかし、ダビデは、自分をここまで導いてくださった神様に向かって、「あなただけがまことの神様です。あなたは愛と真実に満ちた方であり、あなたのような方はほかにありません」と賛美したのです。ダビデは、詩篇145篇3節でも「主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません」と記しています。私たちの信じている神様は、大いなるお方です。この方に並ぶ者はありません。この神様が、イザヤ41章10節にあるように、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」と約束してくださっているのです。ですから、私たちも、どんな時にも大いなる神様を賛美することができるのです。
 
C追想
 
 次に、ダビデは、23節ー24節で、自分の民イスラエルのこれまでの歴史を振り返っています。神様がイスラエルを御自身の民として選び、大きな恐るべきみわざを行ってエジプトの奴隷生活から贖い出し、この場所に導き、王国を築いてくださったことを思い巡らしながら、神様が約束したことを必ず成就してくださる方であることをあらためて確信したのです。
 
D勇気
 
 そこで、ダビデは、25節ー29節で大胆に祈りました。「今、どうぞあなたのしもべの家を祝福して、とこしえに御前に続くようにしてください」と。
 もし神様の約束がないのにこんな祈りをしたら、ずいぶん身勝手な祈りのように思えるかもしれませんね。祈っている本人も「自分の家がとこしえまでも続くようになどと祈るのは欲張りすぎではないか」「むしろ、あなたのみこころのままになさってくださいと祈った方がいいのではないか」「そもそも、とこしえまでも続くなんて無理な願いだろう」と思ってしまうかもしれません。
 しかし、ダビデには、神様の約束が与えられていました。27節でこう言っています。「イスラエルの神、万軍の主よ。あなたは、このしもべの耳にはっきり、『わたしが、あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。」大いなる神様が約束をしてくださったので、このような祈りをする勇気を得たというのです。だから、ダビデは、29節では「神、主よ。あなたが、約束されました。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家はとこしえに祝福されるのです」と大胆に祈ることができたのですね。「祝福してください」ではなく、「祝福されるのです」とはっきり宣言しています。これは、大切なことです。
 私たちも同じです。私たちにも主の約束が与えられています。だから、祈る勇気が与えられ、また、「あなたの約束通りに行ってください」と大胆に願い求めることができ、また、「主がかならず約束を実現してくださいます」と宣言することができるのです。
 第一ヨハネ5章14節-15節にこう書かれています。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」この「神のみこころにかなう願い」とは、神様が聖書の中で約束してくださっていることのすべてです。神様が約束してくださったことなら、神様はかならずそれを成してくださると確信することができるのです。祈る勇気が出てきますね。
 また、私たちは、ダビデと同じように永遠に続く約束を与えられています。イエス様はヨハネ5章24節でこう言われました。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」ヨハネ10章28節ではこう約束しておられます。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」この「永遠のいのち」とは、単なる長生きのことではありません。この肉体が朽ちても決して失われることのないいのち、永遠に神と共に生きることのできるいのちなのです。つまり、私たちも「あなたは主にあってとこしえに立つ。決して失われることがない」という約束が与えられているのです。ですから、勇気をもって大胆に祈り、神様が約束を必ず実現してくださることを大胆に宣言していきましょう。
 
3 ダビデの配慮
 
 さて、この祈りの後もダビデには周囲の国々との戦いの日々が続きました。8章には、ペリシテ、モアブ、ツォバ、アラム、エドムと戦って次々と勝利をあげたことが書かれています。ダビデが仕掛けたというより仕掛けられた戦いが多かったようですが、それにしても多くの血が流される光景は、読んでいて辛いものがありますね。ダビデは確かにたくさんの血を流した王でもありました。
 そのような中で、ダビデの配慮ある一面を表す出来事が9章に記されています。それは、ヨナタンの子メフィボシェテに関することでした。ヨナタンはサウル王の息子ですが、ダビデの無二の親友でした。ダビデがサウル王に命を狙われていたときもヨナタンはダビデの逃亡の手助けをしたのです。その時、ダビデとヨナタンは、今後何が起こってもお互いの家が滅びないよう守っていこうと約束しました。その後、ヨナタンはサウル王と共に戦死してしまい、ダビデが王となりました。当時、王朝が変われば、前の王朝の一族はすべて亡き者にされてしまうのは普通のことでした。しかし、ダビデは、自分の命を執拗に狙っていたサウルにもその子供たちにも寛容でした。ヨナタンとの約束を果たすために、サウル家の生き残りを捜させたのです。すると、ヨナタンの息子で足が不自由なメフィボシェテがいることがわかりました。ダビデは、メフィボシェテを呼び寄せ、9章7節でこう言いました。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」そして、彼をエルサレムに住まわせ、大切に保護したのです。メフィボシェテはダビデの恩寵を受けて「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」とダビデに言いました。メフィボシェテは、何の功績も実力もないのに、王の食卓に着く者とされました。本来、ふさわしくない者が大きな恵みを受けたのです。
 このメフィボシェテの姿を私たちに重ね合わせて見ることもできますね。私たちも本来はふさわしくない者なのに、恵みを受けて主の食卓に着く者とされたからです。
 エペソ2章4節ー6節には「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」とあります。私たちは、キリストとともに天の所に座らせていただくものとなりました。そして、主の食卓に預かる者とされたのです。
 そのことを喜び、感謝をもって主を礼拝していきましょう。