城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年一月一一日             関根弘興牧師
                  エペソ一章三節ー五節

エペソ人への手紙連続説教2
   「祝福と選び1」

3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(新改訳聖書)


先週からエペソ人への手紙の連続説教を始めました。
 先週読んだ1節と2節には、この手紙を書いたパウロの自己紹介と、この手紙の宛先であるエペソ教会の人々のための祈りが書かれていましたね。
 そして、今日の3節の最初に、パウロは、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」と賛美の言葉を記しています。なぜ賛美するのでしょうか。その理由が3節から14節まで記されています。
 この3節から14節は、日本語訳では、いくつかの文に区切られていますが、原文では、長い一つの文になっています。こういう長い文章がパウロの手紙の一つ特徴なのですね。彼は、クリスチャンに与えられた恵みの深さを思い起こしながら、あれもこれもと次々と付け加えていって、長い文になってしまったのでしょう。
 この3節から14節の長い一つの文の中には、私たちに与えられた祝福がどんなに素晴らしいものであるかが記されています。それを今回と来週の二回に分けて見ていきたいと思います。今日は、5節までの箇所から考えていきましょう。

一 霊的祝福の意味

 さて、三節の後半を読むと、びっくりしますね。「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と書いてありますね。神様は大変気前のいい方なんです。でも、この「霊的祝福」とは何でしょう。

1 「霊的」とは

 まず、「霊的」という言葉ですが、この言葉は、いろいろな意味で使われています。
 まず、「物資的」という言葉の対義語として「霊的」という言葉を使うことがあります。その場合、「霊的」とは「目に見えないもの」という意味があります。
 また、「肉的」という言葉に対して「霊的」という場合があります。その場合、「肉的」とは、「人間的な」という意味であったり、神様を無視して自分の思いのままに振る舞う姿を表す言葉として使われ、「霊的」とは、神様に信頼して生きる態度や、聖書の約束を受け取って歩む歩みそのものを指す言葉として使われます。
しかし、今日の箇所に記されている「霊的」という言葉は、別の意味で使われています。「聖霊の働きによる」という意味で使われているのです。つまり、「霊的祝福」とは、「私たちの内に住んでくださる聖霊によってもたらされる神様の祝福」という意味なのです。
 たとえば、第一コリント12章3節には、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」と書かれています。私たちは、聖霊によってイエス様がまことの救い主であることを知ることができるというのです。また、ローマ5章5節には、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と書かれています。私たちは、聖霊によって、神様の愛を知ることができるというのですね。私たちが救い主を信じ、神様の愛を知り、こうして神様を礼拝しつつ新しいいのちに生きる者とされたことの背後には、聖霊の働きがあるということなのですね。
 パウロは、「霊的祝福」と言いましたが、それは、「これから語る神様の祝福はすべて、聖霊によって一人一人に注がれているのですよ」と言っているわけです。

2 「祝福」とは

 それでは、「祝福」は何でしょうか。
 私たちは、祝福といえば、自分の利益になること、楽しいこと、物事が順調に進むことなどを考えますね。
 しかし、聖書のいう「祝福」というのは、私たちのイメージとは少し違います。私たちは、毎週礼拝の中で賛美し、神様をほめたたえますが、新約聖書の原文のギリシヤ語では、この「ほめたたえる」という言葉と「祝福」という言葉は同じ言葉から派生しているのです。つまり、聖書が教えている「祝福」とは、「私たちが神様をほめたたえることができるようになる」という意味なのです。私たちにとって神様をほめたたえることが「祝福」そのものだということなのですね。
 また、ある本に「祝福とは具体的な技術であって、相手にとって最も価値のあるものを渡すこと。自分の大事なものを、その人にあげることだ」と書いてありました。天の父なる神様は、私たちに最高に価値のあるものを与えてくださるのです。

3 「イエス・キリストによって」

 では、神様が私たちに与えてくださるものの中で最も大切で価値高いもの、それは何でしょうか。ヨハネ3章16節にこう書かれていますね。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神の御子イエス・キリストが与えられた、これこそ最高の霊的祝福ですね。
 そして、今日の箇所では、それぞれの節に大切な言葉が記されています。3節には「キリストにあって」と書かれています。4節にも「彼にあって」と書かれています。この「彼」とは「イエス・キリスト」のことですね。そして、5節には「イエス・キリストによって」と書かれています。
 つまり、神様は、イエス・キリストにあって、イエス・キリストによって、私たちにすべての霊的祝福を与えてくださるというのです。イエス・キリストこそ、天、つまり、神様のみもとにあるすべての霊的祝福を私たちに示し、与えてくださる方なのです。

二 霊的祝福の内容

 では、イエス・キリストによって与えられる霊的祝福とは、どのようなものでしょうか。

1 世界の基の置かれる前から選ばれた

 まず、4節の前半を見ると、「神は、私たちを世界の基の置かれる前から選ばれた」と書かれています。パウロは、すごいことを書いていますね。神様は、私たち一人一人を世界の基の置かれる前から、つまり、私たちが生まれるはるか以前から、私たちがこの地上に存在する前から選んでくださっているというのです。
 そして、この「世界の基の置かれる前から」という表現には、「時間という枠を越えている」という意味もあります。つまり、「永遠」という意味です。神様の選びは、永遠の選びである、つまり、何があっても揺り動かされることのない選びだという保証の言葉なのですね。
 ただ、ここで注意していただきたいことがあります。「神様が私たちを選ばれた」という言葉を聞くと、運命論や宿命論のように考えてしまうことがありますね。たとえば、「神様が選んだ人がすでに決まっているなら、私たちが何をしても無駄だ」とか、「どうせ私は選ばれていないに違いない」とか、「私は神様に選ばれたけど、あの人は選ばれていないだろう」というふうに考えてしまうのです。でも、聖書全体を見るとそうではないことがわかります。
 第一テモテ2章4節には、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と書かれています。また、ローマ2章11節には、「神にはえこひいきなどはない」と書かれています。イエス様は、すべての人の罪を背負って十字架についてくださいました。そして、三日目に復活されたことにより、肉体のいのちを越えた永遠のいのちをすべての人に約束しておられるのです。
 しかし、その約束を「感謝します」と受け取るか、受け取らないかは、人間の側の問題ですね。神様は、すべての人を招いておられますが、その招きに応えて生きていくかどうかは、一人一人が決めなければなりません。
 パウロは、「神様の祝福の約束は全ての人に差し出されているのですよ。そして、その約束をあなたが受け取る時、それは、神様があなたを選んでくださったということでもあるのですよ」と言っているわけです。
 神様はすべての人を招いておられます。その招きに答えるなら人は誰でも神様のもとにいって祝福を受けることができます。そして、招きに答えた人に対して、神様は「私は永遠にあなたを選んだ」と言ってくださるのです。そのことを踏まえた上で、神様に選ばれることについて、いくつか考えていきましょう。

@選ばれた側には、何も誇るところがない

 神様は、「自分には神様が必要だ」と自覚し、神様の招きに答える人を選んでくださいます。しかし、この世の中でいくら優秀な人であっても知恵や知識が豊富な人であっても、「私は自分の力で生きていける。神様なんて必要ない」と思っている人は、神様はお選びになることができませんね。ですから、神様に選ばれたというのは、何かのすばらしいことをしたから選ばれたとか、品行方正だから選ばれたとか、優秀だからえらばれたということではない、ということなのです。
 第一コリント1章27ー29節には、こう書かれています。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」私たちは、神様に選ばれたからといって、自分自身を誇ることはできません。愚かで弱く無に等しい自分を選んでくださった神様の愛と恵みに感謝し、ほめたたえる者として生かされているのです。
 
A神様は、名を呼んで選び出してくださる

次に、覚えていただきたいのは、神様は、私たち一人一人のことをよく知っておられ、私たちの名前を呼んで招いてくださるということです。
 たとえば、モーセは、エジプトでの奴隷生活からイスラエルの民を脱出させた指導者ですが、神様は、まず、荒野で羊を飼っていたモーセに向かって「モーセ、モーセ」と名を呼びかけられました。そして、「わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている」と言って(出エジプト33・12)、モーセを指導者に選ばれたのです。「あなたはわたしの心にかなっている」というのは、「あなたはわたしの好意を見いだしている」という意味で、つまり、「わたしは、あなたを喜び、あなたに愛着を持って選んだ」ということです。
また、イザヤ書43章1節には、「・・・・恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」とあります。神様は、私たち一人一人の名を呼び、「あなたはわたしの心にかなっている」と言ってくださるのです。

B神様の意図と目的とのために選ばれた

神様の選びについて、もう一つ覚えておいていただきたいのは、神様が私たちを選ばれるのは、何かの意図や目的があるからだということです。何かの任務遂行のために特別に選ばれるわけですね。そう考えますと、今日、ここにいる一人一人に、自分にしか出来ない神様から与えられた務めがあるということなのです。
 この手紙を記したパウロは、以前はクリスチャンを迫害していました。しかし、彼は、ダマスコのクリスチャンたちを迫害にいく途上で、イエス・キリストのまばゆい光に打たれて劇的に回心したのです。そして、神様は、パウロがイエス・キリストの福音を異邦人たちへ運ぶ選びの器となると言われたのです。
 皆さん、神様は、何も誇ることのできない私たちをお選びになりました。それは、私たちが神様の愛を知り、神様から与えられた使命に生きることができるようにしてくださったということです。
 神様は永遠の選びをもって私たちを選んでくださった、これが、天にある霊的祝福の最初にあげられているのです。

2 御前で聖く、傷のないものにされる

二番目の霊的祝福は何でしょう。4節の後半に「御前で聖く、傷のない者にしようとされました」とありますね。神様は、私たちを神様の御前で聖く、傷のない者にしてくださるというのです。
 まず「聖く」という言葉ですが、これは、1節の「聖徒たち」の「聖」と同じ言葉で、先週ご説明したように「神様の御用のために取り分けられたもの」という意味です。「神様の専用品」「神様に用いられる器」とされたということですね。
 では、「傷のない者」とはどういう意味でしょうか。
 旧約聖書では、神殿で動物のいけにえがささげられていましたが、傷のないものを捧げなければなりませんでした。でも、自分たちが運んできた動物は、途中で傷ついたり、傷を見落としてしまう場合もあるわけですね。ですから、神殿では、傷の有無を調べる専門家がいて、検査済みの家畜が境内で売られていました。人々はそれを購入して神殿に捧げたのです。
 神様のみまえにささげるものは傷のないものでなければなりませんでした。私たちも傷があるままでは聖い神様の前に出ることはできません。けれども、傷のない人などいるでしょうか。自分の心を見たら、傷だらけですね。皆、人を傷つけ、また、人に傷つけられています。。
 聖書の登場人物も皆同じです。詩篇109篇の作者は、22節で「私は悩み、そして貧しく、私の心は、私のうちで傷ついています」と嘆いています。また、詩篇139篇24節には「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」という祈りが書かれています。自分の内には傷がある、自分で気づいていない傷もある、それは、自分ではどうしようもない、神様に何とかしていただくしかないということですね。
 しかし、神様は、私たちを「傷のない者」にしてくださるというのです。詩篇147篇3節に「主は心の打ち砕かれた者をいやし、彼らの傷を包む」と約束されています。また、エレミヤ30章17節で、神様は「わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやす」と約束してくださいました。そして、イザヤ53章5節には、イエス・キリストの十字架を預言してこう書かれています。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イエス・キリストが私たちの代わりに打たれた傷によって、私たちはいやされ、「傷のない者」とされたというのです。
 「でも、今でも私の心の中には、まだいろいろな傷がありますよ」と思う方もおられるでしょう。でも、パウロは、ピリピ1章6節でこう言っています。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」神様は、「あなたを傷のない者にする」と約束してくださり、すでにその働きを始めてくださっています。そして、必ずそれを完成させてくださるのです。
 そして、マタイ12章20節に「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」とあるとおり、イエス様は、いつも共にいて私たちの傷を包み癒していってくださるのです。
 テレビで「ビフォアーアフター」という番組がありますね。古く痛んだ家がリフォームによって見違えるように素敵になるという番組です。「なんということでしょう」というナレーションが有名ですね。私たちも傷だらけなのに、神様がリフォームしてくださって「傷のない者」にされるのです。「なんということでしょう」と驚くばかりの祝福です。外見の姿形はクリスチャンになってもそれほど変わらないかもしれませんが、内面は、神様の目から見たら百八十度の変化なんです。以前は、神様に背を向け、神様を無視して、自分勝手で、人も自分も傷つけているような者でした。しかし、イエス・キリストによっていやされ、変えられていくのです。過去においていろいろ傷を負ってきたかもしれません。これから傷つくこともあるかもしれません。しかし、今もこれからも、キリストの愛の手は、私たちをいやし続けてくださるのです。

3 神の子とされる

 次に、三番目の祝福を見ましょう。5節にこう書いてありますね。「神はみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」神様は、私たちをご自分の子にしてくださるというのです。言葉を替えるなら、私たちは天の父なる神様の養子になったということです。それがなぜ祝福なのでしょうか。 それには、ローマ時代の家族制度について知ることが必要です。この手紙が書かれたのはローマ法が普及していた時代です。当時の人々にとって、このたとえは非常に意味深いものだったのです。
 ローマの法律では、ある子供が養子に出されると、養子とされた子供は、新しい家族内の一員として法的に認められた子供となり、新しい権利を持つことになりました。そして、以前の家族の中にあった権利や義務は一切無くなるのです。たとえば、旧家族内で負債や債務があっても、養子となった子は、一切責務を負わせられることはなかったのです。法の目から見れば、養子とされた人は、過去のすべてから解放され、新しく生まれた人間として取り扱われるようになったのです。
 さて、私たちは、イエス様によって神の子とされました。つまり、今まで私たちを縛っていた古い支配はもう及ばないのだ、ということなんですね。ですから、パウロは、第二コリント5章17節でこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
 自分の人生を考えてみてください。自分の心の中を探ってみてください。自分を縛っているいろいろなものがあるのではないでしょうか。
 しかし、愛なる神様は、私たちを神の子として迎えてくださっているのですから、私たちは、神様の恵みの中で、様々な束縛から解放されて自由に生きていくことが出来るのです。

神様は、私たちを選び、聖く傷のない者とし、神様の子どもとしてくださいました。その豊かな霊的祝福を感謝し、神様をほめたたえつつ歩んでいきましょう。