城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年一月一八日             関根弘興牧師
                 エペソ一章六節ー一四節

エペソ人への手紙連続説教3
   「祝福と選び2」

6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。8 この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(新改訳聖書)

   
 前回お話しましたように、1章3節から14節までは一つの長い文章になっています。そして、この中で繰り返し使われている言葉があります。それは、「ほめたたえる」という言葉です。 3節に「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」、6節に「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」、12節に「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです」、14節に「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです」と、一つの文章の中に何度も「ほめたたえる」という言葉が出てきますね。つまり、クリスチャンとして生きるとは、「神様をほめたたえながら生きる」ことだというわけです。
 教会の礼拝で賛美をささげるのはなぜでしょうか。眠気覚ましのために賛美をするわけではありません。説教の前の準備体操として賛美をするわけでもありません。一人一人に与えられた神様の素晴らしい恵みと祝福を感謝して、神様をほめたたえるのです。クリスチャンの人生には、いつも神様への賛美が流れているのです。
 さて、前回、お話ししましたが、3節に「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と書かれていますね。「霊的祝福」とは、聖霊の働きによって一人一人の内にもたらされているものです。そして、その祝福は、イエス・キリストにあって、イエス・キリストによってもたらされるのです。今日の箇所にも、6節に「その愛する方にあって」、7節に「この方にあって」、9節に「この方にあって」、10節に「キリストにあって」「この方にあって」、11節に「この方にあって」13節に「この方にあって」と七回も繰り返し言われていますね。私たちが祝福をうけることができるのは、すべてイエス・キリストのおかげなのです。イエス・キリスト以外に神様からの霊的祝福を受ける道はない、ということをパウロは何度も強調しているのですね。
 そして、パウロは、イエス・キリストにあって受けることのできる「霊的祝福」の内容をこの長い文章の中に書き記しています。
 先週は、4節と5節に書かれている三つの祝福についてお話ししました。
 第一の祝福は、神様が私たちを世界の基の置かれる前から選んでくださっているということです。「世界の基の置かれる前から」という表現には、「時間という枠を越えている」という意味もあります。つまり、「永遠」という意味です。神様は、私たち一人一人を世界が造られる前からご自分のものとして選んでくださっており、その選びは、何があっても揺り動かされることのない永遠に保証された選びだということです。また、その選びは、私たちの行いや業績などには一切関係がない、神様の愛による一方的な選びだということです。神様による一方的な選びというと、人間の側はどうすることもできない運命論や宿命論のように感じる方もいるかもしれませんが、決してそうではありません。神様はすべての人を愛し、招いておられます。それに答えるかどうかは一人一人の判断に任されています。誰でも神様の招きに答えてイエス・キリストを受け入れるなら、神様に選ばれた者になることができるのです。
 第二の祝福は、神様が私たちを御前に聖く、傷のない者にしてくださるということです。私たちには、いろいろな傷がありますが、その傷は、イエス・キリストによって癒やされ続けていくのです。過去に負った傷も、これから受ける傷もあるかもしれません。しかし、今もこれからも、キリストの愛の手は、私たちを癒やし続けてくださるのです。ですから、私たちは、傷のない者として神様の御前に出て、聖い者、つまり、神様の専用品となることができるのです。
 そして、第三の祝福は、神様が私たちをご自分の子にしてくださるということです。私たちは、イエス様によって神の子とされました。神様の養子となったということなんですね。それは、今まで私たちを縛っていた古い支配から解放され、新しい人生が始まったということです。古いものは、もう私たちに何の力も及ぼすことはできないのだ、ということなのです。第二コリント5章17節に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とある通りです。
 さて、ここまでが先週お話しした「霊的祝福」の内容です。そして、今日はその続きです。どのような祝福が書かれているでしょうか。

一 霊的祝福の内容(前回からの続き)

4 キリストによって贖われ、罪赦されている

まず7節に「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」と書かれています。「この方」とは、イエス・キリストのことです。私たちは、イエス・キリストの血によって贖なわれ、罪が赦されているというのです。
  「贖い」という言葉は、日常の生活ではほとんど使いません。推理小説の題名には使われるかもしれませんが、馴染みの薄い言葉ですね。でも、この「贖い」という言葉は、聖書の中では、とても大切な用語なのです。「贖い」とは、もともと、奴隷や捕虜を賠償金や身代金を払って釈放することを表す言葉でした。そこで、「釈放」とか「自由放免」「解放」という意味にも用いられるようになりました。ですから、「私は贖われた」と言えば、「何かの束縛から解放されて自由になった」という意味になるのです。ただし、贖われて自由にされるためには、必ず代価が払われなければならない、ということでもあります。パウロは、「私たちは、イエス・キリストの血によって贖われた」と言いました。つまり、イエス・キリストの血という代価が支払われた結果、束縛から解放されたというのです。
 では、どのような束縛から解放されたのでしょうか。聖書は、人を束縛するものは「罪」と「死」だと教えています。

@ 罪という束縛
 ヨハネ8章34節で、イエス様はこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」
 「罪」とは、「的はずれ」という意味です。ズレている状態ということです。ズレがあると、その人を不自由な状態にさせていきます。体のことを考えればすぐに分かりますね。足の関節がズレていたら、歩くことが出来ません。指の関節がズレてしまったら、物をつかんだりすることが出来ません。体のいろいろな値が正常値からズレていたら、健康を崩していきますね。
 それと同じように、「罪」とは、本来あるべきはずの神様との関係がズレてしまっている状態を指しているのです。神様との関係にズレていると、神様に敵対したり、無視したり、また言いしれぬ不安やむなしさが覆ってくるのです。
 また、そのズレは、自分の中に矛盾をうみだし、その矛盾によって自らが束縛されてしまうこともあるのです。たとえば、パウロは、ローマ人への手紙の中で、自分自身の中に矛盾した思いがあることを語っています。「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(ローマ7章19節)「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」(ローマ7章23節) これはよく分かるように思いませんか。だれもが経験していることだと思います。頭では分かっているのに、違うことを行ってしまう、という現実です。わかっちゃいるけどやめられないという姿です。パウロは、自分の中には異なった律法があると書いていますが、私たちも、自分の内側を見ると、どうすることもできない自己矛盾や弱さやズレがあることを思い知らされるわけです。
 また、この「罪」というズレは、人間関係にも影響を及ぼし様々な問題を引き起こすのです。

A死という束縛
 それから、ヘブル2章15節には、イエス・キリストが来てくださったのは、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」と記されています。人間の心を縛っているものは、死であり、死の先に何が待っているのかがわからないという不安や恐怖だというのです。

 私たちは、イエス・キリストに出会うまでは、罪と死に束縛され奴隷のような状態でした。しかし、イエス・キリストの血によって贖われ、解放され、自由にされたのだ、とパウロは書いているのですね。
 ただし、だからといって、クリスチャンは罪を犯さないかと言えば、そんなことはありません。私たちは解放されていると言いながら、失敗したり、恐れたり、罪を犯してしまう弱い者ですね。でも是非知っていただきたいのは、それらがもはや私たちを支配することはないということです。私たちは、罪と死の束縛から解放されたので、いつも赦しを確信し、恵みの中に生きることが出来るようになったのです。
 ところで、7節の「血による贖い」という言葉ですが、これも旧約聖書の背景を知っているとよくわかる言葉です。
 神殿では、罪の贖いのために動物のいけにえの血がささげられていました。そのいけにえは、罪を犯すたびに繰り返しささげなければならなかったのです。
 しかし、神の御子イエス様は、私たちの罪をすべて背負い、十字架について血を流してくださいました。イエス様という完全ないけにえがささげられたことによって、すべての人のすべての罪が贖われ赦される道が開かれたのです。そして、そのイエス様を信じる人は誰でも罪と死の束縛から解放されるのです。
 イエス様ご自身が血を流されたということは、ご自分の「いのち」に代えて私たち一人一人を贖ってくださったということです。これは、考えれば考えるほど大きな恵みです。つまり、私たちは皆、キリストがいのちを差し出しても惜しくないほど貴重な存在だということでもあるわけです。
 皆さんが何か品物を買うとき、どんなに高くても支払う価値があると思えば、代金を払って買いますね。しかし、それほどの価値がない、自分には必要ないと思えば、買いません。
 神様は、私たちを見て、「どうしようもない者たちだ。こんな者たちのためには、わたしは一銭も出さん」とは言われないのです。それどころか、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われ、御子イエス様のいのちを支払ってまで私たちを贖い、束縛から解放し、「わたしはあなたを赦している」と宣言してくださるのです。
 このイエス様の血による贖い、罪の赦しは、7節にあるように「神の豊かな恵み」によることなのです。

5 みこころの奥義を知らされている

 そして、8節に「この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました」とあります。神様は、みこころの奥義を私たちに知らせてくださったというのです。
 ここに出てくる「奥義」とは、英語では「ミステリー(mystery)」です。本来は、「秘密」とか「隠されたもの」という意味です。しかし、新約聖書で「奥義」という言葉が使われるときは、「以前は隠されて見ることの出来なかったけれど、今は、イエス・キリストによって天下に公表された神様の救いの計画」という意味があります。また、「イエス・キリストご自身」という意味でも使われています。たとえば、コロサイ1章27節には、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と書かれています。また、コロサイ2章2節ー3節には、こう書かれています。「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」
 イエス・キリストを信じ受け入れた一人一人の中に、キリストが宿ってくださっています。そして、そのキリストこそ神様の奥義そのものであり、私たちに知恵と知識の宝を与えてくださる方なのです。
 「いや、そんなはずはない。先日のテストで点数低かったぞ」と思う人がいるかもしれませんね。でも、ここで言っているのは、急に頭がよくなったり、いろいろな知識が増えるということではありません。イエス・キリストによって、神様の愛と恵みのすばらしさを知り、また、神様のみこころを知ることができるということなのです。
 神様のみこころは、私たちが、恐怖につながれて生きるのではなく、また、罪の負い目の中に縛られているのでもなく、キリストの十字架によって贖われ、罪が赦され、解放され、自由にされた者として神様のあふれる恵みの栄光をほめたたえながら歩んでいくことなのです。

6 一つに集められる

 さて、次に、10節を見ると、「いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです」と書かれていますね。私たちは、イエス様にあって一つに集められるというのです。私たちは、みな育った背景も性格も習慣も違いますね。しかし、イエス様にあって、様々な違いを越えて集められ、一つにされています。
 そして、コロサイ人への手紙1章13節に「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」と書かれているように、一つにされた私たちは、キリストの平和の支配の中に生かされているのです。そして、今、この世界には争いや戦いがありますが、ついには、いっさいのものがキリストのもとに集められ、キリストの平和が実現するという希望を持って生きていくことができるのです。

7 御国を受け継ぐ者とされたという祝福

 そして、11節では「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました」と書かれていますね。前回、神様の選びは永遠的な選び、永遠保証の選びだということをお話ししました。私たちに与えられている祝福は、この地上においてだけではありません。永遠の天の御国に住み、神様の祝福を受け続ける権利を持つ者とされているということでもあるのです。

二 霊的祝福の保証

 さて、今まで見てきたとおり、私たちに与えられる祝福は、すばらしいものですね。私たちは、その祝福が必ず与えられると確信することができます。なぜでしょうか。

1 神様のご計画によるから

 まず、11節の後半に、「みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです」と書かれていますね。つまり、私たちに素晴らしい祝福が与えられるのは神様のみこころなのです。神様が愛を持って計画してくださり、行ってくださるというのですから、必ず実現すると信頼することができますね。

2 聖霊の証印があるから

 また、13節-14節には、こう書かれています。「あなたがたもまた、真理のことば、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。」
 皆さん、昔も今もそうなのですが、書類に証印が押されていなければ、何の効力もありませんね。いくら主張しても突き返されてしまいます。神様は、イエス様を信じ受け入れた一人一人に聖霊の証印を押してくださいました。聖霊は、一人一人の内に宿ってくださり、神様の約束を保証してくださるのです。
 私たちが神様に選ばれ、キリストによって贖われ、罪赦され、聖なる傷のない者、神の子とされ、御国を受け継ぐことができるようになったことを保証するのは、自分自身の頑張りや努力や修行や善行ではありません。聖霊が保証してくださるのです。
 ところで、ここで使われている「保証」という言葉は、何かの売買をするとき、売り買いをきちんと完了するために支払われる前払い金、または、全額のことを指すものです。たとえば、この教会を建てるとき、三回に分けて代金を払いました。一回目は工事の契約をしたとき、二回目は上棟式の時、三回目は完成して引き渡される時です。その一つ一つの前払い金が建築の完成を約束する保証となったわけです。払わなければ、途中で工事がストップしてしまうわけですね。
 神様が私たちに新しいいのちを与え、栄光から栄光へと変え続け、ついには、御国を受け継ぐ者にしてくださるというみわざは、すでに始まっています。そして、信じる一人一人に与えられている聖霊は、そのみわざが必ず成し遂げられるという保証なのです。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3章18節)
 人間の約束は時々不履行になることはありますが、神様の約束には不履行はありません。10節にあるように「時がついに満ちて、実現」するのです。そして、今、私たちは、この保証があるからこそ、天の御国を確信しながら、今という毎日を大胆に生きていくことが出来るのです。

 皆さん、今日の箇所は少し難解ですが、一つ一つをじっくり思い、考え、受け取ってください。神様の豊かな恵みによって生かされているということが分かるはずです。
 そして、その恵みと祝福は、父なる神様のご計画により、御子イエス・キリストによって、聖霊の保証のもとに与えられているのですから、確信をもって、神様をほめたたえつつ歩んでいきましょう。