城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年一月二五日             関根弘興牧師
                エペソ一章一五節ー一九節

エペソ人への手紙連続説教4
   「心の目が開かれて」

 15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(新改訳聖書)

前回までは、神様が私たち一人一人にすべての霊的祝福を与えてくださっているということを学びました。それは、私たちの努力や功績によるのではなく、神様の豊かな恵みによってもたらされたものです。ですから、私たちは、ただその祝福を味わい、感謝し、神様をほめたたえながら歩んでいくことができるのですね。
 そして、今日の箇所には、パウロの祈りが記されています。
 クリスチャン・ライフの特徴は、賛美と祈りがあるということです。賛美は、神様をほめたたえることですから、人によってその内容に違いはほとんどありません。しかし、祈りは、人によってだいぶ違いますね。公の祈りもあれば、個人的な祈りもあり、置かれている時や場合によって内容は様々です。
 今日は、パウロがエペソ教会のために祈った祈りを見ていきましょう。祈りの内容は、17節から19節に書かれていますが、その前に15節、16節を読むと、「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています」と書かれていますね。
 パウロがこの手紙を書いたのは、彼がエペソに滞在していた時から四年ほど経った頃です。パウロは、エペソを去ってからも、いろいろな所でエペソ教会の様子を聞いていたようです。何を聞いたかといいますと、彼らの「主イエスに対する信仰」と「すべての聖徒に対する愛」についてでした。
 彼らは、いろいろな困難がありながらも信仰を堅く保っていました。そして、パウロが去った後にも、イエス様を信じてエペソ教会に加えられた人がたくさんいたようです。また、「すべての聖徒に対する愛」を聞いたとありますが、エペソ教会には、お互いに助け合い、祈り合う姿があり、また、他の教会のためにも祈ったり援助したりしていたのでしょう。
 実は、信仰と愛とは、決して切り離せない、車の両輪ようなものなのですね。イエス様を信頼することは、イエス様を愛することでもあります。また、イエス様を愛することは、イエス様を信じて歩む信仰の仲間を愛することでもあります。そして、その愛は、共に集まり、互いに最善を祈り合い、助け合うという姿を生み出していくのです。
 パウロもエペソ教会を愛していたので、16節にあるように「あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています」と書いています。
 ここで「あなたがたのことを覚えて」とありますが、この「覚える」と訳されている言葉は、「忘れない」とか「名前を挙げる」という意味が含まれています。つまり、パウロは、面識があってもなくても、顔がわかってもわからなくても、一人一人を忘れず、一人一人の名前を挙げて、感謝をささげつつ祈ることを絶やさなかったというのですね。
 ところで、祈りは、自分が自己中心的になっていないかどうかをチェックする機能を果たしてくれるものでもあります。今週、自分自身の祈りの中身をチェックしてみてください。もちろん、自分のために祈ることは大切です。でも、祈りの中身がすべて自分のため、自分の、自分の、というものであったなら、今、自分は少し自己中心的になっているかもしれないぞ、と考えたらいいのです。他者のために最善を祈ることは、私たちに与えられた特権であり、愛を実践することでもあります。名前を知っているけど顔がわからないという人もいるでしょう。それでもいいのです。感謝をもって他の人のことを覚え、名前を挙げて祈っていく群れとなっていきましょう。
 さて、今日の箇所で、パウロは、エペソ教会のためにどのようなことを祈っているでしょうか。

1 神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられるように

 まず、17節でパウロは、「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈っています。
これを読んで、こんな風に思う方がおられるかもしれませんね。「パウロは、エペソ教会の人に聖霊が与えられるように祈っている。ということは、イエス様を信じても、まだ聖霊が与えられていない人がいるということなのか」と。
 そこで、誤解がないように、少し整理しておきたいのですが、まず、聖書は、「イエス様を信じる人には聖霊が与えられる」と約束しています。パウロも第一コリント3章16節で「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」と書いています。ですから、私たちにも、エペソ教会の人々にも、信じる人の内に聖霊は与えられているのです。
 しかし、一方で、今日の箇所にあるように、「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」という言い方もします。その場合は、「一人一人の内に宿ってくださる聖霊によって、さらに深く神様を知ることが出来るように」という意味で言われているのです。
私たちは、誰かと知り合った当初は、その人のことをあまり知りません。でも、付き合っている内に、だんだんとその人のことがよくわかってきますね。神様も同じです。神様を信じたばかりの時は、神様のことをまだよく知りません。でも、神様と共に歩む生活の中で、神様がどのような方で、どれほど栄光に満ちた方なのかを知っていくのです。そして、神様を知っていくためには、知恵と啓示の御霊の助けが必要だ、とパウロは言っているのです。
 普通、何かを知るためには、勉強しますね。聖書を勉強すれば神様についての知識を得ることができます。それは、事実ですし、大切なことです。しかし、それだけなら、聖書学者が一番よく神様を知っていることになりますね。確かに、聖書学者は、学問的に神様のことをよく知っているでしょう。しかし、パウロが今日の祈りの中で言っている「神を知る」とは、そういう意味ではありません。「神を知る」とは、単に神様についての知識をたくさん持つということではありません。「神を知る」とは、神様との人格的な、体験的な関わりを持つということです。神様が愛と恵みとまことに満ちた方であることを知り、祈りに答え、必要を備えてくださる方であることを知ることです。そして、そのためには、聖霊の助けが必要なのです。
 聖霊は、私たちの心に聖書の言葉を照らし、感動を与え、人生の指針を示す働きをしてくださっています。よくこういうことを聞きますね。「クリスチャンになる前は聖書を読んでもさっぱり訳がわからなかった。しかし、クリスチャンになって聖書を読むと、聖書の言葉がわかるようになり、聖書の言葉によって本当に励まされています」と。多くの方がそういう経験を持っていると思います。また、「以前は礼拝で説教を聞いてもまったくピンとこなかったかのに、今は違うんですよ。説教の中で私が求めていた答えが与えられたり、必要なことを教えられたりするんです」と言う方もいますね。イエス様を信じる前は、聖書の言葉が自分とどんな関係があるのかわからなかったのですが、イエス様を信じて歩んでいくとき、私たちの内に働いている聖霊が、聖書の言葉を通して、励ましと慰めを与え、神様のすばらしさを教えてくださるのです。
 イエス様は、マタイの福音書6章でこう言われました。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。・・・きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか」と。つまり、自然の営みを見ても、そこに、神様の養いや神様の偉大さを知ることができるというのですが、それも聖霊の助けがあるからです。
 私たちは、聖書を通して、また毎日の歩みを通して、自然を通して、そこに神様の介入があり、神様がどれほど恵みに富んでおられるのかを知ることができます。そして、それは、聖霊の働きによるのです。
 ですから、パウロは、一人一人がさらにあふれるばかりの神様の恵みを味わい、神様のすばらしさを知ることができるようになるために、御霊が一人一人に豊かに働いてくださるようにと祈っているのです。

2 心の目がはっきりと見えるように

さて、次に、18節を見ると、パウロは、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」と願っていますね。
「心の目」とは何でしょうか。「心」というのは、知・情・意(知性・感情・意志)の三つを包含しているものと考えたらよいと思います。
 聖書を読むことを例にとると、まず、知的な作業があります。聖書に書かれている言葉の意味を掴んで理解するというのは知的な作業ですね。そして、聖書を読み、理解すると、何らかの感情が起こってきます。感動したり、喜んだり、悲しんだり、反省したり、いろいろな感情が湧いてきます。そして、そういう感情によって促され、「そうだ。私はキリストに従っていこう」というような意志が働いていくわけです。
 ですから、この知・情・意の三つがバランスよく働くことが、心の目が開かれるということであり、心の目ではっきり見る、ということなのです。
 では、パウロは、心の目が開かれて、何をはっきり見ることができるようになってほしいと祈ったのでしょう。三つ書かれています。

@神の召しによって与えられる望みがどのようなものか

 パウロはまず、「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか」知ることができるようにと祈っています。
 「神の召しによって」とありますね。「召し」とは「召命」とも訳されますが、「招き」という意味です。神様は私たちを招いてくださっているというのです。この神様の招きについては、聖書のいろいろな箇所に書かれています。たとえば、第一テサロニケ5章24節には、「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」と書かれています。また、ローマ11章29節には、「神の賜物と召命とは変わることがありません」と書かれています。真実なる神様が私たちを招いてくださる、その招きは嘘偽りのない、決して変わることのない招きだというのです。
 そして、その「神の召し」によって与えられる「望み」とは、どのようなものなのでしょうか。第一ペテロ1章3節には、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」と記されています。神様は、私たちを新しく生まれさせてくださって、生ける望みを与えてくださったというのです。
先週お話ししたように、私たちは、以前は罪と死に支配された奴隷の状態でした。神様から離れ、滅びに至る状態だったのです。「滅びる」とは、失う、迷う、破壊する、浪費することです。つまり、私たちは、本当の目的を見失い、迷い、大切な関係を破壊し、人生を浪費するしかない者でした。しかし、私たちの代わりに十字架についてくださったイエス・キリストを信じることによって、古い自分は死に、神様の永遠のいのちを持って生きる者へと新しく生まれ変わったのです。私たちは、罪赦され、聖くされたので、自由に大胆に神様の御前に出ることができ、そして、いつも主と共に歩むことが出来るようになったのです。ですから、これからはいつも神様の恵みの中で神様の祝福を受けながら歩んでいけるという望みが与えられました。また、この肉体の死の後にも、天において永遠に生きるという望みが与えられました。つまり、この毎日の生活の中で望みをもって歩めるだけでなく、天につながる永遠の望みが保証されているのです。私たちは神様の永遠の保証の中で、この地上の生涯を歩み、最終的には天の御国へと導かれていくのです。 また、コロサイ1章27節には「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と書かれています。つまり、私たちの内におられるキリストご自身が神様が与えてくださった望みそのものだというのです。
 もちろん、毎日の生活の中では、気落ちすることもありますし、望みが消えてしまいそうな出来事に遭遇することもあります。でも、聖歌六○四番に、「のぞみも消えゆくまでに世の嵐に悩むとき、数えてみよ主の恵み。汝が心は安きを得ん」という歌詞がありますね。望みも消えてしまうような出来事が次から次へと襲ってきても、神様が与えてくださった望みは決して失われることはない、望みなるキリストがどんなときも共にいてくださる、それを知ることによって、平安を持って生きることができるというのです。ですから、パウロは、「あなたがたの心の目が開かれて、決して消えることのない望みをはっきり見ることができるように」と祈ったのです。
 パウロは、この手紙を獄中で書いています。これから、自分の身に何が起こるかわかりません。しかし、彼は、ローマ8章28節にあるように「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と確信していました。ですから、獄中にあっても望みを失うことはありませんでした。
 今日、私たちも一人一人の心の目がはっきり見えるようになって、神様に与えられた望みがどのようにすばらしいものかを知ることができるように祈っていきましょう。

A聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか

 パウロは、次に、「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」を知ることが出来るようにと祈っています。
 前にお話ししましたが、「聖徒」とは、イエス様を信じて神様の専用品とされた私たち一人一人のことです。そして、5節に書かれていたように、神様はその私たち一人一人をご自分の子にしてくださいました。そして、14節には、「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」と記されていましたね。つまり、私たちは、神の子として、御国を受け継ぐ者とされた、そして、それは、聖霊によって保証されているというのです。 パウロは、ローマ8章17節にこう書いています。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
皆さん、すごいことが書かれていますね。私たちは、神の子どもなので、神の相続人でもあるというのです。私たちは、古い自分がキリストと共に十字架につけられ、キリストがよみがえられたように新しく生まれ変わりました。そして、この世では、キリストとともに栄光も苦難も経験するでしょうが、ついには、キリストとの共同相続人としての素晴らしい祝福が待っているというのです。
 ところで、「神の相続人」と書いてありますが、これは、直訳では「神様ご自身を相続する」と言う意味なんです。もちろん、私たちが神様になってしまうと言う意味ではありません。神様の愛と恵みの真っ只中に歩むことが出来るという意味なのです。一人一人が神様の栄光そのものにあずかることができるのです。パウロはローマ8章30節ー39節で、こう書いています。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。・・・高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

B信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか

次に19節を見ると、「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」と書かれていますね。「私たちの内には神様のすぐれた力が働いている。それはとても偉大な力だ。それを皆が知ることができるように」とパウロは祈っているのです。
 神様は全能なるお方です。どんなことでもできる力あるお方です。クリスチャンなら皆、それを当然だと認めるでしょう。しかし、ここでパウロは、「信じる者に神のすぐれた力が働いている」と言っていますね。そう聞くと、「えっ、そんなことがあるんですか。私は自分の内に神様が働いているとは思えませんね。それはきっと特別な人のことでしょう」と言う方がおられるのではないでしょうか。でも、今日、そんな考えを捨ててください。私たち一人一人の内に神様のすばらしい力が働いているからこそ、私たちはこうして神様を礼拝する者とされているのです。
  皆さん、一人一人には信仰が与えられています。そして、大切なことは、その信仰をどう生かして歩んでいくかなのです。「信じる者に働く神のすぐれた力」があるなら、それを味合わない手はありませんね。
 先日、ある人のウクレレの演奏を聴きました。同じ楽器でも弾く人が違うと音も違うように聞こえますね。また、パソコンのことで、たびたび父から質問が来ます。そして、いろいろ教えると、「いやー、こんなことも出来るのか!」と驚くわけですね。同じパソコンを持っていても、その機能を十分に引き出せていない人もいるわけですね。
 信仰の世界もそれと少し似ていますね。信仰は年数ではありませんが、信仰生活を送りながら、信仰による生き方上手を目指していきましょう。「信じる者に働く神のすぐれた力」を生活の中で味わっていくのです。気落ちしたとき、困難にあるとき、疑いが襲うとき、弱さを覚えるとき、実は、毎日の日常の中で、私たちが「信じる者に働く神のすぐれた力」を味わいながら生きていけるように神様は備えてくださっているのです。
 ですから、聖書の約束を信頼し、勇気を持って歩んでいきましょう。思い煩いを主に委ねますと告白しつつ歩んでいくのです。すべてを益に変えてくださる主を信頼し、神様をほめたたえ、感謝をささげていきましょう。
 信仰生活は、打ち上げ花火のように打ち上げたらお仕舞い、というものであってはなりません。一生涯こつこつと継続していきながら、いろいろな試練が襲ってきても、「私はあなたを信頼して生きていきます」と告白していくのです。そして、その中で「信じる者に働く神のすばらしい力」を知りながら歩んでいく生涯なのですね。
 今週、私たちの心の目が開かれて、ますます、主のすぐれた力を味わい知ることが出来ますように。