城山キリスト教会 日曜礼拝 二〇一五年二月一日              関根弘興牧師
                エペソ一章二〇節ー二三節

エペソ人への手紙連続説教5
   「キリストのからだ」

20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(新改訳聖書)

 先週は、パウロがエペソ教会のために祈った祈りの内容を学びました。その中に、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、・・・私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」という祈りがありましたね。今日の箇所には、その神様のすぐれた力がどれほど偉大なものであるか、そして、神様がその力によってどんなことをしてくださったのかということが記されています。詳しく見ていきましょう。

1 キリストの内に働く神の力

 まず、20節ー21節に、「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」とありますね。神様は、キリストの内に全能の力を働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、また、キリストをご自分の右の座に着かせて、すべてのものを支配する権威を与えられたというのです。それは、私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか。

@キリストを死者の中からよみがえらせた

 まず、「キリストを死者の中からよみがえらせた」ということについて考えてみましょう。
 先週お話ししましたように、神様の力は、私たち信じる者一人一人の内に働いています。つまり、キリストを死者の中からよみがえらせることのできた神様の力が、私たち一人一人の内にも働いているのです。
 第一コリント6章14節でパウロはこう書いています。「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。」また、ローマ8章11節では、こう書いています。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
これは、すごいことですね。イエス・キリストを信じる私たちの内には、聖霊が住んでくださり、その聖霊によって、神様の偉大な力が働いて、私たちは、死からよみがえって生きることができるというのです。
 でも、「死者がよみがえるなんて、信じられない」という方もいますね。しかし、どうでしょうか。もし、この天地万物を造り出す力を持つ神様がおられるなら、死人をよみがえらせることも当然できるはずではありませんか。また、イエス様が実際に復活したことは、多くの弟子たちが目撃し、証言を書き残しています。パウロ自身も、復活したイエス様に出会って人生が百八十度変わったという経験をして、イエス様の復活を宣べ伝えるようになったのです。ですから、パウロは、イエス様をよみがえらせた力が信じる一人一人の内にも働いていることをぜひ知ってほしい、と願っているのです。

Aキリストをご自分の右の座に着かせた

 次に、「神様は、キリストを天上においてご自分の右の座に着かせた」と書かれていますね。
 「右の座」とは、王に次ぐ栄誉の座を意味しています。そして、「右に座る」という表現は、「右腕として働く」ということも意味していますし、また、「全権を委ねられている」という意味でもあるのです。つまり、イエス・キリストは、父なる神から全権を委ねられ、父なる神の右腕として、神のわざを行われるということです。神の偉大な力は、キリストを通して現されるということなのです。
 ですから、21節でパウロは、神がキリストを「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」と言っています。また、マタイ28章18節を見ると、イエス様は、復活された後、弟子たちにこう言っておられます。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」
 そして、そのキリストの権威はすべてのものに及ぶ、キリストの権威の及ばないところはないのです。イエス・キリストの力と権威に並ぶものは何ひとつありません。そして、そのキリストが私たちとともにいてくださるというのです。素晴らしいことではありませんか。

2 キリストのからだなる教会

 そして、22節ー23節では、パウロは、そのキリストと教会の関係を記しています。「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

@キリストは教会のかしら

 まず、「いっさいのものをキリストの足の下に従わせ」とありますね。この「足の下に従わせる」というのは、征服者とか勝利者を表す言葉です。それから、「いっさいのものの上に立つかしら」とも書かれていますが、「かしら」なんて言うとなんだか「やくざ」や「盗賊」の世界を連想する方もいるかも知れませね。「うちのおかしらは、イエス様です」ということですからね。でも、ここで言われているのは、いっさいのものがキリストの支配の中にあり、私たちもキリストの支配の中に生かされているということです。これはとても大切なことです。なぜなら、何によって、あるいは、誰によって支配されて生きるかによって、人生が全く変わっていくからです。もし自分勝手で横暴で不正に満ちた権力者に支配されたら、大変ですね。
 でも、私たちを支配しておられるイエス様は、どのような方でしょうか。ヨハネ1章14節には、「この方は恵みとまことに満ちておられた」と書かれています。また、第一ペテロ2章22節には、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」と書かれています。つまり、イエス様は、恵みとまことに満ち、正しい支配を行ってくださる方だというのです。ですから、安心ですね。
 そして、神様は、そのイエス様をかしらとして教会に与えてくださった、とパウロは書いていますね。
 この「教会」という言葉は、聖書の中では大きく二つの意味で使われています。
 一つは、世界中のクリスチャンを総称して「教会」という言葉を使います。これは目に見える組織や団体を越えたものです。人種、国籍など関係なく、クリスチャンは皆、イエス様にあって一つの家族であり、一つの教会であると言うことができます。 そして、もう一つは、目に見えるクリスチャンの集まりを指して教会と言う場合があります。イエス様は、マタイ18章20節で、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」と言われました。イエス様の名前によって集まるなら、つまり、クリスチャンがふたりでも三人でも集まれば、それが教会であり、その中にかしらなるイエス様がいてくださると約束されているわけです。ですから、こうしてここに集い礼拝をささげている私たち自身が聖書でいう「教会」なのです。教会は、建物のことではありません。イエス様を信じる者たちが集まる群れのことなのです。
 そして、教会のかしらは、キリストです。キリスト以外にありません。キリストは、私たちのために十字架についてくださり、復活して、今、愛と恵みとまことによって支配してくださっているのです。
 今日の箇所では、キリストは教会のかしらと言われていますが、別の箇所では、キリストは、羊の群れである教会を牧する羊飼いにたとえられています。
 詩篇23篇には、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」とありますね。イエス様は、私たちの羊飼いとして、私たちを緑の牧場で養い、いこいの水のほとりで憩わせ、義の道に導き、守り、苦しみや試練の中でも平安を与え、必要を備えてくださる方だと書かれています。
 また、ヨハネ10章2節ー5節には、こう書かれています。「・・・彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。」羊飼いは、羊それぞれの名を呼んで導き、羊は、その声を聞き分けて羊飼いについて行くというのですね。羊は、自分の力で生きていくことのできない弱い動物です。でも、羊は、自分の羊飼いの声を知っていて、その声を聞き分けてついていくことができます。羊飼いを信頼して、養いを受け、安心して生きていくことができるのです。ほかの人には決してついて行きません。
 私たちの羊飼いは、イエス様です。イエス様は、私たち一人一人の名を呼んで導いてくださいます。そのイエス様の声を聞き分けてついていくこと、それが、私たちにとって最も大切なことなのです。他の声に惑わされることのないように気をつけなければなりません。
 ですから、教会は、キリストがかしらになっているかどうか、まことの羊飼いであるキリストの声に聞き従っているかどうかをいつもチェックする必要があります。教会の働きや交わりがキリストの心にかなったものなのか、語られる聖書のことばがキリストの愛と恵みに基づいているものなのかということを、いつも確認していくのです。
 もし、キリスト以外のものがかしらになっていたり、キリスト以外の声について行くような姿があることに気づいたら、互いに戒め、諭していくことも大切です。間違っていることがあれば、愛と配慮を持って正すことができる場所でなくてはいけません。
 牧師に対しても同じです。カルト的な教会では、「牧師は神様から遣わされたしもべなのだから、牧師に従うことは神様に従うことだ。牧師には絶対に服従しなければならない」という教えがなされます。しかし、それは間違いです。与えられた役割や使命はそれぞれ違いますが、みな同じキリストのからだの器官であり、同じ群れの羊なのです。
 キリストだけが教会のかしらであり、まことの羊飼いです。ですから、それぞれがキリストの恵みの支配の中に生きていることを互いに確認しながら、また、それぞれがイエス様によって赦され、生かされ、愛されていることを覚えながら、ともに主を仰ぎ、主に従って歩んで行きましょう。

A教会はキリストのからだ

 さて、次に、パウロは23節で、教会は「キリストのからだ」であると言っています。
 人間のからだのことを考えてください。すべての命令は、頭から発せらますね。たとえば、誰かを叩いてしまったとき、「いやー、手が勝手に動いてしまったので、責任は手にあります」と言ったらどうでしょう。「そうですね。手のせいですね」とは誰も言いませんね。頭が指令を出すからです。ただ、何らかの原因で頭とからだとの連絡経路に問題が生じると、からだが頭の指令どおりに動かなくなってしまうことがありますね。そうなると大変ですね。
 教会もそれと同じです。教会のかしらは、キリストご自身です。一人一人がキリストにつながり、キリストの思いにかなった状態にあるとき、教会全体の姿の中にキリストの姿が現されていくのですね。
 私は、「献血オタク」で、よく献血をするんですね。そうすると血液のデータが送られてくるんです。赤血球や白血球の値、肝臓の働きを示す値など、いろいろな血液のデータを知ることができるんですね。
 血液は、体にとってとても大切です。血液の循環によってからだの隅々にまで栄養や酸素が運ばれます。体の調子が悪くなれば、血液の値が異常を知らせてくれるわけです。体とはなんと精密に出来ているのだろうと思いますね。
 では、キリストのからだである教会に、いつも流れている血液のようなもの、それは、何でしょうか。それは、キリストの愛なんです。
 このエペソの手紙の5章25節で、パウロは、夫婦のあり方についてこう書いています。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」と。ここで、パウロは、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」と言っていますね。キリストは、ご自身をささげるほどに教会を愛しておられるというのです。そのキリストの愛がいつも教会の中に充分に流れているとき、教会は健全な姿に保たれ、キリストの姿を現すからだとして成長していくことができるのです。そして、私たちはこのキリストの愛の中に憩い、安息し、生きていく者とされているのです。
 第一ヨハネ4章7節ー11節には、こう書かれています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はその一人子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」
 私たちは、一人子キリストを与えてくださった神様の愛によって生かされ、キリストの愛を味わいながら、互いに愛し合いつつ歩む者とされました。その愛こそ教会を流れる血液であることを覚えましょう。
 そして、パウロは、23節後半で、教会は「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」と記しています。
 日本にいると、教会は、この世の取るに足りない小さな小さな集団のようにしか見えませんね。教会にいる一人一人も、普通の人であり、弱さを覚え、強靱で完璧な人など誰もいません。しかし、パウロは、神の力がどれほど偉大なものであるかということに目が開かれていくときに見えてくるものがある、と言うのです。それは、小さな存在にしか見えない教会が、実は、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」だということです。すごい表現ですね。「イエス・キリストは「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」であるというのです。
 でも、この表現は、なんだかわかったようでわかりにくいですね。どういう意味かといいますと、まず「いっさいのものをいっさいのものによって」と同じ言葉を反復しているのは、あることを強調している表現です。そして、「満たす」とは、「成就する」「完成する」という意味もあります。パウロは、「教会は、実は、キリストによって完成されていく、キリストの力の充ち満ちた場所なのだ」ということを言っているのです。私たちは、自分一人でいるときにも、イエス様を知ることが出来ますし、イエス様の御名によって祈ることも出来ます。しかし、私たちがともに集められている教会には、キリストが満ちておられ、キリストによって一人一人が完成させられていく所でもあるのだというのです。それに、キリストは、「互いに愛し合いなさい」と言われました。それは、一人では出来ませんね。ともに集まる時にこそ、実践できるのです。
 ですから、私たちは、教会を大切にし、恵みに満ちておられるキリストの支配の中で養いをうけながら、互いに愛し合いつつ歩んで行きましょう。
 皆さん、私たちはこれから教会を見る見方を少し変えたほうがいいかもしれませんね。
 パウロは、当時の教会の中にいろいろな問題があったことを知っていましたし、弱い者たちも大勢いたことを知っていました。しかし、心の目が開かれて教会を見たときに、キリストが満ち満ちている教会の姿、また、キリストの恵みの力によって完成させられつつある一人一人の姿を見ることができたのです。 それは、今日も同じです。いつも変わることのないキリストが、今日もこの場にいてくださるのです。
 元日の礼拝でお話ししましたが、ヘブル12章2節に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と書かれているように、私たちに信仰を与え、完成してくださるイエス様から目を離さずに、イエス様の恵みの中に憩いながら、今週も誠実に歩んでいきましょう。
 この一週間も信じる者に働く神のすぐれた力を味わいながら過ごしていくことが出来ますように。