城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年二月八日              関根弘興牧師
                  エペソ二章一節ー九節

エペソ人への手紙連続説教6
    「福音の神髄」

1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(新改訳聖書)

 今日から2章に入ります。
 まず、前回の復習ですが、パウロは、一人一人の心の目が開かれて、信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを知ることができますように、と祈りました。また、すべての権威を持っておられるキリストが教会のかしらであり、教会はキリストのからだなのだから、教会は、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところなのだ、と大胆に記したのです。
 ですから、私たちは、教会の見方を変えていく必要がありますね。パウロは、当時の教会の中に様々な問題があったことを知っていましたし、教会が弱さや欠点のある人々の集まりであることも知っていました。しかし、パウロが心の目を開いて教会を見たとき、そこには「恵みとまことに充ち満ちたキリストの姿」を見ることができたのです。私たち一人一人も教会も、キリストの愛と恵みの中で、神のすぐれた力の働きによって完成されていくのだ、という希望と確信を持って歩んでいくことができるのですね。
 そして、今日の箇所に入るわけですが、ここには「福音とは何か」ということがはっきりと記されていて、私たちが立ち返るべき原点ともいえる箇所なのです。

一 人の状態

まず、1節から3節を見ましょう。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」と書かれていますね。
 この中で1節には「あなたがた」、3節には「私たち」、そして「ほかの人たち」という言葉が出てきますね。まず、このことについて整理しておきましょう。
 当時、教会の中には、ユダヤ教からクリスチャンになったユダヤ人たちと、異邦人でクリスチャンになった人たちがいました。パウロは、今日の箇所で、それらの人たちを区別して書いているのです。
 まず、1節の「あなたがた」とは、異邦人のクリスチャンを指しています。そして、3節の「私たち」とは、ユダヤ人クリスチャンを指しています。パウロもその中に入っていますね。それから、3節の途中に出てくる「ほかの人たち」というのは、クリスチャンでない人たちのことです。この区別を頭に入れて、話を進めていきましょう。
 まず、パウロは、異邦人クリスチャンたちに対して、「あなたがたは、以前は、自分の罪過と罪との中に死んでいた者だ」と書いています。「罪過」と「罪」というのは、ここでは細かく区別する必要のない同義語です。どちらも「的外れ」とか「脱線している状態」を指す言葉です。そうした的外れで脱線した状態の中に死んでいたとは、どういう意味でしょうか。 「的外れ」「脱線している」というのは、神様との関係がずれているために、本来の自分らしい生き方ができなくなっている状態を表しています。その結果、人生の目的や自分自身の存在意義を見失い、自分や人を傷つけ、様々な問題を引き起こし、いろいろな不安や恐れを感じながら生きることになります。そして、その状態を自分はどうすることもできない、まったく無力だというのが、「罪過と罪との中に死んでいる」ということです。まことの神様との関係がずれてしまっていて、それを自分の力では回復することが出来ないということなのです。
 そして、さらにパウロは2節で「あなたがたは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」と書いています。この世界には、まことの神様に背を向けさせようとする力が働いていて、その力にあなたがたは捕らわれていたのだというのですね。
 では、ユダヤ人クリスチャンたちは、どうでしょうか。パウロは、3節にこう書いていますね。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
 当時、ユダヤ人たちには「私たちは神から選ばれた特別な民だ」という自負がありました。そして、異邦人たちに対して、「彼らは神を知らない罪人だ」という軽蔑の思いを持っていたのです。しかし、パウロは、ユダヤ人クリスチャンに対して、「私たちも、かつては神様に逆らい、自分勝手に生きてきた罪人ではありませんか」と語ったのです。
 つまり、パウロは、「お互いが自分の態度や行動を振り返ってご覧なさい。異邦人であろうとユダヤ人であろうと、結局、人は神様の御前には罪人であることがわかるでしょう」と言っているわけです。異邦人であっても、ユダヤ人であっても、みな「罪過と罪との中に死んでいた者」であり、「御怒りを受けるべき子」だったのだというのです。
 ところで、「御怒りを受けるべき子」とありますが、これは、神様が感情にまかせて怒りを発せられる怒りっぽい方だという意味ではありません。罪の中にある人は、神様に罰せられても決して文句を言えない状態なのだという意味なのです。
 それでは、私たちが罪に対して無力で、死んでいるような状態であるなら、どのようにして救いを得ることができるのでしょうか。努力ですか。修行ですか。善行を重ねるのですか。いいえ、私たちはみな、罪に対しては無力であり、死んでいるような状態なのですから、何をしても救いを得ることなど到底出来ないのです。救いに関しては、私たちの側では完全にお手上げ状態なのですね。そこで、パウロは、4節以下に福音の神髄とも言えることを書いていくわけです。

二 福音の神髄

1 あわれみ豊かな神が私たちを愛してくださった。
 
 まず、4節に「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」と書かれていますね。
私たちの神様はあわれみ豊かな神様です。時には、怒りを発せられることもありますが、神様の御怒りは、相手が嫌いだから滅ぼしてしまうという自分勝手な怒りではないのです。神の怒りとは、私たちを正そうとされる熱心さであって、神様が私たち一人一人に決して無関心ではないということなんです。
 そして、この「あわれみ」という言葉ですが、原文のギリシャ語では「あわれみ」と訳されている言葉が二つあります。一つは「オイクティルモス」という言葉で、「悲惨な状態への心に宿る同情、かわいそうに思う心」という意味があります。もう一つは「エレオス」という言葉で、「他人の悲しみに同情し、行動をともなって救助したいと思う気持ち」を表す言葉です。
 今日の4節で使われているのは「エレオス」です。つまり、「本当にかわいそうですね。同情します」というだけの「あわれみ」ではなく、「何としてもその人の状態を変えるために助けたい」と行動する思いを表しているのです。神様は、遠くから私たちをながめて「かわいそうに」と言うだけの方ではなく、私たちを何とかして助け出そうとみわざを行ってくださる方なのです。そして、その「あわれみ」の行動は、「愛」なのです。

2 神の愛のわざ
 
では、神様は私たちに何をしてくださったのでしょうか。

@キリストとともに生かしてくださった

まず、5節に「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださったと書かれています。
 「罪過の中に死んでいた者を生かす」とは、どいうことでしょうか。「死」とは、呼びかけても応答しない状態ですね。罪過の中に死んでいた時には、神様との関係がずれていたので、神様の呼びかけに応答することができませんでした。また、いのちの源である神様につながっていなかったので、ただ朽ちて滅びていくしかない状態だったのです。
 しかし、キリストを信じる時、神様との関係が回復し、神様のいのちによって生かされ、神様に応答することができるようになりました。以前は、神様のことがわからず、神様に向かって祈ることも感謝や賛美をささげることもなかったのに、今は、いつでもどこでも、「アバ、父よ。天のお父さん」と呼びかけ、イエス様の名前によって祈り、賛美することができる者とされたのです。そして、キリストとともに生かされた私たちは、いつもキリストがともにいてくださること確信して歩むことが出来るのです。

Aキリストとともによみがえらせてくださった

 次に、6節で、「キリストとともによみがえらせ」とありますね。この言葉には、5節の「キリストとともに生かし」と同じ意味だと考えるとともできますが、この肉体の死の後にも天の御国で生きる者としてよみがえらせてくださるという意味として考えることもできます。でも、まだ死んでいないのに、「よみがえらせてくださった」と完了形で記されていますね。これは、「実際には、まだ手にしてないけれど、それが確実なものとして約束されている」ということなんですね。たとえば、私が車を購入したとしましょう。まだ納車されていない状態を考えてください。車はまだ受け取っていませんね。でも、代金を支払い、契約は完了しているのですから、実際に手元になくても、その車は自分のものになっているということですね。そして、車が来る前から、車を置く場所を準備したり、ドライブの計画を立てたり、車があることを前提に考えたり行動したりするわけですね。つまり、実際に手にしていなくても、自分のものとなった時から、人の思いや行動は変わっていくのです。
 それと同じように、神様が私たちをキリストとともによみがえらせてくださったというのですから、私たちは、それをすでに実現したものとして、それにもとづいて生きていくことができるのです。私たちは、いつかはこの朽ちていく体を脱ぎ捨てて、キリストとともに永遠の御国に住まう者とされています。その確実な永遠を見つめながら歩んでいくのです。
 でも、もちろん、与えられた今の人生を大切に生きていくことも必要です。自分の健康に気をつけ、神様のいやしを願って病気の回復のために祈ることも大切でしょう。しかし、この地上の生涯を終える時は必ず来ます。それを考えるとき、行く先が分からなければ、準備のしようがありませんね。でも、私たちはキリストとともに永遠の御国に住まうことが約束されているのですから、この地上での人生の最後にも備えることが出来るのです。

Bキリストとともに天の所にすわらせてくださった

 そして、次に、6節後半には、さらに驚くべきことが書かれています。私たちを「キリストとともに天の所にすわらせてくださった」というのです。
 前回、お話したように、1章20節には、神様が「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ」られたと書かれていますね。キリストは、神様の右の座に着かれたました。それは、神様の右腕として、全権を委ねられた者として働くということを意味しています。
 そして、今日の箇所では、私たちもそのキリストとともにすわっているというのです。つまり、私たち一人一人がキリストとともに神様の大切な右腕として存在しているのだというのです。すごいですね。
 第一ペテロ2章9節には、こう書かれています。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」また、第一ヨハネ5章5節には、「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と書かれています。私たちは、神様に選ばれ、王とされ、祭司とされ、神の民とされ、神様に敵対する力に打ち勝つ権威を持つ者とされ、神様のすばらしいみわざを宣べ伝える者とされているというのです。それは、キリストがともにおられるからです。

皆さん、あわれみと愛に富む神様は、キリストとともに私たちを生かし、よみがえらせてくださり、神様の大切な右腕としてくださいました。しかも、そのみわざは、すべて完了しているのです。ですから、自分に対してもお互いに対しても、そのようなまなざしを向けていきましょう。私たちが神様が成し遂げてくださったみわざに信頼して生きていくとき、神様の深いあわれみと愛と恵みが明らかになっていくのです。

3 恵みと信仰

 さて、神様は、私たちのためにキリストにあって素晴らしい救いのみわざを行ってくださいましたが、私たちは、その救いをどのようにして受け取ることができたのでしょうか。
 パウロは、5節で「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」と書いています。また、8節では、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」と書いていますね。「救い」のキーワードは「恵みのゆえに」と「信仰によって」です。今日は、最後にこの二つのことについて考えていきましょう。

@恵みのゆえに

 まず、「恵み」とは、本来ふさわしくない者に与えられる一方的な愛のわざです。罪の赦しも永遠のいのちも、自分の努力や力で得ることは出来ません。一方的な恵みによるのです。「恵み」を別の表現で言い換えると「神の賜物」、つまり、神様からのプレゼントということです。神様からそんな素晴らしいプレゼントをいただく資格はないのに、神様がくださったということです。救いに関して私たちにできることは何もありません。ただ、神様が私たちを愛するがゆえに与えてくださった恵みによるのだ、ということをいつも覚えていましょう。

A信仰によって

 しかし、次の「信仰によって救われた」という言葉は、よく誤解されます。「信仰によって救われるというのなら、立派な信仰を持たないと救われないのではないか」と思ってしまうのですね。そして、少し調子が悪くなると、「自分の信仰が弱いからだ」とか「私は信仰がないからだめだ」とか「こんな弱い信仰では救われないのではないか」などと思ってしまうのです。まるで「信仰」を救いのバロメーターのように勘違いしてしまっているのです。それは、自分の力で信仰を持たなければならない、つまり、信仰という「行い」をしなければならないと思っているからなのですね。
 しかし、パウロは、「救いは自分の行いによるのではない」とはっきり書いていますね。私たちが自分の力で頑張って信仰を持って救いを得ようとしても無理だということなのです。
 では、パウロがここで言っている「信仰によって」とは、どういう意味でしょうか。注意していただきたいのは、パウロが「恵みのゆえに」信仰によって救われたと書いていることです。つまり、信仰も神様の恵みによるのだ、信仰も神様が与えてくださるものなのだということなのです。
 私たちは、相手が誠実で真実だと思えば、その人を信じるようになりますね。つまり、相手の人柄が私たちの信頼を引き出す源なんです。それは、こちらの努力や頑張りによるのではないのですね。いくらある人を信頼しようとして頑張っても、その人がいい加減で嘘偽りばかりだったら、信頼のしようがありませんね。相手に真実がなければ、信頼出来ないわけです。
 信仰は、信頼と同じです。神様が真実の方であるからこそ、私たちは神様を信頼できるのです。ですから、「信仰によって救われた」ということは、別の言葉で言い換えるなら、「神様の真実によって救われた」と言うことも出来るのです。

 私たちは、神様の恵みのゆえに、信仰によって、つまり、神様の真実によって救われました。そのことをいつも覚えつつ生活していきましょう。
 信仰は神様が与えてくださったプレゼントです。いろいろな挫折や失敗があったり、いくら祈っても答えが見いだせない時もありますが、そんな時、自分の信仰は駄目だとか、弱いとか言って、自分自身をさばくのではなく、どんな時にも恵みとまことに満ちた神様がおられることを聖書を通して知り、味わっていきましょう。そうしたことの積み重ねの中で、この方がどれほど信頼にたる方であるかがわかってきます。そして、そこからさらに豊かな信頼が育まれていくのです。
 ヨハネ1章14節にこう書かれています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた一人子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 私たちは、イエス・キリストのうちに現された神様の恵みとまことのゆえに救われ、神様を信頼して歩む新しい人生をスタートすることができました。自分の力によるのではありませんから、だれも誇ることはできません。信仰の優劣を競ったり比べたりする必要もありません。ただ、神様に信頼し、神様に応答しつつ生きていけばいいのですが、では、その私たちの人生に目的があるとするなら、それは一体何でしょうか。
 そのことについて、来週、ご一緒に考えていきましょう