城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年二月一五日             関根弘興牧師
                    エペソ二章一〇節

エペソ人への手紙連続説教7
    「神の作品」

10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(新改訳聖書)


まず、先週の内容を振り返ってみましょう。
 2章5節ー6節でパウロは、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と記しています。すごいですね。私たちは、キリストとともに生かされ、よみがえらされ、キリストとともに神様のみわざを行う権威を与えられているというのですから。そして、それは、私たちが何か立派な行いをしたからでもなく、知恵や能力があるからでもありません。あわれみ豊かな神様が、罪の中に死んでいた私たちを愛し、救いの手を差し伸ばしてくださったからだというのです。
 8節に、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」と書かれていましたね。私たちは、神様の恵みのゆえに、信仰によって救われましたが。そして、その信仰も自分の力で持ったのではなく、神様からの賜物だというのです。
 私たちは、相手が誠実で真実なら、その人を信じるようになります。つまり、相手の人柄が私たちの信頼を引き出す源なんです。こちらがいくら努力し頑張っても、相手がいい加減で嘘偽りばかりの人なら信頼はできませんね。信仰は、神様に対する信頼です。もし、神様が不誠実な方なら、とても信頼することはできませんね。でも、神様は、いつも真実の方なので、私たちは神様を信頼して歩むことができるのです。ですから、「信仰によって救われた」というのは、「神様の真実によって救われた」と言い換えることも出来るのです。
 私たちは、神様の恵みとまことによって救われました。では、救われた私たちの人生には、どのような目的があるのでしょうか。それが今日の箇所に記されています。
 もう一度、今日の箇所を読んでみましょう。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」
 ここには、三つのポイントが書かれています。

1 神の作品

 まず、一つめのポイントは、私たちは神の作品だということです。「神の作品」という言葉には、二つの意味が含まれています。
 一つは、神様が私たち一人一人にいのちを与え、この世界に生きる者としてくださったということです。創世記1章1節に「初めに、神が天と地を創造した」と書かれていますね。この世界のすべては、私たちも含めてみな、神様によって創造された、と聖書は教えています。しかも、神様は、世界と私たちを見て「非常によい」と言われたのです。
 旧約聖書のイザヤ64章8節で、預言者イザヤはこう言っています。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」
 また、イザヤ43章4節では、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言っておられます。神様は、私たちを良いものとして造り、高価で尊いものとして愛してくださっているのです。ですから、自分もお互いも大切にしていく必要がありますね。
 しかし、私たちは、神様に造られ、生かされ、愛されているにもかかわらず、神様に背を向けて、自分勝手な方向に向かっていました。パウロが2章1節に記したように、私たちはみな罪過と罪との中に死んでいた者であったのです。
 しかし、あわれみ豊かな神様は、その大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。つまり、死んだ状態の私たちが、神様のいのちを与えられて再び創造された者、新しく造りかえられた者となったということなのです。これが「神の作品」という言葉の二つ目の意味です。クリスチャンとは、新しく生まれた者であるということなのですね。
 ですから、第二コリント5章17節には、こう書いてあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
 また、ガラテヤ6章15節には、こう書かれています。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」
 私たちは、神の作品として新しく造りかえられました。ですから、過去に縛られ、過去に引きずられるのでなく、すべてが新しくされたことを覚えて歩んでいきましょう。

2 良い行いをするために造られた

次に、今日の箇所の二つ目のポイントは、私たちは「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」ということです。
 死んだ状態から生かされて新しく造られるために、私たちにできることは何もありません。救いは、私たちの努力や善行とはまったく関係ありません。救いは、神様の恵みのゆえに、そして、真実なる神様に対する信仰によってもたらされるものなのです。
 しかし、新しく造られた一人一人には、目的があるとパウロは、ここで書いています。その目的とは、「良い行いをする」ことだというのですが、それでは、この「良い行い」とは一体どのようなものなのでしょうか。

@神を愛し、自分を愛し、人を愛する

 マタイ19章にイエス様のもとに来た一人の青年のことが書かれています。彼は「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」と尋ねました。するとイエス様は、「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」とお答えになりました。つまり、唯一の神様こそがすべての良いことの源なるかたであり、その神様の戒めを守ることが良いことなのだと言われたのです。
 では、神様の戒めとは何でしょうか。
 マルコ12章で、ある律法学者がイエス様に「すべての命令の中でどれが一番大切ですか」と尋ねました。すると、イエス様は、こうお答えになりました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」つまり、神を愛し、自分を愛するように他の人を愛する、これが最も大切な神様の戒めなのだというのです。
 ですから、私たちがするべき最も大切な「良い行い」とは、神様を愛し、自分を愛し、人を愛することです。
 ただし、繰り返しになりますが、私たちはそれを一生懸命することによって救いを得たわけではありません。それとは逆で、まず、神が私たちを愛して恵みによって救いを与え、造りかえてくださったので、私たちは神を愛し、自分を愛し、人を愛することができるようになったということなのです。

A神のものを神に返す

 次に、私たちがすることができるようになったもう一つの「良い行い」とは、神のものを神に返すということです。
 マルコ12章で、宗教指導者たちがイエス様にこんな質問をしてきました。「カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」すると、イエス様は、デナリ銀貨を持って来させ、それを見せながら、「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と言われました。彼らは、「カイザルのです」と答えました。カイザルというおは、ローマ皇帝のことですね。すると、イエス様は、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言われたのです。
 このイエス様の言葉は、大変有名ですね。『広辞苑』にも載っています。「この世の務めと神への務めを共に果たせと教えたキリストの言葉。転じて、本来あるべきところに返せ、の意で用いられる」と解説されています。
イエス様は、ここで、私たちが二つのものに属していることを教えています。一つは、私たちが生きているこの社会です。私たちはこの社会の一員です。私は小田原に住んでいますので、小田原の住民として社会の一員とされているわけですから、その自覚と責任をもって歩んでいく必要があるわけですね。ですから、税金を払い、義務と権利を持って生活しているわけです。
しかし、その一方で、私たちは、神様に造られた者として神の恵みの支配の中に生きている者でもあるのです。
 ですから、良い行いをするとは、自分がこの二つのものに属していることを知り、社会においても神様に対しても誠実に生きることです。
 クリスチャンとして生きるとは、社会生活を放棄して生きることではありません。社会の一員として誠実に生きることは、当然、良い行いに生きることでもあるのです。それが「カイザルのものはカイザルに返す」ことですね。
 では、「神のものは神に返す」とは、どういうことでしょうか。「神のもの」とは何でしょう。大きく言えば、存在するものすべては神のものですね。しかし、ここでは、「カイザルのもの」に対して「神のもの」という言葉が使われているので、ここでは、「神のもの」とは私たちがささげる礼拝のことを指していると考えていいでしょう。
 当時、ローマ皇帝が神として祭り上げられ、皇帝礼拝が義務づけられました。しかし、クリスチャンたちはそれを拒否して、厳しい迫害を受けました。礼拝すべき方は、天地を創造された神様だけであって、神様以外のものを礼拝すべきではないからです。
 「神のものは神に返しなさい」とは、私たちが日常生活の中で神様に礼拝をささげていくことなのですね。そこには、賛美があります。感謝があります。祈りがあります。そして、聖書の言葉に応答しつつ歩んでいく姿があるのです。

B心の一新によって自分を変える

 もう一つの「良い行い」について、ローマ12章2節にパウロはこう書いています。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と書いています。何が良いことで、神に受け入れられることかを知るためには、心の一新によって自分を変えることが大切だというのですね。ここの「心」という言葉は、英語では「マインド」と訳されています。「心」というより「思い」や「考え方」と訳したほうが近いかもしれません。「思いの一新」が必要なのです。私たちは、以前は、この世の考え方に従って生活していました。しかし、今は、神様が私たちに新しい「思い」を与えてくださっています。過去の価値観や思いに捕らわれず、神様の言葉によって自分の思いや見方や価値観を変えていきなさい、そうすれば、何が本当に良いことなのかがわかるようになり、本当によい行いをすることができるようになっていくと、パウロは言っているのです。

 繰り返しますが、良い行いとは、一つは、神を愛し、自分も人も愛すること、また、社会においても神様に対しても誠実に生きること、また、神様の同じ思いを持つように自分を一新していくことです。

3 良い行いをあらかじめ備えてくださる

 さて、いままでの話を聞いていると、だんだん肩に力が入ってきて、「そうか、良い行いをしなければいけないのだな、そのように造られたからには、そのように生きていかないと駄目なのだな、でもほんとうに自分はこれからちゃんとやっていけるだろうか」と心配になってしまうかもしれません。
 でも、皆さん、安心してください。「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」と書かれているからです。これが、今日の箇所の三つ目のポイントです。
私たちが良い行いに歩むことは、神様が望んでおられることです。そして、神様は望んでおられることを必ず成し遂げることがおできになるのです。神様は、私たちを教え、導き、すべきことを備え、行うために必要な思いや力を備えてくださるのです。
 ピリピ2章13節に「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」とあります。つまり、私たちは、自分で何かをしなければならないとあまり焦らないでください。神様が私たちのうちにいろいろな志を立てさせて、事を行わせてくださるのです。神様は、私たち一人一人にふさわしい志を持たせてくださいます。私たちに出来ないことを行えとは決して言われません。神様は、私に、プロのテニスプレーや野球選手になれとは言われません。でも、この人のために祈りなさい、あの人に声をかけなさい、という思いを与えてくださいます。そして、私たちがその思いに従って行動していく時、それを神様が用いてみわざを行ってくださるのです。
 私たちが神様を愛し、自分と人を愛し、神様に礼拝をささげつつ、神様のみこころにそった生き方をしようとしていくときに、神様は、それぞれにふさわしい志を立てさせてくださるのです。そして、その志を行わせてくださるのも神様ご自身なのです。

主に信頼し歩む人生は、神様の備えの中に歩んでいく人生なのです。皆さん、自分の人生を振り返ってみてください。みなさんが、ここに集っていること自体、とても不思議だと思いませんか。たくさんの備えがあったと思いませんか。ある人は何気ないある人のひと言がきっかけとなったかもしれません。また言葉ではなくその人の姿を見て、興味を持ったかも知れませんね。だれも「良いことをしよう」と気負って何かをしていたわけではないと思います。でも、ひとり一人の言葉や態度や祈りが、結果的に、神様の備えられた良い行いにつながっているのです。
 ですから、今日は、私は、「さあ、みんなで良い行いをしましょう」という説教をしようとしているのではありません。そうではなく、ひとり一人が神様に愛され、支えられ生かされている事を覚え、弱さがあっても誠実に歩んでいくとき、その歩みそのものが、良い行いを生み出していくと言うことなのですは、主に信頼し歩む人生は、神様の備えの中に歩んでいく人生であると思います。皆さん、自分の人生を振り返ってみてください。みなさんが、ここに集っていると言うこと自体、とても不思議だと思いませんか。たくさんの備えがあったと思いませんか。今日は、私は、「さあ、みんなで良い行いをしましょう」という説教をしようとしているのではありません。そうではなく、ひとり一人が神様に愛され、支えられ生かされている事を覚え、弱さがあっても誠実に歩んでいくとき、その歩みそのものが、良い行いに歩んでいると言うことなのです。
 神様の備えは完全です。皆さん、今日、是非、覚えてください。一人一人が良い行いに歩むように新しく造られた神様の作品なんです。同じ作品はありません。みな個性があり、違いがあります。そんな一人一人にふさわしく、神様は志を与え、事を行わせてくださるのです