城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年二月二二日             関根弘興牧師
                エペソ二章一一節〜一八節

エペソ人への手紙連続説教8
    「キリストこそ平和」

11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。(新改訳聖書)


先週は、私たちが神様の作品であり、良い行いをするために造られたということ、そして、その良い行いも神様が備えてくださっているということを学びました。
 私たちは、神様を愛し、自分を愛し、人を愛し生きていく者とされました。また、神様に礼拝をささげつつ、思いと心を一新して歩む者となったのです。それは、私たちから出たことではなく、神様が私たちを愛するがゆえにキリストにあって与えてくださった賜物です。ですから、私たちは、ただその恵みに感謝し、賛美して生きていくのです。
 しかし、どうでしょうか。私たちは、その神様のすばらしい恵みを忘れ、感動が薄れ、いつのまにか感謝も賛美も忘れてしまうことがありますね。
 ヨハネの黙示録2章3節ー4節には、エペソ教会に対して言われたイエス様の次のような言葉があります。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」「エペソ教会の人たちよ。確かに、あなたがたは正しい神学を持っているし、教会は成長し、多くのすばらしい奉仕者も出してきた。しかし、あなたがたは初めの愛から離れてしまっている」というのです。
 実は、多くのクリスチャンが陥る落とし穴が、この「初めの愛から離れてしまう」ということだと思うのです。
 パウロは、今日の箇所の初めに、「ですから、思い出してください」と書いていますね。初めの愛から離れてしまわないために思い出すべきことがあるというのです。それは何でしょうか。今日の箇所から学んでいきましょう。

 まず、キリストを知る以前の姿はどうだったのか、思い出してください、とパウロは書いています。11節から12節に、こう書かれていますね。「あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれるものであって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」
 教会の中には、ユダヤ人クリスチャンと異邦人のクリスチャンがいました。「割礼を持つ人々」とはユダヤ人のことで、ユダヤ人は神様から与えられた律法に従って、割礼を受けていました。割礼というのは、男性の包皮を切り取るという儀式です。この割礼が神の民であるというしるしだったのです。
 一方、異邦人は、神様を知らず、律法も与えられていなかったので割礼を受けることもなく、「無割礼の人々」と呼ばれていました。その呼び方には、「神様の救いの計画に入っていない人々」という意味が込められていました。異邦人が神様の救いを受けられるはずがない人々だと思われていたのです。
 しかし、今はどうでしょうか。パウロは13節でこう言っていますね。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」「以前は、キリストから遠く離れ、希望を持つことの出来なかったあなた方が、今では、キリストを信じることによって、キリストの中にいることができる。そして、キリストの血によって神様の救いをともに受ける仲間になったのだよ」というのです。
 そして、パウロは続けて14節ー16節でこう言っていますね。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
 ここには、キリストがしてくださったことが書かれていますね。その内容を詳しく見ていきましょう。

1 二つのものを一つにしてくださった

 当時のユダヤ人は、大変な誇りを持っていました。「私たちは神の選びの民だ。モーセの律法を持っているし、宗教的にも道徳的にもすぐれた民だ。神様は私たちを特別に愛してくださっている。私たちは神に近い者とされている」と考えていたのです。そして、彼らは、異邦人について、「異邦人は、神を知らない、律法も与えられていない、神様の救いの契約とは関係ない、滅びることが決まっている、神様から遠く離れた人たちだ」と考え、異邦人と交際すると汚れるからといって、一緒に食事をすることもしなかったのです。
 それでは、異邦人はどうだったでしょう。この時代より少し前、ギリシヤのアレキサンダー大王が広大な地域を征服し、ヘレニズムと呼ばれるギリシヤ文明が広まっていました。そこで、ギリシヤ人は、自分たちの文化こそ世界最高であると自負していました。しかし、彼らは、まことの神様を知らず、様々な「神々」を造り出して拝んでいました。彼らは、生きる道を真剣に追求しましたが、行き着くところの多くは「悲劇」でした。そして、道徳的には非常に退廃していったのです。それでも、ギリシャ人は、世界に誇る文明のゆえに、ギリシャ人でない人を野蛮人、未開人と呼んで軽蔑していたのです。自分たちは世界の最先端を歩いているのだ、と思っていたわけですね。また、当時のローマ人はどうだったでしょう。当時はローマ帝国の全盛期です。ですから、自分たちこそが世界の中心だと考えていたわけです。
 ですから、面白いことに、ユダヤ人も、また、ギリシヤ人やローマ人などの異邦人も、それぞれが、自分を誇り、相手を軽蔑していたわけですね。しかし、そこからは、傲慢と憎しみと軽蔑しか生まれませんね。
 残念ながら、これは昔だけのことではありません。いまも至る所で見ることができる残念な光景ですね。
 しかし、パウロは、ここで何を見ているのでしょう。ユダヤ人も異邦人も共に集い、キリストにあって生かされ、賛美し、神様を礼拝している教会の姿を見ているのです。キリストは、二つのものを一つにし、平和をもたらしてくださるのです。
 争っている二人を和解させるのに最も良い方法は、その二人が共通に信頼している人が中に入ってそれぞれの話を聞き、調停してもらうことです。そういう意味で、私たちには、イエス様というすばらしい調停役がいるわけです。イエス様は、ご自分が十字架の苦しみを受けるという、いのちをかけた調停をしてくださいました。前々回お話ししましたように、私たちは、ユダヤ人であれ異邦人であれ、みな罪過と罪の中に死んでいた者で、みな御怒りを受けるべき子らでした。みな、正しい神様の御前で自分の罪のために罰を受けても文句を言えない者でした。しかし、イエス様は、ユダヤ人も異邦人も、すべての人の罪を背負って十字架にかかり、すべての人の代わりに罰を受けてくださったのです。このキリストの調停の前で、一体だれが自らを誇ることができるでしょうか。「私たちは神の選民だ」と誇るユダヤ人も、「私たちの文化は最高だ」と誇るギリシャ人も、この方の前ではだれも誇ることはできません。神様の前では、みな同じ罪人に過ぎません。そして、みなイエス様によって救われたのです。
パウロは、ガラテヤ3章27節ー28節で、こう書いています。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」

2 隔ての壁を打ち壊してくださった

 次に、キリストは、隔ての壁を打ち壊してくださったと書かれていますね。これについては、二つのことを覚えておきたいと思います。

@神殿の隔ての壁

 まず、「隔ての壁」という言葉を聞くと、ユダヤ人たちがすぐに思い浮かべることがあります。それは、エルサレムの神殿にある隔ての壁のことです。神殿は、礼拝の中心です。まさに、神に近づくことの象徴のような場所です。しかし、異邦人は、神殿の中に入ることが出来ませんでした。神殿の外庭から内庭に階段で上ると、1メートルほどの高さの仕切り壁があり、ギリシャ語とラテン語で立入禁止の札が立っていたそうです。そこには、こう記されていたそうです。「いかなる外国人も神殿の周囲にめぐらされた格子づくりの仕切り壁の中に足を踏み入れてはならない。これを犯す者は死をもって罰せられる。」つまり、神様の近くに行くことが出来る人は、ユダヤ人だけだと考えられていたのです。
 しかし、パウロは、改めてはっきりと、「キリストは隔ての壁を打ち壊したのですよ。だから、誰でも自由に神様に近づくことができるようになったのですよ」と語っているのです。

A聖所と至聖所を仕切る幕

 もう一つ、それと関連して覚えておいていただきたいことがあります。それは、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記されていますが、イエス様が十字架につけられ、息を引き取られたとき、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ということです。この神殿の幕というのは、神殿の中の聖所と至聖所を仕切っている幕でした。神殿に入るとまず聖所と呼ばれるところがあります。そして、その奥に至聖所と呼ばれる場所があって、聖なる神様の臨在の場とされていました。そこは、幕で仕切られていて、その内側に入ることができるのは大祭司だけ、しかも、年に一度だけしか入ることができなかったのです。しかも、大祭司は至聖所に入る前に、いけにえをさささげて自分の罪の贖いをし、身をきよめなければなりませんでした。つまり、いつでも自由に神様の御前に出ることができる人は誰もいなかったのです。しかし、イエス様がすべての人の罪を贖ういけにえとして十字架にかかってくださったことにより、私たちの罪はすべて赦され、私たちは皆、神様の前で聖なるものとされました。キリストが十字架上で息を引き取られたときに聖所と至聖所を隔てていた幕が真っ二つに裂けたという出来事は、神様と私たちを隔てていたものがキリストの十字架によって取り除かれた、つまり、誰でも自由に大胆に神様に近づくことができるようになったことを象徴しているのです。ですから、パウロは18節で「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」と書いていますね。
 でも、第一テモテ6章15節-16節には、こう書かれています。「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただ一人死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことのない、また見ることのできない方です。」神様は、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間が見ることのできない方だというのです。そのような神様にどのように近づくことができるというのでしょうか。
 実は、私たちは、本来誰も神様に近づくことなど出来ないのですが、神様がご自分の方から私たちに近づいてくださったのです。ピリピ2章6節ー7節にこう書かれています。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」神であられる方が人となって来てくださった、それがイエス・キリストです。このイエス様によって、私たちは神様の愛と恵みとまことを知り、このイエス様によって罪赦され、神様との親しい関係を回復し、礼拝し、賛美し、祈ることができるようになったのです。
 そして、第一ペテロ2章9節には、こう書かれています。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」神様がイエス様によって私たちをご自分の驚くべき光の中に招いてくださり、そして、私たちは「王である祭司」とされているというのです。皆さんは、「万人祭司」という言葉を聞いたことがありますか。これは、誰でも父なる神様に近づくことのできるものとされているということです。以前は、神様に近づけるのは、大祭司だけでした。しかし、今では、ユダヤ人も異邦人も差別なく、牧師であるか信徒であるかにも関係なく、誰もが自由に神様に近づき、神様と親しく語り、祈り、賛美し、礼拝し、生きる者とされているのです。神様と私たちの間には、何一つ隔ての壁はないのです。ですから、へブル4章15節にもこう書かれています。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

3 敵意を廃棄してくださった

さて、次に15節には、キリストが「ご自分の肉において、敵意を廃棄された方」だとありますね。そして、「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです」と説明されています。また、16節の後半には、「敵意は十字架によって葬り去られました」と書かれています。これは、どういうことでしょうか。
 旧約聖書には、神様から与えられたさまざまな律法の戒めや規定が書かれています。その律法の基本は、神を愛することと隣り人を愛することだと神様は教えておられます。ところが、律法を与えられたユダヤ人は、本来の律法の精神を忘れ、ただ律法の言葉をそのまま守らなければならないという方向に逸れていきました。また、律法だけでなく、さらに細かいいろいろな数え切れないほどの細かな規則を付け加えて、それを守ることが神様を愛することだと思い込んでいたのです。しかし、いくら頑張って努力しても、戒めや規則をすべて完全に守ることのできる人など一人もいませんね。かえって、あまりにも多くの戒めや規定があるために、それが重荷となって疲れ果ててしまうのですね。そして、律法を守れない自分を責めたり、人を責めたり、互いにさばきあったり、神様に対して罪責感を覚えるようになってしまうのです。もし、そういう律法や戒めを守ることが救いを得る方法だとしたら、また、それがクリスチャン生活の基準だとしたら、私たちはみな落ちこぼれてしまうか、ほとほと疲れ果ててしまうでしょう。
 しかし、イエス様は「敵意を廃棄された」とパウロは書いていますね。この「廃棄」と訳される言葉は、「無効にする」という意味です。
 少し想像してみてください。エペソ教会には、ユダヤ人も異邦人もいたわけですね。律法を厳格に守ることが習慣になっている人は、守らない人を裁いていたかも知れません。また、礼拝の方法などについて自分たち細かい規定を決めて、それを守る守らないで問題が起こっていたかも知れません。しかし、パウロは、旧約聖書の律法の戒めも、その後、人間が勝手に作り上げた規定も、人を束縛し不自由にする一切をイエス様は無効にしたのだ、と大胆に語ったのです。
 どのような方法で無効にされたのでしょう。それは、「ご自分の肉において」とありますね。この言葉は、二つの意味に解釈できます。
 一つは、イエス様が十字架にかかってくださったという意味です。その意味では、イエス様が律法を守れない私たちの代わりに罰を受けてくださった、だから、私たちは、もはや律法によって裁かれることはないし、また、律法によって縛られていた束縛から解放されたのだということです。ヘブル2章14節-15節にはこう書かれています。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
 「ご自分の肉において」という表現のもう一つの解釈は、イエス様が私たちと同じ肉体をもって来てくださり、その全生涯をかけて敵意を無効にする働きをしてくださったということです。たとえば、イエス様は、マタイ11章28節で、数え切れない戒めや規定に縛られ重荷を負っている人々に対して、こう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
 また、イエス様は、「わたしは律法を廃棄するためではなく、成就するために来た」と言われました。それは、「わたしを信頼して歩むなら、わたしがあなたに新しいいのちを与え、神と人を愛することができるようにしてあげよう。それこそ律法の成就なのだ」ということなのです。愛の中に歩むなら、敵意は消えていきます。イエス様は私たちを束縛から解放し、敵意を葬り去り、安息と平安を与えてくださる方なのです。

4 私たちを新しい一人の人に造り上げてくださった

 それから、15節の後半にキリストは私たちを「新しい一人の人に造り上げて」くださったとかかれていますね。ギリシヤ語には、「新しい」を意味する二つの言葉があります。「ネオス」と「カイノス」です。「ネオス」とは「物の時間的な新しさ」を表す言葉です。「この野菜はとても新鮮ですね」というふうに、時間的な新しさを表すわけです。でも、時間がたつと古くなってしまうわけですね。しかし、もう一方の「カイノス」という言葉は、種類の新しさを指す言葉なのです。パウロがここで使っているのは、この「カイノス」という言葉です。つまり、時間と共に古くなってしまう新しさではなく、今までとは質的に違う、この世界では造り出すことの出来ないまったく新しい者として造られているということなんですね。ですから、パウロは第二コリント4章16節でこう言っています。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
 では、「新しい一人の人」とは何でしょう。それは、教会をさしているのです。1章23節には「教会は、キリストのからだである」と書かれていましたね。教会は、二つのものが一つにされ、隔ての壁が取り払われ、律法の束縛や律法を守れないことによる裁きや敵意が無効にされています。男女の差別も、社会的な身分の差別も、国籍や言語や肌の違いもまったく関係なく、「新しい一人の人」として形造られているのですね。そして、そこに本当の平和が実現していくのだとパウロは書いているのです。
 パウロは、ローマ12章18節に「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と書いています。また、イエス様は、マタイ5章9節で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」と言われました。
 私たちは、イエス様の十字架の血によって罪赦された者たちです。ですから、互いを受け入れ、隔ての壁を作らず、また、規則や戒めに縛られたり押しつけて互いに裁き合うことないように点検しながら、キリストの平和が隅々にまで及んでいくように、主の恵みの中を歩んでいきましょう。