城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年三月一日              関根弘興牧師
                エペソ二章一九節〜二二節

エペソ人への手紙連続説教9
    「神の家族」

19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(新改訳聖書)

先週は、キリストこそ私たちの平和であり、二つものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、人を縛る様々な律法や規定を無効にされた方なのだ、ということを学びました。そこには、ユダヤ人や異邦人の区別はありません。新しいいのちを与えられた一人一人が集められて、新しい一人の人、つまり、教会が形造られたのだということを学びましたね。その新しさは、決して古びることのない質的な新しさです。パウロが第二コリント4章16節に「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」と書いているとおり、外なる人は衰えますが、内なる人は日々新たにされて、決して古びることがないのです。どんなに年を取ろうが、病にあろうが、キリストにある一人一人は、新しく造られた者であり、その群れである教会は、この世が造り出すことのできない質的な新しさの中にあるのです。
 
 そして、パウロは、今日の箇所で、この「新しく一人の人に造り上げられた教会」について、さらに詳しく説明しています。教会とは、どのようなものでしょうか。今日の箇所ではパウロは三つのことを言っています。それについて、学んで生きましょう。

1 教会は神の家族

 まず、19節に、「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」と書かれていますね。ユダヤ人、他国人、寄留者などの違いは関係なく、皆、神の家族の一員とされているというのです。
 「神の家族」という言葉には、二つのことが含まれています。

@神の子ども

 一つは、皆、神の子どもであるということです。ヨハネ1章12節ー13節には、こう書かれています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」イエス様を信じ、受け入れた人は、皆神様に愛され、神様の祝福を受ける子とされているのです。

A兄弟姉妹

 私たちは皆、神の子とされ、神様を天のお父様と呼ぶことが出来ます。ということは、お互いに兄弟姉妹とされているということでもありますね。教会における兄弟姉妹は、自分で選んでなったわけではありません。自分の好みや選択を越えたものです。背景も性格も年齢も信仰の長さも経験もさまざまです。以前からよく知っている人もいるし、昨日までまったく知らなかった人もいますが、皆、神様が私たちに与えてくださった兄弟姉妹なのです。ですから、それぞれが違いのあるすばらしい存在であるとともに、時には、自分と違うので難しい存在となることもあるでしょう。でも、神様が、私たちを兄弟姉妹となるにふさわしい者として選び、ともに集めてくださったのですから、一人一人が大切な存在なのです。そのことをいつも覚えていましょう。

2 教会の土台と礎石

 次に、20節で、パウロはこう書いています。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」これは、どういう意味でしょうか。

@使徒と預言者という土台

まず、「使徒と預言者という土台の上に建てられている」と書かれていますが、この「使徒と預言者」というのは、ここでは二つの意味に解釈することができます。

・イエス・キリストを宣べ伝える人々

 一つ目の意味は、イエス・キリストを宣べ伝える人々ということです。
 パウロはローマ10章14節ー15節で「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう』」と記しています。
 つまり、誰かが神様によって遣わされ、イエス・キリストを宣べ伝えたからこそ、それを聞いた人がイエス様を信じて、イエス様に呼び求めることができるようになったということですね。
 イエス・キリストを伝えたのは、使徒たちであり、預言者たちでした。「使徒」は「神様に遣わされた人」という意味の言葉で、狭い意味では十二使徒とパウロの十三人だけを指しますが、広い意味では、すべてのクリスチャンたちを指します。また、「預言者」は「神様の言葉を預かって語る人」で、狭い意味では、特別な預言の賜物を与えられた人たちのことですが、広い意味ではクリスチャン全員が神様のことばを人々に語り伝える預言者的な役割を果たしていると言えます。
 ですから、「使徒と預言者たちという土台の上に教会が建てられている」ということは、イエス・キリストを宣べ伝えたクリスチャンたちによって教会が建てられたと言ってもいいのですね。

・新約聖書と旧約聖書

 それから、「使徒と預言者」には、もう一つの意味があります。
 「使徒」の狭い意味は、イエス様といつも行動を共にして、イエス様の目撃証言者となった十二使徒、それにパウロのことですね。この使徒たちには、大切な役割がありました。イエス様が十字架にかかり、三日目に復活されたことを証言するということです。彼らは、いつもイエス様と一緒に行動していたからこそ、復活して現れたのが本当のイエス様であることを明確に証言することができたのです。使徒たちの証言が最も信頼性が高いわけですね。そして、その使徒たちが、自分たちの目撃証言を元にして新約聖書を書き記したのです。
 ですから、使徒たちが教会の土台になっている、というのは、使徒たちの立派な行いや特別な功績が土台になっているという意味ではありません。使徒たちの証言、つまり、イエス様が確かに復活されたという事実こそが教会の土台なのです。イエス様が復活されたということは、イエス様がまことに神の御子であり、罪と死の力を打ち破ることのできるまことの救い主であり、今も生きていて、私たちを救い、助け、導くことのできる方だということを保証することでもあるのです。この事実こそ教会の土台なのです。繰り返しますが、「使徒が教会の土台である」というのは、「使徒たちが証言しているイエス様の復活の事実こそ教会の土台である」ということなのです。
 では、「預言者」とは、誰のことでしょうか。「使徒」が新約の時代に救い主が来られたことを宣べ伝えた人々だとすると、「預言者」とは、旧約聖書の時代に、将来、いつの日か、救い主が来られるのだということを宣べ伝えていた人々です。
 旧約聖書が教えているのは、人は、神様から与えられた律法を自分の力では完全に守ることができない罪人であり、救い主が必要なのだということです。旧約聖書の預言者たちは、人々に向かって、こう語りました。「あなた方は、皆、神様の律法にそむいている。自分が神様との関係がずれてしまっている罪人だということを自覚しなさい。神様の前で悔い改めなさい。神様は、必ず、あなたがたのために救い主を送ってくださるから、それを待ち望みなさい」と。
 新約聖書のガラテヤ3章24節には、「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」と書かれています。
 旧約聖書の中で神様から律法が与えられたのは、私たちが律法を守ることができない、つまり、自分の力では自分を救うことができない者であることを自覚させるためでした。ですから、旧約聖書を読んでいくときに、私たちは、自分に救い主が必要だということがわかってくるのです。そして、ただ救い主を信じる信仰によって神様の前に義と認められるようになる、つまり、救い主を信じれば神様との関係が回復できること、そして、その救い主を神様が愛をもって遣わしてくださることを旧約聖書は教えています。ですから、旧約聖書は、いつも私たちをキリストへと導いていく書物となっているのです。
 ですから、「使徒と預言者」というのは、「使徒たちが救い主について証言した言葉が書かれている新約聖書」と「預言者たちがやがて来られる救い主について語った言葉が書かれている旧約聖書」のこと、つまり、聖書全体を指しているということができます。教会の土台は、私たちに与えられている聖書だということなのです。ですから、教会が聖書を開くことなく、聖書の言葉を語らなくなってしまったら、それはもはや教会ではなくなってしまうのです。

Aキリスト・イエスが礎石

 それから、パウロは、「キリスト・イエスご自身がその礎石です」と書いていますね。
 「礎石」とは何でしょう。別の訳では「かなめ石」とか「隅のかしら石」とも訳されていますが、この石は、建物の安定性を保つために最も重要な石で、これが抜き取られると建物が崩れてしまうという石なのです。つまり、教会という建物全体を支える最も大切な石は、イエス・キリストご自身だというのですね。
 マタイの福音書16章で、イエス様が弟子たちに「人々はわたしのことをだれだと言っていますか」とお尋ねになると、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました。すると、イエス様は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」と言われました。
 イエス様が言われた「この岩の上にわたしの教会を建てる」というのはどういう意味でしょうか。「ペテロ」という名前に「岩」という意味があるので、ペテロという人物の上に教会を建てるという意味なのでしょうか。そうではありません。ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」という信仰告白をしました。その信仰告白の上に教会を建てるとイエス様は言われたのです。
 教会は、聖書の言葉を土台とし、「イエス様こそ、生ける神の御子キリストです」という信仰告白を礎石として、しっかりと支えられています。この土台と礎石の上に建てられているならば、教会は、どんなものをもってしても決して揺るがされることはないのです。

3 教会は聖なる神の住まい

 では、その堅固な土台の上に建てられる教会とはどのようなものでしょうか。
 21節ー22節でパウロは、こう書いていますね。「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
 教会は、「主にある聖なる宮となる」「御霊によって神の御住まいになる」というのですね。
 パウロは、1章23節では、教会は「キリストのからだ」であると言いました。また、先週の箇所では「新しい一人の人」であると言いましたね。そして、今日の箇所では、教会を「主にある聖なる宮」「神の御住まい」であると語っています。
 パウロは、第一コリント1コリント3章16節では、クリスチャン一人一人に対して、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」と語っています。まず、クリスチャン一人一人の内に聖霊が宿ってくださっているので、一人一人が神の御住まいとされているわけですね。そして、その一人一人がともに集められ組み合わされて教会が建て上げられるのですが、その教会全体も聖なる宮、神の御住まいだというのです。つまり、教会の中に生ける神様が宿っていてくださり、教会の中で神様と親しく語り合い、神様の愛や恵みや力を知ることができるというのですね。
 当時、エルサレムには立派な神殿がありました。また、エペソの町には豪華絢爛なアルテミス神殿が建っていました。そして、人々はそれらの素晴らしい建物を誇っていました。しかし、どんな豪華に金や銀で飾っても、それは人の手で造った建物に過ぎません。いつかは古くなって、壊れていきますね。
 しかし、先週学んだように、教会は、神様が信じる一人一人を一つにして建て上げてくださったものですから、決して変わることのない新しさをいつも保っていくことができるのです。
 ところで、21節に「組み合わされた」という言葉がありますね。これは、「関節」という言葉から出てきた言葉で、「共に関節にされている」という意味なんですね。人間の体の器官はどれも大切ですが、パウロは、ここでわざわざ「関節」という意味を含む言葉を使っているのです。一人一人は、大切な関節の役割を持っているというのですね。
 皆さんは、「関節」と聞くと、何を考えますか。「この頃、関節が痛んで困るんですよ」という方もおられるでしょうね。膝の関節がおかしくなったら、足が動かせなくなりますね。肘の関節が痛めば、手を動かすことが出来ませんね。ですから、関節というのは、単にばらばらのものを繋いでいるだけのものではありません。一方の働きを向こう側に伝えて働かせる力をもっているわけですね。私たち一人一人は、そのように、お互いの働きを伝え合う役割を担っているのですね。
 そして、「建物の全体が成長していく」と書かれていますね。
 「成長」というのは、魅力的な言葉ですね。以前、「教会成長」という言葉がブームになったことがありました。人数が増え、立派な会堂を建てるために何をしなければならないか、明確な目標を立てなさいとか、大きなビジョンを持ちなさいとか、いろいろ言われたのです。しかし、教会の成長とは、ただ人数が増えたり、大きな会堂ができることでしょうか。神様が私たちに求めておられるのは、いつでもどんな状態にあっても神様を愛し、礼拝し、賛美と感謝をささげ、すべてを神様に委ね、信頼して生きること、そして、互いに愛し合い、赦し合い、調和と平和の中に生きることではないでしょうか。しかも、教会の成長のためには、自分たちの頑張りが必要条件だと考えてしまうのは、どうも聖書からずれているように思います。
 第一コリント3章6節で、パウロはこう言っています。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」
成長させてくださるのは神様なのです。もちろん、私たちにもできることはあります。聖書を学び、礼拝し、祈ることなどは、食事や呼吸や運動をすることと同じように大切ですね。しかし、どんなに頑張っても、自分で自分や教会を成長させることはできません。神様が成長させてくださるのですから、神様に信頼してお委ねすればいいのです。神様は、必ず成長させてくださいます。私たちは、神様のいのちによって生きる者になりました。ですから、一人一人の内には成長する力がすでに与えられているのです。そして、キリストのからだである教会もキリストのいのちに満たされ、成長する力が与えられているのです。
 そして、前にお話ししたように、私たちがすべき良い行いも神様が備えてくださいます。また、良い行いをするために必要な志や力も神様が与えてくださるのですから、自分で何かをしなければと焦る必要はないのです。
 私たちは、改めて、自己イメージや教会のイメージを一新していきましょう。私たち一人一人は、天地を造られた神様の聖なる宮とされています。そして、その一人一人が組み合わされて建て上げられた教会も栄光に満ちた神様の御住まいとされているのです。すごいことではありませんか。
 その神様が一人一人を、そして、教会全体を成長させてくださることを期待して、賛美と感謝をしつつ、今週も歩んで行きましょう。