城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年三月八日              関根弘興牧師
                  エペソ三章一節〜六節

エペソ人への手紙連続説教10
  「ともに約束にあずかる者」

1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。(新改訳聖書)


人生の見方には、二種類あります。
 一つは、過去を基準にして今を見る見方です。過去を振り返って、昔は良かった、悪かった、だから今の人生は、こうだ、ああだ、という見方ですね。
 もう一つは、未来を基準にして今を見る見方です。それは、パウロの見方でもあります。彼は、2章の前半で、「イエス・キリストにある者はみな、キリストと共に生かされ、よみがえらされ、天の所に座す者とされたのだ」と記していますね。そういう将来の約束をしっかりと見つめ、その約束に根ざして、今、キリストと共に生きている、それがクリスチャンなのだ、というのです。
 人生には、いろいろなことが起こってきます。楽しいこともあれば、苦しいこともありますね。
 多くの人は、ちょっと悪いことが起こると、過去を振り返って、「あの時、あんなことをしたからバチが当たったんじゃないの」とか、「私の信仰が足りなかったからじゃないか」などと否定的に考えることしかできないことが多いのです。
 しかし、聖書は、悲しみや困難さえも神様は、益にしてくださると約束しています。そういう聖書の約束に支えられて、私たちは、未来に期待しつつ今を見ることができるのですね。
 たとえば、ヤコブの手紙1章2節-4節には、こう書かれています。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」私たちが経験する困難や試練は、私たちに忍耐を教え、私たちを謙遜な者へと成長させるのですね。
 また、使徒の働きを読むと、様々な困難や迫害のために、かえってキリストの福音が広がっていったことが記されています。福音を伝える人々は、ある町で迫害されると、やむなく別の町に移ります。すると、そこで、新たに信じる人々が起こされ教会ができます。そこでも迫害が起こると、また別の町に移る。そして、また、信じる人々が起こされ教会ができていく。そのようにして、キリストの福音は広がっていったのですね。 
 そして、今日の箇所でも、パウロは将来の希望について記しています。詳しく見ていきましょう。

1 キリストの囚人

 まず、1節を見ると、パウロは自分のことを「キリスト・イエスの囚人」と言っていますね。
 パウロは、以前はユダヤ社会の中で将来を嘱望された人でした。一流の教育を受け、律法を守ることにも熱心で、多くの人たちから信頼を得ていました。将来は、ユダヤ社会のすばらしい指導者になり、最高議会の議員になるだろうと誰もが信じて疑わなかったでしょう。
 そんなパウロは、クリスチャン撲滅運動のリーダー的存在でした。クリスチャンたちは神の教えに背く者だと考えていたのです。彼は、クリスチャンたちを捜し出して捕らえることに熱心で、死刑にしても当然だと考えていました。そして、エルサレムだけでなく、国外の町々にまで出かけていってクリスチャンを迫害していたのです。
 しかし、そんな彼がクリスチャンを迫害するためにダマスコに向かう途中、まばゆい光に打たれて倒れてしまいました。そして、「サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか」という声を聞きました。サウロというのは、パウロのユダヤ名です。パウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、主は、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。わたしは、異邦人にもユダヤ人にもわたしの福音を伝えるためにあなたを選んだのだ」と言われたのです。この出来事によって彼の人生は百八十度変わりました。この時からパウロは、イエス・キリストを世界中に伝える使徒として全生涯をささげたのです。 パウロは、イエス・キリストの使徒として、大きな喜びと共に多くの困難や苦しみも経験しました。第二コリント11章23節-27節で、彼はこう書いています。「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」
 そして、この手紙を書いている時は、どうだったでしょうか。捕らわれて、獄中からこの手紙を書いているのです。彼は、ローマ政府の囚人として自由を奪われていました。どうしてそのような状態になったのでしょうか。
 パウロは、自分が神様から異邦人に福音を伝える務め与えられたことをはっきり自覚していたので、異邦人の地域を回って伝道活動をしていました。聖書には、三回の伝道旅行が記録されています。
 三回目の旅行のときに、パウロは、エペソ、マケドニヤ、コリントなどの各地を回った後、諸教会から集めた献金をエルサレム教会に届けるために各教会の代表者を伴いエルサレムに向かいました。しかし、パウロがエルサレムに行くのは大変危険でした。エルサレムのユダヤ人たちは、クリスチャンになったパウロを裏切り者として、殺してしまいたいほど憎んでいたからです。
 しかし、パウロは、エルサレム教会に献金を届けて、異邦人クリスチャンたちのユダヤ人クリスチャンに対する愛を伝えたいと願っていました。また、異邦人クリスチャンの代表者たちをユダヤ人クリスチャンに引き合わせて、キリストにあって互いに一つとされていることを知ってほしいと思っていたのです。
 そこで、パウロは危険を顧みず、エルサレムにやってきました。そして、エルサレムのクリスチャンたちに、神様が異邦人の間でなさったすばらしいみわざの数々を話して聞かせたのです。それを聞いて、エルサレムのクリスチャン指導者たちは、大いに喜びました。ただ、ユダヤ人クリスチャンの中には、パウロを誤解している人もいました。「パウロは、神様がモーセを通して与えてくださった律法を大切にしていない。律法など守らなくてもいいと言って、今までユダヤ人が大切にしてきた戒めや慣習に背くことを教えている」という誤解でした。実際には、パウロは、「イエス・キリストを信じることによって、本当の意味で神様の律法を守ることになる」ということを教えていたのですが、それが間違った噂となって広まっていたのです。そこで、誤解を解くために、パウロは、エルサレム教会の長老たちの助言に従い、神殿で行われるユダヤ人のきよめの儀式に参加することにしました。
 ところが、パウロが以前、伝道旅行で回っていたアジア地方から、パウロを憎むユダヤ人たちが神殿に来ていました。彼らは、パウロと仲間のユダヤ人クリスチャンが神殿にいるのを見て、パウロが神殿の内庭に異邦人を連れ込んだと勘違いし、ほかのユダヤ人たちも巻き込んで大騒ぎになってしまいました。そして、パウロは、騒動の原因になったということで、ローマ兵に拘留されてしまったのです。
 しかし、パウロはローマ市民権を持っていましたから、正当な裁判を要求することが出来ました。そして、ユダヤの地では公正な裁判を受けることができないと考えたパウロは、ローマ皇帝に上訴してローマで裁判を受けることになりました。それで、ローマに連れてこられ、裁判を待つ約二年間、囚人として軟禁状態にされていたのです。その二年の間に、この手紙は書かれたのですね。
 パウロは、自分が投獄されている時には、手紙の中で自分を囚人と名乗るのですが、決して「ローマ政府の囚人」とは言いません。「キリストの囚人」なのだというのです。4章1節では、「主の囚人」と言っていますが、これも同じ意味です。
 「キリストの囚人」「主の囚人」というのは、原語では、「キリストの中にいる囚人」「主の中にいる囚人」という意味です。つまり、「キリストに捕らえられ、キリストの中に閉じ込められている囚人」ということですね。そして、パウロだけでなく、私たちも「キリストの囚人」なのです。
 人は、いろいろなものの囚人になっていることがあります。ある人は、自分の願いを満たすために欲望の囚人になっています。ある人は、自分の感情を押さえることができず、怒りや憎しみやねたみの囚人になっています。また、ある人は、いろいろな宗教の束縛の中で身動きが取れないでいます。
 だいぶ前ですけれど、ある人が某宗教団体のペンダントのような物を持って私のところに来ました。「このペンダントを処分できないので困っています。だから、先生に処分してもらいたいのです」と言われたのです。「どうして自分で処分できないのですか」と聞くと、「勝手に処分したら、何か悪いことが起こるのではないかと思って怖いから出来ないのです」と言うのです。人は、いろいろなことに束縛され、不自由にされているのですね。
 人生が何によって誰によって捕らえられているかは、大問題ですね。それによって私たちの人生は大きく変わります。
 パウロは、ローマ政府の囚人として不自由を強いられていました。しかし、その状態に縛られているわけではありませんでした。「ローマ政府も神の許しがなければ私を捕らえたり裁いたりすることはできないのだ。私はキリストの中に捕らえられているのだから」と言うのです。
 私たちはどうでしょう。私たちも、イエス様が一人一人を捕らえてくださったのです。「キリストが私を捕らえてくださった」という意識を持っていることは、とても大切です。キリストが私たちを捕らえたのは、強制労働をさせるためではありません。修行をさせるためでもありません。苦しみを与えるためでもありません。キリストは、私たちに平和と愛と赦しが与えるために捕らえてくださったのです。「キリストの中にいる囚人」であるということは、イエス様の恵みとまことの中にいるということなのです。ですから、キリストに捕らえられているのが、一番安心ですね。

2 異邦人のために

 さて、次に、パウロは1節で、自分がキリストの囚人になったのは「あなたがた異邦人のため」だと言っていますね。そして、2節で「私はあなたがた異邦人のために神様から務めを与えられた」と言っています。パウロは、自分が異邦人にキリストを伝えるために任命された使徒であることをはっきりと自覚していたのです。
 以前、神様の祝福はユダヤ人だけのものだと思われていました。使徒たちも最初はユダヤ人にキリストを伝えていました。しかし、神様は、神を求める異邦人にも聖霊をお与えになり、異邦人もユダヤ人とともに祝福を相続することができるのだということを示されたのです。そして、パウロを異邦人にキリストを伝える使徒として選ばれました。
 それは神様が最初から計画しておられたことでした。その神様の大切なご計画、つまり奥義は、以前ははっきりと示されていなかったけれど、今では、神様が聖霊によって使徒たちと預言者たちを通してはっきり示してくださっているというのです。
 6節にその内容が書かれていますね。「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」ここに三つのことが書かれています。詳しく見ていきましょう。

@異邦人も共同の相続者となる

 まず、パウロは、「異邦人も共同の相続者になる」と言っています。ユダヤ人だけでなく異邦人もともに神様の祝福を受けることができるのだというのです。
 ただし、条件があります。それは「福音により、キリスト・イエスにあって」ということです。福音を聞いて、キリスト・イエスを信じた人、つまり、キリスト・イエスに捕らえられた人なら誰でも共同相続者になるというのです。
 一体、どこのだれが、自分のすばらしい財産を全然知らない人に相続させようと思うでしょう。まして、自分に反発しているような人をわざわざ捕らえてきて自分の財産を分けてやろうと思うでしょうか。そんな気前の良い人などどこにもいませんね。でも、「私は、キリストなど必要ありません」と言うような者を捕らえて、「すばらしい天の祝福を分け与えよう」と招いてくださったのがキリストなんですね。そのことは、パウロが身をもって一番良く知っていました。以前はクリスチャンを迫害していた自分を、キリストが捕らえてくださったからです。私たちも同じです。神様を知らず無関心だった者をキリストが一方的な愛によって捕らえて相続者にしてくださったのです。
 それでは、私たちは、何を相続するのでしょうか。
 パウロは、ローマ14章17節で「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」と語っています。「義」とは何でしょう。自分の正しさのことではありません。イエス様の十字架によって罪赦され、神様との正しい関係を持って生きることができるということです。「平和」とは、平安です。神様との親しい関係が回復し、天のお父様に愛され守られ安心して歩んでいけるということです。そして、「聖霊による喜び」とは、聖霊が私たちの内に宿ってくださり、いつもどんな時も決して見捨てることなく共にいてくださることによる喜びです。私たちは、キリストによって捕らえられ、義と平和と聖霊による喜びという神の国の祝福をともに相続する者とされているのです。

A異邦人もともに一つのからだになる

 次に、「異邦人もともに一つのからだになる」と書かれていますね。
 人は誰も「自分は必要とされていない」という認識に堪えられないと言われます。自分の存在を認めてもらえないと生きていくことができないのです。それは、幼子でも、どんなに年をとった人でも同じです。
 しかし、キリストに捕らえられた人は、私も必要なのだと確信することができます。誰一人、不必要な者はいないのです。なぜなら、キリストに捕らえられた人は皆、「ともに一つのからだになる」からです。
 2章の後半で学んだとおり、イエス様は、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄し、互いを新しいひとりの人に造り上げてくださいました。教会は、キリストに捕らわれた人々が集まったキリストのからだです。それぞれが大切なからだの器官なのです。不必要な部分は一つもありません。それぞれに役割があって、各部分がそれぞれの役割を果たしていくとき、一つのからだとしての調和が保たれ、健康なからだを維持することができるのです。しかし、もし、ある部分が自分勝手に振る舞い、仕えることを止めてしまうと、病気になります。だから、それぞれがからだを支えるために各自の役割を果たしながら仕えていくのです。
 私たちは、みな違いますが、キリストのよって捕らえられ、キリストにあって一つです。ですから、何かできるとかできないということで、自分や他の人を評価するのはやめましょう。一人一人の存在そのものが必要とされているのです。

B異邦人もともに約束にあずかる者となる

 さて、最後に、パウロは、「異邦人もともに約束にあずかる者となる」と言っていますね。
 約束があると、その約束によって希望と期待が生まれてきます。皆さん、私たちは、ともに神様の約束にあずかるためにキリストに捕らえられたのです。
 それでは、「約束」とは、具体的にはどういうことでしょう。
1章13節に「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました」と書かれていましたね。ここに「約束の聖霊」ということばがでてきます。聖霊は、信じる者一人一人に約束されたものだということですね。
 また、イエス様は、ルカ11章13節でこう言われました。「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
 つまり、「ともに約束にあずかる者となる」とは、ユダヤ人も異邦人も区別なく、キリストにある一人一人に聖霊が与えられるということなのです。それは、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三位一体の神様がいつもともにいてくださるということです。栄光に満ち、すべての必要を満たすことの出来る方がともにいてくださるなら、それで充分ですね。
 そして、「あずかる者」という言葉自体に「ともに分かちあう者、ともに参与する者」という意味があるのに、さらに「ともに」という言葉が付け加えられているのです。
 私たちは、聖書が与える約束をともに分かちあい、ともに約束に生きていくために、キリストによって捕らえられているのです。
 ローマ8章15節「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」
 ローマ8章31節ー32節「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

 繰り返しますが、キリストに捕らえられ、私たちは、ともに相続者とされ、一つのからだとされ、約束にあずかる者とされています。ですから、永遠を見つめ、聖書の約束の励ましと希望を与えられ、今を生きていくことが出来るのです。
 今週も賛美と感謝をもって歩んでいきましょう。