城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年三月二二日             関根弘興牧師
                 エペソ三章七節〜一三節

エペソ人への手紙連続説教11
   「無尽蔵な恵み」

7 私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、9 また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、11 私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。13 ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。(新改訳聖書)

 前回の箇所で、パウロは、自分のことを「キリスト・イエスの囚人」だと記していましたね。
 パウロは、何度も投獄された経験があり、手紙の中で自分を「囚人」と称している箇所がいくつかありますが、「自分はローマ政府の囚人だ」と書くことは決してありませんでした。 「ローマ政府は、私を捕らえて身体的な束縛をすることはできても、私の人生を支配することはできない。私が囚人だとすれば、それは、キリストに捕らわれ、キリストの恵みとまことの支配の中で生かされているキリストの囚人だということなのだ」とパウロは言うのです。
 その意味では、私たちも同じように「キリストの囚人」とされています。私たちは、何によって、また、誰によって捕らえられているかによって、人生が大きく変わってしまいますね。恵みとまことに満ちたキリストに捕らえられ、キリストの愛の支配の中で生かされていくなら、私たちの人生は、喜びと希望と平安を味わうことのできるものになっていくのです。
 さて、今日の箇所でも、パウロは、まず、自分自身について、二つの表現を用いて語っています。

1 パウロ自身について

@福音に仕える者

 まず、7節には、「福音に仕える者とされた」と書かれていますね。
 ここで使われている「仕える」というのは、「食卓の給仕をする」という意味がある言葉です。それが、「奉仕」とか「仕える」という意味も持つようになっていきました。
 パウロは、イエス・キリストによってもたらされた福音を、栄養価満点のすばらしい、永遠に朽ちることのない食事のように見ているのですね。そして、その福音を一人一人に給仕することこそ自分の務めだと語っているわけです。
 それは、無理矢理食べさせたり、条件にかなった人だけに食べさせたり、何かの報酬として食べさせるというのではありません。決して上からの押しつけや、威圧的な姿はありません。ただ「最高にすばらしい食事があるのだから、ぜひすべての人に味わってほしい」という思いから、福音を給仕しているのです。そういう意味で「自分は福音の給仕役だ」とパウロは言っているのですね。
 
Aすべての聖徒たちのうちで一番小さな者

 次に、8節で、パウロは自分自身のことを「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と記しています。つまり、自分は、すべてのクリスチャンの中で最も小さい者だと言っているのです。この言葉は、「最も小さな者よりもさらに小さな私」と訳せる言葉です。こういう言葉を読むと、「パウロ先生、ご謙遜な」と思いますね。
 私たちは、謙遜さを装うために、必要以上に自分を卑下する言葉を使うことがよくありますね。けれども、本心は違うということが多いのです。「私など、無に等しい取るに足らない者です」と言う人に、「本当にそうですね」と言ったら、怒って帰ってしまった、なんてことがあるわけですよ。謙遜であることと、謙遜そうに見せることでは、だいぶ違いますね。
 パウロは、どうだったのでしょう。パウロは、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」ということを、自らうなずきながら記しているのです。
 彼は、第一コリント15章8節-10節にこう記しています。「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」また、第一テモテ1章15節では、「私は罪人のかしらです」と語っています。
 パウロは、自分の過去に大きな負い目がありました。それは若い時、クリスチャンを迫害したことです。
 彼は、最高の教育を受け、律法を厳格に守る生活を送り、世間の評判も高く、自分に自信を持って生きていました。しかし、イエス・キリストの福音を知らず、クリスチャンを撲滅することが正しいと信じ、クリスチャンを激しく迫害していたのです。
 しかし、クリスチャンを捕らえるためにダマスコへ向かう途中、彼は、まばゆいばかりの光の中でキリストに出会い、キリストに捕らえられたのです。その時から、彼の人生は百八十度変わりました。クリスチャンを迫害していた彼が、今度は、キリストを宣べ伝えるようになったのです。「人は、律法(戒め)を守ることによって義とされる」と語っていた彼が、「人は、ただ、神の恵みにより、キリストを信じることによって救われるのだ」と語るようになったのです。まるで神様の敵であったような自分が、今は赦され、救われ、生かされているという、その事実の故に、パウロは、「神の恵みによって、私は今の私になりました」と語る者となったのです。「キリストを迫害していた自分が、今、神の恵みに生かされている」、その感動と確信をパウロはいつも持ち続けていました。そして、「人は、自分の行いによって救いを得ることはできない。一方的な神様の恵みによるのだ。ただ、イエス様を信じることによって救われるのだ」ということをパウロは熱心に語っていきました。そして、当時の教会の中で「イエス様を信じるだけでは足りない。いろいろな律法や戒めを守ることも必要だ」という主張が出てきたときには、パウロは、力の限り反論していきました。
 残念ながら、今でも、本当の福音から外れたことが言われることがよくあります。たとえば、「一生懸命伝道しないと、天国へ行く途中で落っこちてしまうことがある」とか、「熱心さが足りないと、天国へ行ってもろくな所に住めない」などと、聖書のどこにも書いていないことを言う人がいるのです。それは、福音ではありません。私たちは、そういう言葉にまどわされないように、福音の本質をしっかりと握りしめていきましょう。

2 私たちの使命と神の計画

 さて、次に、パウロは、自分に神様の恵みが与えられたことには、神様のご計画があると語っています。そして、神様は、自分に新しい使命を与えてくださったというのです。
 それは、パウロだけでなく、イエス様を信じる私たち一人一人にも与えられている使命であり、ご計画であるとも言えます。どのようなものでしょうか。

@測りがたい富を異邦人に宣べ伝える

まず、8節に「キリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝える」と書かれていますね。
 「測りがたい富」という言葉は、口語訳聖書では「無尽蔵な富」と訳されています。パウロは自分を「福音に仕える者」と言いましたが、それは、「キリストの無尽蔵な富を世界中の人々に給仕することが私の使命なのだ」ということです。
 感謝なことに、キリストの富は決して品切れにはなりません。
 福音書には、イエス様が五千人を満腹にされたという記事が記されています。イエス様の手元には、ある少年から差し出された五つのパンと二匹の魚しかありませんでした。五千人以上もいるのですから、足りないどころの話ではありませんね。弟子の一人は「こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」と言ったほどです。しかし、イエス様がパンを手に取り、感謝をささげてから、裂いて分け与え始めました。すると、そこにいたすべての人が満腹になるまで食べ、余ったパン切れを集めると十二のかごがいっぱいになったのです。
また、ヨハネの福音書4章14節で、イエス様はこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
 また、ヨハネの福音書6章35節では、こう言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
 皆さん、キリストの恵みは無尽蔵です。私たちは、よく落ち込みます。行き詰まります。自分に足りないものを思い知らされることがあります。しかし、哀歌3章22節-23節には、こう書かれています。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」主の恵み、主のあわれみは尽きることがなく、毎日毎日新しく注がれているというのです。ですから、主に信頼する者は失望に終わることがない、と聖書は約束しているのです。
 このキリストの無尽蔵の恵み、測りがたい富を宣べ伝えるために、神様は恵みもって、私たちを招いてくださったのです。

A神の奥義を明らかにする

次に、9節をみると、「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです」と書かれていますね。パウロがキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝えていくときに、神の奥義が実現され、明らかにされていくのだというのです。これは、どういうことでしょうか。
 パウロは、ユダヤ人でしたね。当時のユダヤ人には、「我々だけが神に選ばれた特別な民だ」という自負がありました。そして、自分たちだけが神様に愛され、神様の祝福を受けることができると考えていました。しかし、福音が異邦人に伝えられていったときに、どういう現象が起こったでしょうか。異邦人たちが「私たちも神様に愛されている。キリストは、私たちにも救いをもたらしてくださった。だから、私たちは、今、神様の子どもとされ、神様に『天の父よ』と祈り求めることができるし、神様の祝福を相続することができる。感謝します!」と喜びの声を上げているのです。
 神様は、旧約聖書の最初の書物である創世記の中で、ユダヤ人の祖先アブラハムを選び、彼に、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と約束されました。つまり、神様は、最初から、ユダヤ人だけでなく、すべての人々に祝福を与えようと計画しておられたのです。でも、以前は、そのことがよく理解されていませんでした。神様のご計画が具体的にどのようなものか、また、そのご計画をどのように実現なさるのかということについては、隠されたままだったのです。
 しかし、今、キリストの成し遂げてくださったみわざによって、ユダヤ人だけでなく異邦人にも福音が宣べ伝えられていき、すべての人に、尽きることのないキリストの祝福が注がれていくようになりました。それによって、神様の隠されていたご計画が明らかにされていったわけです。

B天にある支配と権威とに対して、神の豊かな知恵が示される

それから、10節には「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」と書かれていますね。パウロは、キリストの福音が伝えられ、教会ができていくときに、その教会を通して、天にある支配と権威とに対して、神の豊かな知恵が示されるのだというのです。
 では、ここで言っている「天にある支配と権威」とは、何のことでしょうか。聖書では、「天」と言う言葉は、いろいろな意味で使われます。まず、「永遠の御国」を意味する場合もあります。たとえば、「我らの国籍は天にあり」という場合の「天」は、永遠の御国のことですね。また、「自然を超える」という意味や、「目に見えない霊的なもの」という意味で使うこともあります。それから、「空」という意味で使うこともあるのです。
 それで、今日の箇所の「天にある支配と権威」というのにもいくつかの解釈があります。一つは、天にいる御使いたちを指すという解釈です。つまり、福音がユダヤ人にも異邦人にも伝えられていくとき、御使いたちも神のご計画の全貌を知ることになるという意味だと考えるわけです。
 しかし、パウロが手紙の中でキリスト以外に「支配」とか「権威」という言葉を使う場合は、「私たちを罪の中に縛り支配している力」という意味で使っていることが多いのです。たとえば、この手紙の2章の初めには「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」と書かれていましたね。「私たちを神様に逆らわせ、罪の中に死んだ状態のまま縛っておこうとする霊的な存在がある。そして、その存在は、この世の中で空中の権威を持つ支配者として働いているのだ」というのですね。ですから、今日の箇所でパウロが言っている「天にある支配と権威」も、それと同じような意味で、空中の支配者として私たちを罪の中に縛り、恐怖に陥れ、束縛し、支配しようとするものというふうに考えることができるのです。
 でも、そんな霊的な力があるからといって、私たちは、恐れる必要はありません。なぜなら、神様のほうが、はるかに偉大で力があるからです。パウロは、コロサイ2章15節で、こう書いています。「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」
 つまり、パウロは、今日の箇所で何を言いたいのかというと、キリストの福音が宣べ伝えられ、異邦人もユダヤ人も、求める一人一人に救いが与えられ、教会が生み出されていきますが、その教会に集まる人々、つまり、キリストを信じてすべての束縛から解放された人々の姿を通して、天の支配と権威はもはや何の力もなくなってしまったことが明らかにされるというのです。キリスト・イエスが成し遂げてくださった十字架と復活のみわざによって、人々を束縛していた「支配とあらゆる権威」は完全に武装解除されてしまった、そして、それは、神様の豊かな知恵によって立てられたすばらしいご計画によるのだというのです。
 エペソの町は迷信が渦巻く町でした。アルテミス神殿があり、その神殿にまつわる様々な宗教的な束縛が人々を縛っていました。それは、エペソだけではありません。近隣のあらゆる町々にも、世界中に、そして、今でもそうした霊的な束縛はありますね。しかし、キリストの福音は、一切の霊的な支配と権威の武装を解除し、自由をもたらしていくのです。
 ですから、私たちも福音によって解放され、迷信や社会的、宗教的束縛などから解放され、自由な者として歩むことが出来るのです。

3 神に近づく生涯

 そして、それだけではありません。パウロは、12節でこう言っています。「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」と。クリスチャンはだれでも、大胆に確信をもって神様に近づくことができるのですね。
 この「神に近づく」というのは、物理的な距離のことを言っているのではありません。パウロは、使徒17章でアテネの人々に「神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」と言いました。しかし、そのことを知らずに、神様と無関係に生活している人はたくさんいますね。パウロがここで「神に近づく」と言っているのは、「神様との親しい関係を持つ」という意味です。神様に自由に祈り、自由に礼拝をささげることができる、神様を天のお父さんと呼ぶことができ、神様の愛や祝福を受け取りながら生きることができるということです。
 それから、「キリストを信じる信仰によって」神に近づくことができるとパウロは言っていますね。この「キリストを信じる信仰によって」と訳されている言葉は、直訳すると「キリストの信仰、キリストの真実によって」と訳すことができます。私たちが頑張って信仰を持ったから神様に近づけたのではなく、私たちが神様に近づく前に、神様の方から私たちに近づいて来てくださった、つまり、神であるイエス・キリストが私たちのために私たちのもとに来てくださった、そのキリストの真実があったからこそ、私たちは大胆に神様に近づくことが出来るようになったというのです。
 イエス様は、私たちの罪のために十字架につくほどの大きな愛を一方的に示してくださいました。そして、三日目に復活されたイエス様は、一人一人を新しく生かし、一人一人の内に聖霊を与えてくださった、それによって三位一体の神様がいつも私たちとともにいてくださるという約束が実現したのです。
キリストの方から私たちに近づいてきてくださったからこそ、私たちは神に近づくことができるようになったのです。
 そして、パウロは、13節で、「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです」と書いています。
 指導者であるパウロが獄中にいることは、どう考えてもマイナスにしか見えませんね。落胆の大きな原因になりそうです。教会の中には、そのためにつまずいた人もいたかも知れません。ありもしないうわさが広がったかも知れません。
 でもパウロは、「私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです」と書いています。また、ローマ8章28節では、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とも書いています。これは、パウロの確信でした。
 また、パウロは、第一テサロニケ5章16-18節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と記しました。なぜなら、主は御手の中で、すべてを賛美に感謝に変えてくださるからです。神の主のなさることはすべて、時にかなって美しいからです。

 どんなことがあったにしても、私たちには栄光の望みが約束されています。尽きることのない主の恵みが注がれているのです。確かに、この世にあっては、いろいろな困難や苦難があります。しかし、あきらめないでください。絶望のまま人生を過ごさないでください。「四苦八苦」に見えるような状況でも、「すべてのことを働かせて益としてくださる」主の恵みに信頼して歩んでいきましょう。