城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年四月一二日             関根弘興牧師
                エペソ三章一四節〜一七a節

エペソ人への手紙連続説教12
  「内なる人を強くしてください」

14 こういうわけで、私はひざをかがめて、15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。(新改訳聖書)

私たちは、頭で理解していることと、体験して得たことの間にギャップを感じることがあります。
 例えば、水泳のことを考えてみましょう。頭で考えれば、誰だって泳げるはずですね。人のからだは、比重の関係で水に浮くことになっているからです。だから、手足を動かせば自然に前に進むはずですね。ところが、実際には、泳げない人がたくさんいます。水の中で力を抜いて浮力に任せて浮くという感覚がつかめないのです。理論と実際との間にギャップがあるわけですね。そのギャップを埋めるためには、実際に水に入って、水に慣れ、息継ぎを覚え、効果的な手足の動かし方を覚え、というように体験的に身につけていくことが必要なのです。頭で理解していても、プールサイドで見ているだけでは、いつまで経っても泳げるようにはならないのですね。
 クリスチャン生活もそれと似ているところがあります。聖書の約束をただ知っているというだけでは十分ではありません。聖書の約束の中に飛び込んで、その約束に生きてみることによって、実際の生活の中で聖書の語っていることを体験的に味わうことが出来るようになっていくのです。
 たとえば、祈りについて、第一ヨハネ5章14節にこう書かれています。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」この言葉を知っていても、実際に祈り、願い求めてみなければ、決して確信を持つことが出来ませんね。実際に、イエス様のお名前によって祈り求めていくとき、神様は確かにみこころのままに祈りに答えてくださるのだとわかってくるのです。クリスチャン生活の醍醐味は、聖書の約束に生きていくことができるということなのですね。
 さて、エペソ人への手紙は、パウロがローマで投獄されているとき、エペソ教会に書き送ったものです。当時、パウロはキリスト教会のリーダーでしたから、彼が投獄されたということで、落胆したクリスチャンたちがたくさんいました。そのことを知ったパウロは、前回お話ししたように、3章13節で「私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです」と書き送ったのです。
 パウロは、ローマ8章28節で「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と書いていますが、いつもそのことを確信していました。 そこで、パウロは、今日の箇所で、落胆しているエペソの教会の一人一人のために祈っています。その祈りの内容は、私たちのためでもあります。そのことを覚え、詳しく見ていきましょう。

一 パウロの思い

 パウロは、先ず最初に、3章14節-15節で「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります」と記しています。ここから、パウロがどのような思いをもって祈っているかがわかりますね。

1 こういうわけで

 まず、パウロは「こういうわけで」と言っていますが、パウロがこれまでどんなことを書き記していたでしょうか。
 それは、ユダヤ人も異邦人も差別なく皆、イエス・キリストによって一つとされ、神の家族とされ、大胆に神様に近づくことができるようになったということでした。その神様の恵みを知った一人一人のために一番大切なことをパウロは祈っているわけです。

2 ひざをかがめて

 そして、パウロはここで「ひざをかがめて」祈っています。 皆さんは、祈る時にどんな姿勢で祈りますか。両手を組んで祈る方も多いですね。それが習慣になっているのでしょうが、元々、手を組んで祈るという姿は束縛を表し、「弱さの故に祈らざるを得ない心を示すもの」と言われています。
 しかし、祈り姿勢は特に決められているわけではありません。聖書の中にも、「立って祈る」「両手をあげて祈る」「膝をついて祈る」「地面にひれ伏して祈る」など様々な祈りが出てきます。ですから、祈りの姿勢はどんな形でもいいのです。特に祈りの姿勢を取らないで心の中で祈る場合もありますね。
 パウロは、今回の箇所では、「ひざをかがめて」祈っていますね。「ひざをかがめて」とは、神様への畏敬の思いを持って祈っているということです。永遠の昔からすべての人のために救いの道を備える計画を立てておられ、その計画をついに実現してくださった神様に対して、敬い、愛し、崇める心を持って祈っているのです。

3 父の前に

 そして、パウロは「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父」に向かって祈っていますね。パウロは、既に天に召された人々、また、目に見える地上の様々な場所でクリスチャンとして歩んでいる人々を思いながら、皆が神の大きな家族の一員であることを覚えて祈っていくのです。

二 パウロの祈りの内容

 では、パウロは、どのようなことを祈り求めているでしょうか。

1 内なる人を強くしてくださるように

 パウロはまず、16節で「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と祈っていますね。
 この「内なる人」とは、どういう意味でしょう。二つの解釈があります。

@一人一人の中の内なる人

 一つ目の解釈は、一人一人の内なる人ということです。
 パウロは、第二コリント4章16節に「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」と記しています。ここでは、「外なる人」と「内なる人」が対比されていますね。「外なる人」とは、衰えていくもの、つまり、この目に見える肉体のことだとわかります。一方、「内なる人」は日々新たにされているとありますから、ここではイエス・キリストによって与えられたいのちによって生かされている一人一人の内側の状態を指しているということですね。
 私たちは、とかく「外なる人」には神経を使いますね。外なる人は日毎に衰えてゆきます。ですから、食べ物に気を配り、運動を心がけ、健康管理に注意するわけです。健康問題は、人生の大きなテーマですね。聖書は、「外なる人」はどうでもいい、「内なる人」だけが大切だと言っているわけではありません。「外なる人」も神様に与えられた大切なものですから、大切にしていかなければなりません。運動不足の方はどうぞ運動をしてください。しかし、パウロは、もっと大切なものがある、それは、「内なる人」なのだというのです。
 パウロは、第一テモテ4章8節で「体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」と記しています。「外なる人」の鍛錬も有益だけれど、敬虔、つまり、「内なる人」が神様のいのちに生かされていることがもっと大切なのだというのです。なぜなら、「外なる人」はいつかは衰えて滅びてしまうけれど、「内なる人」は「今のいのちと未来のいのち」を持つからです。
 私たちはキリストにあって生かされ、永遠のいのちが約束されています。私たちはキリストのいのちの中に生かされています。そのいのちに生かされ、永遠を見つめながら生きていくことが有益だ、と聖書は教えているのです。
ルカの福音書12章で、イエス様がこんなたとえ話をなさいました。
 「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」
 イエス様は、このたとえ話を通して、永遠の備えをしないで、たくさんのものをたくわえても、それは愚かなことだと教えたわけですね。つまり、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔に生きることが大切だということです。
 ですから、パウロは、今日の箇所で、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と祈っているのです。
 私は高校生の時までバスケットボールをやっていましたが、上達の秘訣は、二つのことがそろっていることです。一つは、良いコーチがいるということです。そして、もう一つは、決して練習を欠かさない、ということです。
 内なる人が強められるとは、自分が強くなって、何があって動じることのないスーパーマンのようになるということではありません。良いコーチであるイエス・キリストがいてくださることを信頼し、イエス様の約束の言葉に人生を委ね、その言葉を実際の生活に適用しながら生きていくことなのです。
 私たちの生涯には、波風や嵐が起こります。気落ちしてしまうこともありますし、自分の弱さにがっかりして、希望を持てなくなってしまうこともたびたびです。でも、イエス様は、決して見捨てず、良いコーチとして共に歩み、指導してくださるのです。
 内なる人が強められようにという祈りは、そのイエス様への信頼を失うことなく、いつも聖書の約束に立ち戻ることが出来るようにという祈りでもあるのです。「主我を愛す。主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ」という讃美歌のとおり、自分は弱くても主がいてくださるから大丈夫、という信頼を持ち続けることが大切なのです。

Aイエス・キリストご自身

 さて、今日の箇所の「内なる人」には、もう一つの解釈があります。それは、イエス・キリストご自身を指すという解釈です。
 16節に「あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と書かれていますが、この「内なる人」という言葉は、原文では定冠詞付きの単数で書かれています。英語なら「ザ・内なる人」ということになりますね。そして、その「内なる人」という言葉の前には、英語の「into」に当たる前置詞がついているのです。ですから、直訳すると、「あなたがたが、かの内なる人へと強くされますように」とも訳せるのです。そして、「かの内なる人」とは、イエス・キリストご自身だと解釈して、「あなたがたがイエス・キリストへと強くされますように」「あなたがたが強められてイエス・キリストのようになっていきますように」という意味だと考えるわけですね。
 つまり、「私たち一人一人の成長のゴールはキリストですよ。そのゴールへとあなた方一人一人が強められていきますように」とパウロが祈っているというふうにも理解できるのです。
 確かに、キリストは一人一人の内にいてくださいますし、また、教会のまん中にもいてくださいます。ですから、個人としても教会全体としても、私たちがキリストに似たものと変えられていくこと、それが、神様のみこころであり、約束であり、パウロの一番の願いでもあるわけです。
 そのために私たちがすべきことは何でしょうか。今年の元日礼拝で、ヘブル12章2章の「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ということについてお話ししましたが、イエスから目を離さないでいる、それが、私たちがすべきことです。私たちが、イエス様から目を離さないで歩んでいくなら、神様は、私たちを成長させ、強め、キリストに似たものと変えていってくださるのです。
 そのことについて、聖書には素晴らしい約束が書かれています。
 ピリピ3章21節「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
 第二コリント3章18節「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 今日の箇所でも、パウロは16節でこう祈っていますね。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」
 私たちは自分で頑張ってキリストのようになることはできません。でも、父なる神が、ご自分の栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、私たちをキリストに似た者へと変えていってくださるのです。私たちがイエス・キリストを見つめて歩むときに聖霊が一人一人の内に働いて成長させてくださるのです。その約束を信頼して歩んで行きましょう。

2 キリストが心のうちに住んでいてくださるように

 さて、次にパウロが祈ったのは、17節の「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」という祈りでした。
 そもそも、クリスチャンとしての出発は、イエス様が心の扉をノックしてくださっていることを知り、「イエス様。どうぞ、私の心の真ん中にお入りください」とお迎えしたときから始まります。その祈りは、一生に一度でいいのです。そう祈ったときにイエス様は私たちの心に入ってくださり、その後は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13・5)と約束してくださっているのです。私たちがどうあろうが、何をしようが、一度私たちの心に来てくださったイエス様は、決して私たちを離れることはないのです。
 では、パウロは、なぜ「キリストがあなたがたの心のうちに住んでいてくださるように」と祈っているのでしょうか。何だか、イエス様がいつのまにかいなくなってしまうのを恐れて「住んでいてくださるように」と祈っているかのように聞こえますね。立派なクリスチャンでないと、イエス様は私から離れていってしまうのではないかという感覚を持ってしまいます。
 しかし、私たちは、そういうことを心配する必要はないのです。イエス様ご自身が「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と約束してくださっているのですから。
 パウロのこの祈りの中にある「住む」と訳されている言葉は、「定住する」とか「住み込む」という意味です。つまり、パウロは、「あなた方の心に住んでくださっているイエス様が、間借り人のような存在ではなく、心の真ん中に定住し、あなたの家長になってくださるように」という祈りをしているのです。
 私たちは、心が混乱したり、生活がズレてしまうことがありますが、その時、よく考えてみると、たいてい自分勝手な自我というものが心の真ん中に座り込んでいるように思います。「自分が、自分が・・・」という自分中心の思いが、心の真ん中に座っているのです。そして、いつのまにか、イエス様を心の真ん中でなく、まるで地下室のようなところに閉じ込めてしまっているようなこともあるかもしれません。いつのまにかイエス様をあがめることを忘れてしまうこともあるかもしれません。イエス様のすばらしい恵みのみわざに感動がなくなってしまうようなこともあるかもしれません。
 誰が心の中心にいるのか、自分自身が、それともキリストか、これは大きな問題です。だからこそ、パウロは「キリストがあなたがたの心のうちに住んでいてくださるように」、つまり、「キリストがいつもあなたの心の中心におられるように」と祈っているのです。
 私たちはまた、頭では「イエス様は私たちのうちに住んでいてくださる」と理解しているのですが、時々、自分の感情や気分によって、「イエス様は私の心から出て行ってしまったのではないか」と思うことがありますね。ちょっと落ち込むと、「もうイエス様は私を離れて、遠いところに行ってしまったのではないか」と思ってしまいます。自分の感情や気分次第で、イエス様が心の中に入ったり出たりするかのような錯覚を持つことがあるのです。それは、当時のエペソ教会の人々も今の私たちも同じなんですね。
 しかし、イエス様は、私たちの感情や気分で出たり入ったりする方ではありません。繰り返しますが、私たちがキリストをお迎えしたときから、キリストはずっと私たちの内に住んでくださっているのです。ですから、感情や気分に動かされることなく、イエス様が屋根裏でも地下室もでもなく心の真ん中に定住してくださるように、とイエス様を崇め、祈っていきましょう。

 私たちのゴールはキリストです。そのキリストが共に住んでいてくださるのです。そして、来週は、このキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを聖書から考え、この愛に生かされていることのすばらしさを覚えていきたいと思います。