城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年四月一九日             関根弘興牧師
                エペソ三章一七節b〜二一節

エペソ人への手紙連続説教13
   「人知を越えた愛」

 17b また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。(新改訳聖書)


 先週は、パウロがエペソ教会のために祈った祈りの前半部分を読みました。
 16節-17節でパウロは「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」と祈っていましたね。この中で、パウロは、二つのことを祈り求めていました。
 一つは、「あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」という祈りです。
 私たちがイエス・キリストを心に迎え入れたとき、私たちの内側は、神様のいのちによって新しくされました。その新しくされた内なる人が強くされ、成長していくようにという祈りです。そのために私たちは自分で努力したり頑張ったりする必要はありません。神様のみわざにより、聖霊の力によって成長させられていくのです。しかも、素晴らしいコーチであるイエス様がいつも共にいてくださるのです。イエス様は、私たちの弱さをよくご存じで、一人一人にふさわしい方法で、助け励まし導いてくださいます。
 そして、私たちの成長のゴールはイエス・キリストご自身です。私たちが、強められ成長し、キリストと同じような者にされていくこと、それを神様は望んでおられ、また、そのようにしてくださるのです。私たちは、その神様に信頼して歩んで行けばいいのです。
 次に、パウロの二つ目の祈りは、「キリストがあなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」というものでした。
 この祈りは、イエス様がいつのまにかいなくなってしまうのを恐れて、「イエス様、離れていかないでください。いつも心のうちに留まっていてください」と祈っているわけではありません。イエス様は、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と約束してくださっているのです。だから、イエス様が私たちから離れて行ってしまうことなどありませんね。でも、私たちは、時々、自分の感情や気分によって、「イエス様は私の心から出て行ってしまったのではないか」と思ってしまうことがあります。気分のいい時には、「イエス様がともにいてくださる。ハレルヤ」と賛美することができるのに、ちょっと落ち込むと、「もうイエス様は私を見捨てて遠いところに行ってしまったのではないか」と思ってしまうのですね。しかし、イエス様は、私たちの感情や気分で出たり入ったりする方ではありません。一度イエス様を心にお迎えしたなら、イエス様は、決して私たちを離れたり見捨たりすることはないのです。 では、パウロが「キリストがあなたがたの心のうちに住んでいてくださるように」と祈ったのは、どういう意味でしょうか。パウロは、「あなたがたの心に住んでくださっているイエス様が、心の地下室や屋根裏のような所に押し込められたりしないように、また、間借り人のような存在として扱われることのないように、心の真ん中に定住し、あなたの心の主、家長となり続けてくださるように」という祈りをしているのです。

 さて、今日の箇所は、そのパウロの祈りの続きです。ここでパウロは、「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」(17節-19節)と祈っています。詳しく見ていきましょう。

1 愛に根ざし、愛に基礎を置く人生

 パウロは、まず最初に、クリスチャンの人生の特徴を記しています。「愛に根ざし、愛に基礎をおいているあなたがた」と書いていますね。私たちの人生が何に根ざし、何を土台としているかということは、生き方を左右する大きな問題です。パウロは、クリスチャンの人生は、愛に根ざし、愛に基礎をおいているのだと言っていますが、では、その「愛」とは、どのようなものでしょうか。もし自分自身の持っている愛が土台だとしたら、ずいぶん不安定な人生になってしまうでしょうね。私たちの愛は、移り変わりやすく、揺れ動き、すぐに消えてしまうような当てにならないものだからです。
 しかし、パウロがここで言っている「愛」とは、人間の不確かな愛のことではなく、「キリストの愛」のことです。どんなときにも決して変わることのないキリストの愛に根ざし、基礎をおいているということなのですね。
 そして、「根ざす」とは、どういうことでしょうか。「植物の根が土の中にしっかりと伸びていく」ということですね。キリストの愛に根ざすとは、キリストの愛の中に深く入り込んでいって、必要な栄養を充分に受け取っていくことです。また、キリストの愛に「基礎をおく」とは、キリストの愛を土台としているということですね。キリストの愛は決して揺るぐことがありませんから、その土台の上にしっかりと立っているなら、どんな嵐や地震が来ても大丈夫ということですね。
イエス様ご自身もヨハネの福音書15章9節でこう言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」イエス様は、私の怒りの中にとどまりなさい、呪いの中にとどまりなさい、罰の中にとどまりなさい、宗教的な律法の中にとどまりなさいとは言われませんでした。わたしの愛の中にとどまりなさい、と言われたのです。
 そして、第一ヨハネ4章19節には、こう書かれています。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」神がまず私たちを愛してくださり、その結果、私たちも愛することができるようになったのです。私たちは、まず、キリストの愛を知り、その愛の中に安息し生かされていきます。その結果、神を愛し、人を愛することが出来るようになっていくのです。信仰生活は、この順序が大切なのです。私たちは、キリストによって示された神様の愛を充分に知ることなしに、自分の力や努力で愛することなどできないのです。
私たちは、キリストに愛され、その愛の中に安息し、憩い、癒やされつつ、愛に生きる人生を歩む者とされました。自分がキリストの愛に根づき、基礎をおいている者であることをいつも忘れないようにしましょう。

2 キリストの愛を知ることができるように

 そして、次にパウロは、18節ー19節で、「そのキリストの愛をさらに深く知ることができるように」と祈っていますね。「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と書いています。
 この「広さ、長さ、高さ、深さ」という表現は、旧約聖書にも出てきます。
 ヨブ記11章7節ー9節には、こう書かれています。「あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか。それは天よりも高い。あなたに何ができよう。それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう。それを計れば、地よりも長く、海よりも広い。」
 詩篇139篇7節ー12節には、こう書かれています。「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。 私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。たとい私が『おお、やみよ。私をおおえ。 私の回りの光よ。夜となれ』と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。」
パウロは、こういう旧約聖書の言葉を背景にして「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という表現を使っているのです。ということは、ものすごい範囲の愛を意味しているのですね。天に上っても、よみに下っても、地の果てに行っても、海の底に沈んでも、闇のような暗さの中でも、私たちがどこに行ってもキリストの愛が変わらずに注がれている、その大きな愛を知ることが出来るように、とパウロは祈っているのです。それこそ、「人知をはるかに越えたキリストの愛」ですね。私たちには及びもつかない、考えもつかないような愛です。
 しかし、「人知を越えた愛を知ることが出来るように」という言葉自体は、矛盾しているといえば矛盾していますよね。人知を越えているということは、私たちは知ることができないという意味なのに、それを知ることができるようにというのですからね。確かに私たちは、キリストの愛のすべてを知ることはできないでしょう。でも、キリストの愛には限界がないこと、汲めども汲めども尽きることがないということ、どこにいてもどんな状態でも一人一人に豊かに注がれているものであることを知っていくことはできるでしょう。知れば知るほど、さらに豊かに受け取っていくことができる、それがキリストの愛なのです。
 では、キリストは、どのように愛してくださるのでしょうか。キリストは、私たちをよく理解してくださいます。困難の中で「私はひとりぽっちだ」と思うかも知れません。しかし、キリストはそばにいて、「いや、あなたは、ひとりぽっちではない。わたしはあなたを愛している。わたしはあなたのすべてを理解している」と声を掛け続けてくださるのです。キリストは、ありのままの私たちを愛し、受け入れ、思いやり、時には、諭し、戒めてくださいます。いつも私たちの最善を期待し、私たちのためにご自分のいのちさえ惜しまずに与えてくださる方なのです。
 パウロはここで、「みなさん。人々を愛さなければ駄目ですよ」とは言っていません。「一生懸命頑張って隣人を愛しなさい。神様と隣人を愛するように努力しなさい。そうしたら、神様はあなた方を愛してくださいます」とは言いません。パウロはただ「皆が人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができるように」と祈っているのです。キリストの圧倒的な愛に触れながら生かされていくとき、私たちの品性も必ず変革していくからです。
 人は愛されていると知ることによって本当の安息を得ます。そして、愛に生きることによって本当の満足を得ることができるのです。どうぞ、人知をはるかに越えたキリストの愛が私たちに注がれていることを知ってください。そして、生涯を通じてその愛の大きさを味わい、愛に生きる者とされていることを喜んでいきましょう。

3 神ご自身の満ち満ちたさまにまで満たされるように

 パウロは続けて、19節で「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」と祈っています。
 これは大胆な祈りですね。旧約聖書にはこんな大胆な祈りは出てきません。なぜなら、「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」というと、まるで、「一人一人が神様のようになれますように」と祈っているように誤解されてしまうからです。そんな祈りをしたら、ユダヤ人たちは「人が神のようになれるよう祈るなんて、神への冒涜だ。そんな祈りをする者は死刑だ!」と怒って大騒ぎになるでしょう。
 しかし、パウロは、私たちが神様のようになることを祈っているのではありません。「神ご自身の満ち満ちたさま」とは何でしょうか。神様は愛なる方、義なる方、聖なる方です。その神様の品性に私たちが触れ続け、一人一人が変えられていきますように、とパウロは祈っているのです。
ところで、パウロは、コロサイ人への手紙2章9節ー10節で、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです」と記しています。
 パウロは、「神ご自身の満ち満ちたさまにまで満たされる」ことと「キリストに満たされる」こととは同じことだと考えています。つまり、「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、満たされるように」という祈りは、先ほどお話しした「人知を越えたキリストの愛を知ることができますように」という祈りとも通じているわけです。先週お話しした、私たちの内なる人が強められ、成長して、キリストのような姿になっていくようにという祈りとも共通していますね。
 パウロは、「頑張って立派になりなさい。修行を積んで功績を上げなさい」とは祈りませんでした。パウロは、私たちがどんな状況においてもキリストの深い愛を知り続けていくことができるように、と祈ったのです。キリストの愛は、広く、長く、高く、深い、ことを確信していたからです。そのキリストの愛を知ることによって、一人一人が神ご自身の満ち満ちたさまにまで満たされていくこと、それがパウロの願いでした。

4 頌栄

そして、パウロは、最後に頌栄をもってこの祈りを終えています。頌栄とは、「栄光を語る」という意味で、神様の栄光をほめたたえることです。礼拝の最後にも、いつも頌栄を賛美しますね。
 20節ー21節には、「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン」とあります。
 パウロは、ここで「神様は、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方です」と言っていますね。ある聖書学者は、この言葉には、五重の意味の構造があると説明しました。
@神は私たちの求めるすべてを行うことができる
A神は私たちが求めずに思いに留めていることさえも、すべて行うことができる
B神は、そのすべてを越えて行うことができる。
C神は、それ以上を行うことができる。
D神は、それに余分なほど行うことができる。
 ちょっと難しいですが、とにかく、神様は、私たちが願ってもみないようなすばらしい祝福を、あふれんばかりに豊かに与えてくださる方だということです。
 私たちは、神様がそのようなお方だと信頼し生きているでしょうか。私たちは祈るとき、「この貧しい祈りを聞いてください」と祈ることがありますね。「言葉足らずの祈りだな」と思うことがあるかも知れません。「私はうまく祈れないのです」と言われる方もいます。でも、今日の箇所を読んでください。神様は、私たちの祈りの言葉の多い少ないに関係なく、貧しい祈りでも、うまく祈れなくても関係なく、すべてを越えて豊かに施すことできる方なのです。つまり、神様は、私たちの祈りの上手い下手に関係なく、私たちの弱さや乏しさに関係なく、素直な正直な祈りを聴き、恵み豊かに最善をなしてくださる方なのです。ですから、パウロは、「このすばらしい神様に、教会により、キリスト・イエスにより、栄光がとこしえにありますように」と神様をほめたたえているのです。
 ここで、「教会により」とありますが、これは「教会の中で」とも訳すことができます。こうした礼拝の中で、また、一人一人の日常の中で、神様がほめたたえられていくようにということです。また、「キリスト・イエスにより」とありますね。キリストの十字架と復活によって神様の栄光が示されました。その大きな恵みのみわざのゆえに、私たちは、神様をほめたたえていくのです。
 私たちは、神の栄光を現す者とされています。それは特別なことが出来るとか、聖人のようになるということではありません。パウロは、第一コリント10章31節でこう言っています。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」私たちは、食べるにも、飲むにも、日常のありふれた生活を送っていく中で、神の栄光を現す器とされているのです。感謝なことですね。
 そして、パウロの祈りの最後は(このエペソ人への手紙の前半部分の最後でもありますが)、「アーメン」と言う言葉で閉じられています。旧約聖書では、「アーメン」は、誓約の時の返事であったり、賛同を表す時に使われる言葉です。「その通りです。本当です。真実です」という意味です。
 私たちが祈りや讃美歌や頌栄の最後に「アーメン」と言うのは、その祈りや賛美に心から賛同することを表すためです。「神様に栄光がありますように」「私も神の栄光のために生きる者となりますように」という心を込めて「アーメン」というのです。
 私たちがパウロの祈りに「アーメン」と言うことは、この教会に神様の恵みと愛があふれていて、神様はすべての願いや思いをこえて豊かな祝福を与えてくださる方であることを告白していくことです。毎週の礼拝の中で「アーメン」と言うのは、私たちが神様の栄光を現す教会とされていることを表明することなのです。
 ですから、最後に、20節ー21節にパウロが記した頌栄を一緒に読み、心から「アーメン」と信仰の告白をしましょう。
 「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」