城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年四月二六日             関根弘興牧師
                   エペソ四章一節〜六節

エペソ人への手紙連続説教14
   「召しにふさわしく」

1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(新改訳聖書)


さて、今日から4章に入ります。
このエペソ人への手紙は、大きく二つに分けられます。1章から3章までが前半で、4章から6章までが後半です。
 これまで学んできた1章から3章の前半部分には、どんなことが書いてあったでしょうか。
 私たちは、神様の永遠の愛のご計画に従って、イエス・キリストの十字架と復活によって、罪赦され、神様のみ前で聖く傷のない者とされ、神の子どもとして御国を受け継ぐ者とされました。そして、聖霊がそのことを保証してくださっています。私たちは、自分の業績や努力とはまったく関係なく、ただ、神の恵みにより信仰によって素晴らしい祝福を受け取ることができるのです。キリストは、隔ての壁を打ち壊してすべてのものを一つにしてくださり、教会の内に、また一人一人の内にいつも共にいてくださり、栄光の富をもって満たしてくださいます。そのキリストの愛の深さ、高さ、長さ、深さをさらに知っていくことができるように、とパウロは祈り、神様を賛美しました。
ここまでが前半部分です。そして、今日から後半部分に入るわけです。
 前半部分と後半部分に分かれているというのは、パウロの手紙の特徴です。パウロは、まず前半部分で、神様によって私たちは赦され愛されていること、神のみ前に義なる者とされていること、救いは努力や功績によるのではなく、一方的なイエス・キリストの恵みによるのだということなど、つまり、神様が私たちにどのようなことをしてださったのか、という事実を記しています。そして、後半は、その一方的な恵みの中に生かされている私たち一人一人がどのように生きていくのかという実践編というような内容になっているのです。ですから、後半には、「このように歩んでいくように勧めます」という言い方がたくさん出てくるのですね。
 前回もお話ししましたが、信仰生活には順序が大切なのです。第一ヨハネ4章19節に「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」と書かれているように、大切なのは、「神がまず私たちを愛してくださった」という事実からスタートしているということです。愛されているからこそ、愛に生きることができるようになるからです。
 もし、このエペソ人への手紙が4章から始まっていたら、どうでしょう。「私は、そんなふうに立派には生きられません、無理です」となってしまうでしょうね。順序を間違えると、クリスチャン・ライフは、とても辛いものになってしまうのです。出来ない自分、弱く駄目な自分を責めて落ち込んでしまうことになるのですね。ですから、信仰生活において、「神がまず私たちを愛してくださった」「神様が、まず、弱く欠けのある私たちを恵みによって赦し、受け入れ、豊かな祝福を与えてくださった」ということを理解し覚えていることはとても大切です。
 「幸せなら手をたたこう」の歌をご存知ですよね。「幸せなら手をたたこう。幸せなら態度で示そうよ。ほら、みんなで手をたたこう。」この歌の通りです。私たちはイエス・キリストの恵みによって愛され生かされていることを聖書の約束を通して知ることができます。そして、そのことの故に、うれしくなります。ほっとします。これでいいのだ、と安心します。だから、賛美が生まれてくるのですね。「クリスチャンなら態度で示そうよ。ほら、みんなで賛美しよう」となるわけです。
 ですから、このエペソ人への手紙も、まず1章から3章の内容を知り、それに基づいて4章からの後半部分を読んでいくことが大切なのです。
 さて、4章では、信仰に生かされている者の姿や歩みはどのようなものかということをパウロは語っていきます。
 1節に「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」とありますね。
 「召される」とは、「呼び寄せる、呼び出して何かの働きにつかせる」という意味です。そして、「歩みなさい」とは、「振る舞いなさい、生活しなさい」という意味ですから、ここで、パウロは、「あなたがたは、自分が召し入れられた状態や身分に釣りあうように振る舞い、生活しなさい」と言っているわけですね。
 では、私たちは、どのような状態や身分に召し入れられたのでしょうか。
第一ペテロ2章9節ー10節にこう書かれています。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
 私たちは、神様から呼び出され、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民であり、神様の光の中を歩み、神様のあわれみを受けて平安と希望をもって生きていくことのできる者とされています。神の国の一員として、永遠のみ国を受け継ぐ者として召されたのです。ですから、そういう者にふさわしい歩みをしていきなさいとパウロは勧めているわけです。
 それでは、その召しにふさわしい歩みとは、どのようなものでしょうか。2節ー3節に「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」と書かれていますね。詳しく見ていきましょう。

1 謙遜

まず、「謙遜」とありますが、それは、どのようなものでしょうか。
 「謙遜」と言う言葉は、教会が誕生してから用いられ方が百八十度変わった言葉の一つだと言われます。ギリシャの世界では「謙遜」という言葉は、決して美徳を表す言葉ではなかったようです。「謙遜」と訳されているこの言葉は、原文のギリシヤ語で「低いもの」と「思い」を組み合わせて作られた言葉です。「低いもの」は、ギリシャの世界では軽蔑された卑しい身分を表しました。そこで「卑しいことを考える思い」「奴隷根性」と言う意味合いで「謙遜」という言葉が使われていたのです。
おもしろいですね。聖書は「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民なのだから、そういう者として歩みなさい」と勧めているのですが、その歩み方の最初に「謙遜」が挙げられているのです。つまり、教会は、当時の世界ではまったく魅力的でない言葉、悪徳のひとつのであるかのように思われていたこの言葉「謙遜」をクリスチャンの振る舞いの筆頭にあげているのです。いったいそれはどういうことでしょう。
 イエス様は山上の説教でこう言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5章3節)これは不思議な言葉ですね。私たちは、「どんなに落ちぶれても、心だけは貧しくなってはいけない」と言われてきましたね。「心まで貧しくなったらもうお仕舞いだ」とよく言うではありませんか。でも、イエス様は「心の貧しい人は幸いです」と言われたのです。しかも、この「貧しい」という言葉は、「物乞いをするしか生きていけないほどの貧しさ」を指す言葉です。イエス様は、どうしてこんなことを言われたのでしょう。それは、「心の貧しい人」、つまり、「自分の力ではどうにもならず、神様に助けや救いを呼び求める以外に生きる術がないという心を持っている人」こそ本当に幸いなのだ、という意味なのです。
 パウロは、このエペソの手紙2章1節で、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」と記しています。つまり、人は自分では自分を救うことなどまったくできない無力な存在であるというのです。しかし、2章8節では「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」と書いていますね。
 私たちがキリストに出会い、新しいいのちが与えられたのは、自分の行いによるのではありません。心の貧しさ、つまり、「私は自分では自分を救うことなど出来ません。ただあなたに助けを求めなければ、救いを受けることなど出来ません」という心の貧しさがなければ、救いを受け取ることが出来なかったのです。その心こそ謙遜のスタートなのです。
 「神様に救いを求めるなんて、弱い人のすることです。私は、そんなに弱くはありません」と言う人もいるでしょう。その時、皆さんは、何と答えますか。「そうですか。でも、私は弱く、神様の助けなしに生きていけません」と答えればいいではありませんか。
 謙遜とは、自己卑下することではありません。自分を必要以上に低く見積もることでもありません。もちろん、そう思っていないのに、そうであるかのように装うことでもありません。謙遜は、自分自身に正直になることから出発するのです。ありのままの自分を見つめるのです。そうすると、自分の弱さや欠点が見えてくるでしょう。そして、「やっぱり、私は駄目な人間だ」と落ち込んでしまうかもしれません。でも、謙遜は、さらに一歩踏み出して「だから、私を助けてくださる神様に目を向けて歩んでいこう」という思いを育くんでくれるのです。
 自分の弱さを認めない人は、神様を見上げて歩もうとはしません。「俺は強い。助けは必要ない」と高慢になっている人が、神様に祈るはずはありませんからね。でも、謙遜な人は、自分の弱さを正直に認め、その弱さを覆ってくださる神様を見上げながら生きていくことができるようになるのです。
 第二コリント12章9節には、こう書かれています。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
 「神の恵みによって救われた」と自覚している人には、謙遜な生き方がふさわしいのです。

2 柔和

 パウロは、次に「柔和」をあげています。「柔和」とは何でしょう。今流で言えば、「すぐに切れない」という意味がありますし、また、「途中で投げ出さない」という意味もあります。
 柔和の見本は誰ですか。もちろん、イエス・キリストです。マタイ11章29節でイエス様はこう言われました。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」ここで「優しく」と訳されている言葉が「柔和」とも訳されているのです。
 ある聖書学者は、柔和とは、「共同の益のために価値高い目標を追求することに深く没頭しているために、個人的に向けられる軽蔑、中傷、侮辱やその他のどんな思惑によっても、逸することのない心」と表現しました。
 イエス様は、人々の救いのために、軽蔑、中傷、侮辱を受けましたが、決して、むやみに怒ったり、その歩みを止めようとはなさいませんでした。
 第一ペテロ2章21節ー24節には、こう書かれています。「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
 私たちが自分の感情のままに生きていったら、どうなるでしょう。私たちはすぐに腹を立てます。切れやすい時代です。そして、すぐにあきらめてしまうことも多いのです。しかし、私たちにはキリストという模範があり、その足跡に従うように召されたのです。ですから、困難や中傷があっても、怒ったりあきらめたりせずに、希望を持ってともに祈りつつ、柔和な歩みをしていきたいですね。

3 寛容

 次は、「寛容」です。「柔和」と「寛容」は、一対のものだと言ってもいいかもしれません。私たちは、自分の基準や考えに合わない人に対して怒りを覚えることが多いですね。しかし、寛容は、怒りを抑え、コントロールすることができるのです。
 エペソ教会にも怒りっぽい人が結構いたようですね。4章26節には、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」と出てきますからね。
 箴言には、怒りについて、いろいろと警告しています。箴言14章29節「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」箴言15章1節「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」箴言30章33節「乳をかき回すと凝乳ができる。鼻をねじると血が出る。怒りをかき回すと争いが起こる。」
 また、詩篇37章1節ー4節には、こう書かれています。「悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
 私たちは「神様。どうぞ、私の心を、そして、唇を制御してください。今日も私の感情を適切に制御してください」と祈りながら歩んでいきましょう。柔和と寛容の振る舞いは、私たちにふさわしいものなのですから。

4 愛をもって互いに忍び合う

 次にパウロは、「愛をもって互いに忍び合いなさい」、「愛をもって忍耐しなさい」と勧めています。
 エペソ教会の中には、お互いに我慢しなくてはならないようなこともあったようですね。失礼や無礼や気の利かないこともあったようです。それは、いつの時代でもどこにでもあることですね。
 教会は、自分の好みや同じ背景の人たちがだけが集められているわけでありません。みな違う場所から、違う背景から集い、年齢も性別も違うわけです。ですから、時には人間関係の軋轢でつまずいたりということが起こるわけです。そして、いつしか教会から離れ、教会生活から身を引いてしまうことも残念ながらあるわけです。
 そこで、パウロは、「愛をもって互いに忍び合いなさい」と言いました。しかし、私たちにそれができるでしょうか。
 先週の箇所で、パウロは、「あなたがたが、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈っていましたね。私たちは、このキリストの愛を知ることがなければ、互いに忍び合うことなど苦痛でしかないでしょう。しかし、人知をはるかに越えたキリストの愛を知るときに、互いに忍び合うことができるようになっていくのです。
 第一コリント13章7節には、愛は「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」と書かれています。愛には忍耐することも含まれているのです。そして、第一ヨハネ4章16節に「神は愛です」と書かれていますね。それは、つまり、神様ほど忍耐強い方はないという意味でもあるのです。
 私たちは以前は、神様に背を向けて歩んでいました。しかし神様は、私たちが救いを受け取るのを忍耐強く待っていてくださいました。クリスチャンになってからも神様は、忍耐強く私たちを支え、導き、成長を期待して待っていてくださるのです。その神様の愛を受け取っていくときに私たちも愛をもって互いに忍び合うことのできる者へと変えられていくのです。

5 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保つ

 そして、次に、パウロは、「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」と勧めています。これは、来週のテーマであるのですが、召しにふさわしい歩みとは、平和の歩み、一致の歩みだというのです。
 クリスチャンの特徴は、それぞれ違う個性を持ちながらキリストにあって一つとされていることです。パウロは「一致をつくりだしましょう」とは言っていませんね。「一致を保ちなさい」と言っています。なぜなら、私たちは、すでにキリストにあって一致しているからです。キリストによって生かされているというすばらしい一致があるのです。だから、それを保ちなさい、とパウロは勧めているのです。
 「一致」とは、みんなが同じようになることではありません。「調和」と考えてもいいでしょう。オーケストラを考えてください。いろいろな楽器がありますね。大きさも違えば、音色も違います。しかし、全体で奏でるとき、すばらしいハーモニーが生みだされるのです。しかし、指揮者が三人も四人もいたらどうでしょう。これは大変です。混乱するだけです。どんな大きなオーケストラでも、何百人という聖歌隊でも、指揮者は一人だけですね。
 ヘブル人への手紙12章2節には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と書いてあります。指揮者であるキリストを見つづけながら、それぞれの音色を奏でていくとき一致が生まれていくのです。そして、その一致は、御霊の一致です。私たちがキリストを見つめて音色を奏でるときに聖霊が働いて一致をもたらしてくださるのです。

 さて、パウロは、今日の箇所で、一人一人が召しにふさわしく、謙遜、柔和、寛容を示し、愛をもって忍耐、平和のきずなで一致しなさいと言っていますが、私たちは、弱さや欠点があり、自分の力でそのような生き方をすることはできません。 
 しかし、聖書には、こう書かれています。
 エペソ2章10節「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」
 第一テサロニケ5章23節ー24節「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
 神ご自身が私たちのために備え、守り、成長させてくださるのです。ですから、私たちの中に謙遜、柔和、寛容、忍耐がさらに育まれ、お互いが聖霊によって一致する麗しい共同体が建て上げられていくことを期待して、召しにふさわしく歩んで行きましょう。