城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年五月三日              関根弘興牧師
                   エペソ四章三節〜六節

エペソ人への手紙連続説教15
   「一つとされて生きる」

3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。(新改訳聖書)

先週から、4章に入りました。前回もお話したように、このエペソ人への手紙は、大きく二つに分けられます。1章から3章までが前半で、4章から6章までが後半です。
 パウロの手紙の特徴は、まず前半部分で、神様によって私たちは赦され愛されていること、神のみ前に義なる者とされていること、救いは努力や功績によるのではなく、一方的なイエス・キリストの恵みによるのだということなど、つまり、神様が私たちにどのようなことをしてくださったのか、という事実を記します。そして、後半は、その一方的な恵みの中に生かされている私たち一人一人がどのように生きていくのかという実践編というような内容になっているのです。ですから、後半には、「このように歩んでいくように勧めます」という言い方がたくさん出てくるのですね。
 何度も繰り返しお話ししていますが、信仰生活にはこの順序が大切なのです。第一ヨハネ4章19節に「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」と書かれているように、大切なのは、「神がまず私たちを愛してくださった」という事実からスタートしているということです。愛されているからこそ、愛に生きることができるようになるからです。

先週は、神様に召された者としてふさわしく生きるとはどういうことかについて、ご一緒に1節から3節を見ていきました。パウロは、最も大切なことの一つとして、3節にあるように「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」と勧めています。神様に召された者としてふさわしい歩みとは、平和のきずなで結ばれて一致を保つことだというのです。
 それはどういう意味かといいますと、調和を持ってハーモニーを奏でて生きていこう、ということです。オーケストラを考えてください。いろいろな楽器がありますね。大きさも違えば、音色も違います。しかし、全体で奏でるとき、すばらしいハーモニーが生み出されるのです。
 ただ、指揮者が三人も四人もいたらどうでしょう。これは大変です。混乱するだけです。どんな大きなオーケストラでも、何百人という聖歌隊でも、指揮者は一人だけですね。
 私たちの指揮者も一人です。ヘブル人への手紙12章2節には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と書いてあります。一人一人が指揮者であるキリストを見つづけながら、それぞれの音色を奏でていくとき、そこにすばらしいハーモニーが生まれるわけです。
しかし、「一致を保つ」とか「一つになる」という言葉を聞くと、別の意味に考える人が多いですね。
 皆さんは、「一致」という言葉からどんなことを連想しますか?「一致団結して戦おう!」「一致協力してこの難局を切り抜けよう!」こうした言葉をよく耳にしますね。皆、違いがあるけれど、とにかく違いは無視して、同じ利害に向かって意志や考え方や行動を統一しよう、というような意味でよく使いますね。
 教会でも時々、同じような意味合いで「一致する」とか「一つになる」という言葉を使うことがあります。何かの行事や働きを始めるとき、「皆で一致して行おう」「同じ目標のために一致しよう」というように使うわけです。でも、もしいろいろな事情でその働きに参加できなかったり協力できなかったりする場合は、一致から外れてしまっているという感覚になってしまいますね。
 また、「一致」とは、皆が同じ意見を持つとか、一つの意見に服従するとか、まわりに合わせることだと思っている人もいます。そうすると、異なった意見を出したり異なった行動をすることが「一致を乱す」と見なされたり、一歩間違うと、「一致」を強調することによってそれぞれの多様性を奪い、とても不自由な状態を作り出してしまうこともあるわけです。
 そういうことにならないように、私たちは、パウロが大切なこととして勧めている「一致を保つ」とか「一つとされている」ということの本来の意味をしっかりと理解して心に留めておく必要があるのです。
 パウロはここで、「皆さん、私たちは頑張って一致を作り出すべきです」とか「一致協力して何かを行いましょう」と言っているわけではありません。「一致を保ちなさい」と言っているのです。つまり、「私たちには、すでにすばらしい一致が与えられているのだから、それを大切に保って行きなさいね」と勧めているのです。
 では、私たちに与えられている一致とはどのようなものでしょうか。今日の箇所から詳しく見ていきましょう。

1 からだは一つ

 パウロは、まず「からだは一つ」と記しています。もちろん、ここでいう「からだ」とは、私たち一人一人の肉体のからだのことではありません。
 エペソ1章23節には、「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」と書かれています。また、ローマ12章5節には、「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人一人互いに器官なのです」と書かれています。つまり、「からだは一つ」というのは、「キリストのからだである教会は一つ」ということです。私たち一人一人は、そのからだの器官だというのですね。
 からだの器官は、一つ一つ皆違いますね。それぞれの形や特徴や機能があって、それぞれが自分のできる働きをしています。そういう様々な器官が集まって一つのからだになっているのです。聖書が教える一致とは、そういう一致です。皆が同じ人になるということではありません。すべて寸法通りの規格統一された人となることではありません。皆違っていいのです。
 小田原歌くらぶで、昨年、金子みすゞの「わたしと小鳥と鈴と」という歌を一緒に歌いました。

 わたしが両手を広げても、
 お空はちっとも飛べないが、
 飛べる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)を速くは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように
たくさんの歌は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、
みんな違って、みんないい。

パウロは、遙か昔に、[みんな違って、みんないい。一人一人がキリストのからだの器官なのだから」と言っているわけです。 皆さん、からだの器官は、互いに比較し合ったりしますか。互いに批判し合ったりしますか。私は先週もなかなか咳が止まらずに困ったのですが、肺が気管支に向かって「おまえ、何やっているんだよ。おまえが咳ばかりしているから、俺の負担が増えるじゃないか。おまえなんかいない方がいい」、そんなことは決して言いませんね。指が怪我をして痛むときに、手が「全く駄目な指だな。切り離してしまえ」とは決して言いませんね。からだは、それぞれの器官があって、それぞれがつながっているからこそ、保たれているからです。
 私たちはそれぞれがキリストのからだの器官です。この事を深く知ると、あまり人と比較しようとしなくなります。もちろん、人を見て「うらやましいな」「あんなことができたらいいな」と思うのは悪いことではありません。誰もがそういう思いを持つものです。しかし、人と自分を比較して「私は駄目だ」とか「私はあの人よりすばらしい」とか、自分の価値を上げたり下げたりする必要はないのです。
 私たちは一つとされていますが、それは、皆違っているということが大前提であり、違いがあるからこそ一人一人が大切なのです。

2 御霊は一つ

 パウロは、次に「御霊は一つ」と記しています。この御霊とは、キリストのからだに宿るキリストの霊、聖霊のことです。
第一コリント3章16節には、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」と書かれています。聖霊は、キリストを信じる一人一人の内に住んでいてくださると聖書は約束しています。また、聖霊は、キリストのからだである教会の真ん中にも住んでいてくださるのです。つまり、一つのからだに一つの霊を宿している教会は、生きたからだそのものなのだということでもあるのです。

3 望みは一つ

 それから、パウロは、続けて、「あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです」と書いていますね。この「召しのもたらした望み」とは何でしょう。
 召されるとか、招かれるということは、それ自体の中に期待と望みを生み出すものですね。パーティーやコンサートに招かれたら、わくわくしますね。問題は、誰に招かれるかということです。警察から招かれたら、「何か悪いことをしたかな」と心配になりますが、天皇陛下に招かれたら、周りの人にうらやましがられるでしょうし、招かれた本人も期待して正装して行くでしょうね。それならば、愛とまことに満ちた全地全能の神様に召され、招かれたなら、豊かな期待と望みを持つことができますね。
 パウロは、神様に召された私たちは皆、一つの望みを持つようになったと言います。それは、一人一人が神様との関係を回復し、お互いに愛と平和のきずなで結ばれて、キリストのからだとされ、内に住んでくださる聖霊によって、キリストに似た姿へと変えられていく、そしてついには、キリストのような満ち満ちた姿になるという望みです。そして、私たちはその望みに向かって大きな光栄と喜びと恵みを味わいつつ歩んでいくことができるのです。その望みは、神様が与えてくださったものですから、何ものにも決して奪われることのない望みです。私たちにはすでにその望みが与えられているのですから、それを生涯を通して味わっていきたいですね。

4 主は一つ

 次に、5節の最初に「主は一つ」と書かれています。主とは、イエス・キリストのことです。私たちがイエス様を「主」と呼ぶのはなぜでしょうか。二つの意味があります。
 まず、私たちがイエス様を主と呼ぶのは、イエス様が神なる方だからです。聖書は、「唯一の神がおられ、その神は、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三つの位格をもっておられる。父、子、聖霊は、同じ本質を持っておられ、完全に一体となって共同の働きをされている」と教えています。神学用語ではそのことを「三位一体」と言います。
 父なる神は、大きな愛のご計画によって、御子イエスを私たちのもとに遣わしてくださいました。そして、聖霊の助けによって、私たちは、イエス様を救い主として信じ、神様との関係を回復することができたのです。
 ですから、イエス様は、父なる神、聖霊なる神と同質の神なる方です。だから、「主」と呼ぶのです。
 もう一つ、私たちがイエス様を主と呼ぶ理由は、イエス様が私たちと同じ人となって来てくださったからです。イエス様は、私たちのすべての罪を背負って十字架についてくださり、三日目に復活し、今も生きて私たちの内に住み、教会のかしらとなっておられます。イエス様は、私たちに人としての模範を示し、いのちの道に導き、守り、助け、養ってくださいます。私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与え、羊飼いとなり、指揮者となり、人生のナビゲーターとなってくださる方は、イエス・キリスト以外にありません。だから、私たちは、「イエス様こそ主です」と告白するのです。

5 信仰は一つ

 次に「信仰は一つ」とありますね。主は一つなのですから、イエス様を主と告白し、イエス様を救い主として信じる信仰も当然一つです。ローマ10章9節には、こう書かれています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」クリスチャンの共通項は、イエス様を救い主として信じる信仰なのです。

6 バプテスマは一つ

 それから、「バプテスマは一つ」と書かれていますね。「バプテスマ」とは洗礼のことです。
 イエス様は、マタイ28章19節で、弟子たちに「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け・・・なさい」と命令されました。
 洗礼とは、イエス様とともに十字架につけられた古い自分が死に、イエス様とともに復活して、新しいいのちをもって生きるようになったことを象徴する儀式です。つまり、イエス様によって罪の赦しと永遠のいのちが与えられたという信仰を表明する儀式なのです。
ガラテヤ3章27節ー28節には、こう書かれています。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」、キリストとともに死に、キリストとともによみがえって新しいいのちに生きる私たちは、みなキリストにあって一つなのです。

7 父なる神は一つ

 そして、パウロは6節で、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです」と書いています。
 この「すべてのもの」とは、万物一切、全宇宙という意味でもあるでしょうし、人類一人一人という意味にも取れますが、ここではパウロは、教会のことを語っていますから、天地万物を創造し、すべてを支配し、すべてのもののうちにおられる偉大な父なる神様が、キリストのからだである教会の上にあり、教会を貫き、教会の内にいてくださるということをいいたいのですね。
 先ほどお話ししましたように、父なる神もイエス・キリストも御霊も一つ、です。ということは、唯一の三位一体の神様が、私たち一人一人の内に、そして、教会の内にいつもともにいてくださるということですね。考えれば考えるほど素晴らしいことではありませんか。

 さて、パウロは、今日の箇所で「一つ」である七つのことについて書いていましたね。
 私たちは、一つのからだとされ、一つの御霊によって生かされ、一つの主に導かれ、同じ望み、同じ信仰を持ち、同じ洗礼を受け、父なる神の支配の中で一つとされています。
パウロは「だから、みんな一致団結して全世界に出て行くぞ」などと叫ぶことはしません。ただ、「一致を熱心に保ちなさい」と言っています。一致を保つとは、何かをすることではなく、それぞれに与えられた神様の恵みを思い起こし、お互いが主の大きな愛と恵みの中で生かされていることを覚え、違いがあっても一つとされて歩んでいることを確認していくことなのです。
 今日は、第一の日曜日ですから、聖餐式を行います。聖餐式もイエス様が命じられた大切な儀式です。
 第一コリント10章17節に、「パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです」と書かれています。
 聖餐式は、イエス様の十字架を覚えて、キリストのからだの象徴であるパンを食べるのですが、パウロが言っているように、みながともに一つのパンを食べることによって、一つのからだとされていることを覚える時でもあります。ですから、聖餐式は、「一致を保つ」ための大切な儀式であるといえます。そのことを思いつつ聖餐を受けていきましょう。

 繰り返しますが、一人一人は違いがあります。違っていて良いのです。しかし、一人一人が同じ主イエス様を告白し、同じ御霊が宿り、同じ父なる神に向かって祈り求め、キリストのからだの大切な器官とされていることを覚えて、今週も歩んでいきましょう。