城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年五月一〇日             関根弘興牧師
                  エペソ四章七節〜一三節

エペソ人への手紙連続説教16
   「キリストの賜物の量り」

7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです── 11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(新改訳聖書)

先週、私たちは、お互いがキリストのからだの一部であり、器官であることを学びました。からだの器官は、一つ一つ皆違いますね。それぞれの形や特徴や機能があって、それぞれが自分のできる働きをしています。そういう様々な器官が集まって一つのからだになっているのです。ですから、互いを比較する必要がありません。互いがそれぞれの役割を担っているのです。 聖書が教える一致とは、皆が同じようになるということではありません。すべて寸法通りの規格統一された人となることではありません。皆違っていいのです。しかし、違いを認めながら、同じイエス様を主と告白しているなら、そこに調和が生まれてくるのです。それが、聖書の教える一致です。
 さて、今日は、その続きです。詳しく見ていきましょう。

1 キリストの賜物の量り

 まず、パウロは、7節でこう記しています。「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」
 皆さん、これを読んでどう思いますか。「『キリストの賜物の量り』というものがあるのか。その量りに従って恵みが与えられるのなら、私はあまり立派でないから、恵みは少ししか与えられないかもしれないな」と思う方もおられるのではないでしょうか。また、「この人は恵みをたくさんもらえそうだ。あの人は少なそうだ」とまわりと比べてしまう方もおられるでしょう。まるで、キリストが私たちの価値を量って、価値の高い者には恵みを多くし、価値の低い者には恵みを少なくするようなイメージを持ってしまうのですね。
 しかし、パウロが言っているのは、そういうことではありません。パウロが言う「キリストの賜物の量り」とは一体何でしょうか。
 この「賜物」という言葉には、原文では定冠詞が付いていまして、「かのひとつの賜物」となっています。それで、「キリストの賜物」という言葉は、「キリストという賜物」とも訳せるのですね。つまり、キリストこそが賜物だというのです。
 ローマ8章32節には、こう書かれています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」これは、「神様は、ご自分にとって最も大切なキリストさえも賜物として与えてくださった。とするなら、ほかのすべてのものも与えてくださらないはずはない」ということですね。つまり、「キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」というのは、「キリストという最高の賜物さえ与えてくださった神様の恵みに制限はない。神様の恵みは無限である」ということなのです。
先日、郵便物を出すために重さを量ろうとしたんです。教会で使っている量りで測ろうとしたのですが、五百グラムまでしか測れないんですね。私が出そうとしたものは、それ以上あったので、その量りで測ることができませんでした。その量りには制限があって、その範囲内でしか測れなかったわけですね。
 しかし、パウロは大胆に、「私たちはひとりひとりは、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」と書いていますね。つまり、どんな大きな恵みでも量ることのできるキリストの賜物の量りによって恵みが与えられたのですから、その恵みに限界や制限はありません。どんな人であっても、過去にどんな失敗があっても、どんな事情境遇であっても、キリストにあって無制限の恵みが与えられるのです。キリストの恵みから漏れる人など一人もいないということなのですね。
 では、その「恵み」とはどのようなものでしょうか。この「恵み」という言葉にも定冠詞が付いています。ですから、「かのひとつの恵み」と訳せるわけです。「かのひとつの恵み」とは何でしょうか。
エペソ2章4節ー5節にはこう書かれていましたね。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──」
 つまり、この「恵み」は、救いのめぐみです。罪が赦され、永遠のいのちが与えられる恵みです。神の子として生きることのできる恵みです。決して失われることないひとつの望みに生かされている恵みです。
 パウロは、その恵みは、キリストの賜物の量りに従って与えられる、つまり、求める者すべてに無制限に与えられるのだと言っているのです。特別立派な人にはたくさんの恵みを与えましょうとか、あまり熱心でない人には少しだけ与えましょう、というような意味で記しているのではないのです。キリストの救いの恵みは、私たち一人一人に無限に与えられているのです。
 エペソ3章18節ー19節のパウロの祈りを思い出してください。「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」とパウロは祈っていましたね。キリストの賜物の量りに従って与えられる恵みも人知をはるかに越えたものなのです。

2 賜物を分け与える方

 では、どうしてキリストは一人一人にそのような無限の恵みを与えることが出来るのでしょうか。その理由をパウロは8節から10節で説明しています。

?勝利者なる王

まず、8節でパウロは旧約聖書の言葉を引用しています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」と書かれていますね。これは、旧約聖書の詩篇68篇18節からの引用です。詩篇68篇は、神なる主があらゆる敵を打ち倒して、神殿で王として着座し、敵に奪われたものを取り戻し、人々はその勝利の凱旋を喜び祝う、という歌です。つまり、目の前にどんな困難な状況があっても、最終的には神様が勝利を与えてくださり、奪われていたものを取り返し、それを人々に分け与えてくださる、という内容なんですね。パウロは、「この詩篇で歌われている勝利の王こそキリストご自身なのだ」と語っているわけです。
 ヨハネ16章33節では、イエス・キリストご自身がこう言っておられます。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
 また、エペソ1章22節には、こう書かれていましたね。「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」キリストは、すべてのものを従わる勝利者であり、すべてのものを支配する王です。そのキリストが教会に与えられ、教会を満たしてくださっているというのです。そして、そのキリストが無限の恵みを与えてくださるのです。

?下られ、上られた方

さて、ここでパウロは、詩篇の引用の中にある「上られた」という言葉の意味をもっと詳しく説明したくなったのですね。 9節ー10節でこう書いています。「この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。」
 パウロは、この「まず下られ、そして上られた」ということについて、ピリピ人への手紙2章6節ー11節で詳しく説明しています。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
まず、キリストが「下られた」というのは、キリストが神の栄光を捨てて、私たちと同じ人となって、私たちと同じ立場にまで下ってきてくださったということです。その姿は「キリストの謙卑」と呼ばれています。それは、私たちに神様の愛と恵みのすばらしさを教えるため、また、私たちに人としての本来の生き方を身をもって示すため、そして、私たちの罪をすべて負って十字架上で死ぬことにより、罪の赦しと神様との和解の道を開いてくださるためでした。
 また、キリストは、私たちのために神様の前で取りなしをする大祭司となってくださいました。ヘブル4章15節には、こう書かれています。「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」キリストは、私たちと同じ人となって私たちの弱さや苦しみをよく理解してくださり、いつも私たちのためにとりなしの祈りをしてくださっているのです。何という励ましでしょう。
 そして、キリストは、十字架の死から三日目によみがえり、上られました。しかも、10節に「もろもろの天よりも高く上られた方なのです」と書かれていますね。
当時、「天」は、何層にもなっていると考えられていました。エペソ2章2節に「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」とありますが、この「空中」とは、天の最下層のものと考えられていました。また、エペソ1章21節に「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」とありますが、この「すべての支配、権威、権力、主権」というのは、空中の上の層を支配する力と考えられていました。
 当時は、たくさんの迷信がありました。また、人々を恐れさせて縛り付けたり、霊的な力と称して人々を束縛する宗教的な教えもありました。しかし、パウロは、「イエス様は、もろもろの天よりも高く上られた方なのです」と語るわけです。つまり、キリストは、人々が迷信的に恐れていた空中や天空の霊どもよりはるかに力ある方であり、圧倒的な勝利者となられたのだから、それらのものははみな武装解除され、もはや私たちを縛り付けたり攻撃したりすることはできないのだというのです。 ですから、私たちに無限の恵みを与えることがお出来になるのです。

3 キリストがお立てになった者たち

さて、私たちは、このキリストが教会のかしらとなってくださっているのですから、心強いですね。そして、パウロは、11節にあるように「キリストご自身がある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」と記しています。この「お立てになった」というのは「お与えになった」と同じ言葉です。つまり、勝利者なるキリストが、その恵みを人々に伝え分かち合うために教会に与えてくださったのが、「使徒、預言者、伝道者、牧師また教師」だというのです。
 まず、「使徒」ですが、ここでは限定された意味で使われていて、イエス様と行動を共にした十二使徒とパウロのことを指しています。彼らは復活したイエス様の目撃証言者であり、新約聖書は彼らによって書かれました。
 それから、「預言者」も、ここでは限定された意味で使われています。「預言者」とは、神様の啓示を受け、神様の言葉を人々に語り伝えた人たちです。聖書が完成する前は、預言者の言葉が聖書のように重要な役割を果たしていました。しかし、聖書が完成した今、私たちは、聖書を通して神様の言葉を聞くことができ、イエス様が与える救いと福音の全貌を知ることが出来るのです。その意味で今は聖書が「使徒」と「預言者」の役割を果たしていると言えます。
 もちろん、今でも預言はあります。でも、聖書が完成した今は、どの預言も必ず聖書に基づいて吟味しなければなりません。聖書の教えと異なるもの、また、聖書に新しい内容を付け加えようとするものは、神様からの預言ではありません。本当に神様から与えられた預言なら、必ず、聖書の内容と合っているはずです。黙示録2章18節には、このような警告が書かれています。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。」ですから、預言だからと言って安易に信じることがないように気を付けましょう。聖書が基本だと言うことをいつも覚えていてください。
 次に、「伝道者」「牧師」「教師」ですが、この人たちは、聖書を正しく教え、聖書の約束を分かち会い、人々が神様の恵みを味わうことができるように導いていく役割を果たします。つまり、「みことばに仕える」ことに専従している人々です。 パウロは、キリストが教会に「使徒」「預言者」「伝道者」「牧師」「教師」を与えてくださったのだといいます。そして、12節ー13節には、その働きの目的が書かれています。今日は、私は自分自身に説教しているようですね。
「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」
 まず「聖徒たちを整えて」と書かれていますが、この「整える」とはどういう意味でしょう。「整える」と訳される言葉は、網を「繕う」とか、過ちを「正す」と言う意味があります。そこから、聖徒たちを「整える」働きには、大きく三つの意味が考えられます。
 第一に、「回復させる」働きです。聖書の約束によって、破れがあるなら繕われ、回復させられるための働きです。
 第二は「補う」「訓練する」と働きです。聖書の言葉によって、欠けたところが補われ、訓練されていくための働きです。 そして、第三に、「結び合わせる」働きです。つまり、みんなそれぞれ違いがあるけれど、キリストによって結び合わされていくのだ、互いが大切な存在なのだということを、聖書から教え、分かちあっていく働きです。
つまり、聖徒たちを「整える」とは、キリストを信じる人々が聖書の言葉によって「回復させられ」「補なわれ」「結び合わされ」ていくようにしていくことなのです。
 そして、整えられた人々は、奉仕の働きをするようになります。奉仕とは「仕える」ということですが、それは、何かをしなければならないということではありません。お互いに「仕える心」をもって生きるようになるということです。自分勝手に生きるのではなく、互いに助け合い、支え合い、祈り合いつつ共に建て上げられていくことです。それぞれが自分の役割を果たし、自分の出来ることをしていくことが大切です。出来ること出来ないことは人によって違うのですから、決してお互いを比較しないようにしましょうね。そのように仕える心をもって共にキリストのからだである教会を建て上げていくのです。
 一人一人は、からだの各器官です。それぞれが仕える心を失ってしまったら、健康を失い、機能不全に陥ってしまいます。しかし、聖書から教えられ、整えられ、互いに仕え合っていくとき、そこに、キリストの満ち満ちた身たけに成長していく姿が生まれていくのです。
 パウロは、教会の成長というとき、立派な会堂ができ、人数が増えることだ、とはひと言もいいません。無限の恵みを与えてくださる勝利者なるキリストが教会の真ん中におられ、一人一人がみことばによって整えられていくとき、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、キリストのような姿に成長することができるのだと教えているのです。
 ですから、私たちは、聖書を通して、イエス様の姿をより深く学び、イエス様がどんなに大きな恵みをもって私たちの人生を導いてくださっているかを生涯を通して味わい、「仕える心」を育みながら歩んでいきましょう。