城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年五月一七日             関根弘興牧師
                 エペソ四章一四節〜一六節

エペソ人への手紙連続説教17
   「愛と真理によって」

14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(新改訳聖書)


まず、先週の内容を振り返ってみましょう。
 4章7節に「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」と書かれていますが、これは、キリストという最高の賜物さえも惜しまずに与えてくださる神様は、私たちひとりひとりに無条件に無限の恵みを与えてくださるということでしたね。過去にどんな失敗があっても、どんな事情境遇であっても、求める人がキリストの恵みから漏れることは決してありません。また、特別立派な人にはたくさんの恵みが与えられ、あまり熱心でない人には少しだけ与えられる、というようなことはなく、誰にでもあふれるばかりの恵みが与えられるのです。
 では、どうしてキリストはそのような無限の恵みを与えることがお出来になるのでしょうか。それは、キリストこそ、勝利の王だからです。先週も紹介しましたが、ヨハネ16章33節で、イエス・キリストご自身がこう言っておられます。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
 キリストは、神の栄光を捨てて人となって、私たちと同じ立場にまで下ってきてくださいました。それがクリスマスの出来事ですね。この方は、最も低いところまで降りて来てくださったので、私たちの弱さや痛みや苦しみを理解し、思いやることがお出来になります。そして、私たちに人としての本来の生き方を身をもって示し、私たちの罪をすべて負って十字架上で死ぬことにより罪の赦しと神様との和解の道を開いてくださったのです。さらに、キリストは、十字架の死から三日目によみがえられました。そして、パウロが10節に書いているように、「もろもろの天よりも高く上られた」のです。
 当時は、天は何層にも分かれていて、空中や天空には私たちを迷信や恐怖で支配する霊的な力があると考えられていました。しかし、パウロは、「キリストは、もろもろの天よりも高く上られた方、つまり、すべてのものに打ち勝つことのできる圧倒的な力と権威を持つ勝利者となられたのだから、そのキリストに信頼する私たちを縛り付けたり攻撃したりすることのできるものは、もはや何もないのですよ」と語っているわけです。
 キリストは、私たちの弱さを理解してくださる愛に満ちた方であるとともに、私たちを様々な束縛から解放して豊かな恵みを与えることのできる勝利の王なる方です。そのキリストを、私たちは聖書を通して知ることができます。そして、神様は、私たち一人一人を整えて、キリストのからだを建て上げようとしてくださっているのです。
 今日の箇所は、その続きです。詳しく見ていきましょう。

1 波風に翻弄されることなく

 まず、パウロは、14節で「私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく」と記していますね。
 私たちのまわりには、いろいろな教えの風が吹いてきます。どこから吹いてくるのでしょうか。「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により」と書かれていますね。この「悪巧み」と訳されている言葉は、「さいころ」から由来した言葉で、「さいころ遊び、いかさま、ペテン」という意味です。皆さんは、騙された経験がありませんか。
 私が小学生の時、大きな祭りがあって、たくさんの露店が出ていました。その中に「くじ引き」の店があったんです。一回十円だったと思いますが、おじさんが持っている竹串のようなものを引いて、一等が当たれば豪華賞品がもらえるというので、私は「何とか一等を当てるぞ」と夢中になりました。しかし、何度引いても六等しか当たらないのです。六等は鉛筆でしたが、どこかの記念品として配られていたような鉛筆で、しかも、芯がほとんど折れているような寄せ集めのものばかりでした。結局、鉛筆の束だけ持って家に帰りました。すると、父に、「馬鹿だな。あれは当たりが出ないようにちゃんと細工がしてあるんだ」と言われたのです。純粋無垢な私は大変なショックを受け、兄からも妹からも馬鹿にされ、心傷ついたのですね。
 しかし、この程度ならまだ可愛いのですが、人生を台無にしてしまうような悪巧み、特に、宗教的な悪巧みや策略もたくさんあるのです。パウロの時代もそうでした。いろいろな間違った教えの風が吹いていたのです。その風は今の私たちの時代にも吹いています。たとえば、どのようなものがあるでしょうか。
 
?「救いを得るには、努力が必要だ」という条件付けの教え

 私たちが罪赦され、永遠のいのちが与えられ、救いを得るために必要なのは何でしょうか。イエス・キリストの恵みだけですね。私たちは、キリストが私たちの身代わりに十字架にかかって死んでくださったことによって罪赦され、キリストが三日目によみがえって死に打ち勝ってくださったことによって新しいいのちに生きる者とされました。キリストが私たちの救いの道を備えてくださったのです。ですから、私たちは、そのイエス・キリストの与えてくださった恵みを受け取り、キリストを救い主として信じ受け入れるだけで救われるのですね。
 しかし、「いや、それだけでは不十分だ」と言い出す人々がいつの時代にもいるのです。特に、パウロの時代、この教えの風が吹き荒れていました。「イエス様を信じるだけでは不十分だ。きちんと戒めを守り、儀式を守ることが必要なのだ」というのです。本来は無条件に信じるだけで救われるはずなのに、「戒めを守らなければならない」とか「善行を積まなければならない」とか、いろいろな条件を付けようとするのです。
 実は、この教えはとても説得力があるのですね。なぜなら、私たちは、何かを得るためには一生懸命努力しなければならない、という生き方に慣れきっているからです。「これとこれを守って半年間修行をすれば、解決が与えられますよ」とか言われると、「よし、やってみよう」と思うのですね。
 ですから、神様の救いについても「努力しなければだめだ」と思ってしまうのです。また、「何もせずに、ただ信じれば救われるなんて、そんなうまい話があるわけがない」とか、「自分が努力すれば、救われるはずだ」とか、「私はまだまだ修行が足りないから救われる資格がない」とか、「なまけていると救いから落ちこぼれてしまうのでは無いだろうか」と思ってしまうのです。そういう人間の傾向を巧みに利用して支配しようとする悪賢い策略は、今の時代にも蔓延しています。異端のグループは、「救われるためには、もっと伝道しなければならない」とか「救われるためには、もっと献金しなければならない」などと教えて、人々を縛り、操ろうとしています。
 しかし、聖書は何と教えているでしょうか。「救いは人間の努力で得ることはできない。救いは百パーセント神様の恵みによるのであって、人はその救いをただ感謝して受け取るだけでいいのだ」と教えているのです。人は、自分でどんなに努力しても完全になることはできません。むしろ、努力すればするほど、自分の限界を思い知らされて、結局は、疲れ切ってしまうのですね。
 皆さん、赤ちゃんは、自分で努力して生まれてきたのでしょうか。違いますね。もし、赤ちゃんが「僕は、自分の努力で生まれてきたんだ」と言ったら滑稽ですね。
 救いもそれと同じです。ヨハネ1章12節ー13節には、こう書かれています。「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」私たちは、イエス様を信じたときに、神様のいのちを与えられて、神の子どもとして生まれたのです。これは、人の意欲や努力によるのではありません。一方的な神様の恵みのわざです。
 また、エペソ2章8節には、こう書いてありましたね。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」救いは、愛なる神様からのプレゼントなのです。その神様の愛を信頼し、そのプレゼントをただ喜んで受け取ること、それが信仰です。
 ですから、「救われるためには、これをしなければならない。あれをしなければならない」などという教えを聞いても、惑わされることのないようにしましょう。「私は、神様の恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」という確信を持って生きていきたいですね。

?「特定の人間に権威がある」という権威付けの教え 

 このエペソ人への手紙が書かれてから三十年ほど過ぎた頃、ヨハネの黙示録が書かれました。その黙示録の中に、エペソを中心にした七つの教会に語られたイエス・キリストの言葉が記されています。それを読むと、当時の教会の中にいろいろな教えの風が吹き荒れていたことがわかります。
 その中に、ニコライ派と呼ばれるグループが教会の中に混乱を与えていたことが記されています。このグループは、牧師や教師などの聖職者たちを階級に分けて、様々な権威を持たせていきました。
 たとえば、ある人が神様に願い事があるとき、直接、神様に祈るのではなく、まず、A牧師のところに持っていきます。すると、A牧師は、それを自分より上の階級のB牧師に持っていきます。そして、B牧師は、自分より権威のあるC牧師に持っていく、というように、梯子を登るようにして、より上の階級の者に伝わっていき、最後に神の御座の前に行き着くのだというのです。
 すると、どうなりますか。この教えによると、当然、聖職者の階級が上に行くほど、大きな権威と権力を持つことになりますね。そして、遂には、聖書の権威さえも越えてしまうということが起こってしまうのです。
 それに、この教えでは、一般の人々は、自分で神様に親しく祈ることができません。神様と自分との間に何人もの聖職者が立ちはだかっていることになりますね。また、神様の言葉を聞くのにも、権威を持つ聖職者の口を通して聞かなければならないということになりますね。
 しかし、聖書は、そんなことはどこにも教えていません。私たちは、牧師とか伝道師とかいう役割の違いはあっても、神様の御前では皆同じなのです。皆、神様と親しい関係を持つことができ、いつでもどこでも自由に大胆に神様の御前で祈ることができ、また、聖書を通して自由に神様の言葉を聞くことができるのです。
 そして、神様と私たちの仲介をすることができるのは、イエス・キリストだけです。第一テモテ2章5節には「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」と書かれています。イエス様は、神であられる方なのに、人となって私たちのもとに来てくださり、神様と私たちの関係を回復させてくださいました。ですから、イエス様の権威ある御名によって、私たちは何でも神様に直接祈ることが出来るようになったのです。
ですから、誰かに特別な権威がある、というような教えを聞いても惑わされないようにしましょう。一人一人が神様に愛され、神様と親しい関係を持っている大切な存在なのですから。

?「自由なのだから何をしてもかまわない」という放縦の教え

 ガラテヤ5章1節には、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」と書かれています。キリストは、私たちを様々な束縛から自由にしてくださいました。 しかし、その自由の意味をはき違えて、「私たちはキリストによって自由にされたのだから、何もしてもいいのだ。自分の欲望のままに生きていこう」と言って、放縦な生活をする人々が出てきたのです。彼らは、自分たちこそが新しい自由なキリスト教だと言わんばかりに、欲望のおもむくまま享楽的な生活をし、人々にもそう教えていました。
 また、さらに極端なことを言う人々もいました。「罪が何かわからなければ避けようがないから、人はあらゆる種類の罪を経験してみる必要があるのだ」とか、「本当の鍛錬とは、体を罪にうずめながら精神と霊魂を清く保つことだ。つまり、快楽にふけることは一種の魂の鍛錬なのだ」というようなとんでもないことを教えていたのです。
 しかし、そういう教えは、ただの無責任な放縦であって、聖書の教える自由とは全く違います。聖書は、どのように教えているでしょうか。
 第一コリント10章23節には、こう書かれています。「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません」また、第一コリント6章12節には、こう書かれています。「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」
 聖書は、クリスチャンには、すべてのことについて、「する自由」と「しない自由」があること、そして、有益でないことや徳を高めないことや人を支配し縛ってしまうようなことについては、「しない自由」を選んで生きることができるということを教えています。
 それに対して、「好き勝手に何でもしていいのだ」とか、「自由に罪を犯してもいいのだ」という教えは、自分の欲望に奴隷になっている状態で、本来の自由とはかけ離れたものなのです。
 
 さて、以上のように、様々な「悪巧み」、つまり「いかさま」の教えの風や波が押し寄せていましたが、パウロは、教会はそのようなものに翻弄されないようにと注意しています。
 そして、次に、キリストを信じる私たちにふさわしい歩みとはどういうものかを語っています。

2 愛を持って真理を語り

 15節を見ると、「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」とありますね。
 まず、「愛をもって真理を語る」とありますが、「真理」とは何でしょうか。ヨハネの福音書14章6節で、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。イエス様ご自身が真理だというのです。つまり、真理を語るとは、イエス様こそ、私たちのためにいのちさえ捨てるほどの愛を示された方、よみがえって勝利者なる王となられた方であり、私たちに神様の愛、恵み、祝福を豊かに注いでくださる方なのだということを語るということなのです。世の中には、「イエスを信じるだけでは不十分だ」という教えの風が吹き荒れていても、私たちは、「このイエス様を信じるだけで充分です」と宣言していくのです。
 ただ、その時に「愛をもって語る」ことが大切です。第一ヨハネ4章7節にこう書かれています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」愛のない者に神はわからないというのですね。神様は愛そのものの方であり、イエス様はその神様の愛を体現した方です。そのイエス様を語るときに、愛がなければ、それは本当に真理を語っていることにはならないのです。
 先ほど紹介したヨハネの黙示録の中で、イエス・キリストはエペソ教会に対して「あなたは初めの愛から離れてしまった」と言っておられます。ヨハネの黙示録が書かれた時代、エペソ教会は忍耐して信仰を守っていました。また、間違ったことを教える人々の偽りを見抜いて教会の正しさを保とうと労苦してきたようです。しかし、いつのまにか「自分は正しい信仰をもっている。自分こそ正当な信仰生活を送っている」と思って、他者を非難をしたり見下したりする態度が生まれてきたのでしょう。そして、いつのまにか愛がすっぽりと抜け落ちて、冷たい教会になってしまっていたのかもしれません。自分たちの正当性を守ろうとするあまり、大切な愛を失う結果になってしまう、こうした姿はいつの時代でも見ることができますね。
 しかし、私たちは、自分が正しいのではありません。私たちには弱さも欠点も間違いも失敗もあります。でもイエス・キリストがそんな私たちを愛し、赦し、導き、成長させてくださり、ご自分に似た者へと変えていってくださるのです。そのことを覚え、いつもイエス・キリストの愛とまことのなかにどっぷりとつかって歩んでいくとき、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるようになっていくのです。
 今の時代もたくさんの教えの風が吹いています。人間の弱さや恐れにつけ込んで、人を束縛し、人を食い物にしてしまう「いかさま」はたくさんあります。だから、私たちは、愛と真実に満ちたイエス様をいつも見上げ、イエス様の愛をもって真理を語っていくのです。

3 愛のうちに建てられる

 さて、次に16節には、「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」とありますね。
 パウロは、教会はキリストのからだであり、一人一人がそのからだの大切な器官なのだと言います。からだには、いろいろな器官が必要で、それぞれの器官がそれぞれの働きをする必要があるのと同じように、私たちもそれぞれが自分の特徴を生かして自分にふさわしい働きをしていくとき教会は健全に成長していくのですね。互いに比べ合ったり競い合ったりする必要はありません。人のまねをする必要もありません。あなたはあなただからすばらしいのです。前回学んだように「みんな違って、みんないい」のです。違いがあるからこそ、それぞれにふさわしい役割を果たしていくのです。その私たちを組合わせ、結び合わせてくださるのは誰でしょうか。キリストです。キリストが私たちを愛のきずなによってしっかりと組み合わせ、結び合わせ、成長させ、建て上げてくださるのです。
 ですから、今週も、キリストの豊かな恵みとまことの中に生かされていることを覚えつつ歩んでいきましょう。