城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年五月三一日             関根弘興牧師
                 エペソ四章一七節~二四節

エペソ人への手紙連続説教18
   「新しい人」

  17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。19 道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。20 しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。21 ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(新改訳聖書)

1 神なき人生

 数年前ですが新聞のコラムに、アメリカの億万長者の生活を紹介した記事がありました。彼らは毎日のように豪華なパーティーを行い、自宅の庭で馬の障害レースをするなど、私たちには想像もつかないような贅沢な生活をしているというのです。そんな彼らなら、いつも楽しく安心して満足して生活しているのだろうと思いますよね。ところが、彼らには彼らなりの不安や悩みがあるのだそうです。その一つは、自分たちは一般人とは付き合えないというプライドからくる孤独感だそうです。そして、もう一つは、この財産がいつか失われてしまうのでないかという不安感だというのです。彼らは、多くのものを手に入れれば満足できると思っていたのでしょうが、逆に、虚しさを感じているのです。
 それは、億万長者だけのことではありませんね。孤独や不安や虚しさは、私たちの誰もが感じるものではないでしょうか。 イエス様は、マタイ16章26節でこう言っておられます。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」この言葉は、一人一人のいのちの尊さ、存在の重さを教えているものですが、少し別の解釈をするならば、こう言い替えることもできるのではないでしょうか。「人間は、たとい全世界を手に入れたとしても満足することはないのだ。『次はこれ』『次はあれ』と際限がない。そして、いつまでたっても満足しないで、結局は大切ないのちを損なってしまうのだ」と。孤独や不安を感じ、それを解消するために欲望のままむさぼる人生は結局、虚しいままで終わってしまうのですね。
 ですから、今日の箇所で、パウロはまず、そのような虚しい人生を歩まないようにと諭しています。17節ー19節にこう書いてありますね。「もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」
 ここでは、「異邦人」とは、神を知らない人々のことを指しています。神から離れ、神を知らずに生きている人々の人生はどのようなものかをパウロはここで記しているわけですが、ずいぶん厳しい言い方をしていますね。これは言い過ぎだ、と反発を感じる方もおられるのではないでしょうか。しかし、詳しく見ていくと、私たちは、もし神様を知らなければ、皆、このような状態になってしまうのだろうと思わされます。
 では、この箇所から三つのキーワードを取り上げて見ていきましょう。

➀むなしい心

 まず、17節にある「むなしい心」です。パウロは、神なき人生の特徴の第一は、「むなしい心で歩んでいることだ」と言うのです。
 「むなしい心」というのは、「実を結ばない」「無駄な」「いくら求めても到達できない」ということから来る心の状態を指しています。そして、このむなしい心は、創造者である神様を認めないところから生じるのだと聖書は教えます。「自分は神様によって造られたのだ」という明確な自覚がないと、むなしさが出てくるというのです。
 どういうことかと言いますと、もし神様によって造られたのでないなら、自分は偶然に生まれたということになりますね。そうすると自分の存在には、意味も目的もないということになります。みんな偶然だ。日本で生まれたのも偶然。関根家に生まれたのも偶然。牧師になったのも偶然。そして、偶然の事故や病気で死んでおしまい、そう考えたら本当にむなしくなりますね。「私は何のために生きているんだろう?毎日同じことの繰り返しで、最後には棺に入っておしまいだとしたら、いったい私の人生に何の意味があるんだろう」と思ってしまいますね。
 また人間は、自分の存在が認められないと、むなしくなるものです。生きていられないんです。一生懸命頑張って、一生懸命生きて来て、でも最後に、「あなたの人生は意味がありませんでしたね。あなたの存在は無駄でしたね」と言われたら、ガックリするでしょう。
 しかし、聖書は、神様がすべてのものを創造し、神様が私たち人間を意味と目的をもって創造したのだと教えています。つまり、私たちの人生には、意味と目的があるというのです。  すべて作られたものには意味と目的があります。ここにあるマイクもテーブルもピアノもみんな作られた目的がありますね。そして、その作られた目的にそって用いられる時、そのものの価値が最も引き出されていきます。たとえば、このギターは演奏するために作られたわけですが、もし、このギターが誰かを叩くために使われたら、ギター本来の価値は決して引き出されませんね。それどころか、せっかくの価値が無駄になってしまいます。ギターが本来の目的にそって使われるときその価値が示されるのですね。
 聖書は、私たちは、神様によって意味と目的をもって造られたのだと教えます。では、その意味や目的とは何でしょうか。
 第一ヨハネ4章16節には、「神は愛です」と書かれています。神は、愛そのものの方です。そして、愛には必ず愛する対象があります。神様は、ご自分の愛の対象として私たちを造ってくださいました。ですから、私たちが存在すること自体が神様の目的であり、私たちが神様に造られたことを感謝し、神様に愛されていることを喜びつつ生きていくことが神様の喜びでもあるのです。
 ですから、私たちの人生の意味、目的は、何かができる、できないというレベルのことではないのです。何かができるから人生に意味がある、何もできないから人生に意味がないということではなくて、私たちの存在そのものに意味があるのです。そして、神様の愛を受け取って生きていくことが私たちの人生の目的なんです。そして、その神様に用いられるときに、私たちの存在の価値が最大限に引き出されるのです。
 そのことを知らなければ、自分の存在の意味や人生の目的がわからないまま、むなしさを感じて生きるしかありません。自分の本来の価値がわからないまま、人生を無駄にしていくことになります。
 このエペソ人への手紙が書かれた時代、神様を否定して「むなしい心」で歩んでいた人たちが大勢いました。パウロは、それは人として本来の生き方ではありませんよ、と言っているのです。

➁かたくなな心

 パウロが神なき人生の特徴として次にあげているのは、18節の「かたくなな心」です。
 「かたくな」と訳されている言葉は、「ポーロース」(特別に固い石という意味)から派生した言葉です。創造主なる神様に背を向けて歩んでいると、心が固くなっていくのだというのです。
 聖書の中で使われている「罪」という言葉の元々の意味は、「神様との関係がズレている状態」ということです。神様の関係がズレたままになっていると、つまり、罪をそのままにしておくと、心はどんどん固くなっていきます。そして、かたくなな心は、神のいのちから遠く離れさせるとパウロは言っていますね。
 先日、献血に行ってきました。私は献血オタクなんです。献血すると、後で血液のいろいろなデータが送られてくるのですね。そして、その値を見ながら、動脈硬化が進んでいないだろうかとか、肝臓の機能は正常に働いているだろうかと考えるわけです。
 動脈硬化が進むと、少しずついのちの危険が迫っているということになりますね。それと同じように、パウロは、かたくなな心、つまり、心の硬化が進むと、神のいのちから遠く離れていくことになるというのです。
 今、木曜日の聖書を読む会で「出エジプト記」に登場するモーセの生涯を学んでいます。エジプトで奴隷状態になっていたイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出し、荒野を旅していくわけですが、彼らの姿を表す特徴的な言葉が繰り返し出てきます。それは、「うなじのこわい民」という言葉なんです。「うなじのこわい」とは、牛がくびきをかけられるのを嫌って抵抗し、首をこばわらせる時の表現です。それが「強情」「頑固」「手に負えない」「かたくな」という様子を表わす言葉となったのです。イスラエルの民は、神様の言葉に耳を傾けず、従おうとせず、訓戒を受け入れようとしないことがたびたびありました。その心のかたくなな様子を見て、神様は「うなじのこわい民」と言われたのですね。
 神様はいつも愛をもって彼らの必要を満たしてくださったのに、彼らは、少し困難が起こるとつぶやき、文句を言い、神様にそむくことばかりしていました。そのかたくなな心のゆえに、彼らは、結局、四十年も荒野をさまようことになってしまったのです。かたくなで神様に従わなかった民の多くは約束の地に入ることができなくなってしまいました。かたくなな心が不要な遠回りをさせ、いのちから遠ざけてしまったのですね。
 ヘブル人への手紙3章8節には、「荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」と書かれています。そして、パウロは「今は恵みの時、今は救いの日です」と言います。「神様が私たちを愛し、豊かな恵みを与えたいと願っておられるから、今、素直に心を開いて受け取りさえすればいいのだ。でも、それをかたくなに拒絶するなら、神様の豊かな祝福といのちのから遠ざかることになるのだよ」と言っているのです。
 クリスチャンの中には、「私はかたくなではない。神様を信じているから」と思われる方がおられるかもしれません。でも、神様を信じていても、気がつかないうちに心がかたくなになっていることがあるのです。大切なのは、それに気づくことです。
 動脈硬化が進まないようにするためには、定期検診を受けたり、食事や生活習慣に気をつけます。体が固くならないようにするには、ストレッチ体操をします。心が固くならないようにするためには、どうすればいいのでしょう。
 まず、いつも心を点検していくことが大切ですね。神様への信頼や感謝がなくなっていないだろうか、不平不満ばかりになっていないだろうかと、自分自身の内側を点検してみてください。また、体に運動が必要なように、具体的な信仰の行動をしていくことも大切です。毎日、素直な信仰告白をしていくのです。「イエス様、あなたを信頼します」「イエス様、あなたを愛します」「イエス様、あなたをあがめます」そんな告白をしながら、心から神様を礼拝し生きることが、心を柔らかくしていくことに繋がるのです。今、自分の心がかたくなになってきていると感じたら、あらためて神様の愛や恵みや祝福のすばらしさを思い起こし、感謝と賛美を回復しましょう。筋肉は動かさないと硬化します。クリスチャン・ライフも同じなのです。

➂むさぼりの心

 さて、次に、神なき人生の三番目の特徴として、パウロは19節で「むさぼり」を挙げています。「道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています」と書かれていますね。
 「道徳的に無感覚となる」とは、どういう意味でしょうか。ここで「無感覚」と訳されているのは「アセルゲイア」という言葉で、「自分の欲望が満足されるなら、人が何と非難しようが気にかけないという態度」を表しています。
 また、「むさぼる」と訳されている言葉は、「自分自身の欲望のためには、他人を犠牲にしてもかまわないとする態度」のことです。「自分が良ければそれで良い、他人がどうなろうが関係ない」という態度です。そして、それがエスカレートすると、自分が欲しているものを手に入れるためには、誰を傷つけようが、どんな方法を用いようが意に介さないという抑制することのできない欲望を産み出していくのです。
 エペソの町は迷信で満ちていました。アルテミスという女神の神殿には、たくさんの神殿娼婦がいて、性的にも大変混乱していました。そして、欲望が欲望を産み、エスカレートしていく姿があったのです。自分の満足のためなら、相手がどうなろうがかまわないという欲望です。そして、二千年たった今でも、同じような姿をあちこちに見ることができますね。ニュースを見れば、連日のように人間のむさぼりが大きな罪を引き起こしている現実がわかります。
 詩篇73篇22節には、「私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした」と書いてあります。人の中に獣のような姿があるというのです。「それは心外だ。私はそんなにひどくない」と思う方がおられるかもしれません。しかし、私たちの内にも、多かれ少なかれ、獣ようなこころがありませんか。「自分さえよければよい、そのためなら、神様や他の人を利用したり、切り捨てたりしてもかまわない」という思いがありませんか。
 結局、私たちには誰にでも「むなしい心」「かたくなな心」「むさぼりの心」があるのです。けれど、パウロは、そういう心によって歩んではならない、キリストを信じる者としての新しい生き方をしなさいと教えます。その新しい生き方について20節から見ていきましょう。
 
2 キリストにある人生

 パウロは、20節ー21節で、「真理はイエス・キリストにあるのだから、キリストに聞き、キリストに学ぶことによって新しい生き方をすることができる」と言っていますね。
 イエス・キリストは、ご自分の存在の価値と目的を自覚しておられました。また、いつも父なる神のみこころに従って生きておられました。そして、自分の欲望のために生きるのではなく、私たちのためにご自分のいのちさえ捨ててくださいました。そのキリストに出会うことによって、私たちは、神様の愛を知り、その愛に生きることができるようになったのです。そのキリストが教えてくださった生き方とは何でしょうか。

➀古い人を脱ぎ捨てる

 まず、22節に「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべき」だと書かれていますね。
 「むなしい心」「かたくなな心」「むさぼる心」のままに生きていた古い人を脱ぎ捨てるべきだというのですが、それは、自分の努力や頑張りでできることではありませんね。
 私たちはただ、キリストを信頼していくのです。私たちがキリストを信じ、受け入れる時、聖書の約束が実現するからです。
 たとえば、第二コリント5章17節には、こう約束されています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」キリストを信じ、キリストのうちにあるすべての人に、この約束が実現しているのです。「すべてが新しくなるだろう」ではありません。「すべてが新しくなりました」と宣言されているのです。イエス様を信じる時、私たちの内に聖霊が宿ってくださり、新しいいのちに生きる者として再創造されたのです。
 私たちは新しく造られた者です。ですから、どうして過去に縛られる必要があるでしょうか。どうしていつまでも過去を振り返って前に進めないということがあるでしょうか。新しくされた者として、前に向かって歩む者とされたのですから。古い人は、すでに脱ぎ捨てられているのです。
 でも、時々、脱ぎ捨てたはずの古い人の記憶や影響が残っていて、苦しんだり、落ち込んだりすることがありますね。劣等感や罪責感をぬぐい切れずにいる人もいます。でも、神様がその一つ一つをいやし、良いものに変えていってくださいます。新しいいのちの中で成長させていってくださいます。ですから、すべてが新しくなったという神様の約束を信頼して生活していきましょう。古いものに捕らわれたり、いたずらに自分を責めるのを止めて、すべてを新しくしてくださった神様に信頼して進んでいきましょう。
 
➁新しい人を身に着る

 それから、23節ー24節でパウロはこう言っています。「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことです。」
 「真理なるイエス様に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を着る」というのですが、義と聖とはなんでしょうか。
 まず、「義」とは、正しいという意味ですが、神様と正しい関係にあるという意味で使われます。神様に「天のお父さん」と親しく呼びかけることのできる関係になったということです。神様は正しい方ですから罪ある者を寄せ付けません。しかし、イエス様が私たちの罪をすべて背負って十字架で身代わりに罰を受けてくださったので、私たちは罪赦され神様と親しいまっすぐな関係を持つことが出来るようになったのです。イエス様の十字架の贖いは完全です。ですから、人が何と言おうが、神様に義とされたことを信頼して生きていくことができるのです。
 それから、「聖」とは、神様の専用品という意味です。イエス様によって、私たちは、神様に用いられる者になりました。神様は私たちの本来の価値を引き出してくださるのです。
 そして、私たちは、「神にかたどり造られた新しい人」を着る者となりました。神様の御性質である愛、真理、誠実、寛容、忍耐などにあずかるものとなったのです。
 
 主を信じる私たちは、新しい衣を着せていただきました。脱ぎ捨てた古い汚い衣を再び身につける必要はありませんね。
 でも、私たちは弱い者です。時には、むなしくなったり、かたくなになったり、人をねたましく思ったりすることがあります。そんな時にヘブル12章2節の「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」という言葉を思い出しましょう。パウロが21節で「まさしく真理はイエスにあるのです」と記しているように、私たちがいつも戻るべき場所は、真理なるイエス様のみもと以外にありません。
 今週もこのイエス様から教えれ、支えられ、豊かな恵みと真実の中を歩んでいきましょう。